沖縄県民の本音は何処に?・・・・・280
~ 今 日 の 雑 感 ~
沖縄県民の本音は何処に?
正直言って、わたしには、沖縄県民が本当に、アメリカ軍基地が県外に移ることを望んでいるのか、本音のところは、このまま県内に置いておいてほしいのか、はっきりと判らない。
ある評論家の話だと、本気で基地を県外へ持っていってほしいと思っている人は、ほんの一握りだということであるし、基地内で働いている二万人以上の県民の雇用場所がなくなることも問題視されているそうである。
岡田外務大臣は、連立政権内の意見調整のため、年内決着は難しいとの考えを宜野湾市の伊波洋一市長に伝え、アメリカ側が名護市辺野古へ移転するという現行案のほかには選択肢はないという認識を示しているということも説明したという。
そんな中、県外移転の案の一つとして、関西国際空港を利用したらどうかとのアイデアも持ち上がっているらしい。関西国際空港は、未だに各航空会社の利用が少なく、B滑走路などは、まったく使われていないともいうことで、ここを、米軍の飛行場にあてたらどうかとの案も出ているのだそうである。
しかし、関西国際空港は、大阪市の近くでもあり、ここには世界的な金融の核となる大手の銀行が集中しているということもあって、騒音や、万が一の事態を考えると危険だという反対論も根強い。
そうかといって、沖縄県民にすべてのしわ寄せを押しつけたままでいいとは思えず、開いている空港があるのなら、利用しない手はないと、
大阪府知事の橋下徹氏は、個人的な意見と断わりながらも、この案を検討してみる価値ありと発言した。
ところが、これとは別に、わたしには、やはり疑問がある。沖縄の米軍基地に土地を貸している地主たちの中で、土地を貸すことに反対している地主たちは、ほんの一握りであるらしく、しかも、その土地も、全部合わせてもかなり少ない面積なのだそうだ。
そんな反対地主の中には、テレホンカードの半分ほどの土地しかもっていない地主もいて、その地代4円を国が支払うために、880円の手数料をかけているという事実まであるのだという。
もしも、橋下府知事の考えるように、関西国際空港にアメリカ軍基地の一部が移転したとすれば、大阪府にそれなりの交付金が国から入るであろうし、2万人以上の雇用が確保できる訳でもあり、この案は、一石二鳥にも三鳥にもなる訳である。もちろん、かなりの騒音を我慢すればの話ではあるが、それも、海上に出来た関西国際空港ならば、沖縄県の普天間基地への統合などよりはかなりましな解決策となるのではないかと、素人考えながら思う。
また、米兵の犯罪などに対しても、沖縄県民のような大らかな気質の人々に比べて、関西人は気性も荒い訳で、もしも、そのような不祥事が起きても、むしろ米兵の身の方が危ういほどであろう。
そんなこともあり、関西という土地柄は、米兵の犯罪抑止効果も期待できるのではないかと思われる。
しかし、そうなると、沖縄の米軍基地で働いていた人たちの再就職先の問題であるが、基地が県外へ移転した時を機会に、沖縄県民も、依存型の生活から脱却するべきではないかと考えるものである。
わたしたち信州人からすれば、一年を通して温暖で、穏やかな気候の沖縄は、まるで天国のようにも思えるもので、生活の危機感が薄いのではないかとも思うのである。信州は、決して大げさではなく、冬の灯油代で一年の収入が消えてしまうような暮らしである。そのことを考えれば、
沖縄県民も、もう少し自力で経済を活性化しようという気迫をもって欲しいのだ。
そうはいっても、やはり、アメリカからは離れたくないという県民の本音が多くある以上、基地は、沖縄に必要なものなのかもしれない。そこのところがもう一つはっきりしないので、国民も今回の問題にはあまり関心がわかないのだと思う。
もう一つの案として、グアム移設が取りざたされてはいるが、グアムのアメリカ空軍がこれを拒否しているという理由の本当のところは、
空軍には空軍のプライドがあり、海兵隊などのいわゆる上陸部隊要員である下層兵士たちと、同じ基地内で生活するなど真っ平だという本音があるらしい。(北沢防衛大臣は、このグアム案には消極的らしい)
中国や北朝鮮における有事の際の前線基地として沖縄の役割を強調するのは、言わば表向きで、実際の理由は、そういうところにあるのだそうである。
いずれにせよ、県外移転にしても、県内移転にしても、沖縄県民の意識が一つにまとまらねば、他の都府県の国民たちは、何の言葉の出しようもないというのが現状ではないかと思われる。
アメリカ軍の基地は沖縄県外か、それとも県内か、いや、国外か、何処に落ち着けば、日本、沖縄、アメリカの三方がまるく納まるんだろう?大岡裁きではないが、三方一両損の結論を早く鳩山総理の口から聞きたいものだ。
<今日のおまけ>
この間、新聞の「柳壇」を読んでいて、これは言いえて妙だなァ-----と、思える川柳がありました。
明日がある とても優しい 言い逃れ
と、いう川柳です。
この一句には、実に色々な思いが込められていると感じました。
普通、「明日がある」という言葉は、とてもポジティブで、前向きで、明るい言葉のように思えますし、それも、健康で若く将来のある人が使うと映えるのですが、高齢者や病人には、むしろ残酷な意味さえも含む言葉なのではないかと、考えさせられるものでもあると、いうことに気付かされる一句でした。
今日出来ること、今日しか出来ないこと、今日しなければならないこと、そういうことが出来なかった時、人は、「明日があるじゃない」と、言いますが、「それは、自分への甘えであり、言い逃れでしかない」と、作者は説くのです。
「明日」という日を、確実に迎えられるか判らない、そんな年齢になればなるほど、「今日」という日を真剣に生きねばならないのに、無駄に過ごしてしまった------という、自己反省が詠ませた句でもあるのでしょう。
わたしも、自分が病気をしてみて、今までの何十年をただ漫然と暮らしてきてしまったことが、もったいなくてならないことに気付かされました。出来れば、十年前へ戻れたらと、考えますが、もはや遅しの現実です。
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