「和解」という言葉の解釈・・・・・358

ちよみ

2010年01月27日 22:59

~ 今 日 の 雑 感 ~


「和解」という言葉の解釈



    先日、信濃毎日新聞を読んでいたら、興味深い寄稿文が掲載されていた。

    1月15日付の野田正彰さんのコラム・今日の視点「『花岡和解』から10年」に対する弁護士・内田正敏さんの反論文である。

    内田弁護士は、花岡事件、西松建設事件和解の中国人受難者側代理人弁護士である。

    ここでは、花岡事件そのものについて述べることはしないので、興味がある方はご自身でお調べいただきたい。

    野田さんは、この花岡和解には鹿島建設の謝罪がないというコラムを書いたのであるが内田弁護士は、「中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは、閣議決定に基づく強制連行・強制労働に起因する歴史的事実であり、鹿島建設株式会社は、これを事実として認め、企業としてもその責任があると認識し、当該中国人およびその遺族に深甚な謝罪の意を表明する」と、共同発表がなされているので、謝罪はされているのであり、和解は、受難者を含む日本と中国との関係者の間で全員の賛成によって成立しているのであると、言うのである。

    野田さんのコラムに事実に反する記述があるのは、野田さんが、和解に批判的な中国人の主張にだけ耳を傾け、和解を支持している他の多くの中国人の存在をことさら無視しているからで、このような姿勢は、日中間の溝を深めるだけだと、内田弁護士は、説くのである。

    わたしが、この二つの主張を読ませて頂いて思うことは、「和解」という言葉が、その事件の関係者たちそれぞれにとって、どれほどの意味を持つのかという疑問であった。

    内田弁護士は、西松建設中国人強制・労働事件では、連行受難者と日本側の総意の上で「和解」は成立しており、和解成立後は西松建設代理人と受難者側の双方間で「今日からは友人だ」と握手まで交わしていると言い、しかし、野田さんは、それは、表面上のことだけで、実際の人間の気持ちは、それほど単純なものではないと、言うのである。

    つまり、内田弁護士は、長年の双方の考え方の中の最も根本をまとめて、それを「和解」と、しているのであるが、野田さんは、末端で、それでも本心は納得していないという受難者の声を代弁しているのだと思うのである。

    ここには、法律的な「和解」と、精神的な「和解」の対立があるように思えるのだ。

    わたしは、受難者側からすれば、本当に心底から鹿島建設や西松建設を許そうなどと思う人はいないのではないかと思う。恨みはあるが、ここは、涙を飲んで握手をするしかないと、考えている人たちもいるのではないだろうか。

    そのために、やはり、受難者やその関係者たちが一個人の立場に戻れば、どうしても、「あんなものは、謝罪のうちには入らない」と、いう言葉もつい口から出てしまうのであろうと、推測する。

    野田さんは、そのことをコラムで訴えようとしていたのではないかと、思うのである。

    「和解」と、いう言葉の解釈は、実に単純ではない。その複雑性が、未だに中国人と日本人の心の溝を埋められない原因の一つなのではないかと考える。
<今日のおまけ>

    我が家の洗濯場にある電球が破裂した。

    天井からの凍解水が垂れ、電球の周りを覆ったことで今度はそれが凍り、それを知らずに電気を点けたために電球が膨張、破裂したものと思われる。

    破裂音はかなり大きく、一瞬何が起きたのか判らなかったが、大変なのはそのあとで、電球のガラス破片があちらこちらに飛び散り、掃除をするのに往生した。

    まったく、近頃、我が家では、やたらに電気製品のトラブルがある。
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