~ 炎 の 氷 壁 ~ ②
つまり、雄介にとって、この日がスキーパトロール員としての初勤務となった訳である。スキーパトロール員の仕事というのは、実に種々雑多である。たとえば、大雪が降った時などの昼夜を分かたぬゲレンデ整備の手伝いから、文字通りスキー板を装着してのゲレンデ巡視、けがをしたり病気になったスキーヤーやスノーボーダーに対する応急手当と搬送、そして、果ては迷子の一時保護など、数え上げればきりがない。そのため、スキーパトロール員たちには、卓越したスキー技能の習得はもとより心肺蘇生法等の救急救命処置の技術習熟も求められるのであり、雄介も採用通知を受け取ったのちに、志賀高原にある全スキー場を実質管理する志賀高原観光開発索道協会が設けるスキーパトロール員養成講習を修了後、この横手山スカイパークスキー場本部配属を申し渡されたのであった。
雄介は、神崎に注いでもらったコーヒーを一気に飲み干した。じんわりとした心地よい熱さが、すきっ腹に沁みた。
実のところ、ここへ来る決意を固める以前の雄介には、長く自分自身を喪失していたともいえる時期があった。長野市出身の彼は、東京に出て、世間では一応有名私立大学と位置付けられている学府の教育学部を卒業し、教員資格を取得したものの、元来、何が何でも教師になりたいというほどの強い情熱を持っていた訳ではないので、その後は、自分の将来像が全く予測できぬままに、都内に安アパートを借り、その日暮らしのフリーターのような生活を、何年も続けていたのである。
そんな折、コンビニエンスストアの書籍コーナーで、たまたま手に取った一冊のスキー専門雑誌に掲載されていた志賀高原各スキー場派遣のためのスキーパトロール員募集の記事が目に留まったのだった。雄介には、高校、大学時代と、スキー部に籍を置いていた経歴もあり、相当の指導者資格も有している。
「今の閉塞状況下から自信を解放するには、この機会をおいては他にないのかもしれない・・・・」
漠然とではあるが、そんな焦燥にかられた雄介に、もはや選択の余地はなかった。こうして、雄介は、両親の待つ故郷信州の地に、数年ぶりに再び戻って来たのであった。
「ところで--------」
自分の事務机(デスク)の前に腰を据えた高木主任は、やや上目使いにこの新参を観察しつつ言う。
「きみのスキー用具一式と、それ以外の荷物は、昨日のうちに宅配便でこの本部宛てに届けられているが、これから三月下旬までの約二ケ月半は、ほとんどが志賀高原での山籠りとなるので、その間寝泊まりするホテルを、このスキー場近辺で決めておいてくれたら、荷物もそっちへ運ばせておくつもりだ。むろん、宿泊料は、スキー場側の負担になっている。何処か決まった宿があるのなら、早めに申し出してもらいたい」
すると、即座に神崎パトロール員が、
「でも、宿泊部屋の質は、期待しちゃダメだよ。従業員部屋に毛の生えた程度の客室しか提供してもらえないのが相場だからね」
横から口を挟む。
「神崎先輩は、相変わらず毒舌家ですね」
神崎の真向かいに、ストーブを隔てて簡易なパイプ椅子に腰掛ける若手の可児周平(かじしゅうへい)パトロール員は、スキーブーツの手入れをしながら、苦笑気味に肩をすくめる。そんな神崎と可児の親しげにも見受けられる様子から、二人にはこれまでもスキーパトロール員として何度かパートナーを組んだ経験があるらしいことを、雄介はそれとなく感じ取っていた。
「ホテルの件に関しては、特段考えてはいませんので、すべて主任にお任せします」
雄介は、返答する。高木主任は、そうかと頷き、可児パトロール員に命じて、部屋の隅にあるロッカーの中から新品のスキーパトロール員用ユニフォームと、本間雄介と記された名札を持って来させ、
「しっかりな-------」
との一言を添えて、雄介にそれらの品を手渡した。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
我が家の近くに天然温泉の公衆浴場があります。地元の人たちが利用する温泉場なのですが、最近、その脱衣所に防犯のためのベルが取り付けられました。近所のお年寄りたちも毎日のように入浴に来られるので、浴場内で気分が悪くなったり、また、心ないものによるのぞきや痴漢行為などがあった時、すぐさま近所の人たちが助けに駆け付けられるようにと、設置されたのです。
しかし、そのベルが設置されてまだ間もないというのに、頻繁に鳴るのです。それも、かなりの大音量ですから、近くの家の人たちは、その度に「すわ!一大事か!?」と、浴場に駆け付けます。------が、何のことはない。今のところ、そのすべてが子供のいたずらや、「このボタンは何だろう?」との好奇心から、つい押してしまったといった、軽率な行為でした。
そして、一昨日の夜もまた------。ジリリリリリ・・・・・!!!
もちろん、すぐ隣の家の人は、既に就寝前であったにもかかわらず、大慌てで駆けつけて下さいました。でも、やはり、これもまたいたずらだったようで・・・・。こんなことでは、もしも万が一本当に深刻な事故や事件が発生した時、「どうせ、また、いたずらだろう」と、思われて、誰一人助けに行かないという事態にもなりかねません。
「本当に、人騒がせはやめてもらいてェなァ」-----そう、ぼやいていた近所の男性の声は、実に、切実だと、思いました。
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