アクセス数の驚異的伸びの裏側・・・・・245

~ 今 日 の 雑 感 ~


アクセス数の驚異的伸びの裏側



    皆さんも既にお気付きのことと思いますが、最近、ナガブロ内で、異常なブログ訪問アクセス数が叩きだされるという現象が、あちらこちらのブログで起きています。

    誰かのいたずら?それとも、ブログを頑張って書いている人へのご褒美?いやいや、何かのゲームに使われているのか?------様々な憶測を呼んでいるようですが、どうやら、そういうことでもないようなのです。

    わたしも、詳しいことはよく判らないのですが、この一時的アクセス数の驚異的な伸びの裏には、「検索エンジン」なるものの存在が影響しているそうなのです。

    この「検索エンジン」とは、インターネットで公開されている情報を、キーワードを使って検索できるWebサイトのことで、サーチエンジンというものが、情報の全文を蓄えていて、専用プログラムで自動的に情報収集をし、キーワードによって検索する「全文検索型(ロボット型)」と、人の手でカテゴリー別に分類、登録される「ディレクトリー型」の2種類に大きく分けられているのだそうです。

    日本の検索エンジンの「全文検索型(ロボット型)」では、Googleやgooなどが有名で、「ディレクトリー型」としては、Yahoo! JAPANが有名だということです。

    また、Yahoo! の場合は、検索エンジンに登録しないと検索しないそうですし、ホームページを審査して登録するかしないかを決めるようです。Google は、登録しなくても、ランダムにロボット型のサーチが流れているので、自動的に検索が可能となっているようです。

    そして、この一時的にアクセス数が驚異的な伸びを見せるというからくりですが、どうやら、このロボット型の検索エンジンに原因があるようなのです。このロボット型サーチエンジンは、大量の登録ID を持っていて、これがあちらこちらのブログを勝手に閲覧してまわり、検索キーワードを探し集めているのだとか。

    ですから、このロボット型サーチエンジンが立ち寄ったブログは、一度に何百人もの閲覧者が集中したと同じ現象を、訪問アクセス・カウンターに反映してしまうのだというのです。

    つまり、そういう場合、あなたのブログを読んでいるのは、人ではなく、ロボットなのです。ですから、もちろん、コメントなどは残しませんよね。(笑)

    「おれ、ここしばらくは、ブログ更新していないのに、何で、こんなに訪問者が多かったんだろう?」

    「いつもは、20人そこそこの訪問アクセスしかないのに、今日は、200もあった。気持ち悪い~」

    「今まではアクセス・ランキングの150番目にも入っていないのに、今日はいきなり15位?!異状だよ」

    そんな驚きの声が、ブロガーの中から聞こえたら、おそらく、このロボット君の仕業ではないでしょうか?

    しかし、訪問アクセス数があまり伸びていないのに、閲覧回数の延べアクセス数であるPV が増えている場合がありますよね。これは、一人の人が、何回もあなたのブログを読んでいるということだと思うのです。つまり、あなたのブログのファンがいる訳ですね。まあ、中には、ファンではなく、ブログのあらさがしを楽しんでいるという、デバカメや下心人間もいるのかもしれませんが。

    とにかく、いきなりの訪問アクセス数増加の裏には、こういったからくりもある訳で、あまり、安直に一喜一憂しない方が賢明かもしれません。

    え?-----たとえ、ロボット君でもいいから閲覧してもらいたい?そうですね。あまりアクセス数が少ないと、そんな風に思う時もありますね。

    そんな時は、ちょっと感想でも書き残して行ってくれるといいんですけれどね~。 

    「キョウノブログ  トテモ  オモシロカッタデス  マタ  ヨルネ」

    な~んて、ネ!icon06  続きを読む


自分の性格・・・・・244

~ 今 日 の 雑 感 ~


face04自分の性格face03



    自分の性格を分析すれば、とにかく何でも白黒つけなくては気がすまないということ。物事を気長に待つことが苦手でもある。

    特に、人間に幻滅して身をひく時は、自然とフェードアウトすることは、たぶんない。必ず、相手にどうして消えるかというしっかりとした理由を宣言してからでないと、消えることはできないのだ。

    こちらが消えるということは、相手にもそれなりの非がある訳だから、それをきっちりと認識させてやらねば気がおさまらない。「最近、あの人見えないね。どうしたのかな?」などという、身勝手な寝言をほざかせることなど絶対にしない。icon09

    こちらが腹を切る時は、確実に相手の首も落とす。それが、武士の心得だと信じている。正に、赤穂義士の心構えである。(いつから四十七士になったんだろう?ま、いいや・・・・)あるブロガーが、嫌なら自然に消えろというようなことを言ったが、とんでもない、そんな面白くないことが出来る訳がない。

    もしも、日本が沈没する時は、地球そのものを破壊する時だとさえ思っているわたしだ。そんなしおらしい真似が出来る訳がない。それこそ、わたしの性格を誤解しているというものだ。

    それに加え、わたしは、ものすごく気が短い。結論が早く出ないと気がすまない。O型人間は大らかで悠長だなどという世間一般の認識は、少なくともわたしには当てはまらない。ここのところは、織田信長の気持ちがよく判る。icon22

    八ッ場ダムなどの問題にしてもそうだが、どうして、説明すれば判るなどという安直なことを役人は考えるのだろうか?ダムを造れといっている人に、どれほど造る必要はないなどと話したところで、決して判ってくれる訳がないことなど、最初から明々白々である。Aを支持する人間の頭に、Bの入る余地などないことは、火を見るよりも明らかではないか。

    よく、説得したら判ってくれたなどという人がいるが、それは、判ってくれた方の人間の心の中に、わずかでも迷いがあった場合のみに通用する手法である。そういう迷いを持っている人は、説得などしなくても、いつかは同様の判断を下すものなのだ。時間が経てば、考えも変わるなどということは、普通の場合ほとんどあり得ない。

    だから、わたしは、二股人間が大嫌いなのだ。正直、まったく信用が置けない。

    顔ではニコニコ笑いながら、わたしの左の手は、腰の大刀の鯉口を切っていることを忘れて頂いては困る。icon23 



 


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ホテルは、葬式も出せない・・・・・243

~ 今 日 の 雑 感 ~


ホテルは、葬式も出せないface07



    知り合いのホテルの大女将が亡くなった。

    しかし、お通夜も告別式も、ホテルではやらないという。すべて、遠くのセレモニーセンターで行うとの連絡があった。

    我が家も立ち悔やみぐらいは行かなくては義理が果たせないということで、香典を用意していたのだが、お通夜がホテルではなく別の場所で行われるということだったので、お通夜と告別式のあとで直にホテルまで届けることにした。

    わたしの父が一応黒の上下を着て、そのホテルへ赴いた時、応対に出たホテルのご主人と奥さんが、少し慌てるようにして父を別の部屋へ招き入れた。

    父が、二人に香典を渡し、どうして、こんなに大きなホテルなのに、ここから大女将を送り出さなかったのかと、訊ねたところ、息子であるご主人が、こんなことを話してくれたのだという。

    今から十年程前、先代の社長であるご主人の父親が亡くなった時、ホテルでお通夜を行うべく、一つ広間を通夜の席に取り、近所の人たちにお悔やみに来てもらったのだという。

    ところが、結婚式などの慶事と違って、弔事は突然やって来るもので、もちろんその日もホテルには宿泊客が大勢いたのだそうである。すると、その客の中の一人が、突然フロントまでやって来て、

    「さっきから、線香の匂いはして来るし、喪服を着た人たちは出入りするし、このホテルは、葬式でもやっているのか!?自分たちは、楽しい気分で旅を満喫しようと思っているのに、葬式とぶつかるなんて、縁起が悪い。別のホテルに移りたいので連絡をしてくれ」

    と、言ったのだそうである。ご主人は平謝りに謝って、そのお客のために別のホテルを紹介したのだという。

    すると、父が、そういうことなら、ホテルで葬儀をするために、予約が入っている宿泊客たちを違う旅館やホテルへ割り振ればいいんじゃないのか?-----と、いったところ、ご主人は、そういうこととなると、今度はその理由を客に説明しなければならなくなり、やはり、問題が生じるのだと、説明したという。

    確かに、わたしが宿泊客の立場でも、いきなりホテルを変わってくれと言われれば、その理由を聞きたくなるのは当然である。そうなれば、やはり、本当のことを話さねばならなくなる訳だ。

    「そんな親父の時の苦い経験があり、母親がなくなった時の通夜も葬儀も、このホテルでは出来なかったということなんですよ」

    ご主人は、溜息まじりに応えたのだった。長年身を粉にしてホテルのために頑張って来たにもかかわらず、自分が亡くなった時は、そのホテルで通夜も葬儀もしてもらえないという矛盾。

    「でも、大女将は、判ってくれていると思います・・・・・」

    奥さんは、父にそう話したそうである。

    お客商売の難しさというものなのであろうか?ホテルや旅館は、お客に幸せを提供するのが仕事である。そのためには、自分の身内の不幸でさえ公には出来ないという皮肉があるのだということを、考えさせられた一日であった。face06 

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人は情熱を求めている?・・・・・242

~ 今 日 の 雑 感 ~


人は情熱を求めている?



    新聞のコラムを読んでいたら、ちょっと興味深いことが書かれていました。

    SMAPの人気が下降気味にあるというのです。他のグループの追随を許さないほどに、飛ぶ鳥を落とす勢いだったあの中居、木村、稲垣、草彅、香取の五人組に、いったい何が起きたのでしょうか?

    その兆しが始まったのは、未だ記憶にも新しい、今春の「草彅剛公然わいせつ事件」からだということなのです。

    この事件では、草彅クンへの同情論が世間一般の意見となり、あまり、大きな問題にもならずに収束。草彅クン当人も、既にドラマやCMへの復帰を果たしています。

    この事件が起きた時、テレビのワイドショー番組などでは、常にいい人を演じ続けなくてはならなかった草彅クンが、これまで押し殺して来た自分という存在を、アルコールと公園の暗闇という環境の力を借りて、三十代の血気盛りな青年の等身大で発散してしまったのだと、コメンテーターたちが語っていましたが、その中に、彼らが最も注目したエピソードが、一つあったのです。

    それは、事実か否かは別にして、草彅クンが警察に連行されるとき、同じSMAPのメンバーである香取クンの名前を叫んでいたらしいということでした。ある男性コメンテーターは、やや興奮気味の口調で、「シンゴー、シンゴー!と呼んでいたなんて、切ない話ですよね」と、しみじみ語っていました。

    わたしは、そういう男性コメンテーターの心の奥には、「SMAPは、きっと男同士の熱い友情で結ばれている仲間なんだ。その草彅クンの思いに、香取クンは必ずや応えてくれるだろう」という、願望があるに違いないと、思ったものです。そして、おそらく、一般のファンたちもまた、それと同じような期待を持っていたのではないでしょうか。

    わたしも、これはSMAPの結束力や友情をアピールするには、もってこいのシチュエーションだと感じ、草彅クンの身柄が解放された時、残りのメンバーが全員で彼を迎えに行くというシーンを想像したものです。

    しかし、現実は、そんなにドラマティックなものではありませんでした。SMAPのメンバーたちの中で、香取クンと木村クンは、番組内でそれなりに草彅クンへの信頼のメッセージを発信しましたが、視聴者へのアピールは、その程度にとどまり、まるで、極力、マスコミもこの話題には触れないようにしている感さえありました。

    つまり、わたしたち世間の期待は、あえなく削がれたのです。しかし、わたしには、こういう結末は大体判っていました。それは、SMAPのメンバーたちの日頃の言動を見れば、何となく思い当たることですが、彼らは、ほとんど個人的には連絡を取り合うような間柄ではないだろうということなのです。ですから、メンバーの一人がどうなろうと、それほどお互いに関心がある訳ではなく、既に、彼らは、個々が独立した赤の他人の集まりにすぎないのだということなのです。

    そして、ファンも、この事件をきっかけに、その事実に気が付いてしまったのです。しかし、現在の社会が求めているのは、どんな時も助け合い労わり合う熱い男同士の友情の姿ですから、そんなクールでビジネスライクな関係を見せられては、興醒めするのも当たり前といえるでしょう。

    要するに、彼らの友情は、絵空事だと考えるようになってしまったファンから、SMAPを支持する思いなど失せてしまうことは必然の成り行きだといえるのです。しかも、メンバーの一人は既に妻帯者ですし、独身の男性同士の信頼と友情を期待しているファンたちの目には、ある意味、裏切り行為のようにすら映っているのかもしれません。

    SMAPは、いわばファンにとっては、いつも夢の中の存在であり続ける必要があった訳です。現実社会の一般男性と同じであっては困るのです。ところが、今回、確実にその正体が露呈してしまい、ファン離れが起きつつあることは、当然といえば当然の結果なのかもしれません。

    今の殺伐とした味気ない時代に、人々が求めているのは、「情熱」だという評論家もいます。テレビドラマにしても、映画にしても、男性たちの友情を描いた作品が目につくのもそういうところに原因があるのでしょう。そういえば、今年の大河ドラマも、そんなことがテーマでしたね。

    さて、それでは、SMAPにはなかった熱い友情を押し出した次代のアイドルグル―プは、何処なのか?

    それは、EXILE(エグザイル)だ----と、いう声もあるようですが、四十代五十代の女性層には、彼らの今風なワル系のファッションはあまり受けがよろしくありません。では、今のところ一番の候補は、「嵐」ということにでもなるのでしょうか?

    皆さんは、どう思われますか?face01  続きを読む


拠点病院を作るということ・・・・・241

~ 今 日 の 雑 感 ~


拠点病院を作るということの
メリット&デ・メリット



    最近、長野県では、地域の各総合病院間の連携により、診療科目の拠点化が進んでいるという話を耳にします。

    要するに、各総合病院が、診療科目ごとのエキスパート・ホスピタルを、目指しているということなのだそうです。

    Aという病気にかかったら、それを治療するのに最も適している病院は、B総合病院だ----と、いうように、病院ごとに専門分野を設け、地域医療の発展を、お互いに補い合おうということのようで、もちろん、そういうところには、その病気を治療するための専門チームや高度な技術や知識を有する医師、治療に必要な機械等が、充分に揃っているのだそうです。

    これまでのいわゆる総合病院という病院は、一応どんな病気でも診ることが出来ますが、一定レベル以上の治療は難しいということになるようで、やはり、最終的には、そうした拠点病院へ患者を回すことになるというのです。

    それは確かに、患者にとっても選択しやすく、医師のための技術研修にも効果的なシステムです。あの病院へ行けば、自分の病気がしっかりと治療してもらえるという安心感も、患者側には生まれますし、医師にとっても高い医療技術が学べるわけですから、いいこと尽くめのように思えます。

    しかし、問題は、その拠点病院間の距離が、あまりに離れ過ぎていることなのです。

    自分の病気は、C病院でしか治すことが出来ないと、判ってはいるものの、そのC病院まで行くことの出来ない患者は、いったいどうしたらいいのでしょうか?患者は、本来体調が悪いのが当たり前です。元気に自分の足で歩いて、そういう拠点病院へ赴くことが出来るなら、そんな人は病人ではありません。

    自分が体調が悪い時、別の病院まで運んでくれる家族がいる患者は、よいでしょう。検査のたびに、治療のたびに、必ず自家用車で病院まで連れて行ってくれる家族のいる人は、そうした高度治療を受けることも出来るでしょう。でも、世の中、そんな都合のよい家族を持っている患者ばかりがいる訳ではありません。

    足腰の立たない一人暮らしのお年寄り患者、自動車は運転できるが、日々仕事に追われていて診察日につきあうことなど出来ないご主人を持つ女性患者、自分でも車の運転は出来るが、病気で歩くのさえもやっとという男性患者、小さな子供がいるので、近くの総合病院なら通うことも出来るが、遠くの病院までなど行くことはできないシングルマザー、などなど、患者の事情は様々なのです。

    かくいうわたしも、本格的に治療するためには、もっと遠くの病院へ行かなくてはならないといわれている患者の一人です。でも、今のわたしの体力では、とても一人でそこまで行くことなど出来ません。「家族に自動車で連れて行ってもらえば?」と、他人は簡単に言いますが、家族だって、皆それぞれに仕事や事情を抱えていますから、そうそう甘えることなど出来ません。

    何が何でも、体力を回復させ、自力でその病院まで行けるようにならなくては、治療も満足に受けられないのです。

    しかし、外来通院で他の患者さんたちの話を聞けば、そういう不満を持っている患者さんたちの多いこと。

    「先生は、簡単にいうけれど、こんな状態のあたしに、どうやって独りでその病院まで行けっていうんだ!?」 と、怒鳴っていた女性患者もいました。

    テレビの医療関連番組で、とかく、「これからは、患者が病院を選ぶ時代だ」などという報道がなされますが、選んで行ける人間ばかりではないのです。何をトンチンカンなを放送しているんだと、わたしなどは常に思ってそういう番組を観ています。ましてや、この高齢化時代に、そんなに足腰の達者な患者が何処にいるんだと、笑いたくなります。

    最近、特に外科医たちが海外研修に出かける率が高くなったともいわれます。これも、おそらく、臓器移植法の改正に伴う現象なのでしょうが、臓器移植が出来るようなスーパードクターよりも、地道に盲腸の手術をしたり、風邪を治してくれるドクターの方が、一般の患者にはどれほど大切か-----。

    何か、近頃の医療現場はおかしなことばかりです。

    もしも、病院の拠点化が食い止められないものならば、せめて、半径25キロ圏内に拠点病院を整備して欲しいものです。  続きを読む


特急ゆけむり号・・・・・240

~ 今 日 の 雑 感 ~


特急ゆけむり号♨



    先日、長野電鉄の「特急ゆけむり号」に、初めて乗車しました。

    何と、数年ぶりに長野市へ行った帰り、ちょうど、運よくこの電車に乗ることが出来た訳です。

    前身は、箱根鉄道などで活躍した小田急ロマンスカーだったこともあり、車内は広く、車高が高いせいか揺れも少なく、とても快適な乗り心地です。

    一両目の車両の一番前のパノラマ・ウィンドウの特等席には、案の定子供たちが既に乗車して、ワイワイガヤガヤと大騒ぎ。目の前に線路が伸びる光景など、そうめったにお目にかかれるものでもないので、男の子たちなどは正に興奮状態です。

    しかし、そんな彼らが、その風景以上に興奮したのが、運転士が、いわゆるハイデッカー構造の運転席へ乗り込む時の状況を目の当たりにした瞬間でした。

    この日の運転士は、まだ二十代と思しき若い男性運転士で、乗客と同じ乗車口から鞄を抱えて入って来るや、乗車口のすぐ脇にあるステップに足をかけ、右手を天井へ伸ばしたのです。そこには、天窓のような小さなハッチがあり、彼は、そのハッチの蓋を引き開けると、鞄を先にハッチの中へと上げ、次に、中から細いタラップを引き下ろすと、それをよじ登るようにして天井裏へのぼり、後にタラップを引き上げて、ハッチの蓋を閉じると、運転室へと姿を消したのでした。

    「・・・・・・・?」

    その一部始終を眺めていた子供たちは、一瞬、唖然と、言葉をなくしました。

    「すげ~~~~~~」face08

    やがて、そう溜息をつくように言うと、目は、そのハッチに釘付けです。

    特急ゆけむり号の運転席は、車体部分の一段高い場所にあるため、運転士がどのように乗り込むのかは、わたしも常々疑問だったのですが、その謎がようやくこの時解けました。でも、この狭いハッチの中へ滑るように入り込むには、運転士はよほど摂生してスレンダーな体形を維持しておかなくてはならないはずです。

    おそらく、メタボ運転士では、タラップを上るのも難しくなるはずですから。ましてや、ハッチの入口にお腹がつかえて上り下りが出来なくなってしまっては、どうしようもありません。

    しかも、運転士は乗務中、天井裏へただ一人隔離状態に置かれる訳ですから、誰の目にも触れられない状態になる訳です。体調管理は十二分にしておかないと、いざという時は、おそらく誰も助けに行けないという事態にもなりかねないのでしょう。

    「ああ、だから、運転士は、若くなければならないんだな?」

    通路を挟んだ隣のシートの男性が言いました。

    トレイン・ジャックなどにも対応できるような作りになっているこの運転席が、よほど不思議だったと見えて、その男性は、

    「西村京太郎サスペンスにも使えそうな感じがするね」

    と、隣の友人らしき男性と話していました。そうか、確かに、使えるかもしれないな。タイトルは、「特急ゆけむり号運転士失踪事件の謎」-----「密室の運転室から、運転士はなぜ消えたのか?」な~んて、ネ。face02

    やがて、特急ゆけむり号は、長野電鉄長野駅を出発。真っ暗な地下線路を権堂駅まで走ると、静かに停車。途端、今まで大騒ぎをしていた子供たちが、にわかに立ち上がり、ぞろぞろと降車して行ってしまったのです。

    「え?たった一駅だけの乗車なの・・・・?」

    わたしも、拍子抜け。でも、彼らの興奮はおさまることなく、中の一人が降り際に一言。

    「今度は、あの運転室へ上るんだ!」

    それは、無理というものだぞ、ぼく・・・・・。わたしは、胸の内にそっと呟いたのでした。face07 



    *** 写真は、資料画像を拝借しました。 
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人気と実力のジレンマ・・・・・239

~ 今 日 の 雑 感 ~


☆★人気と実力のジレンマ★☆



    信濃グランセローズの存在意義は何か?ということが、先日タクローさんのブログのコメント欄で提起され、侃々諤々さまざまな意見が飛び交いました。

    わたしは、そのコメントで、「いま球団は、単純に選手の実力をとるか、地域密着の人気を重視し、スポンサー離れを食い止めることの方に力点を置くか、そのジレンマに苦しんでいるのだと思う」と、書かせて頂きました。

    そんな多くの意見の中に、一つ、注目すべきコメントがありました。

    それは、「グランセローズの存在意義は、NPBに選手を送り込むことである」と、いうものです。つまり、BCリーグが出来た最も大きな理由は、正にここにあるということを、わたしたちは忘れていたような気がします。

    試合に勝つことも、もちろん大事です。強くなくては、ファンも集まりませんし、スポンサーも離れてしまいます。そう考えると、いつも下位に低迷し続ける信濃グランセローズは、何とも頼りない寂しい球団と言わざるを得ません。

    しかし、この「NPBに選手を送り込む」という観点で評価すれば、グランセローズは、断然優秀な球団なのです。鈴江、高田、星野と、三人もの選手をNPBへ送りこ込んでいるのですから。あれほど強い群馬ダイヤモンドペガサスも、新潟アルビレックスも、今年は一人もNPB行きが出ませんでした。

    子供たちの間では、「信濃に入れば、NPBへ行ける」と、いう夢をかなえさせてくれる、憧れの球団に成長した訳です。これは、実に大きな成果だといえます。(そう考えると、少しは鼻が高いですね)

    そこに、今度は、チームとしての実力が加味されれば、もはや鬼に金棒でしょう。

    しかし、ここに立ちはだかるのは、「地元密着」のスローガンです。純粋に野球を愛しているグランセローズファンは、地元の選手にこだわるよりも、県外選手でも真に実力のある者を入団させるべきだと考えていると思います。しかし、そうはいっても客観的に見て、BCリーグは、まだまだ知名度の高いリーグとは言えません。

    わたしの周りには、未だに「ああ、そんなチームあるみたいだね。サッカーだっけ?」と、いう友人もいるくらいです。わたしの父などは、筋金入りの戦中派なもので、スポーツなどは、遊びの一環ぐらいにしか思っていませんから、NPBの試合をテレビで観ながら、「大の男があんなもんで金を取ろうなんて、怠慢の極みだ」と、嘆いてもいました。

    しかし、グランセローズの話になると、一変、新聞などのスポーツ欄にも目を通し、かなり興味を持っているようなのです。そこで、リーグ一年目に、NPBと、BCリーグは、何処が違うのかと訊いたところ、父の答えは明確でした。

    「そりゃ、違うさ。グランセローズには、須坂や飯山や、高山村の子が入っているからな。それに、県内の選手も多いだろ。やっぱり、関心はあるよ」

    まったく、野球に関心のなかった父までもが、地元の選手が入っているということで、興味がわいたというのです。これと似たようなことが、このナガブロの中にもありました。自分の息子さんと同じ少年野球のチームで汗を流した選手が、グランセローズに入団しているということで、関心があるという女性ブロガーもいますし、自分にとって身近な選手のインパクトは、かなり大きなものがあるようにも思えるのです。

    特に、年配の女性などは、選手たちを我が息子や孫のように思う人も多く、「あの家の子が出ているから、今日も痛い足を引き摺って、オリンピックスタジアムまで応援に行って来たよ」 と、言う人もいるのです。

    もしも、チームから地元選手がいなくなれば、こういう年配の女性たちの生きがい奪うことになってしまうのかなァ-----などとも考えますと、少々気がめいります。

    しかし、何故、一般のファンは、地元の選手にこだわるのでしょうか?こんな声を聞いたことがあります。

    「だって、せっかく応援しても、県外の選手は、いつかあっちへ帰っちゃうわけでしょ。地元の子は、ずうっといてくれるじゃないの。出来れば、何年もセローズで活躍してもらいたいんだよね」

    ファンは、既に、宝塚歌劇団の生徒をトップスターに育てるファン心理と似たものを、セローズの選手たちにも持ち始めているのではないでしょうか。「あの選手は、わたしがひいきにしている子で、わたしがNPBへ入れてやる」----そんな気持ちにさえなっているファンもいるようです。

    信濃グランセローズの選手たちは、おそらく、自分の人気が実力に優っているということに気付いていると思います。だからこそ、選手個々の気持ちにも大きなジレンマがあるのでしょう。一度グラウンドでの華やかな喝さいを浴びてしまうと、そこからは簡単に逃れられなくなるという人間の心理もあるでしょう。

    さて、来季は、いったいどのようなチームを作り上げるのか、まだまだ、球団の葛藤は続きます。

    タクローさんのおっしゃるように、三沢球団社長が渾身の打開策を打ち出して下さることを期待いたします!icon09 

     

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女優の衣装、欲しいですか?・・・・・238

~ 今 日 の 雑 感 ~


女優の衣装、欲しいですか?


    
    わたしが大学生の時代、同じ寮に住む学生で、物すごく流行に敏感な医師の娘がいた。

    流行のファッションが掲載されている雑誌を読んでは、「これが、欲しい!」と、思うと、どのような手段を講じても手に入れてしまうのだ。その執念たるや、周囲が脱帽するほどの熱の入れようであった。

    大病院の院長のお嬢様だから、お金はふんだんに持っている。彼氏は、都内有名老舗和菓子屋の子息であるから、デートの話も、ゴージャスそのものである。正に、湯水の如く金を使うといった典型のようなそのお嬢様学生は、テレビで女優が着ている服にも目がなく、ブランドものをたくさん買い込んでもいた。

    わたしは、どちらかというと、ブランドや流行などにはほとんど関心がなく、教授に、「お前は、スカートってものを持っているんだろうな?」と、言われたほどの無頓着であるから、そういう感性の女性のことは全く理解出来なかったが、周りの友人たちを見れば、やはり、彼女ほどではないにせよ、ファッション雑誌の女性モデルが着ている如何にも値の張りそうなジャケットやスカート、ブーツなどを、身につけてみたいと思っている者たちは多かった。

    そういう女優やモデルが着ているものに憧れるという女性の気持ちは、決して珍しいものではない。古くは、江戸時代にも、小町娘を描いた浮世絵などが巷に出回ると、そこに描かれた娘の着物やかんざしと同じ物が、飛ぶように売れたという現象もあったそうである。

    時に、近頃は、テレビドラマ「リアル・クローズ」の中で女優が着ている服と同じ物がインターネットの通販で売り出され、番組サイトがアクセス殺到でサーバーダウンを起こすというほどの好評を博したということである。しかも、視聴者プレゼントでもないのに、約350点が売れたというのだから、驚きである。

    放送業界の経営状態が厳しい中での一つのビジネスモデルともいえるだろうが、視聴者保護のため、番組がCMと誤解されないように求めている民放連の放送基準との整合性に問題はないのか?-----との声も高い。

    それにしても、この日本女性のいわゆる「憧れ症候群」のような反応は、いったい何なのだろうか?少年たちが、ひいきのスポーツチームのユニホームやキャップを身につけたいと思う気持ちは、わたしも理解できるが、ドラマの中で女優がその販売対象の服を身にまとうのはほんの一瞬ではないのだろうか?アクセサリーだって、次のシーンには、別の物に替わっているはずである。

    なのに、何故、彼女たちは、それを欲しいと思うのだろうか?

    わたしが、この疑問を口にすると、ある人は、こんな風に応えた。「それは、女性の中には、ほんのわずかでも、わたしだって女優と同じくらい綺麗なのよ。同じ服を着れば、そん色なく見えるはずよ。----と、いう、プライドや優越感が必ず存在するからなんだよ」

    もしも、そうだとしたら、女性とは、何と自分勝手な妄想を抱く動物なのだろうかということである。まあ、そんな妄想の力を借りでもしなければ、現実の厳しさの中で、生きてはいけないのだろうが・・・・。「男性に恋をしている時は、女性は誰しもがオードリー・ペップバーンだ」と、いうことなのであろう。(苦笑)

    男性の目から見れば、そんな他愛もない空想に浸る女性が、また、可愛く思えるのだろう。

    しかし、わたしは、ここにあえて苦言を呈したい。

    「おしゃれ泥棒」のオードリーの白い長靴姿は、正に天使のチャーミングさだが、あなたが白い長靴を履いても、単に野沢菜洗いのおばちゃんでしかない。「麗しのサブリナ」のオードリーの履くサブリナパンツは、バレエで鍛えた脚線美の彼女だから似合うのであって、あなたが履けば、それは、普通のストレート・ズボンになってしまうのだ。ジバンシーの高価なドレスも、あなたが着たのでは------いや、もう、これ以上は言うまい。

    そこで、かつて、パリの若い女性たちを取材したテレビ番組で、彼女たちが語っていた言葉をここに紹介しておこうと思う。

    「ブランド物?全然興味ないわ。あれは、本当の美しさがピークを過ぎたおば様たちが持つものよ。ファッションで、最もダサいことはね、人の真似をすること。本当に自分に自信があるのなら、自分だけに似合うファッションを見付けること。それが、どんなに安物の服でも、自分という人間の証でしょ?それこそ、最高に、クールなことじゃないかしら」

    この言葉を聞いた時、わたしは、思わず心の中で拍手を送ったのである。icon12  続きを読む


本当の「思いやり」とは?・・・・・237

~ 今 日 の 雑 感 ~


本当の「思いやり」とは?



    イギリスにエドワード8世という王様がおられました。この方が有名なウィンザー公で、“世界の恋人”と言われていた皇太子だったときの話です。

    そのころ、イギリスは世界各地に植民地があったので、毎年、植民地の王様をロンドンに招いての晩餐会(ばんさんかい)が開かれることになっていました。

    ある年、その席上でのことです。たくさんの立派な料理がでたあと、最後にフィンガーボールが出ました。これは、食後に指先を洗う水が入っているものです。

    ところが、植民地の王様一人が、その水をガブリと飲んでしまったのです。思わずハッと息をのんだ周囲の人たちは、どうしたらよいか、とまどっていました。

    そのとき、ウィンザー公は、少しもあわてないで、同じようにフィンガーボールの水をガブリと飲んだのです。

    それを見ならって、みんなも飲んだので、この場は、なにごともなくてすみました。

    注 )
    このエピソードは、月刊誌『ニューモラル』で掲載された原文のままに掲載しております。

    『ニューモラル』 no. 56 74.4.1 発行より



    このエピソードは、小学校の教科書にも載った、「思いやり」とは何かを児童に考えさせる、有名な話です。

    社交界で最も大切なマナーの一つが、賓客に恥をかかせてはいけないということだといいます。賓客に恥をかかせることは、もてなす側の恥ともなるのです。西洋風の食事のマナーを知らない植民地の王様が、間違ってフィンガーボールの水を飲んでしまったことは、その王様が悪いのではなく、そういう西洋のマナーに疎い来賓が招かれていることを知りながら、洋食を出してしまったホスト側の失態だということにエドワード8世は、すかさず気付き、自分も同じようにフィンガーボールの水を飲んだのですが、彼のこの行動は、何も、西洋の食事のマナーに疎いその王様を助けるためだけではなく、料理を作ったシェフ、その食事のアイデアを出した侍従やその他のスタッフたちの気持ちにも配慮した行為だった訳です。

    こういう「思いやり」が、嫌みではなく、スマートに出来るということが、やはり、イギリス王室の王室たる所以なのでしょう。しかし、こういう「思いやり」を、自然と示せる人が、かつて、わたしの周りにもいました。
    
    その年上の今は亡き友人は、かつて、子供が出来ずに悩んでいた女性の前で、自分には子供がいながら、「子供などいない」と、さりげない嘘を言って、その不妊に悩む女性に恥をかかせまいとしたことがありました。

    しかし、今は、そういう「思いやり」を、とんでもなく誤解している人たちが多くなったような気がします。

    たとえば、ここにAさんという人がいます。Aさんは、Bさんとはあまり仲が良くありません。そのことを、Aさんと仲の良いCさんも知っています。そんなある日、BさんがCさんの家へ遊びに行きました。BさんとCさんは、とても意気投合。二人は、その後一緒に食事をしたり、買い物に行ったりと、楽しく時間を過ごしていました。

    Aさんは、そんなことを知りながらも、Cさんのことを、いい人だと思っていましたから、特別なにも言いませんでした。しかし、ある日、そのCさんが、Aさんに向かって、「Bさんて、本当に気持ちの優しい素敵な人だ。わたしに、こんな素晴らしいアクセサリーをプレゼントしてくれた」と、自慢をしました。

    これには、さすがのAさんも、腹を立てました。「わたしとBさんがうまく行っていないことを知りながら、どうして、こういうこれ見よがしな自慢をするのか?あまりに失礼だ!」

    それに対してCさんは、「そんな風に怒ることがおかしい。あなたには、他人の気持ちを思いやるという優しさがないのか。わたしには、Bさんを素敵な人だと思う心がある」と、切り返したのです。Aさんは、言います。「あなたは、『思いやり』という言葉を勘違いしている。本当に、他人を思いやる気持ちがあるのなら、そういうことを聞けば傷つく人の方のことを思いやるべきではないか。あなたのやっていることは、『思いやり』などではない。そういうことを、世間では『嫌がらせ』というのだ!」

    正に、その通りだと思います。

    『思いやり』という言葉は、簡単に口に出すものではないのです。『思いやり』という言葉には、たった一人の人物のためではない、周りの人すべてのことを思いやらねばならないという責任が伴うのです。

    自分が気に入っている人一人を庇(かば)うのなら、その庇う人を嫌っている人間との仲がこじれ、その他の人たちに不快感を与えても仕方がないという覚悟を決めて庇うべきなのです。庇っている人の批判をされたからといって、批判をした人を非難することは絶対にしてはいけません。それは、すなわち、庇う人は、そこで第三者たちへの『思いやり』を放棄しているのですから。

    では、ここでは、Cさんはどのような行動を取るべきだったのでしょうか?Aさんには、不快な思いをさせず、Bさんとはこれまで通りお付き合いをしたい。そういうのなら、Cさんは、少なくともAさんと会っている時は、決してBさんの話題は持ち出さないことです。そして、Bさんからプレゼントされたアクセサリーなどは、間違っても身につけて行ってはいけません。

    それが、本当の「思いやり」というものなのです。本当の「思いやり」には、知恵と努力と少々の嘘が必要なのです。もしも、わたしは、ズボラで、他人の気持ちを推し量るような繊細な意識や行動は苦手だと、思われるのでしたら、決して、「自分には、人の気持ちを思いやる心がある」などという、寝言は言わないものです。

    皆さんは、本当の「思いやりの心」を、持っていますか?face02      続きを読む


あなたのダイエットは、間違っている・・・・・236

~ 今 日 の 雑 感 ~


あなたのダイエットは、間違っている



    こんな風に書けば、わたしがさもダイエットの達人のように見えますが、そういうことではありません。今回も、いつもの如く、テレビ番組からの受け売りです。でも、意外に、目から鱗が落ちますよ。興味がおありの方は、ぜひお読み下さい。face02


    皆さんは、これまでにダイエットを経験したことがありますか?手っ取り早いけれど過酷な「断食ダイエット」。朝、バナナを食べた後は、何を食べてもよいという「朝バナナダイエット」。一日リンゴだけで過ごす「りんごダイエット」。同じく「ゆで卵ダイエット」。「納豆ダイエット」。とにかくがむしゃらに体を動かす「スポーツダイエット」。

    数え上げると数限りなく巷にはダイエット方法が溢れています。そのテレビ番組でも、街を歩く女性たちにマイクを向け、ダイエットの経験を訊ねると、ほとんどの人が一度は挑戦したものの、結局、リバウンドなどで挫折したと、答えていました。

    すると、リポーターは、そういう女性たちにあることをして欲しいと頼み込みました。それは、まっすぐに立った格好での片足上げです。上げる足は、膝を伸ばした状態で前へ上げる。そして、両脚の開く角度を測定したのです。すると、インタビューに答えた女性のほとんどが、この角度が50度以下と、かなり狭いことが判りました。

    この測定で、何が判るのかといいますと、腰から下の筋肉の強さが判るのだそうです。下半身の筋肉といえば、大臀筋、大腿筋、大腰筋などが思い浮かびますが、この下半身の筋肉が衰えていると、両脚が開きにくいのだそうです。

    つまり、下半身の筋肉は、人間の身体の筋肉量の多くを占めていますから、これを鍛えることにより、エネルギー代謝を活発にして、食べても太らない身体を作ることが出来るのだといいます。そして、その筋肉の中でも、特にダイエットに重要なのが、「大腰筋」で、この筋肉は、背骨と両足をつなぐ筋肉で、歩く際に足を引き上げるのに使う大切なものなのです。

    これが衰えると、転倒しやすくなったり、姿勢が崩れしっかりと歩くことが出来なくなってしまいます。高齢者の場合、この筋肉の衰退が寝たきりの原因になることが多いのだそうです。また、ここが衰えると、骨盤がゆがみ、O脚、腰痛の原因にもなるといわれます。

    では、どうやったらこの「大腰筋」を鍛えることが出来るのかということですが、これが、案外簡単な運動で鍛えることが出来るのだといいます。

    まずは、四股を踏む時のように、大きく足を広げて膝を曲げます。そして、静かに片方の足の方へ体重を移動します。よく大リーガーのイチロー選手が試合前のルーティンで行っているポーズです。これを交互に繰り返します。でも、膝の弱い人は、充分に注意して行ってください。

    次に、まっすぐに立ち、片足を上げます。膝は曲げた状態でよいそうです。これを、また、交互にゆっくりと繰り返します。その後は、まっすぐに立ったまま、片足を後ろへ上げ、両手は、万歳をします。後ろ足上げは、右左と交互に繰り返し、片足15回ずつ行うと効果的とのことです。

    最初から、無理をしてしまうと、大腿筋などを痛める可能性がありますので、少ない回数から、徐々に行うことが肝心です。

    これを毎日続けることで、かなり下半身の筋肉量もアップして、その筋肉で燃やされるエネルギーの量が増えることで、自然と太りにくい身体になれるのだそうです。

    人間は、毎日、ただ静かに横になっているだけでも、呼吸や心臓を動かすために、食事から摂取したカロリーの約70パーセントは消費している計算になるのだそうです。もちろん、食の過剰摂取は、それだけ消費カロリー量を少なくするということになりますが、特別に大食いをするわけでなければ、筋肉量を増やすことで、エネルギーの消費量も大きくなるということです。

    ダイエットしてはリバウンドを繰り返し、うんざりしているあなた、食事の量を極端に減らすことなく、痩せやすく太りにくい身体を作ってみませんか?icon22  続きを読む


保育ママ・・・・・233

~ 今 日 の 雑 感 ~


child保 育 マ マicon25



    「保育ママ」という制度が、今から50年ほど前から、この日本にもあることを知っていますか?

    これは、海外などでは、当たり前のように設けられているシステムで、保育所や幼稚園などに入ることが出来ない、いわゆる待機児童のための民間施設として、自治体が独自に認可してる制度なのだということです。

    「保育ママ」には、チャイルドマインダーと呼ばれる民間の資格を持った女性や男性がいて、彼らは、自宅を保育所代わりに提供し、そこで、0歳~3歳までの幼児を預かり保育するのです。そのため、「保育ママ」の自宅には、保育に適した広さが必要で、また、預かる子供たちの定員が6人以上になると、「保育ママ」には、保育士、看護師、助産師、保健師の国家資格が必要となるのだといいます。

    民主党政権は、現在深刻な待機児童対策として、この「保育ママ」制度に目をつけ、これを各自治体ではなく、国の管轄において増やして行こうという姿勢を打ち出したそうです。

    仕事や介護で多忙な親たちの救世主ともいえる「保育ママ」ですが、この制度は、自治体からの委託とはいえあくまでも善意の上に成り立っているものですから、もしも、「保育ママ」の方の事情で保育が出来なくなったとしても、利用者側に代わりの施設を紹介する必要はなく、利用者は、再び子供の預け先を自分で探さなくてはならないことになるのだといいます。

    また、「保育ママ」を希望したいという人の側にも、もしも、人さまの子供を預かって、怪我をさせたり病気にさせたりしてしまった時に、責任を取らされては困るという心配もあり、すんなりと承諾してくれるまでには行きつかないというのも、自治体の悩みであるといわれます。

    さらに、今回、国が制度を管理し、「保育ママ」を増員する方向へ進んだ場合でも、これまでのような資格のハードルを下げることで、安易な考えで子供を預かる「保育ママ」が増えることが懸念され、この制度自体の信頼性を裏切る形になりはしないかとの不安も付きまとうというのです。

    少子化といいながら、その子供を預ける場所が極端に不足しているという矛盾。子供を安心して幸せに育てるために、仕事をしなければならず、それには子供を小さな時分から保育所で面倒を見てもらわなければならないという矛盾。

    今の世の中は、こうした矛盾の上に成り立つ、脆いガラス細工の積み木のようなものではないかと思うのです。何処かが一か所欠けただけでも、すべてが崩れて粉々になってしまう。そんな、危険をはらんだシステムの一つが「保育ママ」なのではないでしょうか。

    シングルマザー・ファーザーや共働きの父母のためにも、「保育ママ」制度は充実させることが急務だと思います。しかし、その保育制度改革が、改悪制度にならないように、政府にはしっかりとした抜本的な対策を望みたいものです。  続きを読む


俳句、詠みませんか?・・・・・232

~ 今 日 の 雑 感 ~


俳句、詠みませんか?



    新蕎麦や  
     猪口(ちょく)に黄金(こがね)の  
                月を割り







    中天に  月 冴え冴えとあり  
                  世々は金
 





    
    屋根つたう  くるみ 一つか  
                  里の秋







    大地震(おおなえ)に 裂けし路傍や  
                  菊一輪






    秋は、俳句を詠むにもよい季節ですね。題材にも、事欠きません。

    皆さんも、一句ひねってみませんか?
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嘘も方便とはいうが・・・・・231

~ 今 日 の 雑 感 ~


嘘も方便とはいうが



    よく世間では、「嘘も方便」とは言いますが、やはり、こういう場合には、本当のことを言っておいた方が、あとあと苦労しなくても済むのではないかということも多々あると思います。

    これは、自称美人女将さんのブログへのコメントにも書いたのですが、わたしの家のお隣のおじいさんが、ある時から姿が見えなくなりました。心配したわたしの母が、

    「旦那さん、どうかされたんですか?」

    と、奥さんに訊ねた時、彼女は、平然と、

    「実は、主人、ヨーロッパへ旅行に行っているの。なんでも、ロマンチック街道というところを見て来るんですって。ロアール渓谷や、あの有名な白鳥城なんかへも行くそうよ」

    「白鳥城って、あのノイッシュバンシュタイン城のことですよね。いいですね~。羨ましい」

    母は、そのことをわたしにも話してくれたので、わたしも、それを疑いませんでした。ところが、しばらくして、近所の主婦がわたしの家に来た時、偶然、お隣のご主人の話題が出て、母が、何気に、

    「お隣は、今ヨーロッパ旅行中なんですってね。ルードウィッヒ2世の例のノイッシュバンシュタインへも行くんですって」

    と、言ったところ、その主婦は、大声を出して笑い、

    「何言ってんの、奥さん。あのおじいさん、今病院へ入院しているのよ。胃癌で手術したんですって。やだ~、あの奥さん、そんなこと言ってんの?実は、わたしの親戚があのおじいさんと同じ病室なのよ。だから、わたし、実際この目で見ているんだから、間違いないわ」

    母は、それを聞いてびっくりし、それなら、どうしてあんな嘘をついているのかしら?----と、言うと、主婦は、

    「あの奥さん、あまり近所で評判良くないでしょ。意地悪で、いつも人の悪口ばかり周りの人たちにふれまわっていて。だから、ご主人が病気で入院したなんて判ったら、『そら見たことか、罰が当たったんだ』なんて笑われるのが嫌で、嘘をついたんだと思う。それにしても、ヨーロッパ旅行とは、見栄を張ったよね。せめて、国内旅行ぐらいにしておけばいいのに」

    「それなら、お見舞いぐらい差し上げた方が・・・・・」

    「やめておきなさいよ。相手がヨーロッパ旅行だって言っているんだから、それでいいじゃない。ご主人が退院してきたら、奥さんに、ご旅行はどうでした?って訊いてやろ」

    主婦は、面白そうに笑いながら帰って行きました。

    確かに、おじいさんが退院して来ても、お隣の奥さんは、決して入院のことは話しませんでした。あくまでも、ヨーロッパ旅行で押し通すのです。そのためか、おじいさんの方が恥ずかしくなってしまったのか、それからほとんど家から出なくなりました。しかし、さすがに、後ろめたい思いがあったのか、手術から一年も経って、わたしの父に、それとなく話したのだそうです。

    「実は、わたし、あの時、癌で入院していましてね。女房が変なことを言ってご迷惑かけたそうで、申し訳ありませんでした」

    父は、母から聞いて訳を知っていましたが、「ああ、そうだったんですか。まあ、入院なんて、そうそう他人に知らせたい人ばかりじゃないですからね」と、返事をしておいたそうです。

    おそらく、おじいさんは、この一年間、奥さんのいい加減なヨーロッパ旅行発言にほとほと悩んでいたのだと思います。きっと、何処へ行っても、ヨーロッパはどうだったか?ロマンチック街道はよかったか?などと、訊ねられたのだと思います。

    父にそう言われて、おじいさんはほっとしていたようですが、当の奥さんは、近所の人たちに、

    「ご主人、入院していたんですってね。今は、もういいんですか?」

    などと訊ねられても、ものすごく不機嫌な顔になり、

    「そうだったかしら?忘れたわ」

    と、とぼける始末で、話にもならないのだとか。見栄のために嘘をついても、いつかはバレるものですし、いったん嘘をつくと、その嘘をつき通すために、また嘘を上塗りしなくてはならなくなるものです。そして、最終的には、自分でも身動きとれなくなり、この奥さんのように、みっともなく開き直らねばならないことにもなるのです。

    そんなご主人も、昨年亡くなり、この奥さんは、現在認知症で養護老人施設へ入りました。でも、この認知症も、何処まで本当なのか、判らないと、近所の人たちは噂しています。もともと、家事をするのも嫌いで、いつも高級な和服を着て、旅行や高級レストランなどを渡り歩いていた女性でしたから、おかしなプライドがあり、嘘つき呼ばわりされながらそこに住み続ける気にならなくなったのかもしれません。

    嘘も方便とはいいますが、やはり、本当のことを言わねばならない時もあるということを、改めて思い知らされた一件でした。  続きを読む


共同浴場は、学びの場・・・・・230

~ 今 日 の 雑 感 ~


共同浴場は、学びの場


    
    温泉場育ちのわたしは、生まれた時から、近所の共同浴場で入浴するのが当たり前の生活をしていました。

    そこには、お年寄りも入れば、妊婦さんも入りますし、小さな赤ちゃんを連れたお母さんも、芸者さんも、外国から出稼ぎに来たホステスさんたちも入ります。

    ですから、赤ちゃんを連れたお母さんは、自分が髪を洗う時などは、一緒に入っている近所の子供たちに、「ちょっと、うちの子見ていてくれる?」などということもありますし、足の悪いお婆さんが温泉の出口からお湯を汲むことが大変そうな時は、そばにいる子供が、率先して汲んであげることもあります。

    もちろん、この子供たちは、お互いに赤の他人ですが、そういう経験を通して、他人への気遣いや思いやりなどを実に自然な形で学んで行くことが出来るのです。また、そういうことを通じて、赤ん坊の扱い方や、お年寄りへの接し方、妊婦さんとはどういうものかなどなど、正に実践的に勉強することも出来るという訳なのです。

    わたしも、その共同浴場で、近所の子供たちから、「煙」と「湯煙」の違いとか、国語の勉強の仕方などを訊ねられ、それについての俄か授業を、湯船につかりながら講釈したこともありました。

    また、物知りのおばさん方は、漬物のつけ方や、花の育て方、犬のしつけ方法についてまでも、様々な知恵を教えてくださったりもします。正に、「井戸端教室」ならぬ「温泉教室」なのです。

    そんな中でも、子供心に、世の中には色々な人たちがいるものだと知ったのは、その共同浴場に、乳がん手術をして片方の乳房がないお年寄りや、片足が膝の上から切断されたお年寄りと一緒に入浴した時のことです。

    温泉場は、言わずもがなの湯治客も多く、病気やけがの治療や静養を兼ねて温泉につかりに来る人たちも大勢いますから、そうした人々と接する機会も、自ずと増える訳です。

    ですから、そういう人たちを日常目の当たりにしている温泉場の子供たちにとって、身体に障害や手術痕を持つ人は、特別な存在でも何でもないのです。

    「あのお婆ちゃんは、そういう人なんだ」という認識でしかありません。しかし、同じ温泉場育ちでも、自宅に家庭風呂を持っていて、ほとんど共同浴場を利用しない子供たちは、たまに外湯に入った時に、そういうお年寄りを見て、びっくりして泣き出してしまうこともありました。

    子供の心は純粋ですが、強靭で柔軟です。温泉場育ちの女の子に、将来医療関係につく人が多いというのも、何となく頷ける気がします。

    共同浴場は、人間としてのマナーや常識を学ぶ場所であることは、以前にもブログに書きましたが、人間を分け隔てなく見る目を養うためにも役に立つ場所ではないかと、最近改めて考えさせられました。face02  続きを読む


食べるということの大切さ・・・・・229

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食べるということの大切さ



    NHKのクローズアップ現代で、食事の大切さについて取り上げていた。(「宮ちゃん」さんのブログにも触れられていました)

    最近の若者たちの間には、食事を楽しむという感覚が薄く、とりあえずお腹がいっぱいになればよいということで、朝昼晩と、アイスクリームだけで済ませてしまう女の子や、カップラーメンにサプリメントのみという男性の食事風景も取材していた。

    食べるということは、すなわち命を育むということである。しかし、人間は、ただ何でも口に入れて食べていればそれで事なしという生き物ではない。人の味覚はとても繊細で、視覚や触覚よりも先に社会を記憶する場所であるといっても過言ではない。

    赤ん坊は、身の回りにある物を確かめる時、とりあえず口でしゃぶってみる。それだけ、舌というものは敏感な部分なのである。その舌を疎かにした食事を続けていると、どのような弊害が出て来るのだろうか?味が判らない、食事をおいしいと感じない、そんな若者たちを入院治療している心療内科の病院もあるということだ。

    そこには、食べては吐きを繰り返す過食症や、食事を口に入れるものと認識できなくなっているような拒食症の患者なども入院しているが、とりあえず、全員が食事を一緒にとるということに主眼を置いた治療法を実践しているのだという。

    その病院長が話すことには、このような症状を患う患者の大半が、子供の時分に親や兄弟と共に食事をしたことがないという者だそうで、食事は楽しい、嬉しい、おいしい、といった感覚を持たないままに大人になってしまったのだという。彼らにとって、むしろ、食事時間は、寂しい、辛い、面倒くさい、まずい、という感情の方が勝ってしまっていたのではないかと考えるのである。

    しかし、この病院で、みんなで楽しくおしゃべりをしながら食事をするという習慣が付くと、次第に患者の方に食事に対する期待感も現われ、味覚も回復してくるということであった。これにより、食欲は、感情と密接な関係にあるということがよく判る。

    たとえば、癌の治療などで、食事を口から入れることが大変になっている患者たちに、それでも、口から物を食べて欲しいと、模索している病院では、最初、一度にたくさんの栄養を摂取してもらおうと、魚も野菜も一緒くたにミキサーにかけ、ドロドロ状にした得体の知れないものを出していたという。

    ところが、患者はほとんどこれを食べない。一人のお年寄りは、「なんの味だかさっぱり判らないので、おいしくない。もういらない」と、拒否してしまった。これでは、口から物を食べる訓練にもならず、栄養も補給出来ず、まったく意味をなさないため、フランス料理のシェフに頼んで、試作品を作ってもらった。シェフは、野菜も、ニンジン、カボチャ、ホウレンソウなど、素材の味を生かすためにそれぞれを別々にペースト状にし、皿に盛り付け、肉料理などと組み合わせて患者たちに提供したところ、患者たちは、ほとんど全員が完食したのであった。

    しかも、感想は、「素材の味が堪能出来て、本当においしかった」と、いうものであり、食事に大切なものは、食事の時の明るく楽しい雰囲気、料理のいろどり、素材の香り、舌ざわり、盛りつけられる器などなど、様々な要素が複雑に組み合わさったものでなくてはならないということが判ったのだということだった。

    食事は、口から取るのが基本である。口から取った食事ほど、しっかりとした栄養が身につく。それも、うまいと、感じて食べる食事は、なおのこと身体にとっての大切な役割を果たすものである。

    ただ、栄養分だけを補給すれば良いという食事が、どれほど身体に悪い影響をもたらすのかということを、再認識させられる番組であった。


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飯塚事件の真実は何処に?・・・・・228

~ 今 日 の 雑 感 ~



飯塚事件の真実は何処に?



    福岡県飯塚市で1992年、小学1年の女児2人が殺害された飯塚事件で、死刑が執行された久間三千年元死刑囚=当時(70)=の妻(62)が28日、福岡地裁に再審請求した。同事件では、再審が開始された足利事件と同じ手法で行われたDNA型鑑定が証拠として採用されており、鑑定結果に対する判断が注目される。

    弁護団は、「捜査段階の鑑定は血液型やDNA型の判定を誤っている」などとする専門家の鑑定書を提出。「久間元死刑囚と犯人とは一致せず、無実は明らか」として再審開始を求めた。

    鑑定を行ったのは、足利事件の再審開始を認めた即時抗告審でDNA型再鑑定を行った本田克也筑波大教授。犯人の血液が付着した当時の資料は使い切られて再鑑定ができず、弁護団は7月、元死刑囚の遺品や遺族の口の粘膜を本田教授に提出するとともに、鑑定手法の検証も依頼していた。<YAHOO ! ニュース> 




    福岡県飯塚市で1992年に小学一年生七歳の女児2人が誘拐殺害された、いわゆる「飯塚事件」で、死刑判決が確定し、去年の10月に死刑が執行されてしまった久間三千年元死刑囚(当時70歳)の妻(62歳)が、28日、「有罪の証拠とされたDNA鑑定は誤りで、(死んだ夫は)無実だ」と、福岡地裁に再審請求をしました。

    この事件における最初のDNA鑑定は、現在再申請求公判中の「足利事件」と、ほぼ同じころに警察庁科学警察研究所で行われているため、鑑定結果の信ぴょう性に疑問が生じて来たことによる再審請求だということです。

    「飯塚事件」に関しては、当時の試料が残っていないので、これを再鑑定することが出来ないそうですが、弁護団は、元死刑囚の遺品や遺族の口の中の粘膜などを証拠として提出し、「足利事件」の再鑑定を行った筑波大学の本田克也教授に再鑑定を依頼しており、この鑑定結果である、「先の鑑定は、血液型やDNA鑑定を誤っている」という鑑定書と共に、再審開始を求めたのだといます。

    先日、「足利事件」の冤罪が判明した菅家利和さん(63歳)も、当初から犯人ではないという証拠が幾つも出ていたにもかかわらず、その頃最先端の捜査技術であるとされていたDNA鑑定の正当性を覆らせるわけにはいかないという、警察側のメンツと、それを鵜呑みにし自浄努力を怠った検察及び裁判官の手落ちにより、17年以上ともいう気の遠くなるような屈辱の日々を、被るはめになってしまったのです。

    しかも、菅家さんの弁護側は、この再審で誤判原因の追及を強く求めているにもかかわらず、検察側は早期の決着が菅家さんのためでもあるかのような理由をつけて、自分たちの判断ミスに目をつぶろうとしているように思えてなりません。

    また、裁判官も、新たな事件検証には消極的だという報道もなされているやに聞きます。

    しかし、いったい何処に、誤認逮捕の原因があったのか、どうして検察側は、警察の資料を鵜呑みにしてしまったのか、そして、裁判官は、何故、菅家さんの無罪の主張に真摯に耳を傾けなかったのか、これらをすべて白日のもとに解明しなければ、これからの犯罪捜査及び裁判に対する国民の信頼は回復できないということが重要なのではないのでしょうか。

    そこに、追い打ちをかけるように、今度の「飯塚事件」判決への疑惑問題です。

    もしも、この再審請求が通ったとしたら、それこそ司法はどのように久間元死刑囚と、その家族に謝罪するつもりなのでしょうか?久間元死刑囚は、一年前に既に死刑が執行されているのです。司法は、無実の人間を殺害したことになるのです。これを、「あの時代の捜査方法ではあれが限界で仕方がなかった。あの時代に生まれたことが不運だと思って、諦めて欲しい」と、でも言うつもりなのでしょうか?でも、その理屈は通用しません。

    何故なら、死刑が執行されたのは、昨年なのですから。

    捜査技術や科学は、常に進歩を続けています。昨日の常識が、今日は当てはまらないということはたくさんあるのです。少なくとも、死刑判決を受け、自分は無実だと訴え続けている既決囚に対しては、少なくとも毎年、過去の捜査に間違いはなかったかということを、再審請求の如何にかかわらず検証し続ける必要があるのではないでしょうか?

    そのためには、法律に関わる職業の人たちの人数をふやし、たとえば、法科大学院を終了した学生たちには無条件で、こうした死刑囚の事件に関する再捜査が出来る(たとえば、再審捜査検事などという)という資格を与えてもよいのではないかとさえ思います。

    この「飯塚事件」の今後がどのような展開を見るのか、注目して行きたいと思います。
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