ちょっと、一服・・・・・27
~ 今 日 の 雑 感 ~
旅をする意味
わたしは、最近、旅行をあまりしません。しないというよりも、出来ないという方が正しいでしょうね。体調がまだ元通りではないので、ブロガーの皆さんの旅の記事を拝見しては、自分も一緒に各地を巡ったような思いで、楽しませて頂いております。
そんなわたしとしては、あちらこちらの観光地や名所旧跡を、初めて会う人々と共に回って歩くというツアー旅行も好きなのですが、ここぞと思った場所にピンポイントで飛んで行き、その場所に何時間も居座ってまったりと過ごす-----そんな、旅も好きなのです。
極端な話、気に入ったホテルや旅館には、何度も足を運びますし、外になど出ずに、その館内だけでぼ~っと過ごすことだってあります。そして、こういう気に入った旅行を一度してしまうと、その楽しかった話題だけで、十年は会話が保てます。
かつて、大学時代の友人とアメリカへ旅行した時は、同じツアーの客たちがメキシコ方面へ行った時も、わたしとその友人だけは、「せっかくロサンゼルスまで来たのだから、ロス市内を色々見学して歩こう」と、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)のキャンパスを散策しました。その際、わたしたちを学生と思った白人の男性から、大学病院の場所を訊ねられたり、大学内の生協で買い物をして、アルバイトでレジを担当していたネイティブアメリカンの学生が、他の学生と「インディアン」についての会話をしているのを傍らで聞きかじったり、また、市内を走る定期バスの車内では、可愛い黒人の小さな男の子と話をしたりと、今でも、鮮明に思い出せるほどの楽しい経験が出来ました。
これが、もし、その他大勢の一員としてメキシコまで行っていたとしたら、きっと、これほどのワクワク感は持てなかったに違いないと思います。おそらく、ツアーを企画する旅行会社にとってみれば、かなり面倒なお客だったでしょうけれど・・・・。
ですから、現在長野市で開催されている「善光寺御開帳」に全国から集まって来る観光客の人たちが、ただただ、回向柱を触りたいという興味本位で参拝するのが、わたしには、もったいないとしか思えないのです。そういう観光客の人たちは、ほとんどが日帰りのバスツアー客で、ほんの一瞬境内に立ち寄っただけで土産も買わずにとんぼ返りをしてしまうものですから、そういう人たちの心の中には、たぶん、ほとんど旅の記憶などというものは残らないのでしょうね。
「善光寺さん、どうだった?」と、訊かれても、「何だか、人ばかりで、よく判らなかったよ」と、いう返事しか出来ないのではないでしょうか。それならば、御開帳の時期は避けても、ガイドさんのお話を聞きながら、一日ゆったりと善光寺境内を歩いて、その日は宿坊や市内のホテルに泊まり、翌朝の「お数珠頂戴」を、授かって、帰られた方が、よほど思い出に残る善光寺参りになるのではないかと思います。
それとも、この不況下、それほどの慌ただしい思いをしてまでも、御利益に与かりたいと思うのでしょうか?そんな、上辺だけの旅行に、何か意味があるのでしょうか?
最近、亡くなった近所のお婆さんが、生前に言っていました。「若い頃は、まるで競ったように日本中を旅して回り、あちこちで美味しい物も、たくさん食べたけど、結局今になってみれば、何一つ実になったものはなかった。旅行は、自分が本当に行きたい所へ行き、ゆっくりと時間をかけて楽しんで来るものだよ。大した思い出の残らない旅行ほど、虚しいものはないね」
実に、奥の深い言葉だと思いました。
因みに、このお婆さんは、わたしのブログ小説「地域医療最前線~七人の外科医~」の文中で、若い研修医に方言を指摘されてショックを受けていた
高齢者女性のモデルとして書かせて頂いた方です。
この一件があってから、お婆さんは、その病院へは行かなくなり、昨年の秋、自宅から離れた別の病院で療養中に亡くなりました。
*** 写真は、ririchiさんの写真撮影のアドバイスで、撮ってみたものです。どうしても、背景が白くハレーションを起こすことが出来なかったため、また、晴天の時にチャレンジしてみたいと思います。そんな中、このような一枚が撮れました。全くの逆バージョンですが、面白い一枚になりました。ririchiさん、また、色々教えて下さいね。(^◇^)
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