~ 今 日 の 雑 感 ~
愛犬家の残酷さ
我が家の近所に口を開けば飼い犬の話しかしないという「愛犬命」女性がいる。
家族も呆れるくらいの溺愛ぶりで、何でもかんでも犬が一番。毎日の生活さえ犬が中心で回っている。
この間、近くでお葬式があった時も、「犬にご飯をあげなきゃならないからお葬式には出られない」と、長年親交のあった故人の葬儀を欠席した。
こういう極端に片寄った「愛犬主義」人間が、最近とみに増えているようだ。
ご主人や子供さんへの愛情を犬に対するそれの半分でも向ければいいのにと思うほど、その溺愛ぶりは度が過ぎている。
家族も近所の住人も呆れを通り越して「変わり者」扱いなのだが、本人はまったく気が付かない。
特に周囲が迷惑がっているのは、犬が話題になった時の話し方である。
その飼い犬を「犬」などと呼ぼうものなら女性の顔色が一気に変わるのだ。
「ワンコだってちゃんと感情もあるんだから、名前で呼んでよ」
そういうので、名前を呼び捨てにすると、今度は、
「ちゃん付けで呼んでくれないと、ワンコが可哀そう」
いい大人が犬のことをワンコというのも虫唾が走るが、いったいいつからこんなバカげた呼び方で犬猫を呼ばねばならなくなったのだろうか?
わたしの甥っ子が三歳の時、「ほら、あそこにワンワンがいるよ」と、教えたわたしに向かって、「おばちゃん、あれは犬だよ。ワンワンなんておかしいよ」と、言ったほどである。
子供だって、大人がワンコなどという呼び方をすれば、変に感じるのだ。
わたしは、このブログでも再三再四書いているが、犬も猫も大好きである。
しかし、それは、人間と同じとかそれ以上とかの対象ではない。あくまでも、人間を精神的肉体的にサポートするべき生き物としての重要性を認めているといういことなのだ。
だから、法律でも犬や猫は「物」と同じ扱いであり、もしも、誤って自動車ではねたところで、「器物損壊」にしかあたらないのだ。
しかし、そういうとんでもない犬大好き人間を自認している人たちほど、実は犬に対して残酷なことをしていることに気付いていないのだ。
昔から、狩猟犬や番犬として人間を助けて来た犬を単なる愛玩動物に貶めたのは、他ならぬそうした人間たちなのである。
自分たちの愛玩用としてより見栄えが良いようにするため、「品種改良」「小型化」「断耳」「断尾」などをしてまで犬の格好を決めて来たのである。近年は、これは、犬にとっての虐待に値するのでこうした行為をしてはならないと定めた国も出てきた。
わたしが愛犬家に言いたいのは、もしも、あなたが犬で、手が長すぎる足が長すぎると言って、勝手に切られたらどう思うかということである。耳の格好が悪いと言って、耳をそがれても文句は言えないのだ。
わたしは、そういう極端な愛犬家に聞いてみたいことがある。
もしも、あなたの目の前の川でまったく見知らぬ他人の子供とあなたの飼い犬が同時におぼれていたら、いったいどちらを先に助けるのかということである。
わたしは、以前海でおぼれかけた弟をただ一人で助けに行って自分も死にかけたことがある。絶対に、一度に二人は救えるものではない。
犬は本能的に泳げるということは抜きにしてと考えた時、よもやそれでも「愛犬の方を先に助ける」などとは言えないはずである。
もしも、犬の方を先に助けるなどと答える者がいたとしたら、そんな人間こそ「生命の本質」を判っていないのだから、なおのこと犬など飼って欲しくはないと思うのである。
もう一度言っておく。
犬は、あくまでも人間を助けるための生き物で、人間と同等ではないのである。
<今日のおまけ>
犬や猫を溺愛するようになり、仕事も家事も犬猫抜きでは考えられず、犬や猫に快適な環境のために転職までするようになったら、それは既に一種の精神疾患と考えてもいいらしい。
つまり、人間同士の愛情が希薄だから、そういう動物愛へ走るのだという。
気持ちの中に、本当は人間から愛されたいという欲求が溜まりにたまっているのに、それが満足にかなえられないことの反動が犬猫へ向かうのだという。
いつも愛犬と一緒に行動しているとか、食事も愛猫と一緒などという独身男女がいたら、そういう人たちには結婚の望みはないとさえ言われるようだ。
それにしても、精神面はどうあれ、犬や猫と必要以上の接し方をすることは衛生上もやめた方がいいという。
感染症の危険もあるそうだ。
わたしも犬や猫は大好きなので、その辺にいるとつい触ってしまうのだが、触ったあとは必ず手洗いをしている。