教員は聖職じゃない?
教員は聖職じゃない?
今日の信濃毎日新聞の読者欄に、「教員を聖職とは思っていない」という中学教員の男性の投稿があった.
彼は、教職についた時、先輩から「自分のことを教師、先生と言わない」と教わったのだそうで、自身も生徒の前では「私」と言っているとのことだった。
そして、「自分が教師か否かを判断するのは生徒たちであり、教え子たちだと思う」とも書いている。
わたしは、この投稿を読んで、少しばかり違和感を覚えた。
何故なら、投稿者はおそらくはプロの教師だろうと思うからである。
プロということになれば、給料をもらっているはずだ。その給料は、何処から出ているのか?
公立校の教師ならば、もちろん自治体住民の税金からのはずである。
プロ教師としてお金を頂戴している以上、「教師か否かは生徒に判断させる」という姿勢は如何なものかと思うのである。
給料を頂くというのは、自分にそれなりの技術や器が備わっているという自信があるからこそ出来る話であり、またそうあらねばならないはずである。
誰もアマチュアの力量しか持ち得ない人に、相当の報酬を支払ったりはしない。
自分に対しての評価を生徒や保護者にゆだねるという考え方は、一見謙虚なようだが、それは一種の体の良い逃げ口上のようにも思えてならないのだ。
投稿者は、文章の最後に「教員を聖職だとは思っていない。でも、楽な仕事だとも思わない。それでも生徒が好きだ。熱い中学時代を何度も生徒と一生懸命生きられるのがうれしくてたまらない」とも書いている。
しかし、やはり子供を預ける親の立場からしてみれば、教師には聖職的な清廉潔白さや品行方正さを期待するものであるし、それが当然だと認識しているはずだ。
ただ単に生徒が好きだ----だけでは、教師は務まらない。
「先生は教師としてきみたちを教え導くための勉強には万全を期している。だから、安心して任せて欲しい」
それが本来のプロ教師が生徒と向き合うべき姿だと思うのだが、如何だろうか?
<今日のおまけ>
今日は、お昼ご飯を少し食べ過ぎてしまった~。(反省)
キャベツと玉ねぎのマヨネーズ+醤油少々炒めが、あまりにおいしくて完食。
自分で作っておきながら、これは、ヤバいです。
そんなわけで、午後はしっかりとウォーキングしました。
ところで、三年ほど前、病院で父親の中学教師時代の教え子だという女性に会いました。
父親は、若い頃に一時期、中学の英語の教師をしたことがあるのです。
話を聞くうちに、
「この人たちの中学時代の恩師(学級担任)は、うちの父親だけなんだなァ・・・」
と思うと、何だか申し訳ないような、複雑な気分でした。
だって、父親の教え方といえば、ほとんど放任主義なので、おそらくは碌な授業もしなかったのではないかと・・・。
でも、女性に言わせると、そのど~でもいいような生徒主体のやり方が逆に良かったそうで、
「案外、人気のある先生だったんだよ~」
だそうで・・・そう言って頂けると、ほっとします。(^_^.)
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