他人の話を聞かない人・・・・・184
2009年10月01日
~ 今 日 の 雑 感 ~
他人の話を聞かない人<(`^´)>
最近多いのが、他人の話を聞かない人です。
とにかく、自分の話ばかりをしたがり、話し相手になっている人の言葉には、ほとんど耳を傾けません。
そして、相手が業を煮やして話し始めると、相手の話が途中でも、さっさと帰ってしまったり、その話に相槌を打つふりをして、またもや自分の方へ会話を奪い取ってしまうのです。
しかし、よく昔から言われる「話し上手は聞き上手」という言葉の逆で、そういう人の話は、決してうまいとは言えません。要するに、人の話を聞く機会がありませんから、話題も少なく、言葉のボキャブラリーも貧弱で、聞かされている方は、「また、その話なの?」と、うんざりすることもしばしばです。
でも、本人は、話しながら常に悦に入っているのです。皆が自分の話を感心して聞いていると、本気で思っているのですから始末に負えません。
わたしの周りにも、そういう人がいます。
こちらが大切な話をしていても、ほとんど聞いてはいないのです。何故なら、その人の頭の中は、次に自分が何を話そうかということで一杯で、こちらの話がまだ続いているにもかかわらず、息継ぎの隙間を見て、話に割り込んできてしまうのです。
そんな訳で、あとから、こっちが「さっきの話だけど、判ったわね」なんて言ったところで、「何の話?あなた、そんなこと言ったっけ?」などというトンチンカンな受け答えをする破目になるのです。
ところが、そういう人の困るところは、そうして自分が聞いていないことを棚に上げ、「そんなこと、あなた、話していなかったじゃないの?判るように言ってくれなきゃ」などと、まるで、こちらが悪いようなことを平気でのたまうのですから、開いた口がふさがりません。
自分の不注意も、他人のせい。何でもかんでも、他人が悪い。
世の中、それで通して来た訳ですから、決して自分の非を認めません。自分が失敗したことを認めるのは、敗北とでも考えているようです。
人の話を遮ってでも、自分を主張したい。そうしないとイライラが高じて、頭がおかしくなりそうだ。-----そんな人とかかわり合いになった時は、こちらも言うだけのことは言って、サッサと離れるに限ります。
その人が、忠告を耳に留めずに、穴に落ちても、こちらがとやかく心配することはないと、わたしは最近割り切っています。そういう人は、きっと、穴の中でもしゃべり続けていることでしょうから。

子供の叱り方・・・・・183
2009年09月30日
~ 今 日 の 雑 感 ~
♦♦子供の叱り方♦♦
子供を叱る時、よく説教調でこんこんと言って聞かせるように叱る人がいますが、そういう叱り方は、まだ小、中学生のような子供には、意味がないと思います。
高校生ぐらいになれば、そうした説得調も通じると思うのですが、十代前半の子供たちへの説諭で大事なことは、はっきりとした声で、しかし、怒鳴るのではなく、ダイレクトに言いたいことのみを伝えるという技術なのだと思います。
(これは、戦前の教育を知っている方なら判ると思いますが、かつては、小学校の先生を「訓導(くんどう)」、中学、高校の先生を「教諭」 、大学以上を「教授」と呼んでいたのですが、この呼び方には、やはり意味があると思うのです。
つまり、小学生には、学問を教えるだけではなく、人間としての基礎をつくるために教え導かねばならないということなのです。そして、中学、高校生になって、ようやく教え諭すという訳です。まあ、大学生以上は、単に知識を教えておけば自分でいいように勉強するだろうということなんで、教授なんでしょうけれど-----。

まず、子供の目を見て話すこと。そして、必ず一つはいいところを褒める。
その後、注意点を短い言葉で判り易く伝える。
次に、失敗したり、間違えた時は、時間をおかずに即座に伝える。
そして、「あれもダメ、これもダメ」ではなく、「今度はどうしたいか?」「どうすれば、いいか?」ということを、自分で考えさせ、自分の口で答えさせる。(これは、zukyさんのブログにも書かれていたことです)
指導者や教師は、大人なので、とかく大人の考えることを前提に話をしがちですが、子供の頭には、前提ということは通用しません。大人の一時間は、子供にとっては十時間にも匹敵するのです。たった、一時間前のことでも、子供の脳には、もう過去の出来事としか認識できなくなっているのです。
ですから、指導者や教師が、「お前、あの時、何でああしなかったんだ?」などと訊いても、子供には「あの時って、いつのことでしょうか?」のようになってしまうことも多々あります。でも、子供は、そんなことを言うのは恥ずかしいので、ほとんど無反応です。大人は、これを、煮え切らないとか、覇気がないと感じがちですが、そんなことはありません。子供は子供なりに、必死で頭を悩ませているのです。
自分が、子供だった時のことを思い出してみてください。一時間授業の長かったこと-----。一年の経つのが待ちどおしかったこと-----。年を取るにつれて、月日は束になって飛んで行きます。
ですから、子供に何かを説明する時は、面倒くさがらずに、必ず最初から説明することが大事なのです。それが、いつしか子供たちの身体にルーティンとなって沁みつけば、しめたものです。ですから、教える側は、絶対に正しいことを教えなければなりません。
しかし、子供は、規制を嫌います。ある程度の基礎を教えたら、時には自由にやらせてみることもいいでしょう。そして、自分勝手にやっていただけでは、決してうまくはいかないことを学ばせるのです。うまくなりたいと思えば、子供心にも欲が出ます。
そして、ここが大事なのですが、何度言っても判らない子がいる場合は、その子が、本当にそれをすることが好きなのかを疑うべきなのです。子供の気持ちを無視して、親が強制していることがよくあるからです。
とかく、習い事などでは、当人の子供よりも親の方が真剣になってしまうことがあるようです。
でも、子供は、親の気持ちを考えて、自分もそれが好きなのだと、勘違いをしている例が少なくありません。
やりたくもないことを、無理やりやらされている子供ほど、みじめな者はないのです。
そして、絶対に精神的肉体的に、限界まで追い詰めるようなことはしない。もしも、それをやってしまうと、その子供の柔らかな心の中に一生のトラウマとして刻みつけてしまうことにもなり兼ねません。
かつて、岡谷工業高校のバレー部監督が、選手を死亡一歩手前まで猛練習させてしまった時に、その選手の親御さんが、「たかが、バレーで、ここまでしてくれと誰が頼んだ!?」と、言っていたように、何事も、「たかが-----」なのです。
たかが、勉強。たかが、スポーツ。たかが、音楽。命に比べれば、何のことなし。
指導者や教師の方たちには、この言葉を常に胸に落として、子供たちを叱っていただきたいと思います。

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タグ :パチンコ依存症
血液型で判る積極性・・・・・182
2009年09月29日
~ 今 日 の 雑 感 ~
☆血液型で判る積極性☆
男性の方への質問です。
あなたが街を歩いていた時、ものすごく好感のもてる可愛い女性が目にとまりました。どうやら、彼女は一人でウインドー・ショッピングを楽しんでいる様子です。
こんな時、あなたは、彼女に声をかけることが出来ますか?
★こういう時、最も積極的に行動するのは、血液型がO型の男性だそうです。古い言い方ですが、ガールハントにも積極的で、根が大らかで親しみを感じさせるタイプの人が多いですから、成功率も高く、女性も安心して誘いに乗りやすいのだということです。
★B型男性は、意外に照れ屋ですから、自分から積極的に女性に声をかけるようなことはしませんが、女性に気のあるところをアピールしたいという気持ちは多分にあるので、無言で女性のそばへ行き気持ちを伝えるための行動に出ます。しかし、女性にとっては、単なる「気持ちの悪い人」でしかなく、さっさと逃げられるのが落ちです。
★A型男性は、根が生真面目ですから、女性にも真面目に声をかけます。しかし、地味な性格が災いして、そこから先の会話が弾みません。女性は、「なんだ、もっと楽しい人かと思ったのに」と、少々落胆しつつ、帰ってしまうことでしょう。
★最後に、AB型の男性ですが、彼らは、決して自分から声はかけません。友人が一緒にいる時なら、その友人に勧められて女性に声をかけることはあります。考え方がユニークで、しかも、理知的なAB型ですから、女性も喜んで話し相手になりますが、AB型の男性は、根が淡泊ですから、「正直、どっちでもいいや」と、思っていることが多いのです。女性は、それを考慮して付き合う必要があるといいます。
では、この男性同士の中で、最も相性がいいのは、何型と何型でしょうか?
実は、O型男性と、B型男性の組み合わせが最もベストなのだそうです。
★常に大らかな気風のO型男性は、B型男性の破天荒な性格をユニークだと思い、B型男性は、O型男性のドンと構えている態度に安心感を覚えているため、仕事のパートナーとしては申し分がないのだということです。しかも、お互いに干渉を嫌いますから、付かず離れずで、長く友人でいられるというのです。
しかし、O型男性は、「嘘」を、最も嫌うので、B型男性が、もしも、そのタブーを犯した時は、容赦なく切り捨てられるということを覚悟しておいた方がよいでしょう。
★また、A型男性とB型男性は、B型男性が甘え上手である場合はうまく行きますが、A型男性に対する心遣いをおろそかにしたり、没頭型のB型男性が、A型男性との約束を忘れたりした時は、もはや、A型男性の怒りを止めることはできません。
★A型男性も、AB型男性も、大企業志向の「寄らば大樹のかげ」タイプですから、その点、あまり踏み込んだ付き合いにならなければ、相性は悪くはありません。双方とも保守的で、将来を読んで行動をする方ですから、努力の痕跡を他人に見せたがりませんし、上辺は実にスマートにこなします。お互いに詮索し合わないことが、付き合いを長続させるコツです。
しかし、途中で、どうにも自分には無理だという局面にぶつかった場合、根が淡泊なAB型男性は、周囲に相談もしますが、A型男性は、あくまでも自分で頑張ってしまうので、うつ病などにもなりやすく、出来れば、ややお節介タイプのO型男性の相談相手などを友人にしておいた方が、何かと便利かもしれません。
いかがですか?少しは、思い当たる節がありましたでしょうか?
また、いつか、女性編も書いてみたいと思います。

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ユナイテッド航空93便は何処へ行った?・・・・・181
2009年09月28日
~ 今 日 の 雑 感 ~
ユナイテッド航空93便は何処へ行った?
最近、「ナガブロ」は、つながりが悪いですよね。
急いで、記事を書き直したり、コメントを書こうと思ったりしても、ブログを開くことが出来ずに困ってしまいます。
せっかく書いた記事も吹っ飛ぶし、下書き保存させる時は、いつもヒヤヒヤものです。(;一_一)
2001年9月11日にアメリカで起きたワールド・トレードセンターなどがハイジャック機で破壊された「同時多発テロ」に関しては、未だに、アメリカ政府が、何かを隠しているという疑惑が、国民の間から拭いきれていないというのが現状のようです。
わたしも、あの報道を聞いた時、何故、アメリカ政府はアルカイダというテロリスト集団の存在を知り得ながら、手をこまねいていたのか、不思議でなりませんでした。
そして、その中でも、特に印象深かったのが、同日の午前10時過ぎにハイジャックされた、ユナイテッド航空93便の墜落でした。ワールド・トレードセンター破壊のニュースや、国防総省(ペンタゴン)ビルに突っ込んだといわれる機体のニュースは連日取り上げられていましたが、この93便墜落のニュースは、テロ当日ほんの一、二度放送されただけで、あとは音沙汰がなくなってしまったのです。
しかも、墜落したというペンシルベニア州シャンクスビルの丘陵地帯の現場を、墜落直後に現地のテレビカメラが撮影した時、既に、そこには機体の残骸らしき物は、まったくなく、地面に大きな穴が開いていただけでした。事故機は、早々に撤去されたという理屈は、どうにも腑に落ちません。
あれだけの大事故です。機体の残骸があたり一面に飛び散り、警察や消防、もしくは州兵などの姿で現場はごった返し、規制線が張られ大騒ぎになっているかと思いきや、なにもなし・・・・。日本でテレビを観ている一般視聴者でさえ、不可解に思ったのです。現地の人たちの反応は、やはり、相当な疑惑に満ちていました。
当時、真っ先に墜落現場に駆け付けた隣村のインディアンレイクのリクティ村長は、このように証言したと、新聞記事は伝えています。
「墜落地点は、直径12メートル、深さ6メートルほどの穴になっていたが、その中に機体らしき物はなかった。付近でも大きな残骸は見ていないが、現場から約3キロ離れた湖周辺でシートベルトや遺体の一部が見つかった」
機体がなかった訳として、村長は、FBI から説明を受けたものの、それは、
「機体が地面を貫き、10メートル以上の深さまでめり込んだため、地下の機体はフライトレコーダーなどと共に回収した」
と、いうことで、到底納得のいくものではなかったようなのです。航空評論家も、機体が地面にそこまで埋まることはまずあり得ないと、疑問視しているということです。
また、リクティ村長は、かつて海軍にいた経験から、「大きな爆発音がした直後、自宅の真上を低空で飛行する戦闘機らしきジェット機の轟音を聞いた」とも、証言しているのです。
こうした証言からも、ハイジャック機93便は、空軍の戦闘機により撃墜されたと見る人たちは少なくありません。
では、機体が墜落した痕跡といわれる、あの大きな穴は、いったい何だったのでしょうか?もしや、誰かが事前に掘っておいた穴だったのでしょうか?こういうことが近々起きることを予期して-----。
地元当局は、未だに、いわゆる「墜落地点」を、遺族以外立ち入り禁止としているそうです。しかも、それは、「連邦政府の指示によるもの」だということです。
ユナイテッド航空93便は、果たして何処へ消えたのでしょうか?謎は、深まるばかりです。
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日本人の謝罪は謝罪にあらず・・・・・180
2009年09月27日
~ 今 日 の 雑 感 ~
日本人の謝罪は謝罪にあらず
日本人のお詫びの仕方は、アメリカやヨーロッパの国々の人たちから見れば、まったくお詫びになっていないと、映るらしい。
日本人は、何かまずいことがあると、何を置いてもまず、「ごめんなさい」と、頭を下げる。その態度は、日本人同士には潔いとか、勇気があると思われるが、外国の人たちは、これに疑問を抱くのだという。
外国人にとってのお詫びは、謝罪であり、謝罪とは罪を告白して許しを乞うことなのだという。
だから、彼らは、めったなことでは簡単に謝らないし、謝るとしても、まずは、何故そういうことになったのかということを説明した後でなければ、頭を下げないのである。つまり、先に、自らの正当性を相手に話した上でなければ、許しを乞うことも出来ないというのが、彼らの考え方なのである。
しかし、日本は、、まったくその逆であり、もしも、詫びを入れる前に状況説明や、そうなるべき経緯などを説明しようとすれば、「言い訳はするな!」とか「男らしくない」「卑怯者」などと、集中砲火を浴びることは間違いないであろう。
そして、それが行き詰れば、自らの罪を悔いあらためることもなく、メンツの方を重んじて、いきなり自殺-----などということになってしまうのだ。これは、決して、詫びたことにはならないと、外国人が思うのも無理はない。
いや、それよりも、彼らは誤解しているのだ。日本人は、いとも簡単に頭を下げるので、謝罪を軽く見ていると思われがちだが、本当は、世界で一番謝罪が大嫌いな人間なのである。謝るくらいなら、死んだ方がましだと思っている国民なのである。それほど、謝罪という行為は、日本人のプライドを傷付けるものなのである。
だから、決して、周りの国に対しても、本気で頭を下げようとはしない。たまたま、「ごめんなさい」と、いってしまったあわてんぼうがいても、すぐに、別の人間が、「あれは、嘘でした」と、打ち消すことになるのである。
「もしも、日本人が、本気で心からの謝罪をする時は、日本国が地球上から消滅する時だ」と、いう説もあるほどである。
かつて、わたしが通っていた英会話学校で、「オリンピックで負けた日本選手は、どうして国民に向かって謝るのか?」と、いう話題が出た。アメリカ人の教師は、「アメリカでは、絶対に考えられない行為だ」と、言った。同じ教室の日本人の生徒は、「それは、国民の税金から遠征費用や練習費を頂いている以上、負けたらお詫びするのは当然だ」と、応えると、その教師は、「詫びる必要などない。黙って、使っただけの費用を返却すればいいことだ。日本人は、詫びれば何でも済むと思っているが、それは、単に甘えでしかない」と、言う。
つまり、国への慰謝料を支払う努力をしても、なおかつそれが無理だった時、初めて「詫びる」という行為が許されるのだというのである。
確かに、「謝罪」の「謝」は、「弁明」「気持ちを相手に届ける」という意味であるという。
本当のお詫びの仕方は、日本式のような「申し訳ありません」のあとに、償いなのか?外国のように、償いきれない場合のみに初めて「申し訳ありません」なのか、どちらが正しい謝り方なのか-----?
あなたは、どう思われますか?

意外と知らない行司の世界・・・・・178
2009年09月26日
~ 今 日 の 雑 感 ~
★意外と知らない行司の世界★
皆さん、大相撲といえば、力士のことはご存じでも、行司さんのことは、あまりご存じないのではないでしょうか?
り・まんぼーさんのブログのコメント欄にこの行司さんについて少し書かせて頂きましたが、せっかくなので、自分のブログにもアップしてみたいと思います。

行司は、言わずと知れた大相撲の裏方さんです。
独特の直垂(ひたたれ)に烏帽子(えぼし)という行司装束に身を固め、土俵上では歯切れのよい声で、「はっけよい、残った、残った」と、勝負を盛り上げ、勝負の審判をする重要な役目です。
この「はっけよい」の掛け声は、「発揮揚々」 、もしくは、「はっ、競えや」から来ているとも言われ、力士ががっぷり組んだ状態で動かない時に使われます。また、「残った、残った」は、文字通り力士が技をかけている時、「まだ、(土俵上に)残っているぞ」という意味で、使われる言葉だということです。
大相撲観戦で、まず、目につくのは、行司のあでやかな装束ですよね。正に、豪華絢爛。相撲に興味はないが、行司の衣装を見たいばかりに本場所へ足を運ぶという観客もいるくらいです。

行司にも、力士と同じく階級があり、最高位は、「立行司(たてぎょうじ)」と呼ばれる木村庄之助、次位が、「立行司格」の式守伊之助、この下に三役行司が3名、幕内行司が8名、そして、十両格、幕下格、三段目、序二段、序ノ口と、続きます。
身につけるものも階級によってきちんと決められていて、幕下以下の行司さんは裸足。十両に上がってようやく足袋がはけるのです。
足袋に草履(ぞうり)がはけるようになるのは、なんと、三役以上。そして、立行司と立行司格のみが短刀を腰にさすことが出来るのです。そして、いくら立行司でも、やはり定年はありますから、65歳になったら、土俵を去らなくてはなりません。
そして、その行司さんの衣装ですが、十両以上の装束は絹織物の高級品で、織り方にも夏と冬で違いがあり、夏は「沙(しゃ)」、冬は「綾(あや)」と、これまた手が込んでいるのです。
お値段は、安く見積もっても50万円は下らず、幕下以外の木綿製でも20万円はかかるといいますから、驚きです。
行司は、それぞれが各相撲部屋に所属するという形がとられているため、一門から新しい大関や横綱が出るとお祝いとして新しい装束を買ってもらえたり、部屋の後援者がプレゼントしてくれたりすることも稀にはありますが、ほとんどは、自前でそろえなくてはならないそうで、まったくの自己負担なのだとか。
しかも、装束は、普通の着物のように洗い張りが出来ないため、大変な出費なのだそうです。
また、行司の階級を表わしているのは、胸と袴についている「菊綴(きくとじ)」と呼ばれる飾り房で、軍配の房紐と同じく色で区別されているのです。因みに、木村庄之助は「紫」、式守伊之助は「紫白」です。
腰にさす短刀も、「もしも、差し違え(審判間違い)をしたら、切腹するだけの覚悟がある」という、行司の心構えを意味しているのだといいます。
そして、あの何とも奇妙な独特の文字で書かれている「大相撲番付表」も、実は、行司さんが書いているのです。
ですから、行司は入門した時から、この独特の相撲字・根岸流の書体をみっちりと習うことになるのです。
あの、番付のもっとも小さい字、皆さんには読めますか?序二段、序ノ口の力士などは、あれを虫眼鏡で見ては、自分の名前を確かめているそうですが、この文字が、肉眼ではっきりと読めるようになることを夢見て、お相撲さんたちは日々の稽古に励むのだそうです。

因みに、行司には義務教育終了後の男性なら、思想信条のかたよりがないことを条件に誰でも志願出来るそうですので、もし、興味があるなら、希望する相撲部屋の師匠を訪ねてみるのも良いと思います。

自分のことを、何と呼んでいますか?・・・・・177
2009年09月26日
~ 今 日 の 雑 感 ~
自分のことを、何と呼んでいますか?
あなたは、自分のことを呼ぶ時、どんな言葉を使っていますか?
「ぼく」「おれ」「わたし」「あたし」「おいら」「わし」-----呼び方は、さまざまありますが、お子さんやお孫さんのおられる方は、ご自分を「お父さん」「お母さん」「お祖父ちゃん」「お祖母ちゃん」などと、呼ばれている人も多いことでしょうね。
昔の童謡に、「さっちゃん」という歌がありました。
「さっちゃんはね さちこっていうんだ ほんとはね だけど ちっちゃいから自分のこと さっちゃんて呼ぶんだよ おかしいな さっちゃん」
このように、小さな子供は、自分のことを「〇〇ちゃんね~」などと、自分の名前で呼ぶことがよくあります。本当は、おかしな言い方なんですけれど、幼児の場合は、可愛さに負けて許してしまいますよね。
でも、これが、小学校の高学年頃からは、何とも鼻につくように思えて来るものです。大人とさほど変わらないような体格の子供が、「〇〇ね、今度、ママとディズニーランドへ行くのよ」なんていう言葉を聞くと、この子の親は、いったい家でどんなしつけをしているのだろうと、考えてしまいます。
小学生でも、奇異に思えるのですから、いい年をした大人が、自分を「〇〇が、思っているんだけれど・・・・」などと、名前や仇名で呼ぶなどということは、奇妙を通り越して、相手に失礼にさえなると思うのです。(ただし、メディア関係などによく登場する人や、タレントなど、そう自称することが職業上必要な場合は、その例ではありません)
また、自分のことを、第一人称でどう呼んでいるかということは、その人個人の性格も表しますよね。物語一つをとっても、原語の翻訳が、「わたし」で書かれているか、「ぼく」で書かれているかで、読む気が起きたり失せたりしてしまうものです。
中学生の頃、わたしは、推理小説にはまりまして、「シャーロック・ホームズの冒険」というシリーズをほとんど全巻読破しました。しかし、このシリーズは、出版社によって、翻訳の日本語の表現が微妙に違ったのです。
名探偵ホームズのシリーズは、ホームズの親友である医師のジョン・ワトソンによる、「我が親愛なる友、シャーロック・ホームズは-----」というような、語り口調で書かれて行く小説なのですが、そこは、少年少女向けに書かれているものですから、「ぼくの親友のシャーロック・ホームズは-----」と、いう書き方になっている訳なのです。
しかし、わたしは、この「ぼく」のところが、どうしても「ぼく」でなくては読む気にならなかった訳で、たまに、「わたし」と書かれているものは、どうしても敬遠したくなってしまうのでした。また、「ワトソン」も、「ワトスン」という訳し方では、やはり読む気が起きませんでした。
物語を書く上でも、この第一人称がどれほど大事かということも、この時に知ったのです。
ですから、わたしは、普段の生活でも、特に男性が自分をどのように呼ぶのかということに、とても興味があります。
自分をどう呼ぶかで、その人の生活感までが想像できてしまうような気がするからです。これが、英語なら男女の区別もなく、すべてが「 I 」で、済んでしまうため、何とも味気のない人物像になってしまいますが、日本語は、その点、多種多様な第一人称が存在するため、実に、楽しい言語だといえるのです。
「あたい」「うち」「あて」「わたい」「小生」「吾輩」「それがし」「拙者」「みども」「わらわ」「われ」「余」「朕」などなどなど・・・・。
あなたは、ご自分を、何と呼んでいますか?そして、ブログを書く時の第一人称は、何ですか?

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八ッ場ダムって、なに?・・・・・174
2009年09月23日
~ 今 日 の 雑 感 ~
八ッ場ダムって、なに?
本日のスーパーマーケットでの山ノ内町(と、思しき)の主婦たちの会話を再現します。
本当は、もっとすご~い方言で話していたのですが、それでは、翻訳が必要なので、標準語に直して書いてありますので、ご了承ください。<(_ _)>
主婦A 「ヤンバ・ダムって、すぐお隣の町の群馬県長野原町に出来るはずのダムなんですってよ」
主婦B 「ああ、知ってる。あれって、『八ッ場』って書いて、『ヤンバ』って読むんですってね。前原さんが視察に行ったのに、長野原の人たち、誰も話し合いに来なかったってニュースでやっていたけど、せっかく国土交通大臣が来たんだから、会うだけでも会ってみればいいのに、住民の人たち、なんで、拒否しちゃったのかな?」
主婦C 「最初は、住民たちも、ダム建設には反対していたようなんだけど、前の自民党の人たちに説得されて、立ち退きを承諾して、家も、お墓も、手放しちゃった人たちが多いんだって。そういう人たちは、代わりの土地に温泉街を造って、ダム湖を名物に商売をしようと思っていたんだけど、もしも、ダムが出来ないとなると、何のために立ち退いたのか判らないって、怒っているんでしょ?」
主婦B 「そりゃァ、住民が怒るのも当然よね。だって、民主党がダム建設を中止すれば、立ち退き金がもらえなくなるばかりか、温泉街構想も、パーでしょ。それに、もう、3千億円もお金をかけて、ダム工事に必要なトンネルなんかも造っちゃった後らしいし、いまさら、中止と言われても、じゃァ、これまでかけた税金は、無駄にするの?-----ってことだよね」
主婦C 「な~んか、石原都知事も怒っていたよね。ダムが出来れば恩恵にあずかれる下流の、東京や千葉なんかの自治体も、1千400億円以上負担金を出しているから、中止なら、そのお金を返して欲しいって言っているんだよね」
主婦A 「それじゃァ、もしも、ダム建設をやめれば、造るよりもお金がかかるかもしれないってこと?」
主婦C 「いや~、それはどうだろう?ダムって、それだけを造れば済むってもんでもないらしいから、なんやかんやで、9000億円ぐらいかかるっていう人もいるくらいだから-----」
主婦A 「ところで、この八ッ場ダムって、いったい何のためのダムなの?建設されれば、すっごく巨大なダムになるそうだけれど、未だに、ダムなんて必要なのかしら?」
主婦B 「必要だって言っている人たちは、利根川や荒川の下流部の人たちを洪水から守るためだとか、首都圏の渇水対策だとか言っているけれどね」
主婦A 「大事なところは、そこでしょう?使い道のないダムを造っても、維持費やダムにたまる土砂を取り除くお金を、どぶに捨てるようなものでしょう。もったいないじゃない」
主婦B 「でもさ、断腸の思いで、移転を決意した長野原町の人たちのことを思うと、やっぱり、可哀そうだよ。それに、自民党政権から、民主党に替わっても、政策をころころ変えられては、国民は迷惑よね。それって、実際やっちゃいけないことじゃないのかな?」
主婦C 「みんな、そう思うけれど、二大政党制ってのは、そういう大どんでん返しもあり得るってことみたいよ。アメリカなんかじゃ、大統領のコックさんまで代わるそうだから。韓国だって、大統領が代わったら、北朝鮮政策も180度変わったからね」
主婦A 「へ~、そんなに劇的に変わるなんて、知らなかった」
主婦C 「要するに、自民党政治よりも、考えようによっては、民主党政治の方が、何かにつけて白黒つけたがるということかもね。わたしが、長野原町の人だったら、絶対、前原さんに話を聞いてもらいに行ったと思うな。どうせ、中止なら、大臣に思いのたけをぶつけてみるのもいいじゃない。町長に、『大臣を蹴り飛ばして欲しい』って頼んだ人もいるんだから、そんなに腹が立つなら、自分自身で蹴り飛ばす気で会うべきだと思う。会わない、話し合いに応じないということは、中止を認めたと思われても仕方ないやり方だよ」
主婦A 「でも、話し合いの席に住民が一人もいないところで、前原さん、ずっと住民たちの来るのを待っていたんでしょ?何だか、気の毒だわ・・・・」
主婦C 「はあ~?若い男とみれば、すぐ同情するんだね」
主婦A 「だって、まつげが長くて、いじめられキャラ全開って感じなんだもん」
主婦C 「あんたの結論は、結局、それかい!」 続きを読む
長野電鉄屋代線の奇跡・・・・・173
2009年09月22日
~ 今 日 の 雑 感 ~
長野電鉄屋代線の奇跡
9月21日午前八時四十六分頃、長野電鉄屋代線の「旧長野街道踏切」内に、二歳七ヵ月の女児がいるのを普通列車の運転士が見つけ、急ブレーキをかけた。
女児は、とっさに前のめりに身を伏せて、レールの間の板と車体底部の間に潜り込み、おでこに軽い打撲と、足にかすり傷を負っただけで間一髪助かった。
この踏切は警報機も遮断機もない「第四種踏切」で、女児は、踏切の近くに住む祖父の家へ母親と一緒に遊びに来ていたところ、母親が目を離したすきに、裸足で踏切内に入り込んだのだという。
列車は、女児の上を1.3メートルほど通過して止まったが、停車距離があと十センチほど延びていれば車軸が女児に接触していた可能性もあり、正に、奇跡としか言いようがないと、ニュースは全国に報じていた。
女児は、列車が停止したのち、自力で車体の下から這い出して来て、母親がこの事故に気付いた時、運転士に抱きかかえられていたという。
運転士があと一秒でも女児の存在に気付くのが遅ければ、取り返しのつかない大事故になっていた筈であった。また、女児が、偶然なのか、自ら判断したのかは判らないが、とっさにうつ伏せに倒れたことも、この奇跡を生んだ要因といえる。
この事故の原因は、言わずもがなの祖父と母親の注意義務の怠慢である。祖父の家が踏切の近くにあることが判りながら、女児から目を離したことが、女児には、とてつもない恐怖を、そして、列車の運転士には、たとえ一時とはいえ「轢いてしまったかもしれない」という、精神的衝撃と罪悪感を、もたらしたのである。
さらに、列車の乗客たちにも、心配と、足止めを余儀なくさせた訳で、母親たちの責任は、極めて重いというほかない。
今回の問題を、長野電鉄がどのように処理するのかは判らないが、ある人の説明では、「公共交通を故意にせよ過失にせよ滞らせた場合は、会社側から賠償請求がなされることもある」そうで、俗に、「商用車とは事故を起こすな」と、いうのも、こういうことがあるためだそうだ。
わたしの知り合いで、同じように踏切近くに家を建てた人がいるが、その人は、家事をこなす時などは、子供が小さな頃は、子供の身体に紐を括りつけ、三メートルほど延ばして柱に縛っておいたそうである。しかし、これは、決して虐待ではない。幼い子供から一時でも目を離すことの方が虐待なのだと思う。
今後は、絶対に、このような事故が起きないことを願うのみである。

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十二歳女児の死・・・・・172
2009年09月21日
~ 今 日 の 雑 感 ~
十二歳女児の死
先日、信濃毎日新聞の夕刊の小さな囲みに、衝撃的な記事が掲載されていた。
AP 通信の配信による記事で、イエメンの西部ホデイダ州で、十二歳の女の子が、出産時に胎児と共に死亡したというのである。
この女の子は、ファウジヤ・アブドラ・ユーセフちゃんといって、たった十一歳で、二十四歳の男性と結婚させられていたのだという。
彼女は、それでも、三日間、自然分娩で出産しようと苦しんだあげく、出血多量で、胎児と共に死亡したのであった。
イエメンは、アラブでも最貧国と言われている国で、地方を中心に、経済的な理由から花婿が花嫁に支払うお金を目当てに、親がまだ幼い娘を強引に結婚させてしまうというケースが後を絶たないのだという。
おそらく、彼女も、病院へ運ばれていれば、帝王切開などの手術を受けて助かったかもしれないが、そんな金銭的余裕もなく、見殺しにされたようなものである。
これは、もはや結婚とは名ばかりの、人身売買である。
インドの地方でも、女性は、一家の奴隷同然で、気に食わない嫁は、殺されても文句は言えないというような風潮がはびこっている地域があると聞く。人権団体や国が、どう規制しても、民衆の生活の中に根付いている「女性蔑視」は、そう簡単には払しょくできそうもないそうで、彼らの意識を変えるのは、至難の業だと頭を抱えているのが実態だそうだ。
中国では、一人っ子政策の結果、男児の方を選ぶ夫婦が圧倒的に多く、女児を妊娠すると、こっそりとその赤ん坊を捨ててしまうという親が大勢いるため、今、孤児院には、女の子ばかりが溢れているという話である。
そもそも、何故、世の中には、これほどまでに男女の差別がはびこっているのかといえば、男児は、女児よりも生存率が低いという原因があるらしい。日本でも、かつて、男の子が生まれると、最初の名前は女の子の名を付けることもあったり、また、捨て子は健康に育つということから、この子は、自分の家の息子ではなく捨てられていた子供を拾ったのだという意味で、生まれたばかりの赤ん坊を道端へ置き、それを近所の人に拾って来てもらうという、風習もあったと聞く。
また、男性は戦場へ駆り立てられることもあり、家庭内では女性よりも手厚く遇するという風潮も生まれ、こうした男性上位の社会が、公然と認められて来たのだとも言われているのである。
しかし、先進国について考える時、現代社会において、戦場へ行くのは何も男に限ったことではなく、医療の進歩もあり、出生児の生存率も極めて高くなっている今日、もはや、男尊女卑の思想は消滅してしかるべきものなのである。
(男性は、神聖なもので、土俵にのれるが、女性は、不浄なものだから上がることが許されないなどという風習にも、腹が立つ。女性が不浄なら、それから産まれて来た男性は、なお不浄なはずである。そもそも神聖の意味が判らない)
ましてや、男性は、女性の染色体のX X が一部欠けて出来上がった、いわば、染色体X Y の変則的なミュータントである。
その欠損染色体のミュータントが、完全染色体を持つ女性よりも優遇されるということに、わたしは、どうも納得がいかないのである。
一日でも早く、世界中の虐げられている女性たちが、この間違った現状から解放されることを願ってやまない。


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保険が効くのは入院時だけ・・・・・171
2009年09月20日
~ 今 日 の 雑 感 ~
保険が効くのは入院時だけ
新聞に目を通していたら、コラムの欄に面白い記事が載っていました。
面白いというのは、語弊があるかもしれませんが、わたしのまったく知らない「保険のからくり」のようなものだったので、ブログに書いてみようと思います。
皆さんは、よくテレビの保険会社のコマーシャルで、「入院時には一日一万円が保証されます」などという言葉をよく耳にされると思いますが、この言葉、何気なく聞いていると、「ガンなどの病気になったら、一日一万円が保証されます」と、言っているように思えますよね。
でも、そうではないらしいのです。特に、ガン保険に関しては、「ガンで入院している時のみ、保険が効く」ということらしいのです。もちろん、退院後も保証してくれるという保険もありますが、ほとんどのガン保険は、この形をとっているそうなのです。
ですから、必然的に手術が終わり、退院すれば、保険は適用されません。でも、ガン治療というのは、退院後の方が圧倒的に治療費がかかるものなのです。
小泉元総理が推し進めた構造改革の結果、医療の必要度が三段階に分けられるうち、必要度が最も低い「医療区分1」に該当する患者については、入院治療で得られる診療報酬は病院にとっては赤字になるため、病院側としては、治療が終われば、患者の身体の具合如何にかかわらず、退院を要求しなければなりません。
そのため、かつては、ガンで入院となれば、一月、二月の入院は当たり前だったものが、最近は、手術が終われば即退院というシステムに変わって来てしまいました。ですから、ほとんどのガン患者は、二週間から三週間で退院となり、その後は通院治療に切り替わるという訳なのです。
もちろん、退院後の治療費に保険適用はありませんから、国民健康保険に入っていたとしても、すべて実費で支払わなければなりません。そして、ガンの治療費は、抗がん剤や放射線治療の費用も含めると、かなりの金額に上ることも事実です。
高額医療費の申請をしていたとしても、相当の支払額に値することには変わりません。
さらに、患者たちに追い打ちをかけているのが、介護保険の財政を立てなのすために2011年度までに行なわれる、全国の十三万床の介護療養病床の廃止です。
要するに、患者たちは、何が何でも家へ帰り、そこから病院へ通院するか、もしくは在宅介護に切り替えて欲しいという国の政策なのです。
郵政民営化で、踊らされていた国民は、そんなことが裏で着々と準備され決定されていたことに、まったく気付かなかったのです。いいえ、国民ばかりではありません。小泉チルドレンと呼ばれていた国会議員たちでさえ、そのことは何も知らなかったのです。
このような状況で、通院のための交通費だって馬鹿になりませんから、低所得者が病気になれば、ひいては通院を途中で諦めざるを得ないということにもなるのです。いいえ、もう既に、そういう選択をしている人も少なくないでしょう。
人間の命の価値が、所得や住んでいる地域で変わる。------こんな時代が来るとは、誰が予想したでしょうか?
「人の命は地球よりも重い」と、かつて言った自民党の総理大臣がいましたが、よくも白々とそんな言葉が吐けたものだと思います。「金の切れ目が命の切れ目」-----そんなことがあっていいはずはありません。
今度、政権を奪取した民主党には、このような弱い者いじめの政策は、即刻見なおして欲しいと思います。
医療と教育は、国民誰もが等しく受けられるといった国家にならなくては、この国に生きる意味がなくなるのです。

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彼は、何者か?・・・・・170
2009年09月19日
~ 今 日 の 雑 感 ~
彼は、何者か?(~_~;)
「窓際から離れて、かがめ!」(ーдー゛)
部屋へ入って来るなり、弟が声を殺して言う。
「な、なに------?」(?_?)
「顔を出さない方がいい」
と、言う。その窓からは、外にあるベンチが見えるが、そこには、異様に髪の毛の長い男性が独り寝そべっていた。しかも、上半身が裸だ。肌は、日焼けしているのか真っ黒である。
ここからは、よく判らないが、弟の話では、男性は、腰ミノのようなものをつけただけで自転車に乗り、この辺りを転々と移動しているのだという。
「いま、SBCラジオでも、その男のことを放送していた。あちこちで警察の事情聴取も受けているらしい。本人は、新潟から来たといっているそうだが、須坂市や中野市内でも大騒ぎになっている」
と、弟は説明する。しかし、別段、犯罪にかかわることをしている訳ではないという。
ただ、ほとんど裸の状態で、家財道具一式を積んでいるとみられる自転車に乗り、各地を走り回っているので、主婦たちが怖がって、警察や市役所に通報して来たのだという。
それにしても、この男性は、こんな格好で寒くはないのだろうか?わたしには、そのことの方が気になった。
その後、一時間ほどして、彼は、そこからまた自転車で走り去って行ったが、今度は、何処へ行ったのか?噂によると、また、再び元来た道を飯山方面へ向かったと聞いた。
確かに、長髪をなびかせ、真黒な裸体で自転車を疾走させる姿は、飯山市でも人目を惹くことだろう。
彼は、いったい何者だったのだろうか?一昨日、秋の日の、ちょっとした珍事であった。

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住む世界が違う人・・・・・168
2009年09月17日
~ 今 日 の 雑 感 ~
(;一_一)住む世界が違う人(ーдー゛)
「住む世界が違う人」といえば、普通は、皇族や代々の政治家一家、大会社の社長の御曹司とか、そんな人たちを想像しますが、ごく普段の生活の中の人間関係においても、そんな風に感じる人たちは、案外多いものです。
たとえば、まったく、自分とは異質の環境に暮らしている人たちが、その一例です。
わたしのように、一日のほとんどを家の中で過ごしている人間にとっては、行動的に世間を飛び回り、大勢の人と交流を持ち、楽しいのか、楽しくないのかは判りませんが、しゃにむに仲間を募って歩く人たちも、言わば、住む世界が違う人々といえるのかもしれません。
そういう人たちを見ると、「ああ、わたしは、こういう人たちの中に入っても、おそらく少しも面白いとは感じないだろうな」と、思うとともに、「たぶん、話している内容でさえ、理解出来ないんじゃないかな?」と、感じるのです。
ブログをやっていても、そういうことってありますよね。簡単にいうと、波長の合う人、合わない人-----とでもいうのでしょうか。
書き言葉一つをとっても、「ああ、この人は、かなり気難しそうだ」とか、「かなりの踏み込んだ部分まで、寛大に受け入れてくれそうだ」とか、「何を書いても、あっさりと、右から左へ流してしまえる淡白な人だ」とか、色々なブロガーの性格が判るものです。
しかし、波長の合う、合わないは、そういうこととは、また微妙に意味合いが違い、どんなに、意見の応酬をしあっても、まったく、苦にならない人というのがいる反面、ほんの一言二言コメントをしあっただけなのに、ものすごく気を使ってしまい、疲れるという人もいるのです。
さらに、中には、「どうして、この人はいつも喧嘩腰で負けず嫌いなコメントを書いてよこすのだろう?」と、思わせるような書き込みをするブロガーもいます。確かに、こういう人とは、まったく波長が合いません。
人間長く生きていれば、自分の中に独特のカラーという物が確立してしまうのは必然です。趣味も、価値観も、それぞれに違うのは当たり前のことです。しかし、人間のつながりというものは、たとえそういう違いはあったとしても、お互いに、相手の波長に少しでも近付くように気を使い歩み寄ろうとするのが、世渡りというものです。
しかし、今の大人の中では、自己主張ばかりを優先させて、平気で、相手に判らない趣味の話を延々と続けたり、精神論や宗教論を押しつけようとする人々が、幅を利かせているように思えるのです。
そういう人たちは、正しく、わたしに言わせれば、「住む世界が違う人」と、いうことになってしまうのです。
しかし、そういう人たちから逆にわたしを見た場合、やはり、人間として異質なものだと感じているかもしれません。
ただ、想像以上に人間の性格というものは正直です。どれほど、無理やりに交流を持とうとしても、やはり、合わないものは合わないのです。そうやって、自然と交友関係は淘汰され、整理されて行くものなのです。そして、最近は、わたし自身の中でも、ようやく、その形が固まりつつあるように思えます。
それでいいのだと思います。いつもの顔見知りのメンバーがサロンのように集まって、居心地のよい場所。-----それが、その人たちの住む世界なのですから。
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ミシュランVS京都料亭・・・・・167
2009年09月16日
~ 今 日 の 雑 感 ~




フランスのレストラン格付け雑誌「ミシュラン・ガイドブック」の京都・大阪版が、もうすぐ出版されるというが、この格付けに反対する京都の老舗料亭が何軒も現われ、ミシュラン編集部との間で、論争が起きている。
去年の「ミシュラン・東京版」が、好評を博したこともあり、次は、京都・大阪をターゲットにしようと、ミシュラン側は、かねてより日本人の調査員を京都と大阪のレストランや料亭に潜入させ、覆面調査を続けていたが、このほど、その中から掲載が決まったそれらの飲食店へ、その旨の連絡をしたというのである。
ミシュラン側とすれば、当然、それらの飲食店はこの掲載をもろ手をあげて喜び、掲載を承諾するものと思っていたのだが、その反応は、意外なものであった。
京都の老舗料亭の中から、掲載を断固断わるというものが何軒も出て来たのであった。
その料亭の言い分は、こうである。
「京都と大阪をひとくくりにされることに疑問を持つ」
「京都の料理は、日本の料理の象徴でもあるのに、覆面調査員がたった一日調査に来ただけで、店の味を判った風に言われては、はなはだ心外である」
「日本料理、特に京料理は、皿の上の料理の味だけが料理ではない。日本特有の四季や、座敷から見える庭の風景、器の美、掛け軸の意味、店の従業員の接待の仕方、店内の音楽、その店の歴史、京都の街の風情、などなどが、すべて一体となって、京料理なのだから、それが判らずして、店の格付けなど言語道断である」
「調査されなかった店にも、素晴らしい料理を出すところはたくさんある」
「東京版を見ればわかるが、掲載されても、廃業した店もあり、また、評判倒れの味しか出せない店もある」
「掲載してやるという、上から目線が気に入らない」
「フランス人に、日本の繊細な味が判る訳がない」
「ミシュランに掲載されたばかりに、一見のお客が増え、これまでのお得意様に対するおもてなしがおろそかになる」
このような様々な反対意見が噴出し、ミシュラン側は、正直、困惑の体であるらしい。しかし、それでも、ミシュランは強気である。「載せるか載せないかの判断は、取材された店側のかかわる問題ではなく、ミシュランが決めることである」と、あくまでも、掲載拒否を認めないというのである。
しかも、「掲載を拒否するなど、バカだ」とでも言いたいような態度であった。フランス人観光客に、「京都の料亭が掲載を拒んでいることをどう思うか?」と、訊ねたところ、彼らもまた、「ミシュランは、世界最高の権威のある格付け本なのだから、載せてもらうのは名誉なこと。断わるなんて、信じられない」という反応であった。
わたしは、この一連の騒動を聞いて、やはり、ミシュラン側は、日本料理という世界がまったく判っていないなァと、感じた。日本料理は、口に入るものだけが料理なのではない。フランス料理や、その他外国の料理と根本的に違うのは、日本料理は、「風情」を食するものだということなのである。
もしも、最高級の料亭に行って、最高の海鮮料理を食べたいと思っても、その日に板前の眼鏡にかなった魚介類が手に入らなければ、白米の飯にメザシ一尾を出しても、その店の誠意が客に伝われば、それは、最高のもてなし料理になるというのが、日本料理というものなのである。
そして、そういう料理を食べる人の舌は、幼い頃から、その場所で培われた味覚を持たねば、その土地の本物の味など判る筈もないのだ。そのため、今回の日本人ミシュラン覆面調査員の中には、「自分には、京都の味を見分ける舌がありなせんので、調査員を下ろして頂きます」と、いって、調査を辞退したものもいたと聞く。
実に、懸命な判断であったと思う。
ミシュランは、これからも、日本国内各地を取材した食のガイドブックを出版して行くことだろうが、日本食の原点ともいわれる京都と大阪の店に嫌われてしまった格付けに、どれほどの意味があるのか、はなはだ疑問であると、言わざるを得ない。 続きを読む
介護殺人の現実・・・・・166
2009年09月15日
~ 今 日 の 雑 感 ~
介護殺人の現実
「献身介護の夫に猶予判決」
山口地裁(向野剛裁判長)は、9月9日午後、寝たきりの60歳の妻を殺害しようとして、殺人未遂に問われた無職の岩崎政司被告63歳に、裁判員裁判による判決として、懲役三年、保護観察付きの執行猶予四年を言い渡しました。
この事件は、、夫の岩崎被告が、今年5月15日の未明、1996年に脳出血を起こし寝たきりとなっていた妻の百合江さんの首を包丁で刺し、十日間のけがを負わせたというもので、岩崎被告本人も、その後、殺鼠剤を飲み自殺を図ったものの死にきれず、警察に自首したといういきさつでした。
この事件の場合は、幸いにも未遂に済みましたが、こうした介護殺人は、最近、多く聞かれるようになり、その大半は、夫が妻を殺害するというものです。それも、その加害者になる夫たちは、押し並べて、ほとんどたった一人で妻を介護していたという現実があります。
そして、その現実に行き詰まりを感じると、最終的にとる手段が、妻の殺害なのです。どうして、男性が女性を介護している場合にのみ、こういうことが起きやすいのでしょうか?
妻が、夫の介護疲れを理由に、夫を殺害------などという事件は、あまり聞いたことがありません。
それなのに、何故、男性ばかりが加害者になりやすいのか・・・・?わたしは、その原因の一つに、男性の間違ったプライドがあるのではないかと思うのです。男が、女のために洗濯をしたり風呂へ入れたり、下の世話をしたり、食事の用意をしたりするなどみっともない。世間体が悪いから、妻の介護をしているということも、公には出来ない。
そんな男の見栄が、夫自身を追い詰めて行き、果ては、自分一人では対処できなくなるところまで行きついた結果、最終的に選択するのが、「妻の殺害」なのです。「こんな女のために、おれはこれから一生を棒に振らねばならんのか。女は、男を介護するもので、これでは、何のために女房をもらったのか意味がない。こんな、終着点の見えない介護は、もうご免だ。いい加減にしてくれ!」-----おそらく、これが夫の本音なのでしょう。
この判決を下した裁判員たちも、「献身的な介護の末に------」と、夫の岩崎被告を気遣うような言葉をかけていたとのことですが、わたしに言わせれば、何が献身的な介護なんでしょうか。自分のエゴを貫いたばかりに、このような結果を自分自身で招いたわけで、これは、一種の虐待です。献身的介護というのなら、最後までやり通してから言って欲しいものです。
どんなに長年親身に尽くしてもらっても、途中で殺されるのでは、最初から面倒などみてもらいたくはありません。それが、介護を受ける側の本音です。
もしも、岩崎被告が、自分のプライドを捨て、隣近所に頭を下げて、自治体のサービスや様々な人たちの手を借りていれば、おそらくこんな結果にはならなかったのだと思います。もっと、弱みを見せていれば、必ず救いはあったはずなのです。
最後に、裁判員の意見を代弁した向野剛裁判長が、「肩の力を抜いて人生を過ごして下さい。奥さんとの関係は、周りと協力して見守る形で、二度と悲しませることのないように」と、言った言葉が、すべてを物語っているように思いました。
何年か前、わたしの住んでいる地域でも、この介護疲れの夫による妻殺害事件がありました。
この夫婦の場合も、また、高齢の夫が、息子夫婦にも自分が妻の介護に疲労困憊していることが言いだせず、とうとう妻を手に掛けてしまったという事件でした。
介護されている人は、おそらく、美談になるような愛情たっぷりの献身的介護などは望んでいないと思います。
介護者の犠牲を伴う愛情などより、普通に身の回りの世話をしてもらえることの方が嬉しいのです。
わたし自身も、ほぼ二年ほど、自力で身動きがとれない日々を過ごしましたから、少しは介護される側の気持ちも判るのですが、自分自身の身体が辛いことよりも、介護してくれている家族が苦しむ姿を見ることの方が、ずっと精神的ダメージになるのです。
急激な高齢化社会の中、これからは、男性が妻の介護に当たらなくてはならない立場になる場合が、より増えて来るでしょう。そうなると、もはや、「おれは、男だ。介護なんかできるか」の意地は、通用しないのです。結婚した以上、夫も妻も介護の負担は五分と五分。妻の介護をするなど、どうしても我慢できないのでしたら、結婚などしないことです。

励まし言葉の大間違い・・・・・165
2009年09月14日
~ 今 日 の 雑 感 ~
励まし言葉の大間違い

あなたは、入院中の患者さんを励ます時、どのような言葉をかけることが多いですか?
たとえば、こんな言い方をしたこと、ありませんか?
「わたしの知り合いにも、同じ病気をしたことのある人がいるんだけれど、あなたの方が、全然軽いから、心配いらないわよ。その人も、今は、すごく元気になって、バリバリ仕事しているから」
これは、一見、とても相手を勇気づける言葉のように思われますが、必ずしも、患者の気持ちを楽にする訳ではないのです。つまり、それは、見舞いに来ている人本人の話ではないですよね。
要は、他人の経験談です。たとえそれが、真実だとしても、ワンクッション置いた立場での伝聞は、深刻な病気を抱えた患者にとって、ほとんどリアル感がありません。
聞かされた患者は、「そうだね。そういう人もいるなら、わたしも頑張らなくっちゃね」とは、言いますが、大半がお義理の反応なのです。患者の気持ちの中に、「わたしは、その人じゃない。あなたに何が判るのか。勝手なことを言わないでくれ」という憤懣を植え付けるのが落ちなのです。
しかし、もし、その見舞客自身が、そういう病気を体験した本人だったとしたら、それは、かなりの励ましになると思います。
そうはいっても、その見舞客が、こんな言い方をしたのでは、ますます逆効果なのです。
「何言ってるの。あなたなんかより、わたしの方が、すごい手術したんだから。あなたの病気なんか、わたしのに比べたら、軽いものよ。だから、全然心配することなんかない」
これでは、まるで、自慢話です。患者は、今現在の自分の辛さや痛みが究極のものだと思っているのですから、そこへもって来て、「あなたのなんか、わたしの比じゃない」などと言われたら、「そうね。わたしよりも大変な経験をしているのだから、あなたの方が偉いわね」などと、言葉では応じながらも、内心は、「冗談じゃない。あなたより、わたしの方が辛さは倍だ」と、反発するものなのです。
患者は、どんな軽症の患者でも、自分が一番大変な目に遭っているのだと思うものなのです。
しかし、病気を経験したことのある人は、自分こそが最大の受難者なのだと、思い込む癖があるものですから、とかく、自分の体験を他人に自慢したがるきらいがありますが、そんなところで競争意識を持ち出しても仕方がないことです。
では、どうしたら、患者の気持ちを穏やかにするよう励ますことが出来るのかというと、心から、 「大変だったね」「痛かったでしょう」「偉かったね」「あなた、勇気があるわ」「わたしの病気なんか、あなたのに比べたら軽いものね」「あなただから、頑張れたのね」-----などという、尊敬とねぎらいの言葉が、最も必要なのです。
わたしが、身体中の痛みで泣き言を言ってばかりいた時、わたしの伯父が、「そんな痛みは序の口だ。おれの痛みなんか、そんなものじゃない」と、いうので、わたしは、自分自身が体験している、この立ち上がることも出来ないほどの痛みよりも凄い痛みを、伯父は堪えているのかと、内心、仰天していたのですが、それが、まったくの伯父だけの思い込みだったということが、あとで判りました。
つまり、伯父は、自分が辛いものだから、わたしよりも自分の方が大変な症状なのだと、思い込んでいたのです。それほど、伯父にとっては、今まで経験したことのない痛みだったのでしょうが、医師の話から、伯父の痛みと、わたしの痛みを比べれば、痛みの種類は異なるものの、わたしの痛みの方が、数十倍の激痛だということが判りました。
それほど、他人の痛みというものは、判らないものなのです。

「自分の方が上」「自分の方が、大変」「自分の方が、我慢した」-----そんな言葉は、聞かされる側の患者の反発を招きはしても、決して励ましなどにはならないのです。
わたしは、自分の経験から、常に、こんなことを考えながら、病院へお見舞いに行きます。
皆さんも、周りに病気の方がおられたら、ぜひとも、尊敬とねぎらいの言葉をかけて差し上げて下さい。それが、患者にとっては、大いなるエネルギーの源になるのですから。

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道訊きのマナーとは?・・・・・164
2009年09月13日
~ 今 日 の 雑 感 ~
道訊きのマナーとは?
皆さんは、誰かに道を訊ねられた時、上手に教えることが出来ますか?
これは、左近先生のブログにも書かれてあったことなのですが、最近は、こちらがどれほど親身に教えて差し上げても、それが理解出来ないと、まるで、教えているこちらの方が悪いというような態度を露骨にする人も多くなりました。
わたしは、一つの礼儀として、もしも、何処かの街で、商店などに入って道を訊ねる際は、必ず、そのお店の物を一つ買うことにしています。もちろん買うのは安いものですが、たとえ、ガム一個やチョコレート一枚でも、こちらは、そのお店の人の時間を煩わせてしまったのですから、買わせて頂くのは当たり前だと思っています。
また、自動車で走っている時に、通りすがりの人に道を訊ねる時も、いったん自動車を路肩に止め、車から降りて訊ねるのが礼儀だと思います。
もちろん、それで道順が判ればいいですが、もし判らなかったとしても、「お手数をおかけしてすみません。どうも、ありがとうございました」の言葉を言うのは、当たり前のことです。しかし、今は、そんな子供でも知っている常識さえも、出来ない大人が増えているのです。
これは、左近先生のブログへのコメントにも書いたのですが、先だって、わたしは、こんな経験をしました。
わたしが、いつもの散歩をしていますと、そばへ一台のワゴン車が来て止まりました。そして、運転席から三十代ぐらいの男性が顔を出し、「この辺に、共同浴場、ないかな?」と、訊くのです。敬語でもなければ、「すみません」もなく、車を降りる気配もありません。車内には、奥さんと二人の幼い子供が乗っています。
わたしは、子供たちが楽しんで入浴することのできる、色々な施設を備えた外湯への道順を教えました。すると、その男性は、「そんな値段の高いところダメだよ。もっと、安いところはないの?」と、いうので、別の共同浴場を教えると、助手席にいた奥さんが、「もう、お昼だから、何処かでご飯を食べなきゃ」と、言います。
わたしは、「そのお風呂にもレストランがありますから、食事が出来ますよ」と、答えたところ、いきなり、その男性がこちらを小馬鹿にしたような笑い方をして、「そこまで訊いていないよ!」と、キレたのです。
これは、いったい、どういうことだと、わたしは仰天しました。こちらが、頼んで、道を教えさせて頂いている訳ではありません。呼び止めたのは、相手の方なのです。それを、まるで、顎で使うような言い方をして、平気な顔をしているどころか、まるで、こちらを馬鹿にするような態度です。
こんな親を見て育つ子供は、どんな子になるのかと思うと、ぞっとしました。
わたしも、そこまで言われて、黙っているつもりはないので、「じゃァ、好きなところへ行けばいい。この辺りは、足湯もあるし、コンビニでお弁当でも買って食べなさい。お金を出すのが惜しいのなら、子連れで遠出なんかしない方がいいですよ」と、捨てゼリフを吐いて、そこから離れました。
親切が仇になるとは、このことです。

ですから、その後は、やはり道を訊かれても、あまり言葉や態度が悪い人には、「さあ、知りません」と、とぼけるようにしています。でも、そういう人は、友人たちのところへ戻る時、大体においてこんな言い方をします。
「ダメダメ、あの人知らないってさ。地元の人間なのに、バッカじゃないの~」

旅に出て、気が大きくなると、たいてい皆そんなものなのです。それが、日本人の「地」なのです。自分が楽しければ他人がどうでも構わない。自分の方が、こんな人間よりも「上」。自分の気にそぐわない者には、礼など言う必要はない-----。
つまり、皆さんが、道を訊ねる時、本当に行きたい所に到達できるか否かは、その人個人個人のマナーにかかっているといっても過言ではないのです。

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御柱祭のいわれ・他・・・・・163
2009年09月12日
~ 今 日 の 雑 感 ~
御柱祭のいわれ・他


命が、建御名方命(たてみなかたのみこと)と、夫婦喧嘩をして、下諏訪に別居した時、数々の調度品と共に、いつも愛用していた化粧の湯を綿に浸して「湯玉」としてお持ちになったのですが、下諏訪へ来るまでにほとんどこぼれてしまいました。
不思議にも、こぼれた雫がもとで、その場所から温泉が湧き出したそうで、最も湯量の豊富な「綿の湯」は、命がここに「湯玉」を置いたためだといわれています。

しかし、ある風の強い夜に、そのともし火が消えてしまい、方向を見失った女は、力尽きておぼれ死んでしまいました。それからというもの、男女の仲がうまく行きますようにと、若い恋人達が、その「火とぼし山」の観音様に願をかけるようになったということです。

そこで、二人の神は、阿弥陀如来の言われるように樋を掛けたところ、水は、案の定、八ヶ岳から富士山へと流れたもので、負けず嫌いの女神は、腹を立て、悔し紛れに力をこめて八ヶ岳を思いっきり蹴とばしたために、天地を揺るがす轟音と共に、八ヶ岳の山頂は、八つに裂けてしまったのだということです。
かくして、その八つの山頂は、「権現」「編笠」「旭岳」「中岳」「西岳」「阿弥陀」「横岳」「赤岳」と、呼ばれるようになったといいます。
「信濃のはなし」より
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