安倍晴明は、落ちこぼれ?・・・・・157

ちよみ

2009年09月07日 23:26

~ 今 日 の 雑 感 ~


    
安倍晴明は、落ちこぼれ?


    皆さんは、陰陽師(おんみょうじ)の安倍晴明(あべのせいめい)という人物をご存じでしょうか?

    平安時代の有名な陰陽師で、印(いん)をむすべば、人形(ひとがた)の紙に生命を吹き込み、従者として使ったり、時には鬼神をも操り、都を追われた悪の陰陽師・蘆屋道満(あしやどうまん)と死闘を演じるなど、美貌の若きスーパーヒーローとして、女性たちの間に絶大な支持を得ている男としての印象が強いですが、実際の、安倍晴明は、どちらかといえば、意外にも遅咲きの叩き上げ官僚だったようです。

    安倍晴明は、若い頃、朝廷内の様々な雑用や雑役に従事する下級官吏である「大舎人(おおとねり)」でした。

    そんな生活では出世の見込みもないと思った晴明は、陰陽師の養成所で学ぼうと試験を受けますが、滑ってしまい、途方に暮れていたところを、陰陽寮の長官である陰陽頭(おんみょうのかみ)・賀茂保憲(かものやすのり)に見出され、運よく天文得業生として働くことになったのでした。

    賀茂保憲は、この時四十四歳。晴明は、四つ年下の四十歳でした。

    しかも、保憲は、この時、天文博士の要職にあり、陰陽家としては、前代未聞の従四位下に叙せられているなど、時代を代表する天地陰陽術の異才でもありました。

    保憲は、晴明に見どころがあるとして、自分が得意とする天文道の教えを徹底的に仕込み、晴明は、師匠の保憲のあとをついで、972年には、自らが天文博士となったのでした。しかも、保憲は、晴明の次男である吉昌を、天文得業生に推挙してくれるなど、保憲の晴明に対する信頼と寵愛ぶりは、相当なものであったと思われます。

    そんな保憲が、977年、六十一歳で没すると、ここに来て、ようやく安倍晴明の時代が到来するのです。この時、晴明は、五十七歳になっていました。

    やがて、一条天皇が即位し、藤原道長が摂政・関白として絶対的権力を掌中におさめると、晴明は、保憲の子の光栄とともに、陰陽寮から離れ、天皇と直結する「蔵人所陰陽師(くろうどどころおんみょうじ)」となり、天文博士の職からは身を引くものの、その後も、長老として陰陽界に君臨し続け、師である賀茂保憲と同じ、従四位下に叙せられたのでした。

    これが、実際の安倍晴明の姿なのだということです。

    晴明は、その後、1005年9月26日に八十五歳で亡くなります。

    墓は、京都市右京区嵯峨門倉町の晴明神社の境内にありますが、一説には、晴明は、晩年信州の木曽福島町に移り住み、その地で没したという話もあるのだそうです。

    そのため、晴明の墓がある所から、その地を「清博士(せいばかせ)」と名付けたというのです。

    おそらくは、その頃流行りであった陰陽師と称する祈祷師などが移り住み、勝手に安倍晴明を名乗ったのかもしれません。こうした安倍晴明の墓なるものは、全国にさまざまあるようですから、信州のものも、その類なのかもしれませんが、もしも、本当に、安倍晴明が木曽福島の地に祈祷所を構えていたのだとしたら、ワクワクするような史実です。

    狐の子供ともいわれている安倍晴明のこと、そんなことが実際にあったとしても、何ら不思議ではないのかもしれませんね。


    因みに、皆さんは、「陰陽師(おんみょうじ)」という言葉のイントネーションをどのように発音していますか?

    「* 。。。。」ですか?------でも、正解は、「。* * 。 。 」だそうですよ。

    
<今日の雑感>
    
    最近、ようやく気が付きました。

    写真を多用すると、ブログ容量が極端に上がるということに------。

    では、文字ばかりで書けばいいのでしょうが、写真も載せたいんですよね。先に書いた記事を削除して行けば、容量は復活するようなんですが、せっかく書いたものを消すのももったいない気がするし、ちょっとジレンマです。

    

    ところで、いきなりですが、「京ことば」のお話です。

    もしも、あなたが、京都へ行ってある人の家で、つい長居をした時、その家の家人に、「ぶぶ漬でも、どうどす?」と、言われたら、どうしますか?

    「ハイ、頂きます」なんて答えてしまったら、かなりの顰蹙ものだそうです。「ぶぶ漬」とは、湯漬のことで、「もう、さっさと帰ってくれへんかな」と、いう家人の意志表示なのだとか。

    これと似たようなことですが、街で知り合いと出会った時に、その知り合いに、「いや~、奇遇やわ。どちらへ行かはるの?」なんて訊ねられても、「それが、今から〇〇まで☓☓しに行かなくちゃならないんだよ」なんて、具体的に応えてしまったら、これもまた、田舎者だと思われてしまうのだそうです。

    そういう時は、極めてさりげなく「ちょっと、そこまで-----」と、これだけでいいのだとか。要するに、街での声かけは単なる挨拶なのだから、別に、いろいろ事情を知りたくて訊いている訳ではないのだそうです。

    京都の人間の気質が、よく判る話ですよね。そこで、こんな言葉も、京都人気質を表す時には、使われるようです。

    「あら、嬉し、隣の蔵が売れて行く」

    これが、もし、大げさな表現でなければ、京都の人って、安倍晴明が言うところの、「呪(しゅ)」その物を体現しているといえるんですね。恐れ入りました。
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