精神論は苦手です・・・・・118
~ 今 日 の 雑 感 ~
精神論は苦手です
近年、不況下のせいか、やたらに話の途中に精神論的な言葉を挟んだり、どこかから引っ張り出して来た美しい言葉なる物をこれ見よがしに語る人が多くなりましたが、そういう話題は、正直、とても疲れます。
それに、比喩的な回りくどい表現も嫌いです。頭が痛くなる。そんなうんちくを衒学顔で垂れなくとも、もっと平易な言葉があるでしょう。
自分が、この地球上に生まれて来た意味を、虫や花を見て考えたり、命という物の概念を相手の生き方に問うたり、そういう考え方を素晴らしいと共感したり、何だか、世の中が宗教じみて来て、息苦しくさえあります。
ブログを書くことだって、別に人生の修行という訳でもあるまいし、ブログ上で叫んだことも、他人にとやかく言われる筋合いのものではないはずで、ただ、気分をすっきりさせたくて、書きなぐっている人もいる訳で、そういう記事は、穏やかな目で眺めていてくれればいいだけのことです。
精神科の医師の中には、「悩みは、どんなに日記などに書いても、晴れるものではない。必ず、聞き手がいなければ、意味はないのです。しかし、他人の悩みをただで黙って聞いていてくれるほどの篤志家や暇人は、世の中にそうそういるものではないので、誰かが読んでくれるというブログは、格好の訴え仏でもあるといえるのです」と、ブログを書くことを、患者に推奨している人もいるほどなのです。
たとえ、何処かのお寺でどれほど修行を積んだって、人間は皆が聖人君主になどなれるはずもなく、単に、「あの修行に耐えたのだから、自分も捨てたものじゃないな」と、いう自己満足の快感が得られるだけで、その人の本質が変わる訳ではありません。
つまり、平たく言えば、悟りなどというものは、
「結局、自分には何も出来ないのだ。自分は、腹黒い、ちっぽけな人間なのだ」
果ては、そこに行きつくものなのだと、いいますし、
そして、煩悩とは、
「自分には、まだ何かやれるはずだ」
と、いう驕(おごり)りの心なのだというのです。
そんなこと、いちいち仏の教えを学ばなくても、普段の生活を普通にしていれば誰にでも判ることではないでしょうか?当たり前のことを、針を大持ちにして声高に話す必要が何処にあるのでしょう。
腹が立ったら、怒る。悲しかったら、泣く。悔しかったら、相手を非難する。おかしかったら、笑う。嬉しかったら、喜ぶ。
それでいいのではないでしょうか。
自分の醜い心をひた隠しながら、皮肉めいた正論を吐くことの方が、よほど情けないことです。
そして、傍観を貫くならば、中途半端な介入や逃げは打たずに、徹底して世の中すべてに対して無視を決め込む。-----これが、世渡りというものです。
ですから、わたしは、中途半端な
「蝙蝠(こうもり)人間」が、大嫌いなのです。
「わたしは、常に自然体だ」
と、いう人ほど、真のその意味が判っていないので、世間体を気にしなくては生きられない人間なのだそうです。
要するに、わたしが言いたいことは、ただ一つです。
「命があったら、それだけでありがたいと思え!生きていることの素晴らしさを感謝出来れば、他人の苦言などどれほどのものか」
わたしには、その言葉が、まだ自分自身でも実行出来てはいませんが、でも、少なくとも、自分の生きざまや人生で得たご立派な教訓を他人に披露しようなどと思うほど、
「おじょうこう」な人間にはなるまいということは、肝に銘じているつもりです。
***
「おじょうこう」 -----北信地方の方言ですが、お判りにならない方は、お年寄りにでも訊いてみて下さい。
<今日のおまけ>
ご存じ、「忠犬ハチ公」の物語が海を渡り、ハリウッドで再び映画化された。
飼い主の大学教授が大学の講義の最中に倒れ、帰らぬ人になったことを知らず、または、その死を受け入れることが出来ず、十年も、教授の帰宅する時間の夕方になると、最後に別れた駅前へ来て、彼の姿を探すという有名な実話である。
この美談は、アメリカでも有名で、今回、ラッセ・ハルストレム監督が、主人公の教授・パーカーにリチャード・ギアを起用し、感動のドラマを作り上げた。
劇中の秋田県の名前も、もちろん「ハチ」である。舞台は、1990年末の東海岸ニューイングランド。
ハリウッドは、これからも、こうした日本の心温まる歴史的エピソードを探しだし、映画化をして行くのではないかと、思われる。
ところで、「人には、十人の敵がいれば、必ず十人の味方がいるものだ」と、かつてナガブロでブロガーをされていた人が言っていたが、正に、最近はそれを実感している。やはり、インターネットは、偉大である。
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