コメントにも書いたが・・・

ちよみ

2013年08月25日 22:04

コメントにも書いたが・・・




    コメントにも書いたのだが、インターネットが普及したせいで、即断即決即答ばかりが求められ、熟慮出来ない人たちが増えているという。

    メールやラインはもとより、フェイスブックやツイッターでも、相手の相談や質問に対して即座に反応しなければならないという癖がついているために、一昔前ならば、一日二日、いや、問題によっては一週間も熟考した上で答えを出していたことを、ものの五分も経たないうちに即応しなければならないのが現実である。

    そのせいで、物事を極めて軽薄に考える習慣が常態化しているのが、今のネット文化といっても過言ではないようだ。

    たとえば、昔の学生たちは一つの疑問が浮かぶと、図書館に通ったり、教師を追いかけ質問責めにし、徹底的に自ら疑問と格闘して答えを導き出していた。

    ところが、今はネット検索するだけで、信じられないほど楽に答えが手に入る。

    知恵袋のようなネット上の質問コーナーへ投稿すれば、あらゆる人が一瞬にして回答を寄せてくれる。

    つまり、自分の頭でじっくりと思考する必要のない時代になってしまったわけだ。

    そのため、自分のこれまでの人生で培ってきた経験のみを正しいと信じる者も少なくなく、一方的な見方しか出来ない若者が増えていることで、例の「風立ちぬ」の喫煙シーン問題のように、時代背景を無視するような意見が公然と発表されたりするのであろう。

    今日、たまたまそうした若者たちの思考の浅さが話題に上り、ある女性が、

    「やっぱり、昔の文豪たちが書いた小説や評論をたくさん読むべきだね」

    と、語っていた。

    さすれば、携帯電話がなかった時代の人々の暮らしぶりも想像できるし、ネット世代とネットが存在しなかった頃に教育を受けた世代との物事の捉え方の違いも、察することが可能になるのではないかというのである。

    現代社会は、ある意味、まったく異なる二つの世界の空気を呼吸する人たちが共存している時代だといえる。

    生活にネットのあるのが当たり前と思う世代と、ネットなどなくても十分暮らしていけると考える世代だ。

    これは、かつて一度として人類が体現し得なかった、実に稀有な現象なのだそうだ。

    もしも、日本の自治体の中にネットや携帯電話がつながらない、もしくは必要としないながらも、日常生活にはまったく困らないという、古き良き日本そのものといった地域があったならば、手に入る情報量は本や新聞、ケーブルテレビ、ラジオ等からに限られるものの、そこに暮らす子供たちの想像力や知識、思考レベルは驚異的に発達するだろうという人もいる。

    このネット社会がどんどん成長し続ければ、今度はすぐにキレやすいネット高適応者だけが社会の中枢を握ることのできる時代がやって来るかもしれない。

    そして、ある水準以下しかネットを使いこなせず、思考も浅い低適応者たちは、彼ら高適応者の支配下に甘んじなければ生きていけない未来が来ないとも限らないのである。

    それもまた、今以上に格差のある生きにくい世界なのではないだろうか。




        
<今日のおまけ>


    今日は、風も心地よい散歩日和だった。

    日差しはまだまだ強いものの、早くも空気は秋の気配を含んでいる。

    ところで、今では学校の体育にも組み込まれているらしいヒップホップ系のダンスだが、これを踊るまだ年端もいかない子供たちをテレビで観た。

    正直、少しも素晴らしいとか見事と思わなかった。

    印象に残ったのは、「奇妙」の一言である。

    表情も奇妙なら、動きも奇妙。子供らしさや微笑ましさ、可愛らしさは、何処にも感じられない。

    ふてくされたような態度と、大人びた挑戦的な目線。

    せめて、滑稽さでもあればまだ救いだったと思うのだが・・・。


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