我が子がイジメに遭ったら・・・
我が子がイジメに遭ったら・・・
ヤフーの知恵袋を読んでいたら、
「小学三年生の我が子が、クラス替えでこれまで仲の良かった友人たちのクラスではなく、別のクラスへ振り分けられたことが原因で、クラスメートから嫌がらせを受けるようになり、学校へ行きたくないと言い出した。子供は、どちらかといえば頑固な方で、クラス替えの後も、元の友人たちとばかり遊んでいたのも理由なのか、『臭い』と言われたり、無視されるなどのイジメに遭っているようなので、親としても腹が立ち、相手の子供の家へ怒鳴り込んでやろうとも思う。学級担任に相談しようにも、担任の性格からしてことを大問題にしてしまいそうなので、それは避けたい。どうしたら、クラスメートたちのイジメをやめさせることが出来るのか、教えて欲しい」
と、いう切実な投稿があった。
まだ、小学生ぐらいの子供に中には、本当に気心が知れた相手としか口をきかないという者も少なくない。
環境の変化にうまくついていけない子供もいて、ようやく保育園や幼稚園から小学生となったことに適応し始めた頃に、再びクラス替えでは、自分の身の置き場を見失ってしまうことも多々あるわけだ。
おそらく、この子供さんも、そういう性格なのだろうと思う。
しかし、他の順応性が高い子供たちの目から見れば、いつまで経っても前の友だちとばかり遊んでいる「変な子」ということになるのだろう。
そこで、自分たちとは相容れないその子供を、「臭い」などの言葉で敬遠し始めるというわけだ。
だから、その子供さんが本当に臭いわけではない。「臭い」「汚い」は、要するに、自分たちとは違う人間だと差別するための子供なりに発明した蔑視用語なのである。
しかし、この親御さんは、我が子のイジメを学級担任に話すことは避けたいと考えている。
出来れば、学校側の耳に入らないうちに解決したいのが本音のようだ。
とはいえ、回答者たちの投稿にもあったように、イジメている相手の子供の家へ怒鳴り込んでは、大事にならないはずがない。
となると、解決の方法は、やはり第三者の介入しかないように思う。
イジメについての講演を専門家に依頼し、クラス全員かもしくは学年全員を前に、イジメが如何にバカげたことかを語ってもらうという手もあるように考える。
海外の高校では、イジメ対策の一環として、クラスを便宜上イジメる側とイジメられ側に分けて教師がイジメる側ばかりをえこひいきするという学習指導をしているところもあると聞く。
そして、その際、イジメられる側に、いつもイジメに加担している子供たちを入れるのだという。
そして、イジメに遭うということが如何に辛いことかを認識させるのだそうだ。
日本の学校では、こうした指導はおそらく行き過ぎだと教育委員会も簡単には許可しないと思うのだが、こうした学習指導方法を参考に、第三者の外部講演者になら、もう少しゆるいイジメシミュレーションが可能なのではないかと思う。
たとえば、その子供さんを「臭い」と言ったいじめっ子のことを、第三者からわざと「きみ、臭いね」と言ってもらい、反対にいじめられている子供さんの方を、「きみ、とてもいい匂いがするね。お母さんがいつも清潔を考えてお洗濯してくれているからだね」と、言ってもらうなど、クラス内に思考の逆転を起こすという方法もあるわけだ。
自分たちの感性が間違っている場合もあると、子供たちに客観視させることで、周囲の見る目を一瞬にして変化させることも時には可能なのだ。
イジメを学校やPTAなどの小さな枠内で考えるだけではなく、時には、第三者の力も借りることで、新しい解決策への道も見えて来るのではないかと、素人ながら考える次第である。
<今日のおまけ>
日本は、もともと暗闇文化の国だった----との番組を観た。
仏像の顔も、蛍光灯の光で見るために作られているのではなく、ろうそくの炎が照らす中、浮かび上がる荘厳な表情を想定して彫られているのだという。
京都の舞妓さんや芸妓さんたちのあの独特の白塗りも、実は、ろうそくの灯りの中でこそ、その真の美しさは映えるのだという。
暗闇は、殊に人の心に恐怖を呼び覚まし、恐怖はさらに想像力を鍛え、日本独自のもののけ、怨霊、幽霊などが跳梁する異空間をも出現させたのである。
平安時代に活躍した陰陽師たちも、この暗闇文化があったればこそ朝廷の庇護を得たわけで、西洋のエクソシストとはまた一味違う独特の「呪」の感覚を、その法術に用いている意味も納得できる気がする。
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