~ 炎 の 氷 壁 ~ ⑪

ちよみ

2009年02月27日 15:08

 だが、時任は抗(あらが)うように野田の手を振りほどくと、ひどく思いつめた眼差しを伏せたまま、黙然と唇を噛んでその場から立ち去ろうとした。なおも慌てた野田は、軽度の障害がある不自由な左脚を引き摺りながら、時任の後を追い、更にその前へ立ちかだかると、
 「時任、気にすることはないぞ。あれは、もう十五年も昔の話なんだ。それに、完全な事故だったと、長野県警も判断したじゃないか。お前には、何一つとして非はない。その黒鳥和也の実妹(いもうと)とやらが言っていることこそ、言い掛かりというものだ」
 押し殺した声で、懸命に擁護する。しかし、時任は、苦悶に沈む表情を変えることなく、
 「それは、判っている。だが、現にその女が、実兄殺しの犯人としておれを恨み、告発さえも辞さない覚悟でいるというんだ。このまま放っておく訳にはいかない・・・・」
 と、呻くように言う。
 「それじゃァ、どうするつもりだ?女に会って、自分の口から直に潔白を訴えるとでも言うのか?そんなことで、女が素直に納得なんかするものか。一層、お前に対する疑惑を濃くするのが関の山だ。だから、無理に説得しようなんて思うな。ここは、余計な波風を立てず、静観しておく方が賢明というものだ」
 野田は、紺色の洒落た三つ揃えで包んだ痩躯を必死の楯に使って、時任を思い止まらせようと努める。
 その一方で、時任と野田のあまりに予想外な衝撃にも似た反応を目の当たりにした雄介は、自分の伝えた事実の重大さを改めて認識すると同時に、彼らの驚愕の裏にあるものと推察される『事故』とやらについて、強く好奇心をくすぐられた。
 「いったい、どうしたっていうんです、時任さん。野田さんも、黒鳥真琴が何者なのか、心当たりがあるんでしょう?おれにも、教えてくれませんか?」
 雄介は、二人の会話の間に割り込むようにして、丁重に頼んだ。しかし、そんな雄介を肩越しに振り返った野田は、
 「本間君、きみにはすまないが、これは、我々二人の問題でね。今は、何も訊かないでくれたまえ」
 けんもほろろに言って来た。野田にかかっては、まったく門外漢扱いとなってしまった雄介は、そこで止む無く口を噤(つぐ)まざるを得なかった。


 「時任君、急で悪いんだが、今日の午後のパトロール勤務は、熊の湯温泉スキー場に変更してもらいたい。熊の湯温泉(あちら)のスキーパトロール員に風邪による欠員が出たそうで、横手山(こっち)に補充員のお鉢が回って来てしまったんだ。志賀高原観光開発索道協会(うえ)からの指示には逆らえんしな。本間君と一緒に行ってくれ。たった半日でも、二人に抜けられるのは痛いが、これも仕事だ。こっちは、残りの員数で遣り繰りすることになるが、この際仕方がない」
 次の日の朝、何処となく気まずい雰囲気を抱える格好で、パトロール本部へ出勤した時任と雄介を待っていたものは、高木主任のこの命令であった。無論、志賀高原内にあるすべてのスキー場が、それぞれのお家の事情を考慮し合い、スキーパトロール員やスキー教室のインストラクター等の出張交代及び補充助勢などを、臨機応変に行なうことは、決して珍しいことではない。しかしながら、その助勢派遣先が熊の湯温泉スキー場というのが、雄介には引っ掛かった。
 熊の湯温泉スキー場には、あのインストラクターの黒鳥真琴がいるのだ。そこで、雄介は、高木主任にそれとなく時任の派遣を見送るように頼み込んだ。
 「主任、おれは、何処へでも行きますが、時任さんは、この横手に必要ですよ。時任さんの代わりに、誰か別のパトロール員を派遣してもらえませんかね?たとえば、可児(かじ)君とか-------」
 その途端、
 「雄介、余計なことを言うな!」
 遮ったのは、他ならぬ時任本人であった。
 「------時任さん?」
 せっかく、あなたのことを心配して高木主任に直訴したのに、どうして止めるのかという表情を見せ、当惑する雄介を、射るような斜眼光で制した時任は、
 「いいんだよ。おれに対して気を遣う必要はない」
 そう言いながら、事務机で今日一日のパトロール員の配置を検討している高木主任の前まで歩み寄ると、まるで、自らを律することに努めんとする軍人の如き覚悟にも似た緊張を、その浅黒く整った横顔に刷(は)いて、こう付け加えた。
 「おれも、熊の湯へ行きます。あちらへは、そう連絡を入れておいて下さい」 


    <この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>


 
 ~今日の雑感~
 以前通っていた英会話スクールのアメリカ人教師は、信州大学の若い青年留学生だったのですが、彼が、日本の怖い話が聞きたいというので、拙い英語ですが、身振り手振りを交えつつ「雨女(レインウーマン)」の話をしてあげました。「時は江戸時代、雨のしとしと降る寒い夜、一人の町人が家路を急いでいると、そんな雨の中に傘もささず、着物姿の何処ぞのお屋敷のお女中と思しき、一人のうら若き女性が佇んでおりました。その女性は、濡れそぼった背中を向けて、しくしく泣いているような素振りでしたので、不審に思った町人は、その女性に、訳を尋ねたところ、彼女はやおら振り向くと、その蒼白い顔をほつれ髪に隠しながら、『わたしの赤ちゃんは、何処でしょうか?教えて下さいませんか』と、言うので、ちょっと、薄気味悪くなった町人が、『わたしは知らないから、他の誰かに訊いてくれ』と、その場から離れようとしました。でも、女性は、そのあとを何処までも付いて来て、突然、町人の背後から抱きついたかと思うと、『お前が、赤ん坊の替わりになっとくれ!』と、言うなり、町人の生気を奪い取ってしまったというお話・・・・」と、教えたところ、それが相当に恐かったらしく、次に会った時、「あれから、夜が不安で困った」と、言うのです。理由を訊くと、「だって、もし、雨女が新聞代の集金人に化けていたらどうしたものかと思って・・・」との返事。雨女が新聞代の集金に回るなどという発想は、日本人には、まずありえません。国が変われば、想像するシーンも変わるものだなァと、驚きました。f(~_~;)ハハ・・・

 「今日の一枚」------『新選組・八木邸にて』
 

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