女優の衣装、欲しいですか?・・・・・238

ちよみ

2009年11月11日 22:48

~ 今 日 の 雑 感 ~


女優の衣装、欲しいですか?


    
    わたしが大学生の時代、同じ寮に住む学生で、物すごく流行に敏感な医師の娘がいた。

    流行のファッションが掲載されている雑誌を読んでは、「これが、欲しい!」と、思うと、どのような手段を講じても手に入れてしまうのだ。その執念たるや、周囲が脱帽するほどの熱の入れようであった。

    大病院の院長のお嬢様だから、お金はふんだんに持っている。彼氏は、都内有名老舗和菓子屋の子息であるから、デートの話も、ゴージャスそのものである。正に、湯水の如く金を使うといった典型のようなそのお嬢様学生は、テレビで女優が着ている服にも目がなく、ブランドものをたくさん買い込んでもいた。

    わたしは、どちらかというと、ブランドや流行などにはほとんど関心がなく、教授に、「お前は、スカートってものを持っているんだろうな?」と、言われたほどの無頓着であるから、そういう感性の女性のことは全く理解出来なかったが、周りの友人たちを見れば、やはり、彼女ほどではないにせよ、ファッション雑誌の女性モデルが着ている如何にも値の張りそうなジャケットやスカート、ブーツなどを、身につけてみたいと思っている者たちは多かった。

    そういう女優やモデルが着ているものに憧れるという女性の気持ちは、決して珍しいものではない。古くは、江戸時代にも、小町娘を描いた浮世絵などが巷に出回ると、そこに描かれた娘の着物やかんざしと同じ物が、飛ぶように売れたという現象もあったそうである。

    時に、近頃は、テレビドラマ「リアル・クローズ」の中で女優が着ている服と同じ物がインターネットの通販で売り出され、番組サイトがアクセス殺到でサーバーダウンを起こすというほどの好評を博したということである。しかも、視聴者プレゼントでもないのに、約350点が売れたというのだから、驚きである。

    放送業界の経営状態が厳しい中での一つのビジネスモデルともいえるだろうが、視聴者保護のため、番組がCMと誤解されないように求めている民放連の放送基準との整合性に問題はないのか?-----との声も高い。

    それにしても、この日本女性のいわゆる「憧れ症候群」のような反応は、いったい何なのだろうか?少年たちが、ひいきのスポーツチームのユニホームやキャップを身につけたいと思う気持ちは、わたしも理解できるが、ドラマの中で女優がその販売対象の服を身にまとうのはほんの一瞬ではないのだろうか?アクセサリーだって、次のシーンには、別の物に替わっているはずである。

    なのに、何故、彼女たちは、それを欲しいと思うのだろうか?

    わたしが、この疑問を口にすると、ある人は、こんな風に応えた。「それは、女性の中には、ほんのわずかでも、わたしだって女優と同じくらい綺麗なのよ。同じ服を着れば、そん色なく見えるはずよ。----と、いう、プライドや優越感が必ず存在するからなんだよ」

    もしも、そうだとしたら、女性とは、何と自分勝手な妄想を抱く動物なのだろうかということである。まあ、そんな妄想の力を借りでもしなければ、現実の厳しさの中で、生きてはいけないのだろうが・・・・。「男性に恋をしている時は、女性は誰しもがオードリー・ペップバーンだ」と、いうことなのであろう。(苦笑)

    男性の目から見れば、そんな他愛もない空想に浸る女性が、また、可愛く思えるのだろう。

    しかし、わたしは、ここにあえて苦言を呈したい。

    「おしゃれ泥棒」のオードリーの白い長靴姿は、正に天使のチャーミングさだが、あなたが白い長靴を履いても、単に野沢菜洗いのおばちゃんでしかない。「麗しのサブリナ」のオードリーの履くサブリナパンツは、バレエで鍛えた脚線美の彼女だから似合うのであって、あなたが履けば、それは、普通のストレート・ズボンになってしまうのだ。ジバンシーの高価なドレスも、あなたが着たのでは------いや、もう、これ以上は言うまい。

    そこで、かつて、パリの若い女性たちを取材したテレビ番組で、彼女たちが語っていた言葉をここに紹介しておこうと思う。

    「ブランド物?全然興味ないわ。あれは、本当の美しさがピークを過ぎたおば様たちが持つものよ。ファッションで、最もダサいことはね、人の真似をすること。本当に自分に自信があるのなら、自分だけに似合うファッションを見付けること。それが、どんなに安物の服でも、自分という人間の証でしょ?それこそ、最高に、クールなことじゃないかしら」

    この言葉を聞いた時、わたしは、思わず心の中で拍手を送ったのである。
<今日のおまけ>

    最近、若い男性俳優を見ても、「何で、こんなのがイケメンなの?」と、思うような男性が多い。確かに、一見可愛いとか、親しみやすいとか思うが、どう考えても、一山五百円の温州ミカンの集まりである。

    まあ、昔、あるプロディューサーが言っていたが、「本当のいい男はドラマではダメなんだよ。ファンがどうのというよりも、制作現場のスタッフがやきもちを焼いて、良い役に付かせないんだ」と、いうところが本当の理由のようだ。

    ところが、視聴者は、映像マジックとやらで、その大した器量でもない俳優を、ハンサムだと思いこまされてしまう訳で、わたしたちが若かった頃、「山口百恵現象」なる物があったが、これなど正に、そのものズバリのマスコミマジックに世間が踊らされた証しともいえるのだ。

    当時の若い女の子たちの目はシビアで、そんなマスコミの計略をちゃんと見抜いていた。特別、魅力的でも何でもない山口百恵を結婚前に伝説の女優として形付けてしまおうという、所属芸能事務所とマスコミの強引なまでの売り込みを、皮肉な笑みを浮かべて眺めていたものである。

    「いい日旅立ち」の歌も、彼女の音程が微妙に狂うところを、わざと指摘して、マスコミの罠にはまっている周囲の大人たちの驚く顔を楽しんだこともある。

    しかし、おそらく、自分はそんな伝説の人間ではないと、一番判っていたのは、山口百恵自身ではないだろうか?特別美人でもなく、歌がうまい訳でもなく、芝居のセリフなどもほとんど棒読みである。

    彼女は、いわゆる「裸の王様」ならぬ「裸のプリンセス」だった訳で、そのことを、若い女性たちが既に見抜いている事実に悩み、今に至るまで、メディアに再登場しないのであろう。

    同様に、イケメンでもない俳優を、イケメンと祭り上げるのも、如何なものなのかと、考える昨今である。

 
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