意味のわからない文章・・・・・67
~ 今 日 の 雑 感 ~
意味のわからない文章
少し前、「ナガブロ」のブログ記事の中に、信濃毎日新聞に定期掲載されている「詩」は、よく意味が判らない。このような「詩」よりも、ある高齢の女性が書き続けている「詩」の方が、よほど心に迫る------と、いうものがありましたので、わたしも、コメント欄に、正に同感だと、書き込ませて頂きました。(お返事は、頂けませんでしたが・・・・)
わたしも、趣味で時々「詩」を書きますから、人さまが書かれたものも、よく拝見しています。このブロガーさんが記事にされた信毎掲載の「詩」も、読ませて頂きました。これは、杉本真維子さんといわれるプロの詩人の方が書かれているものなのですが(そのブロガーさんが指摘されているのも、おそらくこの方の「詩」だと思います)、正直、「詩」の内容が、わたしにはほとんど理解出来ません。
それでも、あえて、無理矢理にうがった読み方をすれば、どのようなこじつけも出来るかもしれませんが、それにしても、一般の読者にとってほとんど理解不能な「詩」が、素晴らしいものだとは、とても思えないのです。
たとえば、こんな文章です。
見上げると
くろぐろとしたかたまりが
たぶん何百羽ではきかないような数の嘴(くちばし)が
枝裏へすばやくまわるので
近づくと、朱色の舌が垂れ下がった
あれは本当に、鳥なのかどうか
(答えはいつも、ざりりと重い、鉄の味がした)
このような文章が続くのですが、おそらく詩人は、ここで人間の小賢しさや集団的な陰湿さを描こうとしているのでしょうが、あまりに、表現の難意が勝ち過ぎているため、読者にはほとんどその気持ちが伝わってこないのです。
しかし、文学会の偉い先生たちが、これを素晴らしいと評価すれば、一般の読者の気持ちなどそっちのけで、「よい」ということになってしまうのでしょう。
わざと難解な表現を使う方が、芸術的センスに優れているというような、おかしな風潮が、とかく文壇にはあります。
「食べた」という簡単かつ判りやすい表現よりも、「口の中の闇を満足させた」(これは、わたしが考えた文章)などという勿体付けた言い回しの方が、より知的であるというような、おかしな感性なのです。
でも、文学も、文章です。人に読んでもらわなければ何の価値もありません。読んでもらうためには、やはりある程度読み手に、理解出来る文面が必要なのではないでしょうか?
しかも、掲載されている場所が、新聞紙上です。せめて、これは、こういう情景を見た時の、こういう気持ちを書いたものです-----ぐらいの説明文を付記して頂きたいと思うのです。それじゃァ、せっかくの「詩」が、興醒めだ、無粋だと、言われる方もおられるとは思いますが、そういう方は、詩人の詩集でもお買いになればいいのではないでしょうか?
言葉は、判り易く。-----一般人向けに詩を書かれる方には、ぜひ一考をお願いしたいと思う、この頃です。
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