誰が連れて行ってくれるんだ!?・・・・・186
~ 今 日 の 雑 感 ~
誰が連れて行ってくれるんだ!?
テレビのニュースなどを観ていると、「重い病気のため、外国で治療することになりました」などという報道がよくあるが、こういうニュースを聞くたびに、わたしは、必ずこう思う。
「お金と、そこまで連れて行ってくれる家族や親戚がいて、あなたは幸せだね。ここまでしてもらえば、いつ死んでも本望だよね」
と-----。何故なら、そんなうまい具合に命を助けてくれる医療機関へかかることの出来る果報者は、ほとんどわたしの周囲にはいないからである。
どれほど、大変な病気になっても、遠方には、それを治せる医師がいると判っていても、お金や支援者がいなければ、そんな所へおいそれとかかることなど出来ないのが現実なのだ。
去年、わたしが入院した時、同じ病室に大腸癌の女性患者がいた。彼女は、静岡に有名な医師がいて、その医師の手術が受けられば人工肛門になることはないだろうと言われ、息子に頼んで自動車に乗せてもらい、その医師の勤務する病院まで診察を受けに出掛けて行った。
しかし、この日一度だけでは検査も出来ないため、手術までに何度か通ってもらうことになると、言われたが、何分にも長野からでは、そう簡単に通うことなど出来ない。息子に頼んだが、彼も、「一度ぐらいなら一緒に行ってやれるが、何度もなんか無理だ」と、断ったという。しかし、彼女一人で、列車を乗り継いでの長旅など出来るはずもなく、結局、地元の医師の執刀で、人工肛門の手術を受けるほかなくなってしまったと、嘆いていた。
医師は、自分は健康だから簡単に、「〇〇病院で検査を受けて下さい」などというが、体力も、頼る者もいない人間にどうやってその病院まで行けというのであろうか?医師本人が、連れて行ってくれるとでも言うのであろうか?
明らかに、住んでいる場所によって、命の値段には差があるのだ。馬鹿にした話である!
地域医療の格差は、現実に目の前に横たわっているのである。
だから、わたしは、思うのだ。人々の温かな愛の力で、普通の人間なら受けることも出来ないような高度な治療を受け、命を取り留めた人間は、他の人の何倍もの苦労を背負って人生を生きるべきだと。
ただ単に、彼らを「幸運だった」「治ってよかった」などと、手放しでたたえるべきではないのだと。
貧乏人、一般庶民の僻みと思われても構わない。それが、希望する治療を受けられない人間たちの真の気持ちなのだから。
<今日のおまけ>
皆さんは、民芸品の「こけし」が、何故、こんな不思議な名前なのか考えたことがありますか?
それは、「こけし」の語源が、「子消し」だからなのです。子供を消す。つまり、貧しい東北地方の山村では、口減らしのために子供を殺したのです。これを「まびき」と言います。
昔は、今と違い、避妊方法なども確実なものはないため、望まない子供が産まれて来ると、首を絞めたり、顔に濡れた和紙をかぶせ窒息させたりして、殺したのです。
その罪の意識から、亡くなった子供の霊を弔うために「こけし」は生まれました。
ですから、本来の「こけし」は、笑っていません。手足も作りません。おそらく、寒い時のおくるみにくるまれた赤ん坊がモデルだからでしょう。
そう考えると、何とも悲しい歴史的背景が、「こけし」にはあることが判ります。
今日は雨降りですね。でも、わたしは、秋の雨って、嫌いじゃありません。
何となく時間がゆっくり流れるようで・・・・。むしろ、天気の良い日の方が焦燥感があって、瞬く間に一日が過ぎるような気がします。
特に、わたしのように、あまり外出が出来ない人間は、天気が良い日は世間から取り残されているような疎外感さえ覚え、逆に鬱屈感が募るのです。
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