何故、生徒が掃除をするのか?・・・・・900
~ 今 日 の 雑 感 ~
何故、生徒が掃除をするのか?
うわ~~っ!通し番号間違えて投稿してしまった。ブログの方は直したけれど、トップ画面はそのままになっている。
こういうポカ、よくするんだよね~~。この間は、同じ番号を二度出してしまった。
まあ、内容には関係ないので、よしとするか・・・。
ところで、皆さんは、大学や専門学校へ進学した時、「高校とは違うなァ・・・」と、思うこと、何かありましたか?
学生なら誰でも聴講できる大講義室での講義とか、クラス単位、学年単位とは一切関係ない授業の形とか、授業に出たくなければ出なくてもいいという自主性を重んじた学習内容とか・・・、まあ、数え上げれば切りがありませんが、中でもわたしが感激したのは、学生による教室やキャンパスの清掃がなかったことでした。
校舎内の清掃は、業者がやってくれます。
日本の学校で小学生から学んで来た人たちにとっては、この放課後清掃から解放されるという体験は、かなり画期的なことではなかったかと思うのです。
ところが、アメリカやヨーロッパの学校では、もともとが、児童、生徒による清掃活動などないそうで、学校構内のすべての掃除は、清掃業者に任せているのだとか・・・。
つまり、学校とは、文字通り学び、運動することだけに重きを置いた場所なのだそうです。
しかし、日本の学校には、必ずというほど児童、生徒たちによる校内清掃の習慣があるのです。これと同じような習慣は、中国やタイ、ベトナムなどの仏教国にも存在するそうで、どうやら、僧侶たちの修行と関係があることのようです。
また、日本の学校は、大概において校門があり、塀で囲まれるなど、一般社会とは隔絶した建築方法になっていることにお気付きでしょう。
これを見た外国人には、「まるで、刑務所のようね」と、驚かれることもあると言います。
要するに、学校とは、世俗と切り離されていなければならない場所なのです。
これも、正しく寺が山門により俗界と隔てられている理屈と合うのです。
江戸時代、庶民の子供たちが学問を修めるところを「寺子屋」と呼びましたが、この寺子屋で学ぶ子供たちである寺子こそが、今の児童や生徒にあたるわけで、元来は、寺で修行をした小坊主さんたちに倣った呼び方ではなかったかと、考えます。
また、実際にお寺を寺子屋として、お坊さんたちが、子供たちに読み書きそろばんを教えた例もありますから・・・。
実際、わたしが小、中学生の頃は、身分はお寺の住職という先生も何人かいました。
そのような理由から、日本の学校が子供たちに清掃活動をさせるのは、学校は単に勉強を教わる場ではなく、人生の修業をする場所でもあるという考え方が根底にあるから----と、いうことが判るのです。
<今日のおまけ>
天気は良いですが、今日も寒いですね。
こんな寒さ、いつまで続くのでしょうか?寒さを我慢するために身体中に力を入れ続けているので、本当に疲れてしまいます。
先日、我が家に道を訊ねたいという高齢者男性が入って来ました。
その男性は、入って来るや否や、いきなり、
「おい、〇〇へ行くにはどうすればいいんだ!?」
と、言うのです。
すみませんが----でもなく、ちょっと、お訊きしたいのですが----でもない。本当に、突然、この言い方をされて、最初は何を言われているのか判断に困ったほどでした。
一応、行き方を教えると、今度は「ありがとう」の言葉もなく、
「それでいいんだな!?」
大声でそう言うや、出て行ってしまいました。
これは、いったい、どういうことなのでしょうか?初対面の人間に対してまったくの命令口調です。しかも、教えて頂いてすみませんの気持ちもないようです。
認知症とも思えませんから、自覚してあのような言葉を発しているのだと思うのですが、これも、一種の暴走老人なのだろうな・・・と、呆れ返りました。
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