ちょっと、一服・・・・・44
~ 今 日 の 雑 感 ~
北の魔女さんのブログ『自分の物差し』を、読んで・・・・
北の魔女さんのブログ記事に、
『自分の物差し』と、いう物がありました。
人は、その生まれや育ちの環境などにより、知らず知らずのうちに自分の中に、自分本位の『物差し』を、作り上げてしまい、周りの人や物事に対して、そして時には自分自身に対してまでも、その『物差し』を当てはめ、良し悪しを判断し、自らを束縛してしまうことがある-----と、いう記事でした。
このことは、はるみっちゅさんのブログコメントなどにも、書いてあったことなのですが、「人間は、とかく自分と違う物を、『間違い』と、決めつける癖がある」と、いうもので、「『間違い』と、『違い』は、そもそも別の次元の問題なのだ」と、はるみっちゅさんはおっしゃっています。
北の魔女さんの記事も、言わんとされていることは、これに近いことではないかと思います。人間は、とかく、自分が経験を重ねるうちに常識だと思い込んできたことを基準値として、物事の正否を計るという、いわゆる経験則を元にした概念を脳に沁み込ませて行くという特質があるためなのか、年を経るにつれて、なおのこと、その考え方の柔軟性をなくして行くものなのでしょうね。もしも、年配の人が、「最近は、あまり他人に自分の基準を当てはめなくなった」と、いうことがあるとすれば、それは寛大になったということよりも、単に、相手に対する関心が希薄になって来たというだけのことなのではないかと、思うのです。
人は、誰でも気持ちの中に、「これは、こうあらねばならないはずだ」と、いったん刻まれてしまうと、それを覆すことは、おそらく至難の技となります。その精神的拘束を、他人に対してだけではなく、自分に対しても掛けることになるため、その概念と『違う種類の物』が目の前に現れると、「これは、いけないことだ」と、速断してしまう結果になるのだそうです。
そうなると、気分は不愉快となり、その『違う物』を遠ざけようとし、時には、抹消してしまいたくなる訳で、それが、すなわちストレスになり、場合によっては「いじめ」などにもつながる訳です。しかし、今度は逆に、その『違う物』の立場からすれば、相手の方が『違う物』な訳ですから、お互いに相入れない関係となり、反目しあうことになるのです。
こうなると、それは確かに、「独りよがり」対「独りよがり」という構図になるのでしょうから、まず、どちらかが、自分の物差しの存在を忘れて、相手の物差しに自分を当てはめる努力をすることで、より深く相手を理解することが出来るという理論になるのです。しかしながら、長年において培われた現実社会というものは、そうそう単純に割り切れるものではないと、わたしは考えます。
それというのも、社会には社会の基準値となるルールがあります。これは、法律のことではありません。簡単に言えば、モラルとかマナーというものでしょうか。「近所の人に会ったら、挨拶をする」「人の迷惑になることはしない」「乱れた服装で、公の場所に出ない」「大人の女性になったら、改まった席に出る時は、化粧を忘れない」「目上の人には敬語を使う」などなど、数え上げたらきりがありませんが、こういうことは、いくら相手に自分の経験則を当てはめるなと言いましても、当てはめざるを得ない問題なのです。
普段はカジュアルな服装が好きだといって、冠婚葬祭に、作業着であるジーパンや野良着で出席する人はいないでしょうし、いくら自分は挨拶が苦手だといっても、相手が会釈をしたらそれを無視して通り過ぎることは非常識と言われても仕方がありません。また、女性ばかりに化粧をしろなんて差別だと、思っても、もし、スッピンで相手に会った時、「わたしは、あなたにとって、スッピンで会ってもいいと思われているほど価値が低い人間なの?」と、誤解されても、自業自得ですね。
また、「敬語なんか、ダサいし、ウザい。仕事さえ出来れば、言葉なんか関係ないじゃん」と、思っている若者が、会社側から、サービス業には向かないといわれ、解雇されたとしても、それを恨むのは筋違いということも、万人の納得するところでしょう。
つまり、『自分の物差し』なるものにも、必要な『物差し』は、あるのです。相手を否定するための物差しも、時と場合に応じては不可欠なものなのです。自我を殺し、相手の身になって考え、そいういこともありかなと、おおらかに構える-----それも大事でしょうが、全てにおいてその考え方がベストではないのです。それだけでは、ただの優柔不断なズボラ人間になってしまいますから。たとえ、ある程度のストレスになったとしても、やらねばならないことは、やらねばならないのです。
要するに、自分の中にまっとうな『物差し』は、きっちりと持ったうえで、自分にとって、さしあたり特段の害を及ぼさないことならば、相手の意見も尊重するし、物事についても、毎日やらねばならないと、きっちり決めることはしない-----そのぐらいのアバウトな気持ちで良いのではないかと思うのです。相手の違いは認めても、自分はそれには染まらない-----それでいいのではないかと思うのです。
北の魔女さんも、それらことを持論の根底にしっかりと踏まえたうえで、そのブログ記事を書かれているものと思います。
「自分は正しい。でも、相手も間違ってはいない」また、「誰も、わたしに、こうしなければいけないとは命令してはいない」-----この気持ちを、みんなが共有できれば、世の中の無益な争い事や無用なストレスも、かなり少なくなるのではないかと、考えます。
まあ、わたし自身が、そう思えるようになるには、かなりの修行が必要でしょうけれど・・・・。(~_~;)
*** 写真の花は、クンシランです。
<今日のおまけ>
この四月に入り、これまで株価情報を延々と流し続けていたラジオの短波放送が打ち切りになった。この放送をしていた局は、各証券会社からの出資金で経営を成り立たせていたのだというが、昨今の不況下でその出資が打ち切られ、東証への支払い金もままならなくなったためだという。これにより、ラジオ放送を頼りに株を売り買いしていた一般の投資家は、かなり困惑しているそうで、特にパソコン操作が出来ない人たちは、株価を知るために、いちいち証券マンに問い合わせなくてはならないことになり、早く放送を再開してほしいと、放送局に苦情が殺到していると聞く。
殊に、視力に障害のある人たちなどは、ラジオ放送だけが頼りであるため、不況のあおりをもろに食った格好になっているのである。
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