口蹄疫について・・・・・571
~ 今 日 の 雑 感 ~
口蹄疫について
宮崎県の東国原知事が絶対に殺処分にして欲しくないと訴えていた種牛の一頭が、既に三日も前から発熱症状を見せていたことが判ったらしい。
三日前と言えば、口蹄疫のウイルスは、発熱前から拡散するということであるから、もはや、近くに隔離されていた牛にも当然陽性反応が出るものと思われる。
どうして、管理者はそのことを黙っていたのだろうか?これで、残りの種牛も、すべて殺さなくてはならなくなってしまうに違いない。発熱した直後に国に報告が上がっていれば、まだ対処のしようがあったのではないかと、思うのだが・・・・。
事態は、最悪の方向へ動きつつあるようだ。
口蹄疫問題について考える時、とかく人間の食のために肉になる場合は可哀そうじゃないが、こんな形で殺処分になるなんて、牛や豚はさぞかし無念だろうというような、如何にももっともらしいことを言う畜産業者もいるが、あんたは、本当に牛や豚の気持ちが判るのか?----と、言いたい。
牛や豚が、そうしゃべったのか?しゃべったとしたら何語だったんだ?
わたしは、すぐ、そう突っ込みを入れたくなってしまうのだ。
よく牛や豚は、人間という食物連鎖の頂点の生き物に食べられる運命だというが、その考え方にもわたしは疑問を持つ。
食物連鎖を説くならば、畜産業など邪道である。人間は、自分が食べなければ餓死してしまうという時にのみ、自分の分だけの野生の牛や豚を、草原や山へ行って狩るということでしか、その説明を肯定することは出来ないはずなのである。
動物を飼い、餌を与え増やし、大きく食べごろになったら出荷して屠殺し肉にする。
これは、決して食物連鎖などではない。
もしも、それでも食物連鎖を言うのならば、それを食べた人間は死んだら野ざらしにして、その腐肉をカラスがついばみ、そのフンを虫が食べ、再び地球に還元しなければならないはずである。
つまり、それだけ、人間は家畜に対して非道なことをし続けているのである。
だからこそ、わたしは思う。
牛や豚を食べる時、「人間のために死んでくれてありがとう」と、感謝することはいいだろう。そうすることでも、牛や豚は浮かばれもしないが、食べる方の人間の気持ちだけは安心感を得て満足する訳だ。
だが、可哀そうなどという気持ちだけは持つべきではないのだ。
自分たちが勝手に命を奪っておきながら、可哀そうなどと思うとは、あまりに傲慢すぎる。あなたがもし家畜の立場なら、あなたを殺した相手から「気の毒に・・・・。可哀そうなことをした」などと言われたら、いったいどう感じるだろうか?
「ふざけたことをぬかすな!!」と、憤慨するはずである。
十四万頭以上へのワクチン接種と殺処分をする獣医師の方たちのご苦労は大変なものだろうが、もしかしたらこういうことが起きるだろうことは、獣医師になる時点で覚悟していたはずである。
何故なら、イギリスなどでは既にそういう事例が報告されている訳で、大学の勉強の中には必ず履修科目として入っているだろうし、また勉強していなければならないことだからだ。
ただ、問題は、その殺処分をした後の牛や豚の死体を何処で処理するかだろう。
たぶん、何処かの土地へ埋めるのだろうが、その死体が原因で伝染病などが発生しては元も子もない。
そのための衛生管理は、しっかりと行なって頂きたいものである。
<今日のおまけ>
口蹄疫は、人間にはうつらないが、では何故殺処分が必要なのか?
そんな疑問を持つ。
しかし、やはりこれにも訳はあるそうで、日本の牛や豚の肉は上質な高級肉として世界中の高級レストランなどでも高値で買っているらしいのだ。つまり、輸入している国でひとたび日本産食肉のイメージダウンが起きると、国産肉の輸出全体が大打撃を被る形になってしまうらしい。
そういう世界中への風評被害の蔓延を拡大させないためにも、疑わしい牛、豚、山羊などは尽く処分してしまわねばならいという狙いもあるそうなのだ。
ところで、『湯けぶり地蔵』のちっこいバージョンが、いつの間にか『おやすみ処楓』に鎮座ましましていた。
どうやら、お饅頭やさんの店先からお引っ越しされたようである。
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