買いたい物がない!・・・・・377

~ 今 日 の 雑 感 ~


買いたい物がない(-_-;)



    近頃、スーパーの衣料品売り場へ行っても、「買いたい!」と、思うものがあまりない。

    もう少し若い頃は、衣料品売り場には、わたし好みのジャケットやスカートが山のようにあり、どれを買ったらいいのか、迷いに迷って困ったものである。

    生地もしっかりした物が多く、デザインもシンプルで格好がいいし、とにかく着心地抜群で高級感があった。ジャケットなどは、目移りするほど多種多彩であったし、靴も底が程良い厚さで、今の物とは安定感が違った。

    それが、今のデザインは、どうだろう。重ね着は、まだいいとして、生地の素材の頼りないこと。ナチュラルとか自然派とか言えば聞こえはいいが、それを着ている女性たちを見ても、少しも魅力的に感じないのだ。

    だから、衣料品コーナーにディスプレイされている洋服を見ても、ほとんど触手が動かない。やたらに、体にフィットしているジャケットを着たマネキンの後ろ姿の貧相なことといったら、情けなくなってしまうほどである。

    こういう感覚になったのは、わたしが年を取った証しなのだろうか?-----とも思うが、一概に、そういう訳でもないらしい。

    やはり、二十代の若い女性たちの間にも、「お母さんの学生時代に流行ったファッションの方が綺麗だよね」と、いう声もあると聞く。そういえば、昨年の秋は、やたらにスウェードやベッチン、ベルベット素材のジャケットなどが流行した。

    これは、かつて、わたしたちが若かりし頃に流行ったファッションである。しかし、明らかに、わたしたちの時代の方が高級感は上だった。生地の毛足も長く、上品さがあったように思う。

    冬の定番ブーツにしてもそうである。何処となく、メーカーの意気込みが感じられない。不況の影響が社員の士気にも影響しているのだろうか?「これを売り出すぞ!」と、いうような気迫が商品デザインなどに感じられないのである。

    小手先のアレンジに終始しているようで、そんなメーカーの裏が垣間見られる商品に、魅力的なオーラなど生まれるはずもない。

    そんな訳で、わたしは、一通り売り場を冷やかして歩くが、いつも落胆して帰ることになるのだ。だから、もうしばらくは、これまで持っている衣類の着回しでしのぐこととする。

    そして、春には、「わ~!これ欲しい!」と、つい手が伸びるようなファッションが巷にあふれることを願っている。icon06



    

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介護用ベッド削減の是非・・・・・376

~ 今 日 の 雑 感 ~


介護用ベッド削減の是非



    テレビの国会中継を観ていたら、民主党の長妻厚生労働大臣が、政府は、自民党時代からの政策でもある、病院などの介護用ベッド数を削減する方向を基本方針として、今後も行くつもりだという答弁をしていた。

    つまり、介護は、出来るだけ各家庭で行なうようにして、医療費の削減に努めるということなのである。また、長妻大臣は、人生の終わりを病院で迎えるということよりも、やはり自宅で最期を看取るということを、希望する家族も多いためと、いう理由をあげていた。

    しかし、その一番の背景にあることは、やはり、病院の人手不足ということなのであろう。

    最近、よく問題視されることに、認知症の高齢者をベッドに縛り付けたり、つなぎの衣類を着せたりする、病院や介護施設における徘徊患者の拘束がある

    ベッドに手を縛りつけられた患者が、それをほどこうとして怪我をするという事例も多いと聞く。

    だが、拘束せずにおくと、夜中に勝手にベッドを抜け出して、病院内をさまよい歩いたり、下手をすると、外へ出て行ってしまう患者もいるなど、看護を担当する職員には相当の負担がのしかかることにもなるのだ。

    そういう徘徊患者を追いかけている間に、他の患者の容体が急変したり、点滴が終わったことに気付かずにいたりする事例が起これば、いったい、誰に責任を取ってもらえばいいのであろうか?

    わたしのような一般の患者側の立場からすれば、真っ先に、徘徊患者を病院に預けたままにしている家族に、責任があると考えてしまう。こういう医療事故を最小限にするためにも、これ以上回復の見込みのない患者を、いつまでも病院へ置いておくわけにはいかないという、国の考え方もある意味当然だと思うのである。

    認知症徘徊患者の身体拘束を、出来るだけ無くそうという、「身体拘束廃止」を宣言し、実践している病院や施設も各地にあるそうで、県内にも、県厚生連鹿教湯三才山病院があるというが、そこでは、患者の徘徊の原因となる心の不安を取り除いたり、個々の患者の行動パターンをつかむ、また、センサーなども活用するなどして、徘徊をなくす工夫を施しているそうであるが、それだけの手厚い看護体制が組める病院と、そうでない一般の総合病院とでは、やはり、医療目的にも大きな違いがあるものと考えるのである。

    国にとって、看護や介護にかかる人材の確保と、給料面での制度改正が急務であることは当然であるが、当面の医療崩壊を食い止めるためには、医療事故を防ぐという観点からも、介護用ベッドの削減もやむを得ない処置ではないかとも思うのである。

    認知症の老人に家へ帰ってこられても、家族が困る。拘束でも何でもしていいから、とにかく、病院へ置いておいてくれ。----と、いう声もある一方で、自分の親がベッドに縛り付けられるのは見ていられない。お金を払っている以上、もっと人間らしい扱いをして欲しい。-----と、いう家族の声もある。

    こういう国民の切実な声にどう応えて行けばいいのか?----長妻大臣は、個々のケースをしっかりと精査したうえで自宅へ帰ってもらうか否かを決めるとは言っているが、また、この線引きが難しいのだと、思うのである。  続きを読む


浮腫(むく)み談義・・・・・375

~ 今 日 の 雑 感 ~


浮腫(むく)み談義



    術後、わたしの脚がもの凄く浮腫んでしまったことは、これまでも何度も書きましたが、やはり、この足の浮腫みで困っている人は意外に多いものです。

    それも、普通の立ち仕事での浮腫みとは違い、手術後に浮腫んだきり元に戻らないという人も多いのです。

    そういう人の中には、手術でリンパ節を取り除いてしまったことで、リンパ液の流れが滞り、足や腕が腫れるという人もいます。

    しかし、そうではなく、まったくの原因不明という人もいるようです。

    わたしの場合も、その原因不明の中に入るようですが、近所の主婦にも、そういう原因が判らない浮腫みを、もう既に何十年も抱えて困っている人がいました。

    その主婦も、ある手術のあとからこの浮腫みが始まったそうで、彼女の場合は、特に右脚がひどいのだそうです。そのため、手術の翌日から弾性ストッキングが手放せず、今でも一日中このストッキングをはいているのだとか。

    そして、就寝中は、必ず足の下に座布団を入れて、足を高くして眠るのだといいます。そうすると、朝起きた時は、少し浮腫みが治まっていて、脚も軽いのだそうですが、やはり時間が経つうちに上半身に移動していた体内の水分が下へ降りて来て、再び足の浮腫みが始まり、足首などは、太い棒のようになってしまうそうで、右の脚は正座も出来ないのです。

    しかも、浮腫みがひどい時は、脚がピリピリと痛み、とても不安だと言います。
 
    わたしも、確かに同じ症状です。浮腫みがひどい時は、特にそのピリピリが強くて、脚全体に電気が走るようです。

    これは、皮膚が浮腫みの水分で引き延ばされるために起きる痛さだと思います。しかも、浮腫みは一度体験してしまうと、皮膚の中に水分を蓄える層のような部分が出来てしまい、そこに入り込んだ水は、そう簡単には出て行かないような気もするのです。

    浮腫みの原因は、その人その人で違うため、腎臓の機能が落ちているのか、それとも、心臓に問題があるのか、様々だといいますが、いずれにしても、強引に水分を排出しない方がよいそうです。それは、必ず心臓に負担をかけ、下手をすれば、それが元で死亡することもあるのだと、内科の医師は話していました。

    わたしの経験では、やはり、天然温泉はよいようです。おそらく、家庭風呂よりも水圧があるため、脚の水分を押し上げてくれることと、ミネラル成分に血管を広げる作用や、リンパ液の流れを促進する効能があるのではないかと、推測します。

    そういうことからしますと、最近流行りの「足湯」も、良いのではないでしょうか? 

    わたしも、身体が動かず共同浴場へ入ることが出来ない時は、時々「足湯」へ行きました。それから、やはり、ウォーキングなどの適度な運動も大切ではないかと、感じます。

    あくまでも、わたしの体験からの話ですから、もちろん個人差があるとは思いますが、よろしかったらお試しください。icon06

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朝青龍がキレた訳・・・・・374

~ 今 日 の 雑 感 ~


朝青龍がキレた訳



    元横綱・朝青龍が、一般人のサラリーマンを殴り、一ヶ月の重傷を負わせた理由が、サラリーマンが発した、

    「がんばって下さいね」

    の一言だということが判った。

    朝青龍は、「どうして、おれが、頑張らなくちゃいけないんだ!?おれは、あの程度の対戦相手に勝つために、頑張る必要などない!バカにするな!」と、いう怒りが先に立ち、サラリーマンに暴行を加えてしまったというのが、真相であるらしい。

    わたしたち一般のファンは、普通、スポーツ選手などを激励する時、特別意識もせずに、

    「がんばって下さい!」

    と、言うものである。これは、選手に対する尊敬と応援の言葉として日常使われるものであり、また、これ以外の言葉など考えつかないというのが当たり前だと思いがちだが、わたしは、この間もブログに書いたのだが、この「がんばって!」という言葉ほど、選手たちの気持ちを害する物はないという人もいるのである。

    つまり、選手たちは、これまで、頑張りすぎるほど頑張って、今の成績を得るでになった訳である。この上、何をがんばればいいのか?競技の過酷さやトレーニングの辛さを何も知らない人たちに、気安く「がんばれ!」などと言ってもらいたくはない----と、いうのが、選手たちの本音なのだともいうのである。

    ましてや、自分が最もその世界の頂点に君臨しているのだという、朝青龍のような自尊心の権化には、「がんばれ」の一言は、自分をバカにしていると、受け取られてもいたしかたなかったと思われる。

    しかしながら、だからといって、相手を殴っても構わないなどという理屈にはならない。如何に、酒の席だといっても、だいいち本場所中の夜明けの午前四時に、ベロンベロンになるまで飲み続けていたとあれば、それだけでも引退勧告処分に値するというものである。

    そこへ加えて、凶器ともなり得る力士の拳での一撃である。サラリーマンに助けを求められながら、保護しようとしなかった麻布署の警察官たちの行動も奇妙だが、本来ならば、その場で朝青龍は逮捕されていても何ら不思議ではないだけのことをしでかしているのである。

    わたしも、学生の頃、同じ学年の女性に、「がんばって!」と、言われた時は、確かに、ムカッと来たことはあった。

    彼女もわたしも、同じ勉強をするのである。にもかかわらず、わたしに「がんばれ」ということは、わたしの方が彼女よりも能力が劣っていると思われているのか-----そう考えたのである。

    もしも、彼女がその時、「お互いに頑張ろうよ」と、言っていたなら、状況は全く違うものになっただろうと思う。

    これから、世の中は受験シーズン真っただ中。何気なく激励のつもりで投げかける「がんばって!」の言葉も、これからは安易に口から出せない。

    思いがけぬところで、受験生たちを傷付けてしまっているかもしれないのだから-----。  続きを読む


田中さんが多すぎる・・・・・373

~ 今 日 の 雑 感 ~


田中さんが多すぎる(^_^;)



    中野市内で顔見知りの奥さんに呼び止められました。

    少し立ち話をしていると、わたしたちの横を、一人の制服姿の女子中学生が通り過ぎて行きました。その中学生は、奥さんにお辞儀をして歩いて行ったので、わたしが、「お知り合いですか?」と、訊ねると、

    「ほら、田中△△屋さんへ、最近引っ越して来たお孫さんなのよ」

    「田中△△屋さんて、じゃァ、あのお兄さんの娘さんですか?確か、おばあちゃんは最近亡くなられましたよね」

    「ううん、亡くなっていないよ。死んだのは娘さん-----」

    「ええ?娘さん亡くなったんですか?」

    そんなバカな話はないと、わたしは思いました。だって、そこの家の娘さんとは、数日前共同浴場で顔を合わせているんですから。そのことを奥さんに話すと、

    「そんなはずないよ。娘さん、もう二年も前に亡くなっているから、おばあちゃんが一人暮らしで可哀そうだと、息子さんが奥さんと娘さんを連れて戻って来たんだよ」

    「あ、そうか、それじゃァ、もしかして、その田中さんは、△△屋さんと☓☓屋さんもしているという、田中さんですか」

    「☓☓屋さんは、また別の田中さんだよ。あそこは、うちの娘の仲人さん」

    「そうだったんですか・・・・。ああ、それじゃ、『早そば』のお店ですね?」

    「それは、〇△屋さん。-----ええと、もう一つの方の、△△屋さんと民宿をしているお家で・・・・」

    「ああ、そう言えば、〇〇川に、もう一軒田中さんという△△屋さんがありましたね」

    わたしは、ようやく思い出しました。奥さんは、やれやれ、やっと判ったかという顔で、

    「田中さんって、多いよね。特に、〇〇川には、多いんだよ。田中△△屋さんだけじゃ、判んないよね」

    と、笑います。確かに、お互いの頭の中の「田中さん」が一致するまでに、かなりの時間を食ってしまいました。

    それが判った時には、その女子中学生の姿は、もう何処にもありません。

    それが判ったから、何なのだという話ですが、ご近所同士の他愛もない会話なんて、だいたいこんなもんですよね。face02




    ***  『早そば』-----長野県山ノ内町に昔からある伝統食。大根やキノコを刻んでゆで、そこに水で溶いたそば粉を入れてそばつゆで食べる。農家の主婦が一家で田畑の仕事をしたのち、家へ帰って来てすぐに夕飯の支度をする時など、手間のかかる食事を作っている暇がないため、こうした短時間で出来る郷土食が食べられていた。


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カツ丼は、偉大なり!・・・・・372

~ 今 日 の 雑 感 ~


カツ丼は、偉大なり!



    皆さんは、カツ丼お好きですか?

    わたしは、カツ丼、大好きです。特に、ソース・カツ丼が、昔から大好物なのです。あのちょっと甘辛いウスターソースが程良く滲みたトンカツのおいしいこと。

    カツとご飯との間に敷かれたキャベツの千切りの甘さとも相まって、こんな食べ物を考え出した人は、実に天才だと思います。

    わたしは、この副甲状腺機能亢進症という病気が原因で、何年も前から、食欲がほとんどなくなり、何を食べてもおいしくなく、いつも吐き気があって、食事が取れずに大変でした。

    ところが、不思議なことに、身体がそんな状態でも痩せるということがないのです。つまり、それは、浮腫みだったのですが、そんなことは判らない素人ですから、栄養失調はますます進み、やたらにのどが渇くので、水分ばかり取っていたのです。

    これらは、病気のせいで、血液中に骨から溶けだしたカルシウムが極端に増えたことによる症状で、栄養失調の上に水分ばかりを取り続けた結果、眼球の白目の部分にまで、浮腫みが生じるほどでした。

    しかし、手術が決まっても、あまりの体力のなさに、手術中に突然死-----などということにもなれば大変だと、とにかく、手術までに何かを食べておかなくてはならないと思ったのです。

    ところが、食欲はほとんどありませんし、また、何が食べたいものがあっても、外食する体力は残っていません。母親もいろいろと食事を心配してはくれますが、まったく、食べたいと思わないのです。

    その頃になると、身体は日増しに衰え、ガリガリに痩せ始めました。手足の細さなどは、自分でも気味が悪いくらいです。皮膚は皺だらけになり、自分のことながら、これは、かなりヤバい状態だぞと、自覚し始めました。

    その時、父親が、「もしかしたら、大好きなカツ丼なら食べられるかもしれないな」と、言いだし、近所の飲食店に頼んで、毎日ソース・カツ丼を取ることにしたのです。

    最初は、「豚肉か~~」と、食傷に思ったのですが、これを一口食べて、驚きました。

    おいしいのです!久しぶりに「おいしい」という感覚を味わいました。あれほど、食べたくなかったご飯も、難なく進み、あっという間に間食してしまいました。

    その日から、ほぼ毎日のようにその飲食店から運んでもらうカツ丼を食べ続けました。

    そして、手術を済ませることが出来たのです。

    もちろん、その後も食欲がいきなり回復するということはありませんでしたが、担当医は、

    「とにかく、何でもいいから食べて下さいね。病院の売店で、スパゲティーやパンを買って来てもいいですから、好きなものをたくさん食べて下さい」

    と、言われるので、わたしも、頑張って食べるように努力しました。ある時など、母親が作ったお弁当を運んでもらって食べていると、担当医がやって来て、

    「お、いいですね~、お弁当食べているんですか。まだ、カルシウム不足は解消していませんから、もう少し頑張ってくださいね」

    と、声をかけて行かれることもありました。

    そして、退院した後も、やはり、その飲食店からいつものソース・カツ丼を取りました。久しぶりに食べたカツ丼も、とてもおいしかったです。

    あれから、カツ丼は、あまり食べていませんが、しかし、時々、無性に食べてみたくなります。

    少し大げさに言えば、わたしにとって、カツ丼は、正に、命を繋いでくれた食事だったのかもしれません。

    本当に、カツ丼は、偉大なり!-----です。icon22  続きを読む


安治川親方の造反・・・・・371

~ 今 日 の 雑 感 ~


安治川親方の造反



    心配された犯人探しが行なわれてしまった。

    日本相撲協会の理事選において、8票で貴乃花親方に敗れた大島親方(元大関・旭国)を推薦した立浪一門が、昨日一門会を開き、一門から貴乃花親方に投票した造反者を探し出し、糾弾するという、前代未聞の事態を起こした。

    この理事選挙は、ようやくまっとうな無記名投票で行なわれ、親方たちの真の意志が明白になった歴史的な日であったはずなのだが、やはり、旧態依然たる各親方たちの考え方を根底から立てなおすことには程遠かったようである。

    立浪一門会の席で、今回の理事選において造反したものは誰か?-----の詰問に、宮城野部屋の部屋付き親方である安治川親方(元幕内・光法)が、

    「わたしが貴乃花親方に投票しました」

    と、自ら造反したことを認めた。これを聞いた親方衆は、一斉に激怒。

    「裏切り者!」「一門の恥!」などの罵声や叱声が安治川親方に浴びせられたという。

    安治川親方は、即日深夜、東京・江東区の大嶽部屋で会見に臨み、

    「一門という家族の和を乱してしまったことで、ご迷惑をおかけしました。(責任をとるため)協会を退きます。貴乃花親方の二所一門を飛び出してまでの決意を意気に感じ、この人なら、何かを成し遂げてくれるのではないかと期待したので、一票を投じました。一門には申し訳ないと思いましたし、反省もしていますが、自分のしたことは、考えたうえでの行動ですから、後悔はしていません。今は、清々しい気持ちです。家族も、自分で決めたことだからと、言ってくれています」

    と、神妙な面持ちで心境を語る36歳の青年の顔には、やりきったとの満足感さえにじみ出ていた。

    安治川親方からこの報告を受けた貴乃花親方は、辞職を賭して一票を入れてくれた安治川親方の勇気に感謝の意を表わすとともに、「安治川親方のご家族にも、申し訳ないことをしました」と、語っていた。

    しかし、この一般国民から見る美談も、相撲界をよく知る元小結・龍虎さんに言わせると、この安治川親方の行動は、正に大相撲に対する裏切り行為であり、糾弾されても仕方がない所業だという。つまり、一門の親方が一人でも欠ければ、その分の協会からの配当金が少なくなるだけではなく、諸事万端にわたる待遇面でも、他の一門の後塵を拝することになるというのである。

    そのような屈辱を一門に与えた罪は極めて重いと、龍虎さんは説くのである。
 
    そうした影響もあるのか、ここへ来て、突然、友綱理事(元関脇・魁輝)が、安治川親方に角界からの辞職を思いとどまるように説得したというのである。

    安治川親方は、年寄株を友綱親方から借り受けていたこともあり、説得に応じたとの報道もされている。

    「もし、このまま安治川親方が辞職ということになれば、一門が追い出したということになってしまう」

    と、いう友綱親方の話であるが、もともと、造反した者は一門から去れと、言い出したのは、自分たちだったはずではないのだろうか?結局は、一門の勝手によって、振り回された安治川親方は、もしもこのまま一門に残ったとしても、師匠の宮城野親方(元十両・金親)ともども、冷や飯を食らうことにもなりかねない。

    そうなると、宮城野部屋の横綱・白鵬の処遇にも影響が出てくる可能性すらある。

    今回の貴乃花親方の一門離脱にしても、その後ろには元横綱・大鵬の意向があったとも聞く。

    こうなると、民主党の小沢幹事長の資金管理問題同様、日本相撲協会もますます混迷の度を増すことになる。誰が何処でつながり、誰が最も得をするのか?

    貴乃花親方の意気に感じて造反した安治川親方の気持ちに嘘はないであろうが、まったくの素人のわたし個人の意見としても、如何に大島親方が「気にするな」と、言ったとはいえ、一門に残るのは、安治川親方にとっては針のむしろなのではないかと、懸念するばかりである。face06  続きを読む


共同浴場をなめるなよ!・・・・・370

~ 今 日 の 雑 感~


共同浴場をなめるなよ!(ーー;)



    共同浴場へ入っていると、時々、「何なんだ、こいつら?」と、思うような場面に出くわすことがある。

    温泉場で生まれ育った人間は、だいたいが熱湯(あつゆ)好きである。相当お湯が熱くても、平気な顔で入っているものである。しかも、そういう熱さでないと、入った気がしないという人が多い。

    そんな訳であるから、温泉場育ちに長風呂はいない。たいてい、20分ほどの入浴で上がって行くのが普通である。

    しかし、温泉に慣れていない人たちは、ぬるいお湯にじっくりとつかり、小一時間も湯船に入ったり出たりを繰り返しているものだ。そんな両極端な者たちが一緒になると、決まって一悶着起きることになる。

    温泉場以外から入りに来た観光客などは、まず、湯船の温度に驚き、

    「なに、この熱いの!?水、入れよう」と、いうことになる。まあ、少しぐらいの水は、温泉場育ちも許しはするが、これがいつまでたっても水を入れ続けているとなると、

    「ちょっと、あんた、いい加減にしなさいよ!せっかくの熱いお湯が台無しじゃないの。ここは、あんたの家の風呂じゃないんだよ。少しは、遠慮ってものを考えなさいよ」

    と、一発ガツンとやりこめられてしまうのである。

    また、あまりの大人数で入ってきても、近所の人たちは露骨に迷惑顔をする。

    「一度にこんなに大勢入って来てどうする気?ここは、あんたらの貸し切りじゃないんだよ」

    と、まあ、こんな具合に叱られるのが落ちだが、まだ叱るくらいなら親切な方で、もっとシビアな人は、黙って湯船に入って行き、水を出している水道をいきなり止めてしまい、浴槽のお湯を熱湯のように熱くして、誰も入れないほどにしてしまうようなこともするのである。

    わたしも、つい最近共同浴場で、呆れかえるような見知らぬ親子連れと一緒に入浴する破目になってしまった。

    わたしと同じ女湯には、その家族のお母さんと思える女性がいて、男湯の方には、父親と子供の三人が入っている様子であった。そのうちに、男湯の方で、一人の子供が叫んだ。

    「お母さん、そっちにシャンプーある?あったら、投げて!」

    投げる?----投げるって、この仕切りの壁越しに投げるってことか?あんな大きなシャンプー容器を?

    「うん、あるわよ。お母さんが使ってから、放ってあげるわね」

    バカ親!何言っているんだ!?もしも、投げ上げ損ねて仕切り壁のガラスにでもぶつかったら、どういうことになると思っているんだ!?

    そこでわたしは、その母親に、言った。

    「シャンプー容器を投げるのはやめて下さい。危険ですから。そういうことは、共同浴場ではやらないでください」

    すると、母親は、驚いた様子で、

    「大丈夫ですよ。いつもやっていることですから、うまく投げますよ」

    「そういうことではなく、他に入っている人に失礼だと言っているんです。いつもやっているって、あなた、何処の人なんですか?この近所の人ではないですよね?」

    すると、わたしとその女性の他に入浴していたもう一人の近所の主婦も、

    「ガラスが割れたら、困るからね」

    と、一言苦言を呈してくれた。母親は、何とも面白くないような表情になり、男湯の子供に向かって、叫ぶ。

    「シャンプー投げるの出来ないから、そっちにある石鹸で髪を洗いなさい!」

    「え~~~~~?」

    子供は、不満そうな声をあげたが、こればかりは、我慢してもらうしかない。

    共同浴場は、家庭風呂ではない。親子連れだろうが、友人同士だろうが、我が物顔で入浴されてはたまらない。

    共同浴場を、なめるなよ!face09  続きを読む


被爆地でオリンピック・・・・・369

~ 今 日 の 雑 感 ~


被爆地でオリンピック


    被爆地である広島市と長崎市が、共同での2020年夏季オリンピックの開催地へ立候補を予定していた問題で、長崎市が1月15日にオリンピック招致の断念を表明した。

    当初から、「共同招致など非現実的だ」との指摘はあったが、「共催は、1都市開催を原則とする」という五輪憲章に抵触するという日本オリンピック委員会(JOC )の通告で、やはり、断念せざるを得なかったという。

    わたし個人としては、もしも、広島と長崎の共同開催が出来るなら、それは素晴らしいことではないかと思ったのだが、現実問題として、長崎の被爆者からは、反対意見があがっていたということに、むしろ驚いた。

    広島市では、逆に、五輪招致運動を通して、世界に原爆被害者へ理解が拡大することは望ましいとの声が多いそうであるが、長崎市の被爆者の感情は、これとはまた違うものであるらしい。

    2月に長崎市で開かれる核廃絶のための集会で実行委員長を務める土山秀夫元長崎大学長(84)は、

    「オリンピックはあくまでお祭り。地道な核廃絶の取り組みにはそぐわなかった。断念を決めたのはよかった」と、話したという。

    また、高校生の平和運動などを支援する被爆2世の平野伸人さん(63)は、

    「田上長崎市長の平和運動に対する考えに疑問が残った。実現を本気で考えず、パフォーマンスと考えていたなら責任は重い」と、批判するなど、正直、わたしには、どうしてパフォーマンスが悪いのかが、いま一つ理解できないのである。

    しかし、広島で被爆した、漫画「はだしのゲン」の作者である中沢啓治さん(70)は、

    「2市でやるのは移動も大変で無理じゃないかと思っていたが、世界中の人が広島に来て、被爆の実相、核兵器や戦争の恐ろしさを知って欲しい」と、被爆地での五輪開催を強く望んでいるという。

    テレビなどで報じられているニュースなどを観ても、原爆被害の実態が原爆投下国であるアメリカでは軽く報道されたり、原爆展が中止になったりと、真実が語られていない実情を知れば、どれほどパフォーマンス性が大きくても、まず、真実を世界に発信するためには、オリンピックは格好の宣伝媒体ではないかと思うのである。

    たとえ、広島市にオリンピック招致がならなくても、それまでの長い誘致運動期間を、めいっぱい被爆地の実状広報活動に活用できる訳である。

    世界中で、原爆被害の悲惨さや、核廃絶の重要性を啓蒙するチャンスが得られるのである。

    これほどの好機を逃す手はないと、思うのである。

    わたしの弟も、長野冬季オリンピックを招致するための活動を取材しに、イギリスのバーミンガムまで足を運んだことがある。そこでは、各国のメディアが集う中で、それまではほとんど知名度のなかった長野市の名前を、一夜にして世界の主要都市の一つとして配信することが出来たという。

    オリンピック招致活動とは、それほどの大きな発信力を持っているのである。

    ましてや、実際に開催都市として決定すれば、その絶大な効果は、ご存じの通りである。

    たとえ、長崎市としては共同開催を断念したとはいえ、同じ被爆地として、また、競技会場の一都市として協力する心構えで、ぜひとも、今後も広島市のオリンピック招致活動に加勢して頂きたいものである。

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タグ :七人の親方


わたし、追いかけます!・・・・・368

~ 今 日 の 雑 感 ~


わたし、追いかけます!icon16icon16



    病院の外科外来の待合所の椅子に腰かけていたら、60代ぐらいの一人の女性が、女性看護師さんを呼び止めて、何処か深刻そうな口ぶりで話しかけていた。

    「それ、わたしには、ちょっと・・・・」

    看護師さんは、何故か浮かない顔である。女性は、それでもなお食い下がる。

    「どうしても、ダメ?」

    「ダメか、ダメじゃないか、わたしには、決められないので、担当の先生に直に訊いてみてくれませんか?」

    看護師さんは、困惑した様子で女性を説得している。すると、女性は、

    「だって、あたしからじゃ言いにくいじゃないの。先生を信用していないみたいで・・・・・」

    「でも、〇〇さんから訳を話してもらわないと-----。今日、先生いらっしゃるから、会って行って下さい」

    「え~~~!」

    女性は、如何にも不満顔でその場から立ち去って行った。

    そこへ、別の女性看護師さんが近付いて来て、その困惑顔の看護師さんに声をかける。

    「何か、あった?」

    「それが、〇〇さん、自分を手術して下さった担当の先生が、もうすぐこの病院をやめられるというので、そのあとを追いかけて、自分も別の病院へ移りたいって言うんですよ。新しい先生に診てもらうよりも、これまでの先生の方がいいっていうことで---。だから、そういうことなら、一応、今診て頂いている先生に、そのことを話してから、病院を替わってくださいって、お願いしたんですけれど、自分で言うのは気が引けるからっていうことで------」

    「ああ、そういうこと-----。最近、そういう患者さん、よくいるよね。でも、黙って移られても困るしねェ・・・・」

    もう一人の看護師さんも、溜息をつく。そして、

    「でも、その先生を追いかけて、あっちの病院へ移っても、先生の方がそこもまた異動ということになれば、やっぱり、こちらで診て欲しいって、戻って来ることになるんじゃァないの?それなら、あとのことも考えて、一応、今の先生に話しておいた方がいいと思う」

    「-----ですよね」

    二人の看護師さんは、そう言いながら、仕事へと戻って行った。

    この会話を、わたしの隣に腰かけていた年配の女性も聞いていたらしく、

    「だいたい、最近の医者は、コロコロ替わりすぎるんだよ。少しは、ひとっところに腰を落ち着けようって気にならないのかねェ。まったく、来るたびに担当医の顔が替わっていたんじゃ、患者を診ているんじゃなくて、カルテを診察しているだけじゃないのかって思うよ。あたしだって、もう今の先生で、五人目だよ」

    と、独りごとを言うように話してから、わたしに向かって、

    「お姉さんは、何人目?」

    いきなり振ってきたので、わたしは、慌てて、

    「え~~と、外科だけだと、四人目です。でも、四人目の先生は、一番最初の先生ですから・・・・」

    「へ~~、それは、ラッキーだったね。そんな人、珍しいよ」

    そう感心すると、その年配の女性は、ちょっと怒ったような口ぶりで言った。

    「あたしだって、出来れば、一番最初に診てもらった先生を追いかけて行きたかった」

    

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大相撲協会への雑感・・・・・367

~ 今 日 の 雑 感 ~



大相撲協会への雑感



    貴乃花親方が、理事選に当選した。face08

    二所ノ関部屋一門からの離脱組親方衆7人分の票と、別の一門から流れた3票が加わっての10票で、当選となった。

    貴乃花親方が当選したために、落選したのは、大島親方(元大関・旭国)である。大島親方は、8票で涙を飲んだ。

    そして、二所ノ関部屋一門からも、本来なら一門の候補者へ入るべき1票が消えていることから察して、どうやら、この1票が貴乃花親方へ流れたものと思われる。

    大島親方は、既に62歳。この理事選での当選が、引退への花道となるのではないかと、噂されていたが、この選挙で自席を後輩へ譲る形になった。

    これは、あくまでもわたしの推測だが、大島親方といえば、横綱・朝青龍のモンゴルでのサッカー問題や、巡業ボイコット問題などの諸々の不祥事に対して、最も怒りをあらわにしていた親方でもあった。

    しかし、如何せん、存在が地味で、10人の理事の中ではもっとも大人しい性格の親方でもある。そんな大島親方であるから、もしかしたら、自分の配下の親方衆の票を、わざと貴乃花親方に進呈したということも考えられなくはない。

    つまり、定年間近な自分よりも、若い改革派の貴乃花親方に花を持たせることで、自分がなし得なかった日本相撲協会内の変革を彼に託そうとしているのかもしれない。-----そんな憶測も出来るのである。

    そして、貴乃花親方がもともと所属していた二所ノ関一門からの一人の造反者。つまり、これにより、貴乃花親方の理事入りが決定した訳で、もしも、理事選前に水面下での交渉があったとしたら、貴乃花親方が、自分の理想の大相撲についてはっきりとしたビジョンを発表出来なかった理由も説明が付くのである。

    今回の理事選では、これまで無記名投票とされながら、実際は、投票用紙の記入名を立会人に見せなければならなかったという、まるで検閲投票のようなことをして来たやり方に、文部科学省が苦言を呈したことで、これが改善され、本来の無記名投票が行なわれたことも、大きな意義があった。

    しかし、これは、ほんの入り口にすぎない。貴乃花親方が、本当にこの理事会の中で、自分の理想とする協会像を、何処まで追求できるのかが、一番の問題である。

    一説には、未だに親方衆の中には、この新しい無記名投票のやり方に批判的な人もいるそうで、長い歴史と因習に縛られた大相撲協会を変えることは、並大抵のことではなさそうだ。

    奇しくも、元小結の舞の海秀平さんは、言っている。

    「朝青龍問題にしてもそうですが、日本大相撲を、これまで同様の事なかれ主義を続けて、プロレスのような強ければいいというエンターテイメント興行にするのか、単なる力よりも伝統や日本文化の継承としての形を重んじながらも、新たな境地を開いて行くかは、協会そのものの考え方にゆだねられているのです」

    一般人に暴行を加えておきながら、それを隠ぺいするべく、マネージャーを殴っただけで身内のもめごとだなどという嘘を並べ立てた横綱・朝青龍と高砂親方の言葉をうのみにして、今回も軽い処分で済まそうとしていた武蔵川理事長や横綱審議委員会等の対応の仕方にも、大相撲ファンからは疑念の声が上がっている。

    これらさまざまな問題を、今後、日本相撲協会が何処まで自浄作用を発揮して立てなおすことが出来るのか、ますます目が離せない状況といえよう。icon21  続きを読む


バシバシ主婦・・・・・366

~ 今 日 の 雑 感 ~


バシバシ主婦<(`^´)>



    すごく不思議なのですが、時々、話をする時にやたらに相手の身体をバシバシ叩きながらしゃべる女性っていますよね。

    あれって、いったい何なんでしょうかね~?face03

    親しい意識で叩くのでしょうか?それとも、まったくの無意識なのでしょうか?どちらにしても、叩かれる方は、とんだいい迷惑です。

    だいいち、痛い!

    こういう変な癖を持っている主婦が、わたしの家の近所に約二名ほどいるんですよね。

    一人のおばさんは、たまにスーパーで顔を合わせるのですが、ああ、来たな----と、思うと、素知らぬ顔で通り過ぎようとするのですが、これが、運悪く見付かってしまうと、あとが大変なんです。

    「あれ?お買い物?」と、言ってニコニコ微笑みながらそばへ近付いてきた途端、「ねえ、ねえ、ちよみさんのお家は、今夜は何食べるの?」と、話しかけながら、早くも、こちらの肩をバシバシ叩き始めるのです。

    「もう、うちの奴なんか、あたしが作った物を、こんな物しかないのか?とか、刺身はないのか?とか、文句ばかり付けて、本当に癪に障るから、そんなら、あんたが自分で作ればいいでしょ!って、この前大喧嘩したのよ。男って、勝手なことばかり言って、三度三度ご飯を作る、こっちの身にもなって欲しいわよね」

    と、これだけのことを話しながら、わたしの肩を叩きっぱなしなのです。わたしは、さすがに、身体を避けて、「そうですよね~。奥さんは一生懸命メニューも考えているのにねェ」と、相槌を打つふりをしながら、そこから逃げようとするのですが、

    「もう、本当に腹が立つ!今日は、おかずなんか作らずに、缶詰でも開けておいてやろうかな」

    そういいながら、また、そばまで近寄って来ては、バシバシ叩くのです。こうなると、もはや、癖というよりも、旦那に対するうっ憤晴らしを、わたしに対してやっているようにさえ思えてきます。

    わたしは、「すみません。ちょっと、急ぐので、これで-----」そう言って、ようやく、そこから離れるのですが、その叩き方があまりに力任せなので、あとで叩かれた肩が痛くて困りました。

    ですから、その主婦と会った時は、出来る限りそばへ近付かないようにして、さっさと逃げることにしています。

    また、もう一人の主婦は、たまに、共同浴場で顔を合わせるのですが、わたしが、脱衣所で服を着終わり、さて帰ろうかと、思ったところへ自分も浴室からあがって来て、裸のままで、

    「ちよみさんは、もう、身体の方は痛くないの?」と、訊くので、「そんなことないですよ。まだ、あちこち痛みはあります」と、答えると、

    「おばちゃんはね、ここが痛くて、よく歩けないのよ」

    と、言いながら、自分の股関節辺りではなく、わたしの脚をバシバシ叩くのです。別に、叩く必要はないと思うのですが、ただ、指をさして、この辺りが痛いのよ----と、言えば、済む話なのですが、どうしても、他人の脚を叩きたいようなのです。

    そんなことをしているよりも、さっさと服を着た方がいいと思うのですが、素っ裸で仁王立ちになったまま、延々と、自分の身体の痛さや、どこそこのお医者はいいが、どこそこは腕が悪いなど、長々と話し始めて、こちらは、いつまで経っても帰るタイミングを見つけられないのです。

    他人を叩きながらしゃべる主婦たちが増えているという話は、わたしも知り合いから聞いたことがありますが、ただの噂ではないようです。

    叩きながらしゃべるのは結構ですから、叩くのは、自分の身体だけにして欲しいんですけれどね!!face09

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ブログ記事の責任とは?・・・・・365

~ 今 日 の 雑 感 ~



ブログ記事の責任とは?



    ブログの記事に対して、「ブロガーは責任を持て」という人がいる。

    ブログの責任とは、そもそも何なのであろうか?ブログなどというものは、大概において無責任なルールで成り立つようなものである。だいいち、書いている本人が、実名すら公表する必要がないのである。性別だって、事実かどうか知れたものではない。

    それにもかかわらず、書いている本文には真実のみを書かねばならないとでもいうのであろうか?自分の年齢をごまかしてはいけないのであろうか?実際は持っていない物の話を、空想で書いてはいけないのであろうか?

    自分が現在使っている薬の名前を間違えて書いてもいけないのだろうか?飼っている犬を、猫と書いてもいけないのだろうか?昨日の出来事を、一昨日としてはいけないのだろうか?

    国政に関する情報には、徹底的に調査をしたうえで、実際にその場所まで足を運んだり、インターネットの検索で詳細にデータ収集をした場合でなくては、ブログに記事を書いてはいけないのであろうか?

    個人の考えや意見を尊重して欲しいといいながら、こちらが書いた記事は尊重せずともいいのであろうか?

    責任とは、一体誰に対する責任なのだろうか?

    こちらは、政治評論家のプロではないし、この記事を書いて金銭を頂いている訳でもない。公共の電波を使い、情報を発信している訳ではないし、一個人の素人の提言に、いちいち責任が生じるなど、考えたこともないし、そんなことはあってはならないことである。

    「お前が言いだしたのだから、絶対に実行しろよ」と、こんなプレッシャーをかけられれば、誰がブログなど書くであろうか。

    しかしながら、もしも、こうしてブログを書いている人間が、政府関係者や政治家、また、その道のプロフェッショナルだというのなら、話は別である。何故なら、彼らは、国民の税金からお給料を頂いたり、それが職業であるからだ。ブログを書くにも、ある程度の専門知識や確実な数字も必要だろう。言葉を実行に移す責任もあるだろう。

    しかし、わたしのブログに関しては、そのいずれにも該当しない。

    それに、一つの物事というものは、当事者には大きな問題でも、第三者には、そこまで深刻な問題とは受け止められないこともあるのだ。かつての戦争を体験して辛酸の限りを舐めつくして来たわたしの父親世代に言わせれば、今の国内情勢など、どんな問題が持ち上がっても、春風のようなものだそうである。

    目の前で脳みそを吹き飛ばされて死んでいく友達の身体を踏み越えても生きねばならなかった世代の人間の感覚からすれば、たぶんそんなものなのだろう。

    若い人たちは、一つの物事をすさまじい大事としてとらえるきらいがある。また、そういう感性が人間形成にとってとても大切なことは承知している。それでも、人間にとっては、感覚の順番というものが個人個人違うのである。

    それこそ、北朝鮮問題が最も重要だと思う人もいれば、明日の朝食のおかずの方が最重要課題だと思う人もいるだろう。

    責任を持てという言葉も、その人間が何について最も責任を感じているかで、大きさが変わるのだ。

    いくらブログといえども、読者を欺き金銭などを詐取する意図で、まったくの嘘八百を書き連ねることは、確かに問題があるかもしれないが、それ以外の内容であれば、そこに多少の事実誤認や意識の違いが生じてもやむを得ないのが道理である。

    もしも、まったくまっさらな真実のみを書かねばならないとなれば、ブログなど怖くて誰も書きはしない。

    しかも、インターネットで調べたことが、すべて正しいこととも言えない。人は、社会的立場や、読んだ文献、育った環境などなど、諸々のことで意見も異なるものである。自分が調べたことが真実で、他の人のいうことが真実でないということを言い出せば、それこそ、個人の気持ちをないがしろにしているということに他ならない。

    自分の体験や知識を押し出して、他人の意見を批判することは簡単だが、それよりもまず、他人には他人の考え方があると理解することの方を、もっと勉強するべきではないだろうか。

    ただ、それでも読者に対して責任が生じるとすれば、それは、いったんブログに書いた記事の内容を気が変わったからと言って、安易に変更したり削除したりする行為である。そこに、賛同のコメントが入っていたりする時などは、なおのことである。

    それこそ、読者に対する裏切り行為となるからである。

    一度書いたことにこそ、それを貫く責任が生じると、わたしは思うのである。

    もう一度言うが、意見には、間違いも正解もありはしないのである。

    「自分は、こう思う」という意見を書くことはいいが、「あなたもこう思え」と、記事を書いたブロガーに強要することは、最も避けなければならない非礼だと考える。  続きを読む


大学時代の友人はいいなァ・・・・・363

~ 今 日 の 雑 感 ~



大学時代の友人はいいなァ・・・



    当時、わたしは、自分の症状がよく飲み込めず、手術をしなければならない病気だということは判っていたものの、手術後にどのような状態になるのかも具体的に判らなかったため、とにかく、知識がないことには何も決められないと思い、大学時代からの友人に電話をかけた。

    友人のご主人は医師なので、彼女は、すぐにご主人に連絡を取ってくれて、ご主人は、仕事から帰って来られるなり、即、わたしに連絡をよこして下さった。

    わたしは、自分の症状を話し、手術をした後、身体が元に戻らなくなってしまうのではないかと、不安を打ち明けると、友人のご主人は、「大丈夫だよ。予後は悪くないというから、手術しちゃいなよ」と、諭してくださった。そして、「もし、もっと詳しく知りたいなら、ほら、ちよみさんも覚えていると思うけれど、(大学時代からぼくの友人だった)〇〇が都内の☓☓病院にいるから、彼に話してやるよ」と、親切にアドバイスまでして下さったのだ。

    わたしは、そこまで迷惑をかけては申し訳ないと思い、それは遠慮したが、その一言で、手術をしようと決心が出来た。

    この時ほど、持つべきものは友達だということを、痛感したことはなかった。

    大学時代の友人たちとは、何でも本音で話せる。

    ブログを書いていて嫌な経験をしたり、むかっ腹の立つことがあると、即行、愚痴って憂さを晴らす友人もいる。

    彼女たちは、決して、人ごとのような返事はしない。自分のことのように受け止めて、また、自分の悩みも素直に打ち明けてくれる。大学を卒業してから、もう、かなりの時間が経つが、話をする時は、その時間のギャップは全くなくなるのだ。

    そして、また、大学時代に知り合った他の大学の元学生たちとも、同じように時間を飛び越える会話が可能なのである。

    これが、学生時代を共有した者たちの、言わば、ある種の特権なのかもしれない。

    結婚していても、独身でも、お互いに話をする時の呼び方は、決まって、学生当時のニックネームになってしまう。

    しかし、不思議なことに、高校の同窓生たちとでは、この感覚は生まれないのである。

    「大学時代は、18歳から22歳のこの間に経験することが大事なのだ」と、言った人がいたが、人生には、その経験をするべき時というものが、絶対にあると思う。

    大学なんて、いつ出ても一緒じゃないか-----と、考えがちであるが、それは、違うとわたしは思う。確かに、学問を究めることに年齢制限はないだろう。しかし、感性の最も充実した時期に、体験することと、そうでないのとでは、気持ちの深層でつながることは難しいのではなかろうか。

    真の友人を作るためには、間違いなく時期というものがあると、わたしは、考えるのである。face02  続きを読む


『坂の上の暗雲』・・・・・362

~ 今 日 の 雑 感 ~


『坂の上の暗雲』



    信濃毎日新聞の「今日の視角」というコラム欄に、野田正彰さんの『坂の上の黒雲』というタイトルの文章が掲載されていた。

    野田さんの文章は、いつも、辛口で面白いのだが、これは、「なるぼど」と、頷けるところが多い記事であった。

    わたしは、最近、NHKがどうして『龍馬伝』『坂の上の雲』などのどちらかというと国粋主義的なドラマを打ち出して来たのかがよく判らず、この両ドラマとも、未だに一度も観てはいない。

    しかしながら、この理由が、野田さんのコラムを読んで、はっきりとして来た。

    野田さんは、書いている。

    司馬遼太郎氏は、自書『坂の上の雲』について、「なるべく映画とかテレビとか、そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品であります。うかつに翻訳すると、ミリタリズムを鼓吹しているように誤解されたりする恐れがありますからね」と、語っていたのだという。

    しかも、NHKテレビのETV8 (1986年5月)においてだという。

    にもかかわらず、そのNHKが、今回の放映に踏み切ったのである。作品の舞台となる地元松山市では、11月29日の第一回放送を前にして、市教育長が、私立幼稚園の園児、小、中学校の児童生徒に視聴を呼び掛け、さらに観たあとで家族で語り合うことを求める文書4万2千枚を配布したのだそうである。

    「明治はよかった。日清、日露戦争期の日本人は国際法を守り素晴らしかった」

    こうした日露戦争以前の、「明治の軍人のありようこそが日本人の美学である」というような誤った考え方、いわゆる「司馬史観」が、子供たちに植え付けられようとしていると、野田さんは警戒するのである。

    しかし、松山、今治の市民は、この考え方に断固として異論を唱えているという。

    日本軍は、日清戦争に先立ち、朝鮮民衆を数多く殺害し、朝鮮王宮を占拠し、清国へ戦争を仕掛けたこと。日清戦争時、旅順市民を大量虐殺したこと。----これらは、すべて、防衛戦争などではなく、朝鮮民主化のために計画された戦争であったと、数々の文献をあげて伝えてきたのだという。

    そして、愛媛の市民団体は、NHKに対して、こういう歴史的事実を踏まえて、何故、今、「坂の上の雲」なのかと、質問状を出しているという。

    しかし、NHKは、 これには答えず、「これまでにないスケールのドラマとして描き、現代の日本人に勇気と示唆を与えるものにしたい」と、述べたにとどまったそうである。

    野田さんは、これについても、「いつ、わたしたちが、公共放送に『勇気と示唆』を与えるように頼んだのか?」と、苦言を呈している。

    不況下で自信を失っている現代だからこそ、日清日露の戦争時の日本人の憂国の美学を、もう一度思い出せというつもりなのであろうか?軍服を着て、国を憂えることが、それほど美しいことなのであろうか?

    坂本龍馬の『龍馬伝』にしてもそうである。薩摩と長州を結び付け、徳川幕府を倒したことで、日本は、本当に幸せな国となったのであろうか?わたしには、単に、戦争の仕方を覚え、力を諸外国に鼓舞して見せたいという思い上がりもはなはだしい国になり下がっただけのように思うのである。

    つまり、坂本龍馬は、開国をして海外との貿易を発展させたいという自身の野望のために、善良な日本国民を戦いの犠牲にした張本人なのである。

    司馬遼太郎氏も言っていた。「小説は、嘘を書くものである」と。男たちの自己満足のドラマも、虚構であるからこそ、ロマンティックなのである。

    それを如何にも本当のことのように信じ、それが日本人の理想像なのであると、刷り込ませようとするNHKの姑息なやり方には、野田さんならずとも呆れ返るしかない。

    『坂の上の雲』ならぬ、坂の上には暗雲が垂れこめている可能性もあるのだ。

    よって、これらのドラマを喜んで観ている人々にも、わたしは、声を大にして言いたい。

    「あなたの観ている物語は、あくまでも、作り話なのですから、決して本気にしてはいけませんよ」と-----。diary  続きを読む


外科外来にて・・・・・361

~ 今 日 の 雑 感 ~


外科外来にて・・・・



    今日は、外科の通院日でした。

    今日から、また、担当医が替わります。しかし、新しい先生は、二年前にわたしの手術をして下さった先生でした。

    そうです。以前、ブログに書いた、あのある外科医の話の先生です。また、戻って来られました。

    わたしが外来診察室へ入ると、ニコニコ微笑んで、「ご無沙汰しています」と、挨拶して下さり、わたしも、「お久しぶりです」と、返事をしてから診察になりました。

    これまでの先生たちは、わたしの正面から両手の親指で首をゴニョゴニョと、触ります。でも、この先生は、必ず後ろに回り、背後から手をまわして触診するのです。

    同じ科目の医師でも、それぞれにやり方があるようで、「ちょっと、気持ち悪いけれど、ごめんなさい」と、言いながら診察するのです。

    そして、「階段の上り下りはどうですか?」「初めて診察にみえた時は、大変でしたよね」などと、二年前にわたしと話をしていた事柄を、細かく覚えていてくださって、そんな雑談めいたことまでもカルテに記録されているはずもなく、驚きました。

    そして、わたしは、さらに発見したのです。その先生が着ている白衣を見た瞬間、

    (これは、もしかして、あの時にわたしと会話をしたことを覚えていらしたのかな・・・・?)

    と-----。

    それは、わたしの手術が終わった二日後ぐらいのことです。先生は、いつも丈の短い半袖の白衣を着ておられたので、「白衣は、毎日、どうやって選択しているんですか?丈の長い白衣は、着られないんですか?」と、訊ねたところ、

    「洗濯は、千曲川でやっているんですよ。でも、袖のネームが恥ずかしくてね」と、冗談をおっしゃり、翌日、初めて丈の長い白衣を着て来て下さったのです。

    その時のことを再現するように、今日の診察には、丈の長い白衣を着ていらしたのです。しかも、袖には、しっかりとネーム入り。

    (ああ、これも覚えていて下さったんだな・・・・)と、わたしは思いました。

    でも、それについて先生は何もおっしゃいません。わたしも何も訊きません。看護師さんがそばにいますから、もちろん、余計な世間話などは出来ませんし・・・・。

    ただ、暗黙のうちにお互いに了解出来ている。-----そんな雰囲気って、何となくいいですよね。とても、安心できます。

    「では、今日はこのあと採血してお帰り下さい。また、次回お会いしましょう」

    「ありがとうございました。また、よろしくお願いします」

    そう挨拶を交わし、診察室をあとにしました。

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ピンチをチャンスに!・・・・・360

~ 今 日 の 雑 感 ~


icon22ピンチをチャンスに!icon22



    父が、共同浴場(外湯)で、ちょっと、面白い話を聞いて来た。

    父が、お風呂に入っていたら、あとから30代ぐらいの青年が一人入って来て、挨拶をしたのだという。

    顔を見たことがない青年だったので、「何処の人かね?」と、父が訊ねると、近所の息子さんで、大学卒業と同時に東京都内で就職をし、結婚したので、実家へ帰って来たのは久しぶりだと話したそうである。

    そういえば、そんな男の子がいたなァと、思いながら一緒に湯船につかっていると、その青年は、

    「ぼくの会社も今は不況で大変なんですが、こちらも観光客が少なくなっているそうですね」と、言うので、そこで、父は、

    「お兄さんは、会社で何をしているんだね?」

    「営業です。これでも、最近、課長になりました」

    父は、驚いて、そんな若さで課長とは、出世だねェと、褒めると、青年は、少々困った顔つきになり、

    「それで、最近まで、社内で大変な目にあっていたんですよ」と、答えたそうである。そして、こんなことを話し出した。

    青年が、あまりに早く出世したので、周りの同僚社員たちから嫉妬の嫌がらせを受け始め、提出書類をわざと遅らせるとか、訪問を頼んだ得意先を抜かして回るとか、また、そういう仲間たちが寄ると触ると、露骨に青年の悪口を言い合っているということも、部下の噂で耳にするなど、腹の立つことばかりが続いていたというのである。

    そこで、青年も、そういう元同僚には、重要な仕事を割り振らずに、別の部下にやらせたりと、色々策を講じて来たのだというのだが、こともあろうに、その嫌がらせを続けていた元同僚たちが、青年の追い落としを企み、「あんな上司の元では働けない」と、社長に直談判したというのである。

    青年のところには、この年末に社長から呼び出しがかかり、事の経緯を説明するようにと言われたので、彼は、社長と話が出来る機会などそうそう滅多にあるものではないと、逆に、このピンチを利用して、これまでの彼らの悪意に満ちた行為を、洗いざらい報告したのだという。

    すると、これを聞いた社長は、「まさか、そんなことが社内で横行していたなどとは知らなかった、それでは、業務の遂行にも差し支える」と、仰天し、

    「きみは、これまで通り仕事をしてくれたまえ。きみに嫌がらせをしている連中のことは、今後わたしの方でも総務に頼んで、監視の目が届くようにする」

    と、約束してくれたのだそうである。

    青年は、「あの連中が、社長に文句を言いに行かなければ、自分たちのやっていることもバレずに済んだんですがね。『人をのろわば穴二つ』って、ことですよね」と、笑った。

    父も、これを聞いて、「正に、災い転じて福-----だね」と、言うと、

    「世の中、ピンチをチャンスに変えることが出来る場面て、意外にあるもんなんですよね・・・・」

    青年は、何処かさっぱりとした表情で、しみじみと呟いたという。


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文章から読みとる力・・・・・359

~ 今 日 の 雑 感 ~


文章から読みとる力



    携帯電話のメールなどの短文交流が日常化している現代人は、とかく、文章から相手の気持ちを読みとることが苦手だと言われて久しい。

    文章の中にどれほど絵文字を使っても、それで、書き手の気持ちがすべて表すことが出来る訳ではないのである。

    特に、書き言葉には、どうしても個人の能力の差が現われるために、的確に自分の気持ちを伝えきれない部分も出てくる。本当は、そんなことを言いたい訳ではないのに、どうして、判ってもらえないのか?などということも良く聞く話である。

    しかも、相手の顔を思い浮かべながら読む文章と、まったく顔を知らない相手の文章を読むというのでは、自ずから文章に対する反応も変わって来ることは否めない。

    たとえば、よく顔を見知っている相手が書いた砕け言葉は、「あ~、また、こいつふざけてら」ぐらいに感じても、見ず知らずの相手が書いたタメ口は、単に暴言としか受け取れないのと同じで、文字の上でのコミュニケーションには、現実生活の何倍もの想像力が必要となるのである。

    しかし、近頃の人たちの想像力は、読書を趣味としていた時代の人々に比べて極端に衰えているため、書かれた言葉を文字の通りにしか把握できず、その裏にある相手の真意が読みとれないのである。

    そのために、こちらが意図しないところでキレたり、悪意を育ててしまったりと、無用のトラブルを起こすもとになったりもするのである。また、逆に、相手が善意で書き込んだ言葉でも、そのたびに、敵意をあらわにする文章を返してくるという癖の人もいる。それが、ある時は、上から目線のからかい言葉であったり、常に反対意見ばかりを連ねてくる人さえいるのである。

    反対意見を述べれば、自分は、理知的に見えるだろうと、思っているのかもしれないが、それは、実に大人げない勘違いとしか言いようがない。大人ならば、相手が思い違いなどをしないように、むしろ、噛み砕いたやさしい言葉で丁寧に返答するべきなのである。

    フリージャーナリストの内山二郎さん(66)は、「若者は、独りで外国旅行に行くべきだ」と、説いている。

    日本人の友人ばかりの中で、黙っていても相手に気持ちが通じるものだと思う安直な習慣を、一度リセットし、自分の言葉できっちりと気持ちを伝えることが出来なければ、生き残れない環境に身を投じてみることが、コミュニケーション能力を磨くためには大事だと、言うのである。

    自分の感情ばかりを一方的に相手に押し付けるのではなく、他者の感情にも配慮を怠らない。-----そんな大人の対応が出来てこそ、人は人としての価値があるのではないだろうか。

    現代人は、とかく、嫌なら嫌と突っぱねておけばそれでいいという自己本位型の短絡主義に走る傾向が強いが、そういう人間関係がいったいいつまで続けられると思うのであろうか?(ただ、わたしの場合は、体調のこともあるので、出来るだけ『負』のエネルギーを発散する者には近付かないようにしている)

    若くて健康なうちは、それでもすむであろうが、高齢者となり、足腰が弱くなった時にも、果たしてそういうことが言い続けられるであろうか?嫌でも、笑顔を作り、介護者のお世話にならなければならない時は必ず来るのである。

    将来、誰にも相手にされない孤独な老人にならないためにも、修行だと思って、たとえ携帯メールの世界でも、相手の文章の裏を想像できる力を養うべきではないだろうか。icon01  続きを読む


「和解」という言葉の解釈・・・・・358

~ 今 日 の 雑 感 ~


「和解」という言葉の解釈



    先日、信濃毎日新聞を読んでいたら、興味深い寄稿文が掲載されていた。

    1月15日付の野田正彰さんのコラム・今日の視点「『花岡和解』から10年」に対する弁護士・内田正敏さんの反論文である。

    内田弁護士は、花岡事件、西松建設事件和解の中国人受難者側代理人弁護士である。

    ここでは、花岡事件そのものについて述べることはしないので、興味がある方はご自身でお調べいただきたい。

    野田さんは、この花岡和解には鹿島建設の謝罪がないというコラムを書いたのであるが内田弁護士は、「中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは、閣議決定に基づく強制連行・強制労働に起因する歴史的事実であり、鹿島建設株式会社は、これを事実として認め、企業としてもその責任があると認識し、当該中国人およびその遺族に深甚な謝罪の意を表明する」と、共同発表がなされているので、謝罪はされているのであり、和解は、受難者を含む日本と中国との関係者の間で全員の賛成によって成立しているのであると、言うのである。

    野田さんのコラムに事実に反する記述があるのは、野田さんが、和解に批判的な中国人の主張にだけ耳を傾け、和解を支持している他の多くの中国人の存在をことさら無視しているからで、このような姿勢は、日中間の溝を深めるだけだと、内田弁護士は、説くのである。

    わたしが、この二つの主張を読ませて頂いて思うことは、「和解」という言葉が、その事件の関係者たちそれぞれにとって、どれほどの意味を持つのかという疑問であった。

    内田弁護士は、西松建設中国人強制・労働事件では、連行受難者と日本側の総意の上で「和解」は成立しており、和解成立後は西松建設代理人と受難者側の双方間で「今日からは友人だ」と握手まで交わしていると言い、しかし、野田さんは、それは、表面上のことだけで、実際の人間の気持ちは、それほど単純なものではないと、言うのである。

    つまり、内田弁護士は、長年の双方の考え方の中の最も根本をまとめて、それを「和解」と、しているのであるが、野田さんは、末端で、それでも本心は納得していないという受難者の声を代弁しているのだと思うのである。

    ここには、法律的な「和解」と、精神的な「和解」の対立があるように思えるのだ。

    わたしは、受難者側からすれば、本当に心底から鹿島建設や西松建設を許そうなどと思う人はいないのではないかと思う。恨みはあるが、ここは、涙を飲んで握手をするしかないと、考えている人たちもいるのではないだろうか。

    そのために、やはり、受難者やその関係者たちが一個人の立場に戻れば、どうしても、「あんなものは、謝罪のうちには入らない」と、いう言葉もつい口から出てしまうのであろうと、推測する。

    野田さんは、そのことをコラムで訴えようとしていたのではないかと、思うのである。

    「和解」と、いう言葉の解釈は、実に単純ではない。その複雑性が、未だに中国人と日本人の心の溝を埋められない原因の一つなのではないかと考える。face06  続きを読む


子供の虐待は、なぜ起きるのか?・・・・・356

~ 今 日 の 雑 感 ~


子供の虐待は、
なぜ起きるのか?



    近年、新聞紙上では、小さな子供に対する親の虐待事件がたびたび報じられている。

    ご飯を食べるのが遅いと、親に殴られ続けて亡くなった子供の場合は、子供の身体の腫れやアザに気が付いた近所の歯科医師が、自治体に報告し、その後学校側に報告されて、昨年には、既に虐待が発覚していたという。

    にもかかわらず、この子供は、その後も親元から引き離されることがなく、虐待は続き、死亡するに至った。

    しかしながら、わたしは、ここで、そういう個々の事例を取り上げて解説するつもりはない。

    親に殴られながらも、何とか生き延びて大人になった者は、多いのである。また、そういう大人が再び我が子を虐待するという虐待の連鎖が多いことも、事実である。

    殴って判らせようとする親に育てられた子供は、理屈で相手を攻撃しようとはしない。結局、また、手っ取り早く暴力をふるうのである。そうして育った子供は、暴力や放任ということに対して、やられて当たり前、殴らなければ我慢が出来ない----と、いう精神構造が出来上がってしまっているのである。

    これは、心理療法士のカウンセリングを受けるべきだなどという生易しいことで解決できる問題ではないのである。

    子供に手をあげなくては気持ちが治まらないという親は、ただ、目の前にいるのが弱く抵抗の出来ない子供だから、仕返しされることがないという安心感から暴力をふるったり、逆に食事を与えなかったりと虐待を繰り返すので、彼らの本当の気持ちは、子供ではなく、自分を虐待し続けてきた親を殴りたいのであり、自分の存在を認めてくれない社会の大人たちを殴りたいのである。

    そこに、子供の虐待に走る、親の本音が隠れているのである。

    なぜならば、世間一般の大人たちを眺めれば一目瞭然だが、何処の世界にもイジメは存在する。三人寄れば、必ずと言っていいほど、一人が仲間外れにされる。

    グループの中でも、誰か一人をターゲットに決めて、その人間を仲間外れにして楽しむことで、自分たちの存在理由を確かめようとすることなどの延長線上に、この我が子虐待もあるのだ。

    これは、何も、珍しいことなどではないし、誰かを虐待したいという気持ちは、ほとんどの大人の中に、大なり小なり必ず存在する感情なのである。それが、我が子に向くか、たまたま、家族の外の他人に向くかの違いだけで、ほとんどやっていることは大差がない。

    であるから、虐待する親をカウンセリングなどしても、まったく、無意味なのである。それよりも、虐待があると判ったら、親の感情など関係なく、公的立場の人間が、強制的に子供を親から引き離すべきなのである。

    わたしの個人的な考えとしては、そういう親には、彼らが子供にしたと同じ仕打ちをしてやる方が、身に沁みて自分のしたことの卑劣さを自覚できると思うのだが、そういう法律がない以上、親は確実にしかるべき刑に服させることが妥当だと考える。

    そして、そういう刑事裁判にこそ、裁判員裁判が必要なのではないかと思うのである。

    一般庶民の感覚で加害者である親を裁くことが、虐待を防止するための有効な手段の一つともなり得るのではなかろうか。

    ただ、そうして保護施設へ収容された子供たちが、また、施設内での職員から虐待を受けるケースも少なくないらしい。このような二重虐待が決して起きないように、政府は、殊に手厚い養育体制を充実させる必要があるものと考える。


 
    ***   幼児や児童虐待は、歯科医師が発見するケースが増えてきているという。歯科医師は、幼稚園や小、中学校などでの歯科検診を行なう際に、特に虫歯の多い子供を発見することがあるが、そういう子供は、家庭内で虐待を受けている可能性が高いという報告もある。  続きを読む