~ 今 日 の 雑 感 ~
言葉一つで状況は変わる
第二次大戦中、ラジオからは頻繁に「我が軍の損害軽微なり」の大本営発表が流れたことをご存知の方も多いだろう。
また、帝国陸海軍は、決して「退却」「撤退」という言葉を使わなかったことも有名である。では、何と言ったのか?
「転進」と、言ったのである。つまり、退くのではなく、向きを変えて進んだだけなのだという理屈である。
「軽微」も「転進」も、要はまやかしの言葉であるが、これを聞いた日本国民は、「負けている」とは、思わないのである。
このように、言葉は使い方によれば、人間の気持ちをどうとでもコントロール可能な代物なのである。
かつて、アメリカで集団自決したカルト集団の信者たちは、遺体のことを「入れ物」と呼んでいたし、日本軍の悪名高い人体実験細菌研究班の731部隊では、受験に使う人間を「マルタ(丸太)」と、呼んでいた。
こうやって、自分たちの理性を麻痺させて非人道的行為を行ないやすくしていたのである。
「戦闘行為」よりも「軍事行動」の方が受け入れやすいし、「死者」というよりも「犠牲者」の方が実感が伴わずに済む。
また、「故障」よりも「不具合」の方が責任逃れが出来て、「屠殺(とさつ)」よりも「屠畜」の方がまだ凄惨さを回避できる。
「売春」を「援助交際」、「強姦」を「レイプ」----まだまだ上げればきりがない。
これを「
情報編集」という。
わたしたちが日常使っている言葉は、このようにしてどんどん現実逃避して行くことで、感覚を鈍麻し続けて来たのである。
それにより、人々は、昔なら口に出せないようなおぞましい言葉も簡単に話せるようになり、相手の気持ちを深く考えずに言葉を発するようにもなってしまった。
わたしは、以前、このナガブロで親しくコメントをやり取りしていた人から、「嫌なら出て行けば?」と、言われたことがある。これまで何度も楽しくコメントを書きあっていたブロガーから、そのような言葉が飛び出すとは思いもしなかった。
しかし、そういうことを平然と言うブロガーは、何も彼女だけではなかったのだ。要するに、彼らはむしろ親切心からアドバイスしたのだろうが、悲しいかなまともな日本語の使い方を知らなかったのである。
もしも、「嫌なら出て行けば?」を、「どうしてもナガブロで続けることが辛いなら、別のサイトへ行くという方法もあるけれど、わたしは、ここで続けていて欲しいな」----こう書くだけで、内容は全く別物になったはずなのである。
また、ある男性ブロガーは、「自分はもうナガブロとは縁を切った人間だから、そっちのことは関係ない」と、書いて来たが、これも、「自分はナガブロで書くよりも別のサイトの方があっているように思ったので、こちらへ移ったけれど、ブログを書き続けるのも辛抱がいるよね」と、言っただけで、実に誠意のある言葉になるのである。
現代人には「言語力」のなさが目立つと言われる根本には、このような他人の気持ちを理解せずに発言するという人情の希薄さも起因しているものと考えられるのである。
独りよがり、自分だけが判ればいい、相手が何を思おうが知ったことではない、しかし、自分は常に安全圏にいたい。
安易な言葉のすり替えは、真実から目をそむけさせ、こうした自分勝手などうしようもない日本人を生み出し続けているのである。
しかし、このような意識の麻痺を引き起こす言葉のすり替えも、時には重圧を軽減したり悩みを払しょくするのに役立ったりすることもある。
「痴ほう症」が「認知症」となったり、「土人」が「先住民族」となったりした場合がそれであろう。
言葉は人を傷つけもするが、救いもする。
自分の発する一言が相手にどのように捉えられるのかを、常に考えながら言葉を選ぶことも人間の成長につながるのではないかと思う次第である。
<今日のおまけ>
最近は、安易な「
情報編集」が行き過ぎたために、かつての名作映画が放映できなくなっている。
どうしても作品上必要だが、人道問題を盾に放送倫理コードにひっかかる差別用語があるという理由で、放映できない映画も多数に上るらしい。
こうやって、世の中はどんどんと薄っぺらな人間関係で覆われて行くのであろう。
年配者が昭和の匂いを残す韓国ドラマにはまる理由が判るというものである。