頑張り屋には耳の痛い話

ちよみ

2012年10月06日 11:37

頑張り屋には耳の痛い話




    この秋から、SBCでは「レジデント~5人の研修医」なる医療ドラマが始まるらしいが、はて?・・・何処ぞで聞いたようなタイトルだな。(爆)




    ところで、あなたの周囲にやたらがむしゃらに仕事をこなす人はいないだろうか?

    休日返上で仕事に明け暮れるような、仕事生き甲斐人間だ。

    しかし、そういう人は、あまり幸せそうな顔をしていないのは何故だろう?

    それは、仕事がその人にとっての逃げ場になっているからである。

    つまり、そういう人は、決して仕事が好きなわけではないのだ。

    ただ、心の中の言いようもない空虚感を満たすために、何かをしていなければやり切れないから、無我夢中で自分を追い込むのだという。

    そして、何かを達成した時だけ、生きているという実感を得ることが出来るのだ。

    ある有名な漫画家が、これに似たようなことを話していたことがある。

    「別に漫画を描くことが好きで描いているわけではない。描いている時は、常に苦痛で仕方がないのだが、描き終わった時の一瞬の安堵感が、自分にとっての最良の時間に思えるのだ」

    こういう感覚は、トップアスリートにも共通するものなのかもしれない。

    走り始めた頃は、走ること自体が楽しくて走っていたのだろうが、記録が更新されて周囲の期待が高まるにつれ、自分は目に見えない何者かに走らされているという義務感を覚えるようになるマラソン選手も多いという。

    それでも、走り続けるのは、走ることでしか自分自身を実感できないからであろう。

    そうやって、弱い自分から目をそむけているに過ぎないのである。

    だが、その苦痛は、ある時突然限界を超える。自分を追い込んで追い込んで、それでも自身が納得できる結果が出ない場合、達成感すらも手に入れられなくなる。

    疲れても仕事から離れることが出来ず、休養が取れない。

    何もかも忘れて放り出してしまえれば楽なのだが、それは怖くてできないのだ。何故なら、その仕事を離れてしまうと、自分が生きて社会の役に立っているはずだという証明さえも消えてしまうからである。

    それがうつ症状を引き起こす原因の一つだともいわれているそうだ。

    だから、真面目で熱心な人は、決して勤勉な人ではない。

    仕事をしていないと不安に押しつぶされそうになるから、頑張るしかないのである。



    
<今日のおまけ>

    高齢化が進むと、国の活気がなくなる。

    体力も落ちるし、何か新しいことをして社会を盛り上げようという意欲がなくなるのだ。

    誰かに何とかして欲しいとは望むが、自分から率先してことを始めることは出来ない。

    これは、物理的にも無理だし、仕方がないことである。

    ある国際会議の席で、これからの地球上で最も深刻な問題は、環境問題よりも、世界規模で超高齢化社会が来ることであるという見解も出ているという。

    農業や工業の生産が落ち、医療費や福祉費が莫大な増加を見るという試算も出ているらしい。

    高齢になっても、少なくとも自分のことは自分で出来るだけの知力と体力を温存したいものだが、それにはやはり若いうちからの習慣が必要不可欠なのだと思った。

    
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