ヘリコプターが飛ぶ理由・・・・・578

~ 今 日 の 雑 感 ~


ヘリコプターが飛ぶ理由



    
    大きなプロペラ音を響かせて上空を飛ぶヘリコプター。

    いったい、何のために飛んでいると思いますか?

    新しい地図製作のための航空写真を撮ったり、山での遭難者を探したり、山小屋への物資を運んだり、メディア関係の取材だったり、遊覧飛行だったりすることもあるのだと思います。

    ところが、わたしは、まったく知りませんでした。

    そんな中、各家庭の新築や改築を探し出すために飛行しているヘリコプターがあるということを-----。

    自治体に無断で新築をしたり改築をして、課税を免れようとしている者がいないか?

    前に撮影した航空写真と照らし合わせることで、そうした不正を暴こうとしているのだそうです。

    三年前は二階建てだった家が、三階建てになっているのに、その分の税金が支払われていないとか、あの家の庭には、物置きなんかなかったはずなのに新しくできているとか、また逆に、この前まではあった一棟が消えているとか、そういうことの発見に役立てようと、自治体がヘリを飛ばすのだそうです。

    そして、もしも、不正な新築や改築が判った場合、過去五年にさかのぼって税金を請求することができるのだと言います。

    しかし、不正な建物が見付かっても、それが既に三十年も前から建っていたものである場合もないわけではありません。

    そうなってしまうと、自治体も過去五年分の税金は請求できても、その前の二十五年分は取ることが出来ないのです。そこで、こうした航空写真は、三年に一度ぐらいの割合でチェックするようになっているとのことです。

    でも、そうはいっても、やはり空の上から眺めた風景です。実態が完全には判るはずがありません。

    実は、我が家もありもしない家が敷地内に建っていると思われ、長年にわたり知らないうちにその架空の家の分の税金を払い続けていたことがあったのです。

    その当時の自治体の関係職員は、家まで来て平謝りでしたが、それでも返却できる分は五年分だけで、あとの支払い済みの税金は、まったく返って来ませんでした。

    時には、こんな理不尽なことも起きるのです。

    固定資産税を払う際は、本当にその額が正しいものかどうか、しっかりと確認した上で払った方が賢明だと思いますよ。

      続きを読む


(笑)の考察・・・・・577

~ 今 日 の 雑 感 ~


(笑)の考察



   
    では、質問です。

    次の二つのメールの文章のうち、真実を伝えているのはどちらでしょうか?


    1) 昨日、道を歩いていたらバナナの皮が捨ててあって、知らずに踏んでしまいスッテンコロリ!こんな漫画みたいなことって、本当にあるもんなんだね~。(笑)

    2) この前一緒に行ったレストランのランチ、おいしかったね~。今度また、東京へ来た時は誘ってね。(笑)

    如何ですか?お判りになりましたか?

    答えは、1)なのです。

    この1)の文章は、真実を伝えているのです。この文章を書いている人は、実際に道でバナナの皮を踏んで転んでしまったのです。それを、「こんな恥ずかしいことって、滅多にないよね。みんな笑っちゃうでしょ?」と、言わば照れ隠しのための(笑)を最後に付け加えている訳なのです。

    しかし、2)の文章は、最初の「この前一緒に行ったレストランのランチ、おいしかったね~。」の部分は事実ですが、次の「今度また、東京へ来た時は誘ってね。」の部分は、真っ赤な嘘だということが判るのです。

    その嘘の部分は、「東京」のところです。

    つまり、この文章を書いている人は、実際は東京の人ではありません。おそらく、このメールを書き送った相手のごく身近に住んでいる人なのです。

    しかしながら、そうやって親しく付き合っていることを第三者に知られると困ることになるので、正体を隠す目的で「東京の人物」のように文章上ではふるまっている訳なのです。

    が、この前も当ブログに書きましたが、人間の心理とは、普通は真実を話すようにプログラムされている訳ですから、如何に当人同士にしか判らない暗号を使ったとしても、何処か後ろめたい気持ちは残るのです。そこで、つい、(笑)を付け加えてしまったという訳です。

    ここで判ることは、可笑しなことや、恥ずかしいこと、突拍子もないことなどを書いたあとに(笑)が付いている文章は、「あなたも一緒に笑って下さいね。わたしって、バカでしょう~?」というような自虐の意味が含まれている(笑)であるため、ほぼ90パーセントは、真実を伝えている文章だということなのです。

    しかし、特に変な話でも滑稽な話題でもないような文章のお尻に、いきなり(笑)が出てきている場合は、要注意です。

    こういう文章は、大抵において、第三者であるあなた、もしくは他人に、真実を知らせないようにしている当事者同士が、暗号的な意味でやり取りしている文章に多いパターンなのです。


    2)の文面でも判るように、自分の住んでいる実際の住所を隠す意味で、出会った所をわざと遠くの「東京」という場所に設定することで、万が一この文章を他人が読んでも、「ああ、この前東京に行った時に、二人は何処かのレストランへ入ったんだな。この人は、東京の人なんだな」と、思わせることが出来るのです。

    つまり、この文章をやり取りする二人の間には、こんな約束が予めかわされていたはずなのです。

    「今日、あなたと二人で長野市のレストランに来たことが友人にばれたら大変なことになるのよ。どうして、わたしも誘ってくれなかったの?って----。だから、もしも、メールをくれるんなら、あなたは東京の人ってことにしておいてくれないかしら?」

    「いいわよ」

    どうですか?良くメールやコメントで使われる(笑)ですが、単に「笑い」という意味ではなく、もっと複雑な心理状態がそこには垣間見られるものなのです。

    では、最後にもう一つ問題です。

    次の文章は、本音でしょうか、それとも冗談でしょうか?

    「わたしって、すごく美人だし、仕事も出来る人だから、いつも周囲の注目の的なのよね。(笑)」

    もう、お判りですよね。

    これは、「本音」です。「わたしって、すごく美人だし」と、普通なら口に出さないような恥ずかしいことを言いながら、最後に(笑)を付けている訳です。これを書いている女性は、「恥ずかしながら、これは真実なのです」と、ほのめかしているのです。

    ですから、こういう文章のメールをもらった時は、「またまた、ご冗談を!」などと返事をしてはいけません。

    彼女は、いたく本気で自分は美人で衆目の的だと信じ込んでいるのですから、そういう時は、ただ黙って温かい目で見つめてあげて下さい。(笑)

    

      続きを読む
タグ :iPad


対話を恐れる人たち・・・・・576

~ 今 日 の 雑 感 ~


対話を恐れる人たち



    最近の日本人の性格は、大きく二つに分けられるようである。

    一つは、六十代、七十代の女性に見られるような『誰かれ構わずに自分の我儘をぶつけ、人の話を一切聞かない自己天下型』。

    もう一つは、団塊の世代の男性によく見られる『波風立てずに自分の思い通りの結果を得たいという、会話拒絶型』である。

    わたしは、このブログでもよく『自己天下型』について書いて来たが、『会話拒絶型』については、あまり触れてこなかった。

    しかし、ある意味厄介なのは、むしろこの『会話拒絶型』の方であるといえるのだ。『自己天下型』は、向こうから攻撃を仕掛けて来るので、こちらとしても反撃のしようがあるのだが、『会話拒絶型』は、こちらの知らないところで勝手に着々と物事を進行させていて、すべて出来あがったあとで、「こういうことになりましたから、よろしくお願いします」と、いきなり事後承諾を迫るのである。

    そのため、大多数の人は、自分に大した影響が及ぶことでもなければ、「しょうがないな・・・・」と、渋々ながら、それを認めざるを得ないのである。

    ところが、世の中は、そう甘いものではない。時には、「どうして、事前に相談しなかったんだ!?そんな重大なことを勝手に決めるんじゃない!!」と、憤慨する人物も現われるのである。

    そういう抗議が出ることも想定しながら、それでも『会話拒絶型』の人たちは、相手の当事者に事前の相談を持ちかけることをしないのは何故なのか?

    それは、要するに、「相談したらきっと反対される」「色々詳しいことを聞かれるのが煩わしい」「意見がバッティングした時、喧嘩になるのが怖い」というような事なかれ主義の逃避心が働くからなのだ。

    「だったら、相手の知らないうちに既成事実を作ってしまい、反論の余地を与えないようにしよう」との姑息極まりない考えで、対話を拒否するのである。

    人と人との気持ちというものは話し合いを重ねる上で、次第に打ち解けて行ったり、理解し合うことも出来るのだが、それまでの過程では、口論も反目もあるのが普通である。

    しかしながら、極端に対人関係における摩擦を嫌うこの世代の男性たちの中には、「相手が黙っていれば儲けもん」といったような、子供じみた考えしか持ち合わせていない者もいるのである。

    実は、先日、こういう考えの男性たちが、ある企画を考え出し、近所の人たちの了解を得ないままに実行しようとしていたことが発覚。

    近所の住人たちから猛抗議を食らってしまった。

    それにより、既に準備していたパンフレットも何もかも最初から作りなおさなくてはならなくなるという事態となったのである。

    事後承諾で済むと思ったのが誤算だった訳で、彼らは近所との対話を免れようとしたことで、大失敗を喫したのである。

    この問題は、これからも尾を引くであろうが、人を相手にする時は、対話を恐れていては何一つ事は運ばないということに、ようやく彼らも気付いたのではないかと考える。

      続きを読む


教員免許・・・・・575

~ 今 日 の 雑 感 ~


教員免許



    わたしには、教員免許取得にまつわる、ちょっと変わったエピソードがある。

    普通-----とはいっても、どういうものが普通なのかは、よく判らないが、大学へ入り、教職課程を履修しようと思う者は、一学年から既にその課程に必要な単位を少しずつ取得して行くのが普通なのだそうだ。

    さもないと、その履修単位があまりに多いので、一度には取りきれなくなってしまうからなのだという。

    そんな訳で、もともと教育学部へ入っている学生は別にして、他の学部や学科で教職を目指そうと思う学生は、自分の専門分野+教員養成課程を履修しなければならなくなるのである。

    よって、勉強も大変になるので、入学から卒業までかけて教職課程を徐々に取って行くという方法が当たり前なのだ。

    わたしは、大学に入学して周囲の友人たちが教職を取り、地道に単位を重ねていた時も、ほとんどそれに興味がなかったので、一人のほほ~んと、一、二年生を過ごしてしまった。

    しかし、三年になる前の春休み、ふと考えた。

    「ちょっと、待てよ。このまま、卒業してしまっても何の資格もなしではもったいないぞ。取れる物は取っておかないと、チャンスは今しかないんだからなァ・・・・」

    そう思い立つと、いても立ってもいられずに、新学期が始まった時、即、大学の教務課へ飛び込んだ。

    「わたし、今年三年なんですけれど、遅ればせながら教職取りたいんです!」

    教務課の係の人の反応は、
 
    「お前は、アホか!?」(ーー;)

    と、いうような目でわたしを見ると、「そんな前例は、ありませんよ」と、にべもない返事だった。

    「でも、出来ないことはありませんよね?」

    「そりゃァ、出来ないことはないけれど、ものすごく大変なことになりますよ。卒業までには授業もかなりの単位数こなさなければならないし、一年生たちの教室で講義を一緒に受けることにもなりますからね。下手をすればあと二年では取れないかもしれませんよ」

    教務課の係の人は、やめた方がいいんじゃないかと言いたげだったが、

    「大丈夫です。わたし、寮生ですから一日中大学内にいるようなものですし、やらせて下さい!」

    そうして、教職課程を取ることに成功した。

    それからというもの、わたしは、ほぼ毎日大学内に入り浸っているような生活になったが、どうせ他にやることもないし、他の学生たちのようにコンパや部活、アルバイトに忙しいということもなかったので、そんな無謀なことをしながらも、案外有意義な学生生活を謳歌していたものである。

    それに、その頃は、『新聲会』という学内文芸誌を発行する会のメンバーの一人にもなっていて、休みの日はその活動にも加わっていた。

    四年生の時の教育実習時には、ちょうど中間試験が重なったために教授にお願いしてレポート提出で乗り切った。

    こうして、「前例がない」とまで言われたにもかかわらず、無茶を承知のたった二年間で取得した教員免許だが、今の今まで実際に活用する機会には巡り合わずにいる。

    でも、その大忙しの学生生活があったからこそ、あの頃は充実していたと振り返ることが出来るのかもしれない。

    人間、若いうちは忙しすぎるくらいでちょうどいいのだ。

    だから、『無駄』だと思うことも、積極的に貪欲に吸収しておくこと----それが大事なのだと思う。

      続きを読む


重い腰を上げさせる方法・・・・・574

~ 今 日 の 雑 感 ~


重い腰を上げさせる方法





    出版社に勤めているあなたは、作家である友人にどうしてもやって欲しいことがあり、それを頼みたいのですが、その友人はただでさえ忙しい身ですから、二つ返事でOKしてくれる訳がないことは判っていました。

    しかし、それでも諦められないあなたは、思い切ってその話を友人に持ち出しました。

    「なあ、おれ、どうしてもお前に今度出版する本の推薦文を書いてもらいたいんだよ。お前、売れっ子作家だから簡単には時間が取れないことも判っているんだけれど、よろしく頼むよ」

    しかし、おそらく、こう言われただけでは、友人だって、とても即座に「ああ、いいよ」とは返事をしません。

    では、こんな時、どんな言葉を付け加えたらいいかといいますと、あなたの台詞の中に、「友情」や「責任」「良識」といった道徳に関係する一言を盛り込むことが大事なのだそうです。

    つまり、相手のモラルを刺激するといった方法が効果的なのです。

    そこで、あえてこういう台詞を付け加えてみます。

    「お前、昔から本当に面倒見のいい奴だったからな」

    「お前の推薦文じゃなければ、編集長も出版にGOサインを出さないとさえ言っているんだよ」

    「お前は、困っている人間を見捨てるような奴じゃないよな」

    こう言われてしまっては、友人もそれでも否とは言えないはずです。

    そして、最後に、こうダメ押しをしておけば、間違いなく友人の重い腰を上げることに成功するはずです。

    「期待しているからな。頼んだぞ」

    

    人間の心理として、きみじゃなければダメなんだ-----と、責任の範囲を特定されることで、さらに断わりにくくなるという要素を持っているのです。

    その上、それが出来なかった場合は、どれほどの損害が起きるかということを具体的に話すことで、相手の中に自分と同じ危機感を植え付けることができるのです。

    そして、相手がその気になり始めた時に大事なことは、相手がどのような行動に出たらいいのかを詳細に想像出来るようなシミュレーションのためのサンプルを、間髪をいれず提供することなのです。

    
    実は、わたしがかつてSBCラジオで使うドラマの脚本を頼まれた時、ディレクターの方が、正にこの手法を使われました。

    「脚本なんか書いたことがありません・・・・」と、二の足を踏むわたしに、その男性ディレクターは、すかさず、ラジオドラマのシナリオ集を数冊テーブルに置いて、「これを見て、こんな風に書いてくれれば充分だから----」と、説得されたのです。

    こちらは、そうか、だったら書けるかな?----と、いう気持ちになり、その仕事を引き受けた経験があるのです。

    相手の重い腰を上げさせて、こちらの意図する仕事を実行させるには、こんな方法を駆使してみるのも一つの手なのです。
    

  続きを読む


福島瑞穂のはったり不発・・・・・573

~ 今 日 の 雑 感 ~


福島瑞穂のはったり不発



    この間、当ブログで「本気かはったりか?」という記事を書きました。

    「はったり」を見せる人は、必ず大勢の面前で、「辞めてやる!」と公言するものなのです。

    つまり、そういう人は、本心では絶対に辞めたくはないと思っているので、もしも、本当に辞めることになるなどとは考えてもいないというのが相場なのです。

    そして、この手を社民党・福島瑞穂党首も使ったのだと思うのです。

    「辺野古の文字が合意文書に書き込まれたら、絶対に閣僚としての署名はしない」

    閣議決定とは、閣僚全員一致が原則だそうですから、元・消費者少子化担当大臣である福島党首がそれに署名しないということは、必然的に閣僚辞任を表明したということになるのです。

    北沢防衛大臣が話していたように、「署名しないというのなら、それはすなわち鳩山内閣の閣僚としての責任を放棄することなのだから、署名するかしないかという前に、閣僚を辞任するのが筋だ」と、いう意見は、むしろ当然のことだと思います。

    にもかかわらず、福島党首の気持ちの中には、「署名しなくても、鳩山さんがわたしを閣僚から外せるわけがない。もし、わたしを外せば、社民党が連立政権から離脱してしまうかもしれないと考えて、絶対、合意文書から辺野古の文字を消してくれるはずだ」と、いう確信に近い楽観があったのではないでしょうか?

    しかしながら、その福島党首の「辞めてやる」という『はったり』は、連立のなんたるか、沖縄問題のなんたるかが実感として理解できていなかった鳩山総理には、まったく通じませんでした。

    『はったり』とは、そこに相手の危機感が伴わなくては機能しない手段なのです。

    が、端から危機感の「危」の文字も持ち合わせていない鳩山さんには、ほとんど通じなかったのです。

    「そうですか・・・・。では、残念ですがお辞め頂きたい」

    そう言われてしまった福島党首の胸の内はいかばかりだったでしょうか?

    「まさか、罷免だなんて、こんなはずじゃァなかった」と、臍(ほぞ)をかんでもあとの祭り。それでも、連立内にだけは留まりたいと思っても、閣僚を出していない連立与党など、未だかつて聞いたこともない訳ですから、結局、ドミノ倒し的に社民党は悲願であった与党からも出て行かざるを得ない破目になってしまうことでしょう。

    福島党首の誤算は、自分が内閣という行政府の一員であり、既に党の国会議員であるという立法府を離れた立場であるということが最後まで理解できなかったところにあるのだと思います。

    筋を通したと、ご本人は弁明するでしょうが、わたしには、ただのわがまま、意地っ張りとしか思えません。

    もしどうしても、日米合意に沿った決定しか選択肢がなかったのならば、ここは、内閣の一員としての職をまっとうし、その上で今後如何にして沖縄の負担を軽減したらよいかを考えるのが彼女の取るべき真の道だったように思います。

    与党を離れた彼女たちにいったい何が出来るでしょうか?

    「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」----国を動かすとは、ある意味自分を捨てるということなのですから。  続きを読む


ブログの縁は異なもの・・・・・572

~ 今 日 の 雑 感 ~


ブログの縁は異なもの



    ブログをやっていて思うことは、世の中には本当に『縁』というものが存在するのだということである。

    世界中でブログを書いていたりまた読んでいる人は、正に星の数ほどもいるであろうが、その中から、一つのブログに行き着き、しかも、そのブログにコメントを書き込み、そのコメントがもとでその後も親しく会話を交わすという間柄となる確率を考えると、気の遠くなるような物だと思うのだ。

    これこそ正に『縁』であり、偶然の中の偶然のなせる技なのだと、今更ながら驚くしかない。

    確かに、ブログを書いていると、不特定多数の大勢の人からコメントをもらい、また、こちらが偶然書き込んだコメントに返事をもらう訳だが、まず、そのブログを開けようと思うこと自体が、既に一つの『縁』である。

    しかしながら、そんないわゆる『縁』の新芽は、必ずしもすべて育つわけではない。

    ブログを開いてはみても、コメントを書こうと思う気持ちになる場合は、それからさらに確率をを狭める。そして、意を決してコメントを書き込んだとしても、返事がもらえなければ、『縁』の新芽はそこで枯れるのだ。

    しかし、そんなコメントに返事が書かれると、細々ではあるが『縁』の糸ができ、芽も少しばかり成長する。

    だが、それだけであとはナシのつぶてということだって、珍しい話ではない。

    それでも、それがきっかけとなって、その後も何くれとお互いにコメントを書きあうことになったとしても、ほんの些細ないさかいがもとで、音信不通になったり、時には敵対関係になることだってある。

    また、わたしの経験上、どれほど親しくコメントをやり取りしていたとしても、どうしても、それ以上に相手の領域に踏み込めなかったり、また踏み込ませなかったり、横やりが入ったりして、交信が途絶してしまうことだってある。

    これもまた、『縁』がなかったということに他ならない。

    ところが、そんなごくごくわずかな確率の中でも、単なる時候のあいさつではなく、単なる褒め合いなどでもない、しっかりとした意見交換が出来、反論したりされたりしたとしても決して切れない『縁』が見付かることもあるものなのだ。

    決して、コメントのやり取りの数ではない。ごく稀にしかコメントをやり取りしない間でも、そういう関係は確かに築くことが出来る。

    それは、おそらくお互いに無理のない関係というべきものなのかもしれない。

    そんな関係が見えた時、『縁は異なもの味なもの』と、いう言葉を実感するのだろうと思うのである。icon22

    

      続きを読む


口蹄疫について・・・・・571

~ 今 日 の 雑 感 ~


口蹄疫について




    宮崎県の東国原知事が絶対に殺処分にして欲しくないと訴えていた種牛の一頭が、既に三日も前から発熱症状を見せていたことが判ったらしい。

    三日前と言えば、口蹄疫のウイルスは、発熱前から拡散するということであるから、もはや、近くに隔離されていた牛にも当然陽性反応が出るものと思われる。

    どうして、管理者はそのことを黙っていたのだろうか?これで、残りの種牛も、すべて殺さなくてはならなくなってしまうに違いない。発熱した直後に国に報告が上がっていれば、まだ対処のしようがあったのではないかと、思うのだが・・・・。

    事態は、最悪の方向へ動きつつあるようだ。


    
    口蹄疫問題について考える時、とかく人間の食のために肉になる場合は可哀そうじゃないが、こんな形で殺処分になるなんて、牛や豚はさぞかし無念だろうというような、如何にももっともらしいことを言う畜産業者もいるが、あんたは、本当に牛や豚の気持ちが判るのか?----と、言いたい。

    牛や豚が、そうしゃべったのか?しゃべったとしたら何語だったんだ?

    わたしは、すぐ、そう突っ込みを入れたくなってしまうのだ。

    よく牛や豚は、人間という食物連鎖の頂点の生き物に食べられる運命だというが、その考え方にもわたしは疑問を持つ。

    食物連鎖を説くならば、畜産業など邪道である。人間は、自分が食べなければ餓死してしまうという時にのみ、自分の分だけの野生の牛や豚を、草原や山へ行って狩るということでしか、その説明を肯定することは出来ないはずなのである。

    動物を飼い、餌を与え増やし、大きく食べごろになったら出荷して屠殺し肉にする。

    これは、決して食物連鎖などではない。

    もしも、それでも食物連鎖を言うのならば、それを食べた人間は死んだら野ざらしにして、その腐肉をカラスがついばみ、そのフンを虫が食べ、再び地球に還元しなければならないはずである。

    つまり、それだけ、人間は家畜に対して非道なことをし続けているのである。

    だからこそ、わたしは思う。

    牛や豚を食べる時、「人間のために死んでくれてありがとう」と、感謝することはいいだろう。そうすることでも、牛や豚は浮かばれもしないが、食べる方の人間の気持ちだけは安心感を得て満足する訳だ。

    だが、可哀そうなどという気持ちだけは持つべきではないのだ。

    自分たちが勝手に命を奪っておきながら、可哀そうなどと思うとは、あまりに傲慢すぎる。あなたがもし家畜の立場なら、あなたを殺した相手から「気の毒に・・・・。可哀そうなことをした」などと言われたら、いったいどう感じるだろうか?

    「ふざけたことをぬかすな!!」と、憤慨するはずである。

    十四万頭以上へのワクチン接種と殺処分をする獣医師の方たちのご苦労は大変なものだろうが、もしかしたらこういうことが起きるだろうことは、獣医師になる時点で覚悟していたはずである。

    何故なら、イギリスなどでは既にそういう事例が報告されている訳で、大学の勉強の中には必ず履修科目として入っているだろうし、また勉強していなければならないことだからだ。

    ただ、問題は、その殺処分をした後の牛や豚の死体を何処で処理するかだろう。

    たぶん、何処かの土地へ埋めるのだろうが、その死体が原因で伝染病などが発生しては元も子もない。

    そのための衛生管理は、しっかりと行なって頂きたいものである。

     

  続きを読む


バカバカしいこと・・・・・570

~ 今 日 の 雑 感 ~


バカバカしいこと


    最近、実に、バカバカしいことが多い。

    人の言葉のあまりの軽さに呆れるばかりなのだ。

    「~する」と、宣言まがいのことまでも聞かせておきながら、その舌の根も乾かぬうちに、臆面もなく前言を撤回する。

    どうでもいいようなことならば、こちらも、「またまた、ご冗談を----」ってな、軽いノリで話を聞いているからいいのだが、こと一番真剣な面持ちで襟を正して「聞いてもらえる?」と、言って来た言葉が、よもや一夜にして覆るなどと、誰が想像するだろうか?

    また、こちらもお節介に同情したり意見を言ったり、相手の話に親身になって首を突っ込んだのが悪いのかもしれないが、こうもあっさり前言撤回されたのでは、まったく立つ瀬がない。

    わたしの担当医が、「死ぬ、死ぬ」と、口にする高齢女性に、「だったら死ねば!!」と、言ったことがあったが、今の時代は、これが正しい答え方なのだろう。

    その医師は、安易に同情などしたら自分がバカを見るだけだと、いうことを十二分に熟知していたのだと思う。

    人のために真剣になることが出来ない時代----それが、今なのだ。

    だから、最近のテレビドラマは、やたらに友情物が多い。

    足元の見えない時代だからこそ、いつであろうと決して自分を裏切らない確証が欲しいのだ。

    みんなそれぞれに一生懸命毎日を生きているのだが、その生き方が必然的に他人を騙すことになってしまうのもこの時代なのだ。

    だから、決して揺るぎのない確かな物が欲しい。しかし、そう言う自分自身が揺らぎに揺らいでいるのだから始末が悪い。

    他人を信じたかったら、まずは、自分を信じさせろ。

    一度口から出した言葉は、自分の信用だと思え。


    もしも、その後撤回する可能性があるものなら、最初から口に出すな。

    自分で結論を出すつもりなら、端から他人に相談するな。

    本当に、バカバカしい話である!



    

      続きを読む


ネクタイの夢を見たら・・・・・569

~ 今 日 の 雑 感 ~


 ネクタイの夢を見たら・・・




    あなたは、ネクタイを締めるのが好きですか?

    わたしは、高校時代の制服がネクタイ着用でしたからそれからというもの、時々ネクタイを締めました。

    (今はまだ、本格的にファッションに興味をもつほど体力が回復していません。おしゃれがしたいとか、痩せたいとか、綺麗になりたいとか、新しい髪形にしたいとか、そういう気持ちになるには、身体も元気でなければならないんですよ。生きていること自体が大変な時は、ファッションなんかに気を使う余裕なんかないんです。これは経験してみれば判ります)

    大学時代は、ネクタイが趣味で様々な色や模様の物を集めていました。

    アスコットタイと呼ばれる紳士物の幅広ネクタイは、防寒用としても重宝でした。

    そんなネクタイですが、これが夢に出て来ると、果たしてどのような意味があるのか調べてみました。

    ネクタイは、肉体的にも社会的にも男性の象徴と言えます。

    もしも、あなたが男性できちんとネクタイを締めていた夢を見たら、それは仕事の成功や地位の向上の前触れだそうです。しかし、あなたが女性でネクタイを締めた夢を見たとしたら、それは男性と対等に仕事がしたいとか、扱われたいという向上心の表れだというのです。

    そして、男性のあなたが、新しいネクタイを買う夢を見たら、仕事に対する意欲が湧き上がり、頑張れば予想以上の結果が期待できる暗示だとも言われているそうです。

    また、男性でも女性でも、あまりに派手なネクタイをしている夢を見た場合は、少し見栄っ張りになっている証しかもしれません。

    あなたが女性で新しいネクタイを買う夢を見たとしたら、新しい恋をしたいと思っている証拠です。でも、あなたに夫や恋人が既にいる時は、これは少々厄介です。今のパートナーに飽き始めているのかもしれません。心の隅では、新しい男性の出現を待ち望んでいる可能性もあるからです。

    もしも、あなたが男性でネクタイが汚れていた夢ならば、それは、自分に自信がない証しであり、その自信のなさは、自分の容姿についてのものなのかもしれません。

    そして、男性のあなたが、ネクタイをなくす夢は、ライバルの出現を暗示していて、下手をすれば相手に足元をすくわれる可能性もあるとのことです。

    ネクタイは、言わば権威や地位の象徴でもあります。

    たとえ夢の中とは言え、ネクタイにこだわり過ぎるということは、会社人間に固執し過ぎている証拠でもありますから、自分の視野をもう少し広げる必要があるように思われます。  続きを読む


最近のファッション・・・・・568

~ 今 日 の 雑 感 ~


最近のファッション



    それにしても、お天気、悪いですね。
   
    まるで、これから冬になろうとしているような鉛色の曇天に、一瞬、季節を勘違いしてしまいます。face07





    わたしが洋服を買うのは、ほとんどがスーパーの洋品コーナーなのだが、最近のファッションはどうも理解不能なのである。

    少し前までの洋服の展示の仕方は、だいたい同じデザインの物が同じ場所にディスプレイされていたものである。

    しかし、今のディスプレイの仕方は、洋服の色や素材は統一されているものの、そこに並べて下げられている服のデザインはまったく違うものなのである。

    おそらく、これらを好きなように組み合わせて着て下さいと、いう趣旨なのであろうが、これをどうやって組み合わせたら服として成り立つのか、どうにも疑問なものが大半なのである。

    それらは、洋服というよりも正に布そのものといったような形だ。

    丈の長いTシャツのような物が並べてあるかと思えば、しかし、そのTシャツの胸の部分は大きく開けられ、これ一枚ではとても着て歩ける代物ではない。そこで、ここへもう一枚Tシャツを組み合わせて重ね着をするようなのである。

    ところが、これだけでは単なるワンピースになってしまい、芸がないらしい。そこで、さらに下半身には中途半端な長さの昔の言い方で言えばスパッツを履くのである。

    とにかく、さまざまなデザインの服が幾つも並べられている中から、自分が気に入った物を何点か組み合わせコーディネイトするらしい。それが、その人の個性になるというのが、最近の服飾デザイナーの作る洋服のコンセプトなのであろう。

    つまり、お客一人一人のセンスがファッションを作り上げるというものであるらしい。

    しかし、寒い間ならともかく、これからの暑い季節に重ね着など好きこのんでする人たちがいるのだろうか?

    それとも、おしゃれのためならばうっとうしさなど我慢できるというのだろうか?

    若い人たちのための洋服ならばそれも判るが、中高年の人たちの着るものまでもが、このような形になっているのであるから、驚くばかりだ。

    わたしがあれこれと洋服を品定めしているすぐ隣で、七十歳ぐらいの女性が、やはりそこにかけられている洋服を手に取りながらこんなことを呟いていた。

    「これ、何処かで見たことがあると思ったら、戦後の浮浪者の格好だよね。今は、こういうのが流行りなんだねェ」

    な~るほど、確かに、そうだと、わたしも内心ようやく合点が行った。

    色や素材こそ統一されてはいるが、何枚も身体に巻き付けることを考えれば、正に浮浪者ファッションである。

    沢尻エリカが着ていたファッションで、ジーンズの膝をわざと擦り切れさせたものがあったが、それを観ていたわたしの父が一言。

    「片方のオボ(膝のこと)だけ覗かせるのが良い訳だ。両方穴を開けたら、本当の物乞いになっちまうんだな。それにしても、頭にデカイ花を飾って白無垢を着たり、そうかと思えばオボの開いたジーパンを履いたり、まるで七変化みたいな娘だな」

    父親世代には、美しいとか格好いいとかを通り越して、単なる変わり者に見えているだけのようである。

    それにしても、洋品コーナーでは何も買う物がなかった。

    こんな流行がいったいいつまで続くのだろうか?

    早く、まともな洋服が店頭に並ぶようになって欲しいと思っているのは、わたしだけではないはずである。   続きを読む


言葉の魔術・・・・・567

~ 今 日 の 雑 感 ~


言葉の魔術


   
    言葉の使い方で人の気持ちは麻痺を起すということは、この間書きました。

    契約をする時に、「では、ここに署名捺印して下さい」などと言えば、契約者は一気に緊張してしまいますが、「さて、書類を書きましょうか」と、いうだけで、その緊張感が緩和できるという例も、言わば『言葉による感覚の麻痺』です。

    そういうことを考えると、病院で医師が患者に病名を告知する時も、ある程度の言い方のテクニックで患者の気持ちを操縦することが可能なのだそうです。

    
   
    たとえば、A医師は、患者にこのように病名を伝えました。

    「大変残念なのですが、あなたは既に糖尿病です。自覚があろうとなかろうと、これは命にかかわる重大な病気です。このまま症状が悪化すれば、合併症を引き起こし、失明したり手足を切断しなければならなくなります」

    片やB医師は、こう診断結果を患者に伝えました。

    「血糖値が高いですが、大丈夫、あとは健康体ですよ。この検査結果なら充分改善も見込めます。まあ、早く診察を受けて正解でした。これからは、食事や運動の指導などもさせて頂きますから、根気よく頑張りましょうね」

    如何ですか?

    断然、B医師の言葉の方が安心感を受けますし、B医師に好感すら懐く患者もいるでしょう。

    しかし、A医師の言葉を聞いた患者は、ショックを受けると同時にA医師に対して敵意さえ感じるかもしれません。

    現に、わたし家の近所の主婦は、内科の担当医に「いくら膝が痛くても、あなたには、これ以上の痛み止めを処方することは出来ません。ただでさえ劇薬を飲んでいるんですから、わたしは、責任負えませんからね」と、言われたことで、院長にこの医師を解雇して欲しいと言いたくなったと、話していました。

    その内科医は、主婦の身体のことを考えて親切心で話したのですが、主婦には「なんて意地悪な医者だ!」としか思えなかったのだそうです。

    まあ、この主婦はかなり体重も多く、医師から常に痩せろと言われ続けてきているのですが、それでもどうしても痩せられないために、そのことでも医師と常にバトル状態だったので、こんな不快感を覚えたのだと思うのですが・・・・。

    太った身体を気にしている女性に、「痩せなさい」は、かなり自尊心を傷つける言葉でもあるようで、これを言われただけでも、この主婦のように怒り出すという人も多いようです。しかし、では、他にどのような言い方があるのでしょうか?

    こういう女性は、もともと意志が弱く、運動嫌いな上に膝痛をかかえ、さらに食欲がセーブできないので太っている訳ですから、あまり生易しい言葉をかけていても効果はないと、その担当医も思っているようなのです。

    昨日も、共同浴場の体重計にのり、「この体重計、絶対に壊れている!!」と、叫んでいました。

    それにしても、一度にまんじゅう10個食いは、いくらなんでもやり過ぎだと思うのですが・・・・。

    そこで、考えました。もしも、わたしが彼女の担当医なら、この主婦にこんな言い方をすると思います。

    「奥さんは、お綺麗なんですから、もう少し体重をコントロールすれば、もっと魅力的になると思いますよ」

    さて、如何でしょうか?
      続きを読む


奇跡と偶然は違う・・・・・566

~ 今 日 の 雑 感 ~


奇跡と偶然は違う



    『奇跡』----ありそうもない不思議な出来事。

    『偶然』----思いがけない予想できない状況で、たまたまそうなること。


    国語辞典には、このように意味が書かれています。

    

    しかし、わたしたちは、とかくこの二つの物を安易に混同しがちです。

    客が大勢入っているレストランで、たまたま一つだけテーブルが空いていたとします。果たして、これは『奇跡』か『偶然』か?

    おそらくは、いえ、間違いなく『偶然』でしょう。

    何故なら、レストランにテーブルや椅子があることは決して不思議なことではありませんし、その中で一席ぐらい空席があったとしても、特別不自然なことではないからです。

    しかし、やたらに自分には『奇跡』が付きまとうと思い込んでいる人にとってみれば、このようなささいな『偶然』さえも、『奇跡』だと言いたくなるようなのです。

    では、『奇跡』とは、いったいどのようなことを言うのでしょうか?

    キリスト教の定義する『奇跡』を起こしたとされる聖職者は、『聖人』と称されるのですが、その人物が成し遂げたことが本当に『奇跡』に値するものかを認定するまでには、相当綿密な検証がなされ、万が一にも『偶然』の入り込む余地がないと確証が得られた場合のみ、その人物は『奇跡』を起こしたと、認められるそうなのです。

    しかし、その認定が決するまでには、長ければ100年もの歳月がかかるのです。

    しかしながら、近年人々の間に起きる『奇跡』は、なんと簡単な物なのでしょうか?

    前日A市で顔を合わせたかつての同級生と、翌日も、今度はB市で出会ったら、それも『奇跡』になってしまうのです。しかし、これは単に『奇遇』でしかないはずなのです。

    さっきまで大雨だったのに、出かけようとした途端にカラリと晴れた。これとて、『偶然』でしょうし、決して、あなたが天気をコントロールしたわけではないでしょう。

    タクシーに乗りたいと思っていた矢先、目の前の道路をタクシーが走って来た。これも、その道路が一般道であれば、まったく不思議なことではないのです。

    では、このタクシーがごく普通の車体構造をしていたにもかかわらず、海の上を時速100キロで走って来たとしたら、これは確かに『奇跡』と呼べるでしょうし、天気に関しても、あなたが何の道具も使わず、自由自在に雨、晴れ、雪、台風などををコントロール出来るのならば、それは一種の『奇跡』かもしれません。

    ですから、『奇跡』は、そうそう容易くその辺りにゴロゴロと転がっているものではないということなのです。

    未来を予想して、それがたまたま的中したからと言って、自分には『奇跡』を起こす力があるなどと、軽率に吹聴しないことです。

    『奇跡』とは、あり得ない時間、あり得ない場所に、あり得ないことが起きた時こそ、そう呼ぶことがわずかに可能となる物なのですから。


  
     

    

        続きを読む


男のおひとり様時代・・・・・565

~ 今 日 の 雑 感 ~


男のおひとり様時代



   
    女とは、本当にどうしようもなくしたたかで計算高い生き物だと思う。

    こんな風に思うのは、わたしがある意味、男でも女でもない思考の範疇にいるからなのかもしれない。

    世の男性たちを見ていても、なんでそんなことが判らないのか?と、思うこともしばしばだが、それ以上に女たちの狡猾さには舌を巻くばかりである。

    自分の方へ周囲の視線を集めたいと思えば、自身の立場など関係がないのだ。とにかく、がむしゃらに目的のために突き進む。そこには、こうあるべきのような世の常識などまったく意味をなさない。

    己の本能の赴くままに突進するのみなのだ。

    彼女たちを見ていると、正に上海事変時の爆弾三勇士を彷彿とさせる。

    しかしながら、表向きだけは体裁を整え、甘言を弄するのだ。

    そんな言葉のまやかしに、男性たちはまんまと乗ってしまう。いや、男性ばかりではない。素直で純粋な心の持ち主たちは、男女にかかわらず簡単に騙されてしまうのだ。

    そして、そういう女たちは、自分の世間的地位や贅沢な暮しを維持するためになら、臆面もなく男性たちの寂しさに付け込んで行く。

    最近、とみに世間を騒がせた三十代女たちの犯行による複数の知人男性失踪事件も、こうした風潮の究極の姿であろうと、思うのだ。

    では、どうして、こんなにも簡単に騙される男性たちが多いのか?

    それは、一言で言って、男性の日常生活における女性依存度があまりに大きすぎるからなのである。

    炊事、洗濯、育児に家計、家事全般を男性が一人で出来れば、これだけの便利な世の中である、正直、女など不要だと思ってもおかしくはない。

    かくいう、わたしの弟などは、「女房など、うっとうしくて、金食い虫で、役立たずのごくつぶしだ」と、言っている。

    男に、経済力も生活力も伴ってさえいれば、女性には子供を産んでもらえばいいだけで、あとは必要などないのだ。

    こういう考え方は、以前は女性がするものだった。

    男は、給料さえ運んでくれればいい。子供が産まれたら用済みだと-----。

    しかし、その言葉は、今、そのまま女たちに向けて、男たちから発せられ始めている。

    そうなれば、これまで以上に晩婚化や少子化は進むだろう。

    これからは、男性にこそ「おひとり様力」は、試される時代が来たのかもしれない。

  続きを読む


口撃のはぐらかし方・・・・・564

~ 今 日 の 雑 感 ~


口撃のはぐらかし方


    「何とかして下さいよ!!〇〇くんがいつも門限を守らないので、こちらにまでとばっちりが来るんです。門限の厳守は連帯責任ですから、あの人一人が帰寮が遅れただけで、わたしたちまで廊下掃除のペナルティーを受けなければならないんですよ」

    大学の寮生たちの中に、このような憤懣を持つ者たちがいて、それを寮長に突き付けたとします。

    こういう時、普通、寮長の答え方は、

    「そうだな、判った。〇〇くんには、わたしから門限を守るように忠告しておこう」

    と、いうものだと思うのですが、寮長の本音は、やはり、こういうことはグループ内で処理してもらいたいというものだとします。そういう場合は、どのような責任回避の言い方をすればいいのでしょうか?

    これには、相手の質問をはぐらかすという方法があるのです。

    そこで、寮長は、こう切り返します。

    「なるほど、確かに、〇〇くんの門限破りは目に余るものがあるな。それで、きみたちは具体的に彼にどうして欲しいのかね?これまでの態度を反省し、謝ってもらいたいのだとしたら、わたしが〇〇くんをここへ連れて来て、きみたちに頭を下げさせようか?」

    ここまで言われてしまえば、それでも、あくまでそうして下さいという者は、ほとんどいないはずです。

    「いや・・・・、そこまでする必要は・・・・。ただ、次からは気を付けて欲しいだけですから・・・・」

    と、寮生たちも一歩退いた態度に変わるはずなのです。

    そうなったところで、寮長は、

    「だったら、一応わたしの方で〇〇くんには注意をしておくが、あとはきみたちで彼を説得しなさい」

    と、持ち込まれた下駄を逆に預け返してしまうことも可能なのです。

    つまり、抗議をはぐらかすには、相手に逆に具体的な方法を考えさせるように仕向けることが肝心なのです。

    「つまり、それは、どういうこと?きみは具体的に何が言いたいの?」

    この一言を相手に返すだけで、相手の怒りを細分化させることになる訳です。そうなれば、相手は返事をするのが面倒くさくなり、「もういいよ」と、抗議をひっこめるか、もしくは、どうしたら責任を取らせることが出来るかを詳細に説明しなければならなくなるため、一時の興奮状態から脱することが出来るのです。

    「あなた、何度言ったら判るの!?ここは、こういうやり方じゃないでしょ」

    上司からこんな叱責を受けた場合も、

    「そうですか?では、ぼくは、ここをこうした方がよかったのでしょうか?どういうやり方が効率的なのか、教えてもらえませんか?飲み込みが悪くてすみません」 

    そう言われた上司は、不承不承ながらやり方をもう一度説明しなければならなくなるので、あなたを叱ることに時間を取られる訳にはいかなくなるのです。

    この『はぐらかし方法』----使い勝手はいいのですが、くれぐれも相手に「はぐらかしている」と、思わせないように使うことが大事なのです。

      続きを読む


わたしは、妻ではありません・・・・・563

~ 今 日 の 雑 感 ~


わたしは、妻ではありませんface02



    
    一昨年、わたしが入院していた時のこと、夜になると病室へ弟がやって来て、身体がよく動かないわたしのためにペットボトル入りのミネラルウォーターを買ってきたり、漫画本を置いて行ったり、汚れものを持ち帰ったりと、色々手伝ってくれていた。

    それも、ほぼ毎日である。

    弟は、身長が183センチもあって体格もいいので、病棟ではなかなか目立っていた。

    同じ病室の高齢の女性などは、弟にカーテンを閉めてもらったりもして、他の入院患者さんたちも弟と気さくに話をしていたものである。

    そんな一人の高齢の女性患者さんのお見舞いに、時々四十代ぐらいの女性が現われていたが、彼女はいつも夕食時に来ては、その患者さんのそばでタッパーに詰めた果物やお惣菜を出しては、患者さんと一緒に食べていた。

    やがて、わたしは退院し、それから二ヶ月ほどしてまた短期の入院をしたのだが、その時も、まだその高齢の女性患者さんはその病室にいて、わたしもまた偶然彼女のそばのベッドになったのである。

    すると、その高齢女性がこう話しかけて来た。

    「この前ここに来ていた若いのね、あれ、うちの嫁さんなんだけれど、あんたのご主人と高校の同学年だったんだよ」

    「はあ・・・・?」

    「ほら、この前あんたの所へ良く来ていた背の高いご主人がいたでしょ。あの人とうちの嫁が高校時代同じ学年だったんだって。それでね、嫁が言うんだけれど、高校の時から背が高くてかっこいい人だなァって思っている女子生徒が何人もいてね・・・・。こういっちゃなんだけど、どうして、あんたみたいな年上と一緒になったのか判らないって言うんだよ。あんた、ご主人と、何処で知り合ったの?」

    わたしは、思わず言葉に窮した。

    何処で知り合ったのかといわれても、それは我が家で、しかも、あいつの方がこちらの同意も得ずに勝手にあとからやって来たのだ。

    しかも、知り合って既に半世紀弱にもなりなんとしている。

    わたしは、この女性がまったくの勘違いをしていたことが判り、

    「あの~、わたしに主人はいませんけれど・・・・」

    と、答えると、女性は不思議そうにこちらを見る。

    「あの大きいのは、わたしの弟なんです」

    わたしが言うと、女性はびっくりした顔で、な~んだ、そうだったの----と、安堵とも拍子抜けともつかない声を出し、

    「それじゃァ、嫁に言っておかなきゃ。てっきり、あんたがあの男の人の奥さんだと思っていて、本当は、自分だってあんたの弟さんと一緒になりたかったみたいなこと言っていたからさ・・・・」

    わたしは、思わず笑いそうになってしまった。

    だって、そのお嫁さんが結婚しているのは、あなたの息子さんでしょう。お嫁さんもお嫁さんなら、この姑さんも姑さんだなと、呆れるばかりであった。

    それにしても、「あんな年上女房」で、悪うございましたね。

    「あんな」----には、どうにも引っかかったが、そのことをあとで弟に話したら、奴は一言、

    「確かに、結婚は、早まったかもしれないな・・・・」

    そうそう、弟の本当のお嫁さんを知ったら、ある意味、なお仰天するかもしれないな。(爆)

  続きを読む


『友愛』ってなんですか?・・・・・562

~ 今 日 の 雑 感 ~


『友愛』ってなんですか?



    鳩山総理が自らの政治理念として掲げる『友愛』の言葉は、かつてのオーストラリア駐日大使と日本女性との間に生まれたクーデンホーフ・カレルギー伯爵が提唱した『同胞愛』から取ったものであるらしい。

    このカレルギー伯爵の言葉を鳩山総理の祖父である故・鳩山一郎氏が『友愛』と訳し、孫がそれを政治理念としているのだという。

    伯爵は、欧州連合(EU )創設の先駆者とも言われており、鳩山総理もこの理想に触発されているものと思われる。

     かつては数百年にわたって戦い続けて来た歴史を持つ敵対国同士であったドイツとフランスが、第二次大戦後、自由な市場主義を否定するソビエト連邦を同じ敵と認識した時、初めて手を結ぶことができたのである。

    そして、それが現在のEUの基礎ともなったのだという。

    鳩山総理は、このドイツとフランスを日本と中国に見立てて、欧州連合ならぬ『東アジア共同体』を打ちたてようと目論んでいるのだそうだ。

    しかし、ドイツとフランスのような経済が同水準の国同士が手を結ぶことは可能であるが、如何に中国が今後世界第二位の経済大国にのし上がるとはいえ、日本との生活水準から量る経済格差は10倍以上にもなる。

    今の時点で、この両国がドイツとフランスのような関係になれるとは到底考えられない。

    それに、アメリカがこの両国が中心となる経済統合に自分も入れて欲しいと言い出すことは必至である。

    また、『東アジア共同体』となれば、各国の通貨もEUにおけるユーロのように統一されることになるだろう。

    そうなった場合、通貨統合の基準を何処にするのかという問題も大きいし、日本の円、中国の元、アメリカのドルも消え、新たな通貨が生まれるということなのである。

    となれば、必然的に共同体加盟国の国民は互いの国を自由に行き来できるようになり、日本国内にも大勢の中国やアメリカ、その他の東アジア諸国の労働者が押し寄せることにもなる。

    しかも、この経済格差のままでそういう状況が続けば、日本経済にとっての打撃は量りしれず、また、職を外国人に奪われる日本国民も黙ってはいないだろう。ただでさえ日本国内には、まだまだ外国人に対して排他的な感情を持つ人々は多い。

    とても、『友愛』などという生易しい言葉で懐柔できるような状況にないことは明白である。

    ある学者は、こう言っているという。

    「日本人は顔はアジア人だが、その生活スタイルと経済の心は欧米人である」と----。

    でも、この『友愛』の理念だが、かつての『大東亜共栄圏』と、何処か似た匂いがすると思うのは、わたしだけであろうか?

      続きを読む
タグ :スズメバチ


はったりを見抜く・・・・・561

~ 今 日 の 雑 感 ~


はったりを見抜く


    
    「こんなに人の意見を聞こうとしない上司のいる会社、いつだってやめてやる!」

    ある男性社員が同僚たちのいる前でこんなことを言ったとしたら、これは「本気」なのか?それとも、ただの「はったり」なのか?

    おそらくは、この男性社員に会社を辞める気持ちなどないものと思えるのだ。

    「はったり」とは、自分が不利な立場のときにわざと有利に見せたり、逆に有利なときに不利に見せたりすることである。

    この男性社員の場合は、「いつだってやめてやる!」とは言っているものの、同僚たちが見ている前でこれを言うということは、明らかに「はったり」の要素が大きいのである。

    本当に辞めたいと思っているのなら、むしろ、誰もいないところで上司と二人だけになる時間を見計らって、その気持ちを伝えるはずなのである。

    「はったり」を使う人は、とかく行動が大げさになるもので、言葉や表情までもがいつもよりもオーバーになるそうなのである。

    たとえば、ポーカーをしているプレーヤーが賭け金を釣り上げて大きく賭けようとする時、弱気を悟られまいと「はったり」を見せて素早く金を出す。しかし、自分に有利な手を持っている時は、あえて弱気を装うように慎重な面持ちでしぶしぶ金を出すような仕草をして見せるものなのだ。

    つまり、反応が極端に早く自信ありげに行動する時は、たいていが実際とは逆の場合があるので、要注意なのである。

    自信満々のことを言う人は、本当は小心者で、反対に気の弱そうな態度を見せる人は、案外、豪胆な面を持っているものなのである。

    故に、何かの交渉の場で、「そんなことならこちらは手を引かせてもらう」とか、「もう、この話し合いはこれ以上は無駄ですね」などという人ほど、決裂させたくはないと思っており、その逆に、「そうですか・・・・。こちらは、もう少し考えてみたかったのですが、残念です」とか、「どうか悪く思わないでくださいね」などという人は、本当に交渉がダメになっても構わないと思っている確率が高いそうなのである。

    こう考えると、人間とは、実に厄介な生き物だと思う。

  続きを読む


日本語は難しい・・・・・560

~ 今 日 の 雑 感 ~


日本語は難しい



    
    わたしの友人は、勤務先の会社が企画したイベントのPRを書いたフライヤーを、色々な施設や商店においてもらおうと思っていました。

    そして、そのフラーヤーは、持ち帰り自由です。

    大勢のお客さまにただで持ち帰り、見て頂きたいという主旨のことを、フライヤーを置いて頂きたい先方に文書で頼みたいのですが、こういう時の良い言葉が思いつきません。

    「このフライヤーを、お店で配布して頂きたいのですが・・・・」

    これでは、お店の人にフライヤーを手に持って配って下さいと、頼むことになってしまいます。ですから、「配布」は却下です。

    「このフライヤーを設置させていただけないでしょうか?」

    でも、これでは、フライヤーがそこから動かせなくなってしまいます。「設置」は、その場に固定化するという意味ですから。

    (もちろん、フライヤーが固定されたボックスなどの中へ入っている場合は、「設置」でもいいと思います)

    では、「置設」ではどうでしょうか?しかし、あまりに堅苦しすぎる言葉ですね。

    そこで、どうにも困り果てて、専門家に訊ねたところ、こういう場合は、「頒布(はんぷ)」が妥当なのではないかという意見でした。

    「頒布」ならば、置いてある物を勝手に持って行ってもらうという意味が加味されます。

    「無料頒布」とすれば、良いということでした。

    このように、日本語は様々な状況で言葉が微妙に異なって来ます。ただの意味だけではなく、その言葉の持つニュアンスで使い方を変えることができるのです。

    つまり、その言葉でしか表現できないというささやかな心象の違いをも含むものが、日本語にはたくさんあります。

    特に、方言に至っては、それこそ数え切れません。

    そんな言葉の微々たる違いをうまく利用しながら、文章を書ければいいのですけれどね。   続きを読む


心理戦を制せよ!・・・・・559

~ 今 日 の 雑 感 ~


心理戦を制せよ!



    わたしの父は、学生時代に剣道をやっていたが、ある時、確実に相手から一本を奪う方法を発見したという。

    試合の時、何度か竹刀を上段に構え即座に下段へ落とす。

    これを二度ほどやってから、再び上段へ構えると、相手は次は必ず胴を狙って来ると感じ、無意識のうちに自分の竹刀をほんのわずかながらもスッと下へ下げるというのである。

    父は、それを見逃さず、相手の隙の出来た喉の部分に突きを入れ、一本を取っていたのだという。
   
    (因みに、父が学生の頃は、子供でも突きを入れることが許されていた)

    まあ、まだそれほど上位の有段者が相手ではなかったので、そのような小手先の技も通じていたのであろうと思うが、これは、紛れもなく『条件付け』により、相手の動きをパターン化したがゆえの勝ち方であるといえる。

    このようなことからも判るように、勝負事には心理戦は重要な武器でもあるのだ。

    それは、相手に対してプレッシャーをかけることにもなり、また、自分自身の気持ちを奮い立たせることにもつながる。

    卓球選手の福原愛ちゃんが、ベストパフォーマンスをした時、大声で「サーッ!!」と、叫ぶ様子をテレビで観た人もいるだろう。あれも、このような心理戦の一つなのである。

    こうして、常に自分の能力を最高の次元にまで高め、ベストコンディションを自覚することで、絶好調の際の自分自身を脳に刻みつけているのである。

    そのため、一流選手たちの中には、自分のパフォーマンスのVTRは、勝った時のものしか観ないという人もいるくらいである。

    こうしておけば、自分の気持ちが乗らない時や壁にぶつかった時など、絶好調の時に受けた一定の刺激を脳に与えると、再びその絶好調時の感覚を取り戻せるわけで、声をあげる、VTRを観るなどの『条件付け』が効果を発揮するのである。

    そこで大切なことは、自分が体調不良などで今はベストコンディションでないと感じた時には、あえて試合をしようとしないことである。不安にかられた状態で試合に臨み負けた場合、それが『条件付け』となってしまう可能性があるからなのだ。

    選手が試合を回避する理由には、そういうメンタルな部分も含まれていることを、意外にわたしたちは知らないのである。

    
    ここで、もう一つ、面白いことを書いておきたい。

    もしも、あなたが誰かと一対一の喧嘩をする時は、その場所の選択を間違えてはならないということである。

    誰しも自分が有利に戦うことの出来る場所というものがある。

    しかし、自分に勝てる自信がない相手と喧嘩をする場合は、知り合いが見ているような場所では恥ずかしさが先立ち、むしろマイナスになってしまうのだ。だから、そういう時には、あなたの知り合いが誰もいないところで戦うべきである。出来れば、あなたと敵以外は人っ子一人いないところの方がいい。

    そうすることで、恥も外聞もなく思い切りやり合うことが出来るのだ。

    反対に、あなたに勝てる自信がある場合は、知り合いたちがいる自身のテリトリーで戦うことを勧める。

    あなたは、身近な友人たちの応援を受けて、ますます力を増し、確実に勝つことが出来るからなのである。

    かの有名な宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘も、わざと遅れて戦いの場へ現われた宮本武蔵に軍配が上がった。これも、武蔵が小次郎の苛立ちを利用しての心理戦がもたらした勝利だと言われている。

    しかしながら、これには裏話があり、実は、武蔵は自分と小次郎以外は誰もいない場所へ小次郎を誘いだすことで、観衆の目を気にすることなく、自分の手配の者たちを島の岩陰にひそませることが可能となり、いざという時は彼らの手を借りようとしていたという説もあるのだ。

    しかも、その時の佐々木小次郎の本当の年齢は七十歳を超えていたそうで、武蔵は、そんな老人相手に決闘をしたことになる。

    こう考えると、二刀流・宮本武蔵の勇壮な伝説も何処までが真実か判らないのだが・・・・。

      続きを読む