ゆけむり?ゆけぶり?・・・・・857
~ 今 日 の 雑 感 ~
ゆけむり?ゆけぶり?♨
以前、元長野県知事の田中康夫氏が、「信州」という言葉よりも「信濃」という言い方の方が好きだという理由で、「信州牛」を「信濃牛」という言い方にしたらどうか?と提案したことがあった。
しかし、既に「信州牛」という言い方が世の中に定着していたこともあり、この「信濃牛」という名前は人々に認知されなかった。
最近、わたしもちょっと首を傾げたくなる言い方がある。
それは、「北信州」という言葉である。わたしは、「北信濃」という言い方が好きで、この方が詩的情緒にもあふれているように思われるのだが、近頃は、この「北信州」がよく使われるようになった。
と、なると、「北信州」と「北信濃」とはどこが違うのか?との疑問が出て来る。
たぶん、ほぼ同じことを意味するのだと思うが、語感の問題だというのが答えであろう。「北信州」の方が「Shi」の発音が多く入るために、清々しいとか新しい、若々しいといったイメージの響きがあると考えるのかもしれない。
「さしすせそ」の音が多用される言葉は、若さを表わすと、聞いたことがある。
新選組一番隊長の沖田総司の名前も、ここ十年ほど前からは「おきたそうじ」と読むのが主流になって来たが、それまでは、「おきたそうし」と、いう読み方をするのが一般的であった。
これは、25歳で早世した天才剣士には、「そうし」の方が語感的にあっていると思う人が多いからではないだろうかと考える。(事実、彼の幼名は「沖田惣次郎」というのだから、「そうじ」と読むのが正しいのだろう)
しかし、このように一つの物に呼び方が幾通りもあるということは、その物のイメージにはあまりプラスに働くということがないのも事実である。
利用者を混乱させることにもなりかねないからだ。
長野電鉄の特急車両「ゆけむり」が導入された際、売りだされた駅弁があった。この駅弁を「ゆけぶり弁当」といったが、特急が「ゆけむり」なのに、どうして駅弁が「ゆけぶり」なのかと、実に奇妙だったことを覚えている。そして、この駅弁は、その後あまり需要がなかったせいか、いつの間にか見かけなくなってしまった。
言葉は個人が使う場合は自由に好きな物を使っても構わないと思うし、また、その場に応じて名称を替えることも構わないと思うが、こと観光など知名度を重要視する事柄に関しては、幾つもの言葉や名称を乱立させるのが最もデメリットとなり得るものと考える。
イメージとは、簡潔でなければならない訳で、「信州」なら「信州」、「ゆけむり」なら「ゆけむり」で統一することが大事なのではないだろうか。
アイデアを出す人の個人的な思いや趣味は、この際脇に置き、一つの言葉にイメージの集約をはかることが地名や商品名を広めるための重要条件なのではないかと思う。
そして、言葉は簡潔に、素直に----。どんなにそこに深い含蓄があろうとも、親しみにくく読みにくい言葉は決して定着しないものなのだ。
<今日のおまけ>
昨夜、堺雅人さん主演の「ニセ医者と呼ばれて~沖縄・最後の医介輔~」を観た。
沖縄という地域が抱えた、本土の人間には想像も出来ない医療環境がしっかりと描かれていて、ドラマとしてだけではなく、学校教育の教材としても使えるのではないかと思わせる佳作であった。
特に、急患につきそいながら大病院へ到着した医介補の宮前(宮里善昌さん)が、そっと白衣を脱ぎ、診察室の隅で小さくなって佇んでいる姿には、その胸中の屈辱や悔しさ、情けなさがないまぜとなって、視聴者の心に強く訴えかけるものがあった。
そして、学校で書いた作文を「お前の親父はニセ医者じゃないか」と、同級生にけなされた長女に対して、母親が「お父さんは、アメリカから医者になれと命じられた人で、他の自分からなりたいと思ってなった医者とは違う」と、諭す場面の説得力は、素晴らしいものがあったと、感動した。
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