物事は思い通りには運ばない
物事は思い通りには運ばない
「よし、明日はあれをやってしまおう。その次は、ああして、こうして・・・」
いろいろ思案を巡らせて、いざ、翌日になり、それを実行しようと電話をかけると、
「申し訳ありません。本日、担当の者がお休みでして、明日またお電話いただけますでしょうか?」
と、くる。
仕方がないので、それは諦めて、次の目的のものを買いに雑貨店へ行くと、
「すみません。それは今入荷待ちで、来週なら入るんですが・・・」
「うそっ!」(ーー;)
こうなると、もはや空振りの連鎖は止まらない。
ある人に連絡を取ろうと電話をかけるのだが、何度かけても留守のようで、結局、この日は計画したこと何一つ実行できなかった----と、いうことになった。
いくら自分は何かをやろうと心に決めても、相手次第で簡単には思い通りに運ばないということなのだ。
人の一生は、こういうちょっとした計算違いで、どんどん差が出来てしまうものなのかもしれない。
スタートラインは一緒でも、運のいい人はいつもスムーズにことが運んで行くのだが、あまり運の良くない人は、同じことをするのに運のいい人の二倍も時間を要してしまうことだってある。
本当ならば、その日のうちにすべて終わるはずの仕事が、相手次第で何週間もかかってしまうことだってあり得るのだ。
そう考えると、人間は、生まれた時から既に運の良し悪しで一生が結論付けられているようなものなのだから、本来ならば、相手を羨むなどという感情は意味がないことなのだろう。
しかし、人は、自分にはもっと良い暮らしが出来るはずなのに・・・と、上を見るからきりがない。
厳密にいえば、学校の成績だって、兄弟が多くて親代わりに面倒を見なければならない子と、一人っ子で、自分だけの時間がたっぷりある子を同じ土俵で競わせ優劣を付けること自体、意味のないことなのである。
もしも、競わせるのならば、両親の年齢、学歴、収入、兄弟の男女比や人数、住んでいる場所、通っている塾や子供の体格に至るまで、すべて同レベルの子供同士を競争させるのならば、少しは意味があるのかもしれない。
でも、世の中の子供が皆同じような境遇だったとしたら、その競争は運レベルにまで到達し、さらに熾烈なものとなるに違いない。
----なんてことまでも想像出来てしまうような、空振り続きの一日であった。
<今日のおまけ>
いつもお世話になっている理容師さん、ジビエ料理など家でしょっちゅう食べているそうだ。
この間は、猟師さんからイノシシの足をもらったので、バーベキューをやって食べたという。
「この辺りは、タヌキやキツネ、ハクビシンなんかも、良く出る」
とのことで、熊、イノシシ、シカの肉など、珍しくもないという。肉は筋肉や筋が硬いので包丁は歯が立たず、ハサミでバシバシ切るそうだ。
ワイルドな話だけれど、ちょっと、食べてみたい気もするな・・・。(^_^;)
いじめられている人たちに共通することは、とにかく我慢強いということ。
そして、自分がいじめられていることを周囲に悟られないように、あえて無関心や興味のなさを装うこと。
やられっぱなしで黙っている人間は、さらなるいじめに遭う。
いじめる側は、いじめの対象が我慢すればするほど、気付かないふりをすればするほど、いじめてやりたくなるという。
いじめられても笑顔を見せることは、最もしてはいけないことで、いじめる側を増長させることになる。
いじめられることは、決して恥ずべきことではないし、平気を装うことが大人ではない。
大人とは、嫌なことは嫌だと声をあげられる人であり、決して相手の言いなりにはならないという毅然とした意思表示が出来る人なのである。
関連記事