ちょっと、一服・・・・・⑬

ちよみ

2009年03月10日 10:52

   < 東京大空襲のミステリー >


 昭和二十年三月十日の未明、アメリカ軍による、東京の住宅地への絨毯爆撃が行われました。三十二万発もの焼夷弾が投下され、約二時間半の間に十万人の市民が命を落とすという、未曾有の大惨事となりました。これが、いわゆる東京大空襲です。人々は、焼夷弾の炸裂による激しい炎がすさまじい勢いで街を舐めつくす最中を、必死で逃げまどい、熱さに耐えかねて次々に飛び込んだ隅田川は、溺死したおびただしい数の死体で、真っ黒になったそうです。 
 
 ところが、東京がそんな大空襲に見舞われているなどという情報は、長野県の片田舎までは、届きませんでした。その時代の全国的な情報収集手段といえばラジオと新聞ぐらいのものでしたので、そのラジオ放送も、すべての番組が軍の統制下に置かれていたため、大本営が情報管理を行っており、日本に不利と思われる放送は、まったく発表されなかったというのが現実のようです。それが証拠に、戦争中に名古屋で起きた大地震で、多くの学徒動員の子供たちが軍事工場の建物の下敷きになって亡くなったことも、決して報道はされませんでした。
 そのような訳で、当時、中野農商学校(現在の中野実業高校・この四月からは中野立志館高校)の三年生だった一人の少年は、まさか、自分がこれから専門学校(現在の大学に相当する)の入学試験を受けに行こうとしている東京の地が、そのような有り様になっているなどとは夢にも思わずに、母親が手作りしてくれたキビ餅と蒸(ふ)かしたジャガイモを新聞紙でくるんだ、ささやかな弁当を持って、国鉄長野駅から東京行きの汽車に乗り込んだのでした。
 
 しかし、その汽車も、大宮駅を過ぎた辺りから走り方がひどく遅くなり、やがて、赤羽駅に着いたところで、ついに停まってしまいました。汽車は、もうそこから先は走らないというので、乗客たちは、皆大きな荷物を抱えながら、不安そうに汽車を降りて行きます。少年も、同じように下車したのですが、何せ、初めて来た場所ですから、このようなところで降ろされてしまってはここからどうやって試験会場まで行けばいいのか見当もつきません。しかも、降り立った場所は、何故か見渡す限りの瓦礫の山が連なり、辺り一面が煤けたように黒ずんで、満足な建物一つない有様です。
 それもそのはず、なんと、この日は、東京大空襲が行われた翌日だったのですから------。
 「いったい、ここは何処なんだ?本当に、東京なのか・・・・?」
 少年は、押しつぶされそうな不安に襲われました。でも、ここで躊躇している暇などありません。試験日は、明日なのです。何としてでも、試験会場までたどり着かなくては、期待をかけて自分を送り出してくれた家族に申し訳が立ちません。
 辺りは、既に夕闇が覆い始め、寒さも身に沁みる早春の街を、瓦礫を踏み越えながら、歩き始めました。途中、何度か通りすがりの人に会場の住所を訊ねてはみましたが、皆自分自身のことで精一杯で、懇切丁寧になど教えてくれる人はいません。少年が、「もう、明日の試験には間に合わないかもしれないな・・・・」と、半ば諦め掛けた時のことです。はるか遠くの真っ暗な闇の中に、ポツンとほんの小さな灯りが一つ、光っているのが見えました。少年には、その赤い小さな灯りが、何故か、唯一の希望の光のように思えたのです。
 「よし、あの灯りを目指して、行くだけ行ってみよう。着いた所が何処でも、それで諦めがつくかもしれない」
 少年は、そう気持ちに言い聞かせ、それからは、わき目も振らずにただまっすぐ、その灯り一つを頼りに歩いて行ったのでした。何キロ歩いたのか、足が棒のようになった頃、ようやく、その灯りのある所へとたどり着くと、そこは、二階建ての大きな古びた木造の建物でした。灯りは、そこの玄関灯だったのです。少年は、意を決して、建物の中へと入って行きました。もう身体はクタクタで、廊下の隅でもいいから、一晩休ませてもらいたいと思ったのです。
 建物内には、背広姿の一人の若い男の人がいました。少年が事情を話すと、その男の人は、何とも不思議そうな顔をして、
 「専門学校の試験を受けに来たって、何処の学校だね?」
 と、訊くので、少年が、学校名を答えると、その男の人は突然笑い出し、
 「その試験会場なら、この隣の校舎だよ。ここは、別の学校の試験会場だが、よかったら、泊まって行きたまえ。それより、きみ、何か食べる物を持っていないかな?ぼくは、今日は朝から何も口にしていないんだよ」
 と、言います。
 「・・・・・・・!」
 少年は、あまりの偶然に驚きながらも、今朝家を出る時に母親から渡されたキビ餅を、その男の人に渡しました。男の人は、何度も礼を言いながら、そんな粗末な食べ物でも、うまいうまいと言って、頬張るので、少年もつられて、笑ってしまいました。
 
 
 翌日、少年は、その建物の隣の校舎で、ちゃんと入学試験を受けることが出来、見事に、合格しました。そして、その専門学校卒業後は、明治大学(学部・現在の大学院に相当する)へ進学したそうです。
 現在、少年は、八十一歳。この三月十日がやって来ると、その時の奇跡のような出来事を、改めて思い出すのだといいます。


 **注釈**
 昭和二十年当時の学制は、小学校六年、高等科二年、中野農商学校三年(この少年の場合)、専門学校三年(もしくは、大学の専門部三年)、大学(学部)三年というような進学システムになっていました。その上の進学を希望する者は、大学院というシステムではなく、修士(マスターズコース)、博士(ドクターズコース)と、進む訳です。または、小学校六年卒業ののち、中学校五年(女学校四年)、高等学校三年、大学(学部)という進学の方法もありました。その他にも、中学校卒業後(または、中学在学中)に、陸軍士官学校、海軍兵学校等への進学システムもありました。


    では、引き続き、「炎の氷壁」を、お読み下さい。    

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