ちょっと、一服・・・・・④
2009年01月07日
信毎は 仲良しクラブか老人会 「建設標」に今日も同じ名
これは、ある友人から聞いた落首(詠み人知らず)の一つです。県内大手新聞社の信濃毎日新聞の紙面には、「建設標」なる一般読者のための投稿欄があるのだそうですが、そこには、思い思いに日々の出来事や体験談などを記した読者からの投稿文が掲載されるのだといいます。その友人が申しますに、
「自分も幾度かそこへ投稿してみたのだが、今まで一度も採用されたことがない。何か、採用していただくための基準のようなものがあるのだろうか?」
相談を受けたわたしも、
「おそらく、あれだけの大手の新聞社ともなれば、投稿も膨大な数に上るのだろうから、編集者の目に止まる確率もかなり低いのでは・・・・?」
と、答えるしかありませんでした。しかし、その友人は、それだけとは限らないと、思っているようです。
「それじゃ、投稿原稿の内容が編集者の欲しいものではなかったとか・・・・?」
わたしが言いますと、
「たとえそうだとしても、どうにも腑に落ちないことがある。それは、実に短い期間にも、同一人物の投稿記事がたびたび採用されていることだ。それも、いずれも大した内容とは思えないもので、同級生と久しぶりに再会したとか、孫が一人暮らしを始めたとか、そんな他愛無い話が大半だ。しかも、書いている人たちは、大体が七十歳以上の高齢者で、高齢者の書いた文が殊に採用される確率が高いことも疑問なのだ。中には堂々と、『ボケ防止のために投稿を続けている』などと、臆面もなく書いている者までいる始末だ。これでは、老人新聞などと揶揄されるのも当然だ」
友人の不審感は、相当なものでした。彼の言う通り、わたしも以前新聞社勤めをした経験上、公共の紙面を私的な目的のために使うのは、考えものだとは思います。確かに、この高齢化社会にあって、文章を書くことで若さや活力、生きる張り合いが取り戻せるのであれば、またそうしたお手伝いをマスメディアが担えるのであれば、それはそれで素晴らしいことです。しかし、同じ人間の文章が何度も採用されるというのは如何なものでしょうか?(彼曰く、同紙の俳句や短歌の投稿欄にも同じような傾向があるそうです)また、そうした常連投稿者たちが集う会のようなものもあるのだとか・・・・。それが事実なら、その人たちの投稿文が特別頻繁に採用されているといった仕組みにでもなっているのでしょうか?
詳しいことは判りませんが、どうにも気になった友人は、一度直に編集者に訊ねてみようと、意を決して電話をしたことがあったのだそうです。その時は、担当の者がいないとのことで、話は聞けずじまいだったらしいのですが、後日、本誌紙面に、
「採用、不採用に関する問い合わせは一切ご遠慮ください」
との記載がされたそうで、呆れるやら、驚くやら、と、失笑しておりました。因みに、彼の家は四代にわたり信濃毎日新聞を購読し続けており、大して読む記事もないという夕刊も、新聞店の方との付き合いもあり取り続けているのだとか。新聞社にとってみれば、大のお得意先といえる家系なのですから、腹の立つのももっともです。
そこで編集者の方たちにお願いです。投稿記事には、まんべんなく目を通し、掲載文を選んで下さい。そして、多少の添削は構いませんから、まんべんなく投稿者の記事を掲載して差し上げて下さい。文筆業を生業としている人や、趣味で文章を書くことが好きな人はともかく、普通の人が、文章を書くというのは本当にエネルギーのいることなのです。しかも、実名入りで他人の目に触れる文章を書くのは、勇気も勉強も必要となります。マスメディアに籍を置く方々は、そんな投稿者の心の内までもくみ取られたうえで、投稿記事の選別をして頂きたいのです。思い出してみて下さい。自分の書いた文章が、初めて紙面に掲載された時のことを。それが、愚にもつかない雑記事であったとしても、
「これは、おれが書いたんだぞ!」
と、少々の気恥ずかしさと誇らしさで、誰かれ構わず話したい気持ちになったはずです。でも、日々の仕事で常に活字に触れているうちに、その新鮮な感動も失せて、文字を見るのさえ煩わしくなる------それも判ります。しかし、たった一度の投稿記事の掲載が、一生の思い出になる人もいるのです。清水の舞台から飛び降りる気持ちで、意見を書き送る人もいるのです。隣近所の話題も、回顧録もいいでしょう。でも、この閉塞と鬱屈が覆い尽くしている現代社会を、非力なりともどうにかして元気づけようと、一筆を投じてくる人もいるのです。そういう人たちの文章の中に、キラリと光る物があるのを見出すのも、また、編集者の力量なのではないでしょうか?
そんなことを、つらつら考える今日この頃です。
では、引き続き、「地域医療最前線~七人の外科医~」を、お読みください。
*** 文章中の絵-----「今日の一枚」は、『新選組』を、描いてみました。
これは、ある友人から聞いた落首(詠み人知らず)の一つです。県内大手新聞社の信濃毎日新聞の紙面には、「建設標」なる一般読者のための投稿欄があるのだそうですが、そこには、思い思いに日々の出来事や体験談などを記した読者からの投稿文が掲載されるのだといいます。その友人が申しますに、
「自分も幾度かそこへ投稿してみたのだが、今まで一度も採用されたことがない。何か、採用していただくための基準のようなものがあるのだろうか?」
相談を受けたわたしも、
「おそらく、あれだけの大手の新聞社ともなれば、投稿も膨大な数に上るのだろうから、編集者の目に止まる確率もかなり低いのでは・・・・?」
と、答えるしかありませんでした。しかし、その友人は、それだけとは限らないと、思っているようです。
「それじゃ、投稿原稿の内容が編集者の欲しいものではなかったとか・・・・?」
わたしが言いますと、
「たとえそうだとしても、どうにも腑に落ちないことがある。それは、実に短い期間にも、同一人物の投稿記事がたびたび採用されていることだ。それも、いずれも大した内容とは思えないもので、同級生と久しぶりに再会したとか、孫が一人暮らしを始めたとか、そんな他愛無い話が大半だ。しかも、書いている人たちは、大体が七十歳以上の高齢者で、高齢者の書いた文が殊に採用される確率が高いことも疑問なのだ。中には堂々と、『ボケ防止のために投稿を続けている』などと、臆面もなく書いている者までいる始末だ。これでは、老人新聞などと揶揄されるのも当然だ」
友人の不審感は、相当なものでした。彼の言う通り、わたしも以前新聞社勤めをした経験上、公共の紙面を私的な目的のために使うのは、考えものだとは思います。確かに、この高齢化社会にあって、文章を書くことで若さや活力、生きる張り合いが取り戻せるのであれば、またそうしたお手伝いをマスメディアが担えるのであれば、それはそれで素晴らしいことです。しかし、同じ人間の文章が何度も採用されるというのは如何なものでしょうか?(彼曰く、同紙の俳句や短歌の投稿欄にも同じような傾向があるそうです)また、そうした常連投稿者たちが集う会のようなものもあるのだとか・・・・。それが事実なら、その人たちの投稿文が特別頻繁に採用されているといった仕組みにでもなっているのでしょうか?
詳しいことは判りませんが、どうにも気になった友人は、一度直に編集者に訊ねてみようと、意を決して電話をしたことがあったのだそうです。その時は、担当の者がいないとのことで、話は聞けずじまいだったらしいのですが、後日、本誌紙面に、
「採用、不採用に関する問い合わせは一切ご遠慮ください」
との記載がされたそうで、呆れるやら、驚くやら、と、失笑しておりました。因みに、彼の家は四代にわたり信濃毎日新聞を購読し続けており、大して読む記事もないという夕刊も、新聞店の方との付き合いもあり取り続けているのだとか。新聞社にとってみれば、大のお得意先といえる家系なのですから、腹の立つのももっともです。
そこで編集者の方たちにお願いです。投稿記事には、まんべんなく目を通し、掲載文を選んで下さい。そして、多少の添削は構いませんから、まんべんなく投稿者の記事を掲載して差し上げて下さい。文筆業を生業としている人や、趣味で文章を書くことが好きな人はともかく、普通の人が、文章を書くというのは本当にエネルギーのいることなのです。しかも、実名入りで他人の目に触れる文章を書くのは、勇気も勉強も必要となります。マスメディアに籍を置く方々は、そんな投稿者の心の内までもくみ取られたうえで、投稿記事の選別をして頂きたいのです。思い出してみて下さい。自分の書いた文章が、初めて紙面に掲載された時のことを。それが、愚にもつかない雑記事であったとしても、
「これは、おれが書いたんだぞ!」
と、少々の気恥ずかしさと誇らしさで、誰かれ構わず話したい気持ちになったはずです。でも、日々の仕事で常に活字に触れているうちに、その新鮮な感動も失せて、文字を見るのさえ煩わしくなる------それも判ります。しかし、たった一度の投稿記事の掲載が、一生の思い出になる人もいるのです。清水の舞台から飛び降りる気持ちで、意見を書き送る人もいるのです。隣近所の話題も、回顧録もいいでしょう。でも、この閉塞と鬱屈が覆い尽くしている現代社会を、非力なりともどうにかして元気づけようと、一筆を投じてくる人もいるのです。そういう人たちの文章の中に、キラリと光る物があるのを見出すのも、また、編集者の力量なのではないでしょうか?
そんなことを、つらつら考える今日この頃です。
では、引き続き、「地域医療最前線~七人の外科医~」を、お読みください。
*** 文章中の絵-----「今日の一枚」は、『新選組』を、描いてみました。