ダニー・コリガンの部屋 9

ちよみ

2009年12月22日 18:18

ダニー・コリガンの部屋





9



 「クラウス!!」

 -----が、次の瞬間、おれは見た。

 展示会場の床に、静かに舞い落ちた一枚の油彩画を・・・・・。

 それは、紛れもなく、おれの部屋からデドワイラーが持ち去ったあの若い男が描かれた肖像画だった。

 「クラウス・リーベンアイナーの自画像だ・・・・・」

 マックの声が耳の底で、遠い潮騒のさざめきのように切れ切れに聞こえていた-----。





 「ダニー、ダニー・・・・・」

 誰かが、おれの身体を揺り動かしている。

 うっすらと目を開けると、そこは、いつものアパートのおれの部屋だった。そこには、マックがいた。おれを揺り動かし目を覚まさせたのは彼だった。

 おれは、すかさず訊ねた。

 「クラウス、クラウス・リーベンアイナーは、どうした?」

 すると、マックは、訝しげに顔をゆがめて、

 「なに?ドイツ人の画家がどうしたっていうんだ?-----まったく、お前は、いつまで眠っていやがるんだ。今日からおれの個展会場のセッティングが始まるんだよ。なのに、お前が起きないことには、勝手に部屋を出て帰るわけにもいかんじゃないか。ドアに鍵をかけなくては物騒だからな」

 と、迷惑そうに言う。

 「・・・・・・・?」

 おれは、この状況がうまく飲み込めずに、ただぼんやりとマックを見詰めた。マックは、近くの椅子の背凭れに掛けてあったジャケットを摑み取ると煩わしげに袖を通し、おもむろに帰り支度をする。

 「じゃァ、ダニー、おれは、もうホテルへ戻るからな。昨夜は、お前に付き合わされたおかげで、おれまで二日酔いで散々だぜ」

 マックのぼやきを聞きながら、ようやくベッドの上へ上半身を起こしたおれは、両の掌で顔面をぬぐうようになでながら、今までの出来事がすべて夢の中で起きたことであったと、悟った。

 「ダニー、お前、おれの個展には絶対に来いよ。もちろん、記事もしっかりと高評価で掲載してくれ」

 マックは、そう言い残すと、部屋を出て行った。

 おれは、彼の広い背中を無言で見送ったのち、ベッドの脇の壁に改めて目をやる。

 クラウスのことは、本当にすべて夢だったのか・・・・・?

 そこには、ただの殺風景な白い壁があるばかりだ。

 おれは、ベッドから跳ねおりると、デスクの引き出しに入れておいた例の2000ドルの紙幣を無造作に摑み出す。

 よれよれのワイシャツを着てネクタイをだらしなく結ぶと、酒の染みが付いたままのスラックスの両のポケットに現金を捩じり込むや、朝の太陽がさわやかに降り注ぐハイウェーに自動車(くるま)を走らせ、名刺の住所を頼りに、ジム・デドワイラーの画廊へと直行した。

 そして、突然のおれの来訪に驚愕するデドワイラーに、2000ドルを叩き返すと、あの若い男の肖像画を、再びおれの部屋の壁へと戻したのだった。

 午前中だけかろうじて差し込む日の光の中で、肖像画の中の男は、やはり古めかしい三つ揃えのスーツを得意げに着こなして、夢の中に登場したあの青年そっくりの優しい、しかし、何処となく憂いを宿した微笑をたたえて、こちらを見詰めている。

 その時、おれは、初めて見付けたのだった。

 男が描かれた肖像画の右下の片隅に、かすかに読み取れるドイツ語の文字を------。

 それには、こう記されていた。

 -----1928年秋  クラウス・フェルディナンド・リーベンアイナー  自画像をここに描く-----と。


   
END
<今日のおまけ>

    富士山で登山中に一時遭難し、18日昼ごろ静岡県警に無事保護された元F1ドライバーの片山右京さん(46)が同日夕、御殿場市内で会見を行った。

    片山さんは「このたびはご心配をおかけして申し訳ありませんでした」と謝罪した。当時の状況について、片山さんは9合目付近で1人用のテントで寝ていて、同行した事務所社員の男性2人は別のテントにいたという。しかし、「強い風が吹いて、起きたら2人のテントがなくなっていた」と説明。その後、2人と200メートルくらい下で合流でき、救助を要請。その後も、強風のため動くことができなかったという。

    この日、午後になって捜索隊に正確な位置を知らせるため、下山を開始。1人で下山した理由について、「本当に戻るべきなのか、いてあげるべきなのか。自分ひとりでは(2人を)下ろせないことが分かっていたし、たくさんの人の手が必要だと考え、下山する判断をした」と話した。最後に、「とにかく今は、2人の無事を祈るばかり。2人は何度もヒマラヤで長い夜を過ごした仲間であり、友達であり、(無事を)信じています」と山に残した2人を心配した。

    <YAHOO ! ニュース>



    この山岳遭難事故には、いくつかの大きな疑問がある。

    何故、この天候の悪化があらかじめ判っていたにもかかわらず、三人は登山を決行したのか?

    そして、片山右京さんはその登山が苛酷になることが判りながら、(片山さんが経営する会社の)従業員男性まで連れて行ったのは何故なのか?

    また、片山右京さんと、従業員の二人の男性は別々のテントで寝ていたというのだが、どうして、テントを別にしなければならなかったのだろうか?また、風で飛ばされたテントが二人の従業員男性の方でだけで、片山さんの方のテントは無傷だったのは何故か?

    片山さんは、おそらく次に登頂を試みようとしている南極の山岳登攀への予行演習のつもりで冬の富士山へ登ろうとしたのだろうが、このチャレンジはあまりに無謀だったと思う。冬の富士山の気温は、ゆうにマイナス20度以下になり、風が吹けば体感気温はマイナス30度にもなろうという世界だ。

    だからこそ、予行演習には最適と思ったのだろうか?

    しかも、この二人の従業員男性とも、19日に富士山の山腹で倒れているのが発見され、残念ながら死亡が確認された。
 
    片山さんが救助の応援を頼むために、ただ一人下山する前までは、この二人と同じ場所に一緒にいた訳であり、その時は、まだ、一人の男性従業員は間違いなく生きていたというのであるから、皮肉な話である。

    そして、彼らが登山計画書を提出していなかったことが、この遭難の持つ意味をより複雑なものとしている事実は否めない。もしかしたら、片山さんは、今後何らかの形で刑事責任をも問われかねないような気がするのだが・・・・。

    富士山ごときと、冬山をなめてかかったことがあったとすれば、片山さんは、ベテランの登山家であるだけに実に残念である。
        
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