日々の雑感 15
日々の雑感 15
Facebookの使い方について書かれた記事に、次のような文章があった。
「マクドナルドでさくっとお昼を済ませたときは写真をアップしないけど、有名なステーキハウスの予約が取れたときは写真を撮りまくるの。意味、分かるでしょ?」とのこと。
つまり自分が自慢できたり、他人にうらやましがられる体験をしたときには積極的に自分のタイムラインに写真をアップするけれど、そうでないときは沈黙するというのです。写真、行った場所、思ったことなど、全てにおいて、このフィルタがかけられて投稿されるのが、ビジネスで使われるFacebook。
言い方はアレだけど、仕事をする個人にフォーカスするとFacebookは「リア充アピールのツール」の色を強めていくのだろうか。(YAHOO!ニュース抜粋)
フェイスブックに限らず、ブログも同じようなことが言えると思う。
つまり自分が自慢できたり、他人にうらやましがられる体験をしたときには積極的に記事をアップするわけだ。
このような使い方に、アメリカでは既にユーザーが疲れて来てしまっているという記事である。
読む方も疲れるし、書く方も疲れる。
特に読む方は、いちいち羨ましがるコメントを書きこまなければならないというのは、きついものがあるのだろう。
ただ、お互いに「リア充」を褒め合うことが出来るユーザー同士ならば、まだ疲れ具合は少なくてすむだろうが、そううまくはことは運ばない。
こうした自らの「リア充」をアピールしたがるユーザーは、他人の「リア充」が悔しくてならないという性格も併せ持つのが普通だからだ。
他人が自分よりも充実した生活を満喫しているようなことは、絶対に認めたくないのである。
自分は羨ましがられたいし、褒めそやされもしたいが、他人のことを褒めることなど金輪際ご免だということで、次第に一方的なアピールになって行く。
そうなれば、もちろん、それまで話し相手になっていたユーザーも、相手に誠意がないことを不快に感じるようになり、友達関係も崩れて行くのは当然の結果である。
ある人は、「
他人のフェイスブックやブログを読むと無性に腹立たしくなるので、近頃は自分以外の人の記事を読むのをやめている」と、話していた。
その理由が、この上記の一文で判ったような気がする。
毎日、他人の自慢話を読ませられ続けるのでは、如何に寛容な人の忍耐にも限度があるということなのだろうな。
<今日のおまけ>
それにしても、人間のひがみや嫉みという感情には定義がない。
ブログに家族のことを書いただけでも、一人暮らしで自分は孤独だと思い詰めている人にとっては、それは自慢話であり嫌みになる。
ある人が毎日2000円のランチを食べていると普通の日常を書き込んだつもりでも、奮発しても500円のコンビニ弁当しか食べられない人にとっては、非常識としか受けとれない。
みんなが羨む贅沢をフェイスブックやブログでアピールしている人でも、これまでそうした自慢記事をほとんど書いたことがなかった人が珍しく書いた「リア充」記事に激しく嫉妬することだってあり得るのだ。
もしかしたら、親しくコメントをやり取りしているユーザー同士の心中も、突き詰めてみれば、本音は相手への「悔しさ」「憎らしさ」でいっぱいなのかもしれない。(まあ、そうは思いたくないというのが人情だろうが・・・)
つまり、本当の意味での衒いのない相互交流を図るためのコミュニケーションツールとしては、フェイスブックもブログもまだまだ発展途上といえるのだと思う。
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