ダニー・コリガンの部屋
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ロサンゼルス、ダウンタウン7番街のヒルストリートと交差する近く、細くて薄暗い路地を20メートルばかり奥へ入った古いアパートメント・ビルの3階に、おれの新しい部屋がある。
三日前に越して来たばかりの部屋だ。
アパート正面のドアを開け、らせん階段を駆け上がり、鉄製の冷たく重い扉を押して入るこのカビ臭いチンケな巣に、おれは、毎晩、眠るだけのために帰って来る。
ロス・タイムズに勤める薄給の新聞記者(ぶんや)には、それでもここは、ただ一つの安息の場だ。
ここには、ガミガミと毒舌を吐き、スク―プはまだかと、遠慮もなく尻をたたく編集長もいなければ、向けたカメラにアッパーカットを食らわせてくるポン引きのお兄さんもいない。
深夜に飛び込んでくる無遠慮な取材依頼のケータイ電話の着メロさえ無視すれば、斜向かいにあるディスコ・スタジオのクレージーサウンドさえ、サンタモニカのさざ波の如くだ。
独り者のおれは、さほど住居という生活手段に執着はないが、このアパートの部屋は、まずます中の上といったところだろうか---。
夜更けにもかかわらず、街は喧騒(けんそう)をまき散らす。
パトカーのサイレン、めくるめくイルミネーションの渦、ヘリコプターのプロペラ音。そして、ケータイ電話の着信音・・・・。
おれは、デスクの端末に記事をタイプする手を止めて、ケータイを耳に押し付ける。
「はい、こちら、ダニーコリガン。え?-----ああ、マック、アンディ・マコ―ミックか、久しぶりだな。いつ、ロスへ?仕事か?-----こっちで個展を開くのか。なるほど、有名画伯が友人とは鼻が高い。それにしても、よく、おれの電話番号か・・・・。ああ、会社(オフィス)にね。たぶん、教えたのは、アリスだろう。------恋人?バカ、彼女は亭主もちだよ。おれは、まあ、ぼちぼちってところかな。で、ロスにはいつまで?-----うん、もちろん見に行くさ。じゃァ、また連絡くれ。おやすみ------」
大学時代からの友人のマックが、ニューヨークから帰って来た。新進気鋭の画家であり、エッセイストという肩書の名誉勲章をぶら下げての凱旋だ。
あいつは、いつも才能に満ち溢れていた。しかも、大手広告代理店経営者の御曹司。そんなあいつが、生まれも育ちも異なる貧乏学生のおれと何故馬が合ったのか、学生仲間たちは、皆、訝しがったものだ。
二人は、いわゆる、アブノーマルな関係(今の世の中に、ノーマルなんて存在価値があるのか疑わしいが・・・・)ではないかと噂するゲス野郎もいたが、マックは、強い腕っ節でそいつの胸倉をひっつかんで、こう言った。
「うせな、オカマ野郎!」
おれは、そんなことが平然と出来るマックが、ひどく頼もしく、そして、妬ましかった。
ロサンゼルスには珍しく、朝から秋雨が降っている。
会社からアパートに帰ったおれは、濡れた身体をシャワーで温め、冷蔵庫を開けて冷えた缶ビールを取り出す。
ラジオでは、ボストンのフェンウエー・パークで行われているワールドシリーズ、メッツ対レッドソックスの第三戦が放送されている。同僚のフランクは、シリーズ優勝をレッドソックスに賭けたが、おれは、メッツに賭け、このまま行けば今夜は7対1でメッツの快勝。メッツは対戦成績を一勝二敗として、おれにもまだツキが巡ってきそうな予感がする。
ケータイ電話に、マックからの連絡は入らなかった。
雨水がネオンサインを虹色に反射させて、窓ガラスを流れ落ちる。
そのガラスに映し出される一枚の絵画-----。
先住者が忘れて行ってしまったのか、もっと以前からあったものなのか、ベッドの脇の壁にかけられている油絵の肖像画(ポートレート)。
うまいのか、それほどでもないのか、先天的芸術音痴のおれには、まったく見当もつかないが、油絵に描かれた男は、窓ガラスの中から、さも上品ぶった澄まし顔でこっちを見つめ返してくる。
おれは、缶ビールを飲み干し、アルミ缶を握りつぶしながら油絵に描かれた男に向かってつぶやく。
「あんたも、おれみたいな芸術の価値の判らん男の部屋に置き忘れられて、つくづく貧乏くじを引いちまったってもんだよな・・・・」
つづく