脳死と死・・・・・68
~ 今 日 の 雑 感 ~
脳 死 と 死
国会の衆議院では、昨十八日の本会議で、臓器移植法の改正案(A案)が可決された。
十六日の本会議では、脳死移植の年齢制限や臓器の提供基準などを議論したそうであるが、異なる四つの案が乱立し、今のところは簡単に結論を導き出すことは困難だという討論に終始していた。
しかし、この衆議院での今回のA案の可決により、今後は、「脳死は人の死」との立場をとり、0歳から、本人の拒否がなければ、家族の同意で臓器移植が可能となる道が開かれることに、大幅に近付いたことになる。
現在の法律では、国内における十五歳未満の子供への脳死移植は出来ないことになっているために、海外での移植を待つしか方法がないが、それも、既に、国際的な規制がかかり始めており、アメリカやドイツなどの医学会でも、まず移植は、自国の子供を優先するべきだという空気が支配的となって来ている。
そのため、日本人の子供は日本人の身体で救おうということなのだが、成長期にある子供は、成人とは異なる体質を備えていることから、たとえ脳死状態になったとしても、そのまま成長を続けるという例も報告されているだけに、子供の脳死は、即、「死」であると、捉えることが難しいという側面もあるという。
それ故、我が子が脳死と宣告されても、親御さんの気持ちとしては、それを「死」とは受け入れられないという思いに至ることも、充分判るのである。しかし、片や、移植を待つ子供の親の立場にすれば、ほとんど「死」を宣告されている子供の臓器を、いたずらに放置しておいて欲しくはないという思いが、本音のところであろう。
どちらの親も、子供のことを心底思っての結論なのだと思うが、問題は、それがたとえ万分の一でも生きている可能性のある子供の臓器を取り出してまで、我が子を生かすということの罪悪感を、移植された子供の親は、一生受け止めて行く覚悟があるのかということなのである。
これが、医療の専門家の立場だとしたら、救急現場におけるトリアージのように、より生還する確率の高い方の患者の治療を優先することを是とする気構えが出来ているのであろうが、肉親の情というものは、それほど簡単に割り切れる問題ではないと思うのである。
たとえ、法律が、公式に脳死を「人の死」と認めると定めたとしても、人の感情に法の網は被せられないのではなかろうか。
しかし、また一方で、助けられる命を助けないということもまた、大いなる罪悪だという専門家もいる。正に、ジレンマのスパイラル現象である。
もしも、今後、臓器移植法改正案が正式に国会で決議されたとしたならば、いずれにしても、脳死になり臓器提供者となった子供のために、国民すべてが、罪の意識を共有するというような心構えを必要としなければならないのではないかと、考えるのである。
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