びっくり、ブロガー!?・・・・・227
2009年11月03日
~ 今 日 の 雑 感 ~
びっくり、ブロガー!?

先日、あるナガブロガーさんの記事で、興味深いものを読みました。
あるお店の商品について、ブログに書いたブロガーさんが、そのお店へ行って、「わたしが書いてやったから、売り上げが伸びたでしょ?」みたいなことを、恩着せがましく言うようなことがあるのだそうです。
これには、記事をアップされたブロガーさんの筆調も、呆れた様子でした。

また、あるナガブロガーさんも、ブログを書くことが、さも特別の人間がやることのように錯覚しているブロガーがいるので、驚くばかりだ------と、言うようなことを書かれていました。わたしも、これに似たようなことは、以前にブログに書いたことがあります。
ブログを書くことって、やはり、一般の人にとっては、鼻の高いことなのでしょうか?わたしには、そんな風には思えないのですが・・・・。わたしの中のブログの認識は、「日記帳に毛がはえたようなもの」程度のものですから、もしも、人さまのことをよく書いたり、褒めたりしても、自分が書いているなどということは、絶対しゃべりたくありません。
でも、ブログを書いていることを公にして、しかも、書いてやっているとばかりに自慢げに話したい人がいるのだとしたら、その人は、いっぱしジャーナリストにでもなった気がしているのでしょうね。
でも、一応、公の紙面に記事を書いたことのあるわたしなどに言わせると、そういうことって、昔でいう「新聞ゴロ」のやっていたことに似ていますよね。まあ、こういう類の記者は、逆に、書かれたくなければ金を払えと、脅迫するんですけれど。
それにしても、ブログに載せる写真をお店で撮影する時、店側に許可を取らないブロガーが大半だということには、びっくりでした。わたしは、ブログに載せる花の写真を撮りたい時、道端に勝手に自生している草花は別ですが、人さまの家の花壇の植物であったり、動物であったりしても、一応必ず、その家の人に了解をとって撮影させて頂いています。
でも、こういうことは、皆さん、あまりなさらないのでしょうか?
とにかく、言いたいことは、ブログを書くということは、そんなに大層なことではないということです。もしも、あなたが、本当にジャーナリストを気取りたいのなら、記事をアップすることを店側に必ず承諾してもらうことと、書こうと思っている記事内容を、事前に下書きしてお店の人に見て頂くこと、その際、掲載したい写真を添えることと、その他に情報を付加するのなら、出自を必ず提示することが必須条件です。
お店の名前や、その店内の写真を具体的に掲載するということは、厳密にいえば実に厄介なことなんですよ。
ですから、ブログは、そっと個人的な日記にとどめておいた方がよいと思うのです。ブロガーが自分の趣味や思いを自由に記す場所として利用するだけであるのなら、単なる素人(個人)の覚書です。お店の名前や写真、住所、電話番号などにも、それほど、目くじら立てる人もいないでしょうからね。

言葉の持つ重み・・・・・226
2009年11月02日
~ 今 日 の 雑 感 ~
言葉の持つ重み
言葉とは、よく言霊(ことだま)といわれるように、時に、不思議と霊的な影響さえも引き起こす時がある。
わたしが、まだ二十代の頃、どうしてもバイクの免許が取りたくて、父親に頼んだことがあった。しかし、父は、大反対であり、「自動車の免許を持っているのだから、中型自動二輪など必要ない」と、言うのである。
確かに、わたしには具体的な目的があって二輪免許が欲しいのではなく、ただ、二輪が乗れないと世の中に遅れを取っているのではないかという、焦りがあったのである。弟が、中型二輪免許を持っていて、日本中をツーリングしている姿に軽い嫉妬を感じていたことも事実だった。
まあ、身長184センチの弟と、わたしとでは、体格にも相当の差があるし、父親が心配する理由も判らなくはないが、それでも、自動二輪免許には憧れがあった。
しかも、父は、大型自動車免許も大型自動二輪の免許も持っている。どうして、自分だけが・・・・と、いう気持ちもあった。(因みに母は、何の免許も持っていない。母が持っている免許といえば、華道教授、茶道師範、調理師免許だけである)
そんな折、父親が何気なく、こんなことを言ったのである。
「ちよみが二輪を取ろうと思えば、そりゃ、すぐに取れるだろうけれど、もしものことを考えれば、心配なんだよ」
その瞬間だった。本当に、不思議なくらいにふっと、二輪免許が欲しいと思っていた気持が失せてしまったのである。自分でも、まったく気味が悪いくらい、もうどうでもよくなってしまった。
つまり、わたしは、二輪免許が欲しかったのではなく、自分にだってバイクに乗るぐらいなことは出来ると、誰かに認めて欲しかっただけなのだと、いうことに気が付いたのだった。
このたった一言が、真の気持ちを探り出してくれたのである。この体験は、驚くべきものであった。
また、こんな経験もした。病気で入院している時、七十代の女性患者さんが、どうしてもリハビリをしたくないと、理学療法士の青年をいつも困らせていた。
青年は、毎日、その女性のベッドまで来て、「〇〇さん、歩く練習しましょうよ~。寝てばかりいないで~」と、説得してはみるのだが、まったく効果がなかった。それどころか、彼女は、自分の病気に嫌気がさしていたのか、食事や薬の服用も拒み、担当の医師も、ついに業を煮やし、栄養を直接身体に補給する静脈カテーテルをつける手術をしたのであった。
そんなある日、女性のすぐ近くにある暖房器が、あまりに熱いので、窓を開けようと、わたしが彼女のそばまで行った時、何気なく、「こんな熱い場所で、辛抱して下さっているんですね。わたしのベッドの場所がちょうどいい温度なのだから、ここは大変ですね」と、言うと、その女性は、「だから、食欲もないし、水ばかり飲んでいるんだよ」と、珍しく言葉を発したのである。
その翌日、なんと、女性が、リハビリ担当の青年と、歩行訓練に出かけたのだった。病室内は、皆、仰天であった。今まで、一月もリハビリを拒んで来たのに、どういう風の吹き回しだろうと--。
そんな時、一人の女性患者が言った。「たぶん、昨夜のちよみさんの一言がきっかけになったんだろうね。『熱い場所で辛抱してくれている』って言ったでしょ?きっと、自分もこの病室内では役に立っているということに気が付いたんだと思うよ」
人に認めてもらえ、そして、自分も人の役に立っているという気持ちが、彼女のやる気を引き出したのだと、その人は言うのだった。
言葉は、虚しい。その場には形としては残らないものだが、ほんの些細な一言が、人間の生き方さえも変える力を持っていることも、事実なのである。だからこそ、慎重に、しかし、時には大胆に、扱う必要があるのではないだろうか。

わたしの苦手・・・・・225
2009年11月01日
~ 今 日 の 雑 感 ~


今回書くことは、わたし個人の嗜好ですので、あまり深く読まないで下さい。
わたしは、意味もなく長い髪の女性は苦手です。意味もなく-----と、言うのは、髪が長いことが必須条件の仕事についている人とか、病気などの事情で髪を短く出来ないような人は、例外ということです。
特に、子育て真っ最中の主婦の髪が長い理由が判りません。「子供に手がかかって困るのよ」と、ぼやきながら、じゃァ、自分の髪の毛に手をかけるのはいいのかい?と、まぜっかえしたくなります。それに、独身の時ほど手入れが行き届かない長い髪は、見た目も不潔です。
この前、わたしの家の前を通った保育園児たちも、四十歳過ぎのおばさんが長い髪をこれ見よがしになびかせていたところ、声をそろえて、「年寄りの若作り!」と、騒いでいました。(爆)
わたしが学生の頃、有名俳優の娘が、ちょうどわたしの前の席にいたのですが、その子の腰までもある長い髪がじゃまでじゃまで、教壇が見えないほどだったため、「うっとうしい!」と、いったところ、翌日にはスパッとショートカットにして来てくれました。でも、その方が、ずっと彼女には似合っていました。
それから、もっと気に入らないのが、まださほどの年齢でもないのにダイエットのしすぎで痩せすぎの女性です。本人は、スタイルがよいと思って得意でしょうが、わたしに言わせれば、栄養不足で新陳代謝がうまく機能していない、精神&肉体的「ダメージ女」です。そういう女性は、肌のつやも悪く、吹き出物が多く、口臭さえある場合があります。髪の毛にも栄養が行き渡らないため、薄毛やダメージヘアに悩んでいるはずです。(実は、わたしの身内にも若干名いるのです。こういうギスギス女が----

そして、そういう痩せぎす女性が最もはた迷惑なことは、そのまま高齢になった時、おそらくは、認知症や骨粗鬆症になる確率が、標準体重や小太りの女性に比べて、高くなるだろうと予想される点です。つまり、彼女らは、明らかに介護保険適用高齢者の予備軍だともいえる訳です。
しかも、その女性たちが、身長165センチ以上となれば、更に、問題は深刻です。高齢になった彼女たちが、そのままの体重を維持していてくれる保証はありません。もしも、運動不足や足の筋力の低下で体重が増え、介護を受けるようになった時、そんな大きなお婆さんを、いったい誰が運んだり持ち上げたりするのでしょうか?わたしの甥っ子などは、自分のクラスの長身の女子に、「お前、絶対年寄りになっても、介護を受けるようになんかなるなよ。はた迷惑だからな」と、言ってやったそうです。
東京都のある自治体では、関東大震災に備えて、独り暮らしのお年寄りに、万が一を考えて、体重を落とすように指示を出したといいます。いざという時、足腰の立たないお年寄りが重くて、介助者の負担になるかもしれないことを懸念したための処置だという話でした。
では、男性についてはどうなのかといいますと、正直・・・・・ま、どうでもいいです。

昔は、わたしもかなりのイケメン好みでしたが、最近はもう悟りました。少なくとも外見では、世の中に、わたし好みのいい男など、そうそういる訳がないことが・・・・・。(爆)
でも、悟るのが少々遅すぎましたね。(爆)
以前、「アリー・マイラブ」という海外ドラマで、アリーの同僚の女性弁護士が言っていました。「本当にいい男は、アメリカの一州に二人なんだってさ。つまり、100人しかいないってことよ。だから、そんないい男たちは、みんな結婚しているのが当たり前じゃない。えり好みしていたって、絶対、手になんかはいらないってことなんだよ」
う~ん、深いです。

それじゃ、日本もこれに当てはめると、いい男は、たった94人てことですよね。もう、諦めるしかない訳だ。-----ってことで、どうでもいいという結論に達する訳ですね。
では、わたしの好みの女性は?と、いうと、-----最近は、女性不信で、なんともはや、女って、怖いですね!
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車椅子で縄跳び・・・・・224
2009年11月01日
~ 今 日 の 雑 感 ~


わたしは、最近、あまり感動というものをしたことがない。昔は、かなりの感激屋で、スポーツでも、テレビドラマでも、映画でも、ちょっとしたことで熱中し、思わずウルウルしたこともあったが、今は、あの頃ほどののめり込み方は、とても出来ないし、色々なことに対しても関心が薄れているといっても過言ではない。
ただ、世の中の理不尽に対する怒りの感情だけは、昔とさほど変わってはいない。だから、両親にもよく言われることは、「お前は、本当にいつも何かに怒っているね」と、いうことである。そう言われれば、確かにそうであるが、怒っている時ほど自分は、むしろ冷静になれるような気もしているのだ。
しかし、先日、新聞を読んでいて、久しぶりに「よい記事を読んだ」と、思うものに出くわした。
それは、信濃毎日新聞の社会面、いわゆる三面に掲載されていた、「児童の手紙、ルール変えた」の記事である。
子供達が楽しみながらスポーツの記録を競い合う、長野県教育委員会主催の「ながのスポーツスタジアム」という企画で、そのうちの縄跳び競技に取り組んでいる、長野市松代小学校4年1組(26人)の児童が、車椅子の同級生も競技に参加できるようにルールの改正を求め、実現させたという内容であった。
この「ながのスポーツスタジアム」とは、県教委が2008年秋に始めた、子供たちに運動の習慣をつけてもらおうという試みで、長縄跳びの「クラスで8の字ジャンプ」、キャッチボールを3分間に何回出来るかを競う「ボールパスラリー」、1分間の馬跳びの回数を数える「クラスで馬跳び」など、計六種目で、記録は県教委に報告し、ホームページに掲載されるというシステムになっているという。また、順位は定期的に更新されるという。
この松代小学校4年1組の児童たちは、1学期から、5分間にクラス全員で順番に8の時回りに縄跳びをした回数を競う「クラスで8の字ジャンプ」の挑戦を開始し、苦手な人から先に跳んだり、前の人の背中に手を置いて飛ぶタイミングを知らせたりするなど工夫を凝らし、最高で313回を記録し、県内の他の小学校のクラスと1位争いを展開して来たのだという。
しかし、6月に入り、児童の一人が、病気のため車椅子の生活をしている高野倖豪(ゆきたけ)君も、この長縄跳びに参加できないかと提案をし、いつも時間計測係を務めていた高野君も、クラスの児童たちと共に、「車椅子で縄をくぐっても、一回跳んだことにしてもらえませんか」と、県教委にルール改正を願い出たところ、県教委もその意見を快く採用したということであった。
いつも、車椅子で計測係では、この高野君もやりきれなかったことだろうと思う。自分も、クラスの一員として、縄跳びに参加したいと思うのは、小学生なら当然のことであろう。
しかし、このクラスの素晴らしいところは、そんな高野君の気持ちをしっかりと代弁できる子供がいるということだ。つまり、そのことに気付いた子供は、「自分が、高野君だったらどう思うだろう」と、いう想像力を働かせることが出来たのである。それはすなわち、人の立場になって考えるということの実践であり、人間として、最も必要不可欠な「思いやり」の精神に他ならない。
しかも、その言葉を受けた高野君自身が、「自分もやりたい」と、しっかりとした自己の意志表示をすることが出来る子供だということである。彼には、自分を主張するという大切な自我が確立されている証なのだ。
もしも、ここで、高野君が、「ぼく、どっちでもいい」というような反応をしていたら、このルール改正は実現できなかったろうと考える。
こうした自分の気持ちをしっかりと口に出せる子供を育んだ、彼らの親御さん、担任の先生たちなど、児童たちを取り巻く大人たちの努力と献身には、頭が下がる思いである。
子供は、親の鏡というが、正に、世の中の大人たちの鏡でもあるのだ。素敵な大人たちのいる周りには、素晴らしい子供たちがいる。久しぶりに、さわやかな一陣の風を感じる記事であったと思う。

タグ :ながのスポーツスタジアム
北信ローカルの記事から・・・・・223
2009年10月31日
~ 今 日 の 雑 感 ~
北信ローカルの記事から
「わたしは、今まで病気という病気をしたことがない」----そんな風に自慢をしている人が、いざ病気になると、もともと病弱な人に比べて、かなり神経質に思い悩むものだということを、わたしは知っています。
しかし、そういう究極の経験がない場合は、ほんのささいな病気でも精神的に追い詰められ、うつ病傾向となり悩まれる人もいるそうで、そんな病歴を持つ女性の体験談が、先日の「北信ローカル」新聞に掲載されていました。
Yさんという女性は、六十歳ごろまでは病気らしい病気もしないごく健康な人でしたが、二、三年前から、手のしびれや肩こり、不眠などに悩まされ、県内の病院を数か所受信。とくに、癌に対する不安が大きく、健診の結果、甲状腺腫が見つかり、大学病院で詳しく調べてもらったところ、甲状腺腫は3個あることと、そのうちの一つが「濾(ろ)胞腺がん」だということが判ったのだそうです。
この「濾胞腺がん」というものは進行が非常に遅く、すぐに手術の必要はないため、住んている場所の病院で定期的に検査してもらうように説明され、近くの総合病院へ、(大学病院の)紹介状を持って診察を受けに赴いたのでした。
しかし、そうこうするうちにも、Yさんの中で癌に対する不安は日々大きくなり、インターネットで調べるなど、居ても立ってもいられない気持ちになって行ったのだそうです。その心理的抑うつのために、肩こりや喉の圧迫感が強くなり、思い余って総合病院の外来の担当医にそのことを話したのですが、聞き入れてもらえなかったのだといいます。
それがためか、外来のスタッフの対応までもが冷たく感じられ、担当医師からは、喉の痛みと甲状腺腫は何の関係もないとの診断をもらい、Yさんのために診察時間をとられると、他の患者にも迷惑になる、神経内科か神経科に相談してほしい、インターネットの情報を質問されても答えようがない、大学病院へ戻りますか?-----と、シャットアウトされてしまったのだそうです。
現在、Yさんは、東京の甲状腺専門病院で定期的に診察してもらっているとのことでしたが、ここでは、心のケアも一緒に診てくれるので、とても助かっているという内容でした。
この手記を読んだ時、わたしは、この女性は、もともと受診する病院を間違えていたのだと感じました。
地方病院の医師不足は、今や誰もが周知のことです。そういう地域医療の拠点病院で優先されるのは、まずは緊急を要する患者さんなのです。少ない医師が、大勢の患者を診察するためには、緊急性のない患者の治療は、後回しになるのは当然のことです。進行の遅い病気のために、より大変な病気の患者の治療をないがしろには出来ません。
ですから、その担当医の先生が説明したことは、至極理にかなったものだと思うのです。
わたしは、自分の病気が相当にひどいと判った時も、救急外来に親指を切断した男性がやって来た時は、その蒼白になった顔面を観て、「先に、診察してもらってください」と、受診の順番を譲りました。(まあ、これは常識でしょうけれど・・・・)
このYさんは、幸いなことに、東京の病院へ通院することが出来るのです。しかし、病気のせいで、どうしても身動きがとれない患者も大勢いるのですから、そういう患者が地元の病院へ集まるのは仕方がないことです。精神的な問題よりも、そこには命にかかわる問題が、日々ひしめいているのです。
自分の身体のことが心配なことは判ります。病気の大小にかかわらず、病気が怖いと思う気持ちは、誰しも同じです。しかし、病院には、その病院が抱える事情というものもありますし、すべての人に満足のいく医療を提供するということは、今の地域病院には無理難題というものではないでしょうか。
正直、心療内科医でもない医師に、心のケアまでお願いするというのは、酷な話なのだと思います。
現民主党政権は、そうした地方の医師不足、医療崩壊を救済するべく、勤務医に手厚い政策を実施する運びであると聞きます。この新たな診療・医療制度改革が実行されれば、少しは、患者一人一人の気持ちに副った、手厚い治療が可能になるやもしれません。
それまでは、「患者側にも、自分だけがよければいいというような考え方は、改めて欲しい」と、いう地域医療人の意見にも耳を傾ける必要があるのではないかと、考える次第です。

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タグ :北信ローカルYさんの病気の体験談
「医介補」を知っていますか?・・・・・222
2009年10月30日
~ 今 日 の 雑 感 ~
「医介補(いかいほ)」を知っていますか?
皆さんは、「医介補(いかいほ)」という職業を知っていますか?
わたしは、このような仕事に従事されている人たちが日本にいるということを、今回初めて新聞記事で知りました。
こうして、「医介補」となった人たちは、無医地区に診療所を開き、早朝から夜遅くまで診察に往診にと、地域の生命線を担いつつ、多い日は、200人もの患者と向き合いながら、へき地医療に従事して来たのだそうです。
戦前の沖縄では、助産師や薬草などを使う伝統治療に携わる人たちが地域で簡単な治療を行ってきたという、慣習が根付いていたそうで、身近な人に身体を治療してもらうという安心感が、「医介補」にもあったのだといいます。
やがて、沖縄が1972年に本土復帰を果たすと、経済同様に医療も急速に近代化し、1979年には、国立琉球大学に医学部が設置されると、へき地の医師不足も解消されるものと、思われていました。ところが、現実は、そううまくは行かなかったようです。
若い医師たちは、へき地を敬遠し、皆、都市部での勤務や開業を希望。琉球大学医学部卒業の医師約1400人のうち、離島などのへき地の診療所で働いた経験のある医師は、たった8人という調査結果も出ているということでした。
そのため、「医介補」たちは、その後も引き続き地域医療を支え続けて来たのでした。
しかし、彼らも既に高齢となり、病気や身体の衰えなどで次々に引退を余儀なくされて行きます。そして、最後の一人となった宮里善昌さん(88歳)も、昨年の秋、六十年近く続けた診療所を閉じました。ここに、「医介補」制度は、静かに幕を下ろしたと、記事は記しています。
この宮里さんの信念は、「医の原点は、感謝の気持ちで迎えて愛情を持って診る」ということだそうです。
若いお医者様たちにも、この「医介補」の信念を心に刻んで、日々患者と向き合って頂きたいと思うこの頃です。 続きを読む
タグ :医介補
人間という厄介な生き物・・・・・221
2009年10月29日
~ 今 日 の 雑 感 ~
人間という厄介な生き物
人間という生き物には、実に厄介な性質がある。
それは、「思い込み」と、いうものである。「先入観」と、言ってもいいだろう。
一番最初に耳に入り、目で見たことを、正しいことと認識してしまう習性があるのだ。これは、若い時よりも年を取るにつれ、その習性はますます顕著に強化されて行く。
年を経るにつれて、人は、自分のこれまでの経験を重要視するようになるため、自分の考えには間違いがないと、思い込みがちになり、その頑固さが、思考の柔軟性を奪うのである。
ところが、当の本人は、そのことにまったく気付いてはいない。むしろ、自分は経験を積んだ寛大な心の持ち主だと、とてつもない勘違いをしているのであるから、なおのこと始末が悪い。それなのに、他人に対しては、「もっと、おおらかになれ」とか、「客観的に物事を見てみろ」などと、説教をするため、若い者に敬遠されることになるのである。
客観的に物事を見ていないのは、自分自身だということに、まったく気が付かない。しかし、他人に対しては、違う視点から物を見ろと、言う。要するに、自分が見えていることだけが、正しい現実だと思い込んでいるせいで、他人の視点が全く理解出来ないのである。
これは、間違いなく、「精神的老化現象」と、いえよう。
こういう人間が特に厄介なのは、自分は、弱い者の味方だという、大いなる勘違いを平然としでかす点にある。正義感に裏打ちされた思い違いほど、面倒で、滑稽なものはない。
たとえば、ある人間がひどい仕打ちを受けたが、そのひどいことをした人間が、された人間の見えないところで何万回謝罪しても、そんなものは謝罪のうちには入らない。しかし、その謝罪を目の当たりにしている思い込み人間は、ひどいことをされた人間に、「あれだけ謝っているのだから、許してやるべきだ」と、いうのだ。
見えないところで謝罪され、それを間接的に聞かされて、そのことを信じる者がこの世の中にいるだろうか?謝罪とは、やられた者の前に頭を下げて、許しを乞うことである。それ以外に、真の謝罪はない。
謝りもしない相手を許すということ自体が、おかしな話であるし、それを許さないとしても、心がないという理屈にはならないのが世の中というものである。
そんな、子供でも判る道理が判らない大人もいるのだ。
自分が、直に体験したことだけを信じるというのなら、世の中に裁判官などはいらない。検事も弁護士も警察官だって必要がない。直にやられたと思う人間が、やった人間を裁けばいいのである。
しかし、実際には、そんな単純な考えで、「思い込み」という感覚を主張している訳ではないだろう。そういう「思い込み人間」も、実は、案外、打算的に考えているものなのである。要は、「この人間の言う方が本当は正しいのだろうが、その人間の肩を持っても、何一つ利益にはならない。しかし、間違っているこちらの味方をすれば、徳になる」-----そんな風に考えているに違いないのだ。
顔も知らない利益ももたらさない相手より、しじゅう何くれとなく贔屓にしてくれる相手の味方をするのは、世俗の摂理であろう。しかし、そんな俗欲を隠すために、「自分には真理がある」などと、綺麗事を言わないで欲しいものだ。
そういう人は、はっきりとこう言えばいいのである。
「あなたは、正しい。でも、わたしのためになる人ではない。あの人は、間違っている。でも、わたしに、物をくれるのだ」と----。 続きを読む
タグ :旧海軍水雷艇「友鶴」
幻滅すれば、それで終わり・・・・・220
2009年10月28日
~ 今 日 の 雑 感 ~
幻滅すれば、それで終わり



なんだか、最近、やたらに面倒くさいことばかりが多い。
やらなくてはならないことが多すぎて、煩わしい。
だから、こんなことばかりをしていていいのか?-----と、いつも自問自答している。ブログを書くことは、さほど苦にもならないが、そこに付随する様々なことも、何とも煩わしい。
あるブロガーに対しての自分の正直な気持ちをブログに書けば、「そういうことは本編に書かず、直接相手のコメント欄に書くのが常識だ」と、言われ、今度そうすると、「そんなことをコメント欄に書くのは非常識だ」と、また別の人間が言う。
本当に、ブロガーという人種はいい加減で自分勝手で、鼻もちならない人間が多い。
自分の率直な意見が書けず、なれあいやもたれ合いしか出来ないのだとしたら、それこそ、ブログなどやめてしまえばいいのだ。わざわざ面倒な文章など書かずとも、メル友にでもなった方が手っ取り早いではないか。
そういうブロガーは、論理に弱い。理詰めで話をされると、それをすべて喧嘩腰と捉え、すぐに感情的になる。
わたしは、父親の影響もあってか、家族がケンカをした時も、常にケンカの理由を客観的に分析し、説明が出来ないと、どんなに相手の理由が理不尽なことでも、負けとなってしまうという方法で育った。だから、弟とケンカになると、お互いに最終弁論(爆)を戦わせ、父親が判決を下すというような教育であった。(かなり、変わってはいる)

だから、感情論を持ち出す人間は、特に苦手なのだ。
「気にするな」と、言ってくれる人の言葉は、とてもありがたいし、顔も知らない人間たちのことで振り回されるなんて、まったく馬鹿げていると思う。
だから、もはや、そういうことは考えないようにした。(ただ、相手が再び頭をもたげた時は、そういう訳にも行かないが)
もともと、見ず知らずの人々なのだから、知らないままでよい訳だ。知らなかったことにすれば、簡単なことである。
そんな下らないことで、足踏みをしている訳にはいかない。人間には、時間がないのだ。生きるか死ぬかを味わった人間でなければ、こんな気持ちは判らないだろう。
また、二度言って判らない者には、三度は言わない。(そういう人間は、もともと判ろうとする気がないか、判りたくないと思っているのだから、たとえ百回説明しても判る訳がないのだ)
よく「来るものは拒まず、去るものは追わず」と、言うが、わたしの場合は、「来るものは選ぶし、去るものは消去」だな。
しかも、性格上、気に食わないものは、目の前から完全に除去しなければ気が治まらない方だから、虫の卵などを見付けた時も、単に捨てればよいのではなく、踏みつぶしてしまわなければ気がすまない。
面倒くさいことも、回避ではなく、やっつけて行かなければ気がすまないのだ。だから、しつこいことこの上ない。やられたことは、絶対に忘れないし、許そうとも思わない。でも、その面倒くささに飽きが来た時は、サッサと自ら消える。実に、判りやすい性格だと、我れながら思う。
要するに、興味が失せれば、それまでなのだ。
幻滅すれば、それで終わり。
このブログも、何処まで幻滅ぜずに続けられるか?-----次の、新しい発見に期待するしかないだろうな。

ところで、ここしばらくの間に、
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O型は、大食らいで間抜け?・・・・・219
2009年10月26日
~ 今 日 の 雑 感 ~
O型は、大食らいで間抜け?(^◇^)
このタイトルを読んで、「そんな訳ない!」と、思われる方は、あまりおられないのではないかと思います。(爆)
O型の自分自身でいうのもなんですが、実に言い得て妙だと感心しています。
血液型の中で、最も病気や環境の変化に強いのがO型ですから、アンデス山脈などの過酷な土地に住む人々は、ほとんが血液型O型の人たちだそうです。
一般的にO型は、おしゃべりで、良く食べます。身体も大きくがっしりとしていて、堅太りという体型の人が多いのも特徴です。どちらかというと肉食を好み、血液型ダイエット法でも、O型の人は、野菜をたくさん食べるよりも、脂肪分の少ない肉料理をメインに食事をした方が、痩せやすいとも言われていると聞きます。
もちろん、食事にはバランスが大事ですから、肉料理ばかりを食べろという訳ではありません。
では、そういう肉食系のO型が、菜食中心の食事を続けるとどういう影響が出るのか?-----満足感が得にくくなるため、精神的にいらつきや焦燥感、怒りっぽい性格になるともいわれ、また、逆に、無気力に陥ることもあるそうです。
そんなO型人間は、免疫力にも優れていますから、常に元気一杯で行動するため、一日の疲れが夕方以降にドッと出て、交通事故に遭遇する確率は、夕方ごろが最も高いのだとか。
しかも、一つのことに集中すると、細部に神経が行き届かないという欠点もあるために、案外大きなポカをしでかすことも多いのです。
わたしも、些細なことですが、ビデオの録画を頼まれていた時など、すべてきっちりと仕掛けたつもりが、チャンネルが違っていたり、日にちを間違えていたり、そういう失敗はしょっちゅうあります。それも、真剣になればなるほど、しでかす確率も高くなるのですから困ったことです。
大学時代に化粧をして帰省する時、途中の電車内や道すがら、やたらに人の視線が気になった時があります。何処か、服装でもおかしいのかと思い、色々見てみましたが、何処にも変なところはありません。ところが、家へ帰ると母親が一言。
「あんた、一杯飲んだような顔しているね」
「はあ~?」
慌てて鏡を見てみると、なるほど、まるで「おてもやん」です。暗い室内で急いで化粧をして飛び出して来たもので、頬紅をつけすぎ、真っ赤に塗りたくっていたのでした。その顔で、都内から堂々と帰って来た訳です。(爆)
母親曰く、「やっぱり、O型だね~。普通なら、若い娘は、そんな失敗は絶対しない」
でも、そんなO型だから、特段凹みもせずに生きていけるのかもしれません。
独身男性諸君、女房をもらうなら断然O型女性がいいですよ。少々ぼ~としていますが、立ち直りも早く、失敗を恐れません。臨機応変の対応に優れ、持久力もあります。あなたの背中をきっちりと護る女剣士のような存在です。
ただし、話し好きで、大食らいですから、少々のうるささを我慢することと、ご飯だけは目いっぱい食べさせて差し上げて下さいね。

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「誤解」という言葉の「誤解」・・・・・216
2009年10月24日
~ 今 日 の 雑 感 ~
「誤解」という言葉の「誤解」
「誤解」という言葉は、変な言葉だ。
「あなたは、『誤解』している」と、言う時、言った相手は、明らかに「誤解」している相手の方を非難している訳である。
しかし、それは、まったく逆だろうと、わたしは思う。悪いのは、相手に「誤解」させるような言動をした本人の方なのであるからだ。
しかし、そういう人間は、押し並べて自分の非に気付かない。あくまでも、勘違いをしている相手が悪いと思い込んでいるのだ。だから、それについての釈明をしようともしない。ただ、相手に謝れと迫るだけである。
要するに、自分が悪臭の発散原因であるにもかかわらず、何処から、その悪臭が出ているのかを一生懸命に探しているという、間抜けさなのである。
言葉というものは、難しい。
もしも、電報に、「シンダイシヤタノム」という言葉があれば、これをどう読むかで、まったく意味が違ってくる。ある人は、「死んだ!(お墓を建てるために) 石屋 頼む」と読むだろうし、ある人は、「死んだ!(死亡診断書が必要なので) 医者 頼む」とも読むだろう。また、ある人は、「(明日は出張なので)寝台車(の切符の手配) 頼む」と、読むかもしれない。
そして、読み間違いがあったとしたら、それは、間違いなく、言葉の区切り方や小文字を支持しなかった、電報の送り手が悪いのである。決して、読み手の責任ではない。
ところが、最近、わたしにも、この「誤解」に関して、「誤解」しているわたしの方に責任があるという主旨の意見を書いたブロガー氏がいた。だから、わたしは、その「誤解」を解くのは、そちらの仕事だと返事を書いた。
しかし、未だに、その人には、わたしの「誤解」を解こうとする気配すらない。要するに、それは、わたしは、「誤解」などしてはいないということの証でもあるということになる。
相手に対して、「それは誤解だ」という時は、必ず、それを言った者が、その「誤解」を解く努力をしない限り、そのことは真実と受け止められても仕方がないことなのではなかろうか。
あの~、わたしの言っていること、判ります?(^◇^) 続きを読む
ブログサイトの寂しい人たち・・・・・215
2009年10月23日
~ 今 日 の 雑 感 ~
ブログサイトの寂しい人たち
ブロガーという人種には、寂しい人が多いそうですね。
そういう人が、ネットの中の友人探しにブログを始めるということは判りますが、仕事も交友関係も順風満帆に見える人たちまでがブログを書くというのは、どういうことなのか?
自分が日々、何を考え生きているのかを誰かに知って欲しいという気持ちで、書いているのだとしたら、そういう人たちも、やはり、実生活では本音を言えないのかなァ-----と、思います。世知辛い世の中ですからね。
でも、そのうちにネット上の関係だけでは物足りなくなり、実際にその人の声を聞きたくなる。会って話をしたくなる。
男性ブロガーと、女性ブロガーの間には、このような関係があったとしても、それはビジネスに関することとか、何かを教えて欲しいとか、そういう類のことになるのでしょうが、同性同士となると、この目的は必ずと言っていいほど、友人作りなのです。
しかし、何か具体的な目的もなく、ただのおしゃべりが目的で、最初に、「今度、何処そこで会わない?」と、声をかけるブロガーの方は、ものすごく積極的な人ですよね。何故なら、相手の顔も本名も判らないのに、いきなり連絡を取ろうと思うのですから、その神経たるや恐るべき大胆さと言わざるを得ません。
でも、そういうブロガーさんは、案外しっかりとしていて、連絡を取る相手のブロガーは、自分の素姓をある程度ブログ上で公開している人に限るようです。だから、大した躊躇いもなく、いきなり会いにも行くことが出来るのでしょうね。しかし、彼らは、わざわざ会って何をしようとしているのでしょうか?ただ単に食事をして、おしゃべりをして、自分は何者かを確認しあって、本当に、それだけ-----?
そこに、どういう付加価値があるのか?そこまでして、ブロガーの友達を見つけたいと思う真意は何なのか?自分たちの結束を確かめ合うことに、どういう意味があるのか?
わたしには、よく判りません。
でも、この間、ある人の一言で、何となく理解が出来ました。そういう人たちは、皆、「寂しい人たち」なのです。世間的には仕事や家庭にも恵まれているのに、それだけでは何処か空虚な感じが拭えない。実生活での友人たちとは、上辺だけの付き合いで、本当の自分の気持ちを話せるわけではないし、虚しい胸中に空いた孤独の空洞を埋めてくれるわけでもない。
しかし、同じブロガー仲間なら、きっともっと自分のことを判ってくれるに違いない。そんな風に思えるのかもしれません。
でも、あるブロガーさんが自分のブログに書いていましたが、「そういう人たちと会ってみたところで、やはり、本当の友人にはなれない。これまでも、何人ものブロガーさんと食事をしたり、歓談をしたが、結局、自分は独りだ」と-----。
そんなものですよ、現実は------。
そうこうしているうちに、実際に会って話をするブロガー同士の間にも、現実社会と同様に次第に温度差が出て来ます。ブロガーにも家庭がありますから、どうしても都合で会うことが出来ない時もありますし、そういう関係が重荷になって来る場合もあるでしょう。そうなると、ブログサイト内での様相も微妙になって来ます。
そんな気まずさに耐えられず、ブログを閉じざるを得なくなることもあるでしょう。
お互いの寂しさから友人関係になった場合は、その友情は長続きしないという教訓もあると言います。これは、あるブロガーさんの言葉ですが、「もしも、同性のブロガーが、何の理由もなく、ただお茶を飲みましょうなどと誘って来ても、決して即答はしない方がいい。自分が、本当にそのブロガーと会ってみたいと思っているか、もう一度自分の胸に訊いてから、返事をするべきだ」-----と。
ブログの世界は、現実社会よりも、ある意味厄介なものなのかもしれません。

「ありがとう」の言えない人・・・・・214
2009年10月22日
~ 今 日 の 雑 感 ~
「ありがとう」の言えない人
六十過ぎの大の大人の男でも、「ありがとう」の一言が言えない人間が時々いる。
しかも、そういう人間は、自分の家の周りの人もすべて自分の家来のように勘違いしていることが往々にしてあるため、自分に不都合だと思う他人の家の所有物まで、勝手に撤去してしまったりもするのだ。
そして、そういう人間は、自分の能力や力量を正確に評価できないため、時に、恐ろしく身の程知らずな行動もとる。
なんと、県会議員に立候補したのである。近所の人たちは、「なんて無茶なことを」と、皆思ったが、本人はいたって当然といった様子で、それなりに遊説もこなしていたものの、やはり知名度不足がたたって、落選してしまった。
とはいえ、選挙中は、知り合いや近所の家の人たちには、ひとかたならぬ世話になった訳である。たとえ落選しても、一応は、挨拶まわりをするというのが常識ではないだろうか。しかし、その人は、まったくの知らんぷりで、たまたま、街で会った支援者だった男性が、「残念だったな」と、声をかけたが、その本人は、なんの話だとでもいう態度で、礼も言うことなく話題をはぐらかしてしまったというのである。
それだけではない。今度は、かつて自分の支持者だった人が町会議員に立候補したのに、その人を押そうとはせず、まったく別の候補の推薦人に名前を連ねていたというのである。
お礼をいうこともせず、それどころか敵対候補の応援に回るとは、どういう神経をしているのかと、皆呆れるばかりであったが、それだけではなく、自分が押した候補が落選し、押さなかった候補が当選した途端、ちゃっかりと、当選候補の祝勝会に出席していたというのだからビックリである。
その人は、また今度の県会議員選にも挑戦するつもりであるらしい。しかし、もしも、万が一当選しても、決して支援者や後援者たちに「ありがとう」は、言わないだろう。
何故なら、彼の辞書に、「お礼」の二字は書かれていないのだから・・・・。
何で、最近、わたしの周りには、こういう非常識な人間ばかりが集まって来るのだろう!?
それとも、日本人のモラル全体が、既に、地に落ちたということなのか?こういうエゴ丸出しの団塊の世代が、わたしたちの上にのしかかっているのかと思うと、ぞっとする。
日本を沈没させるのは、これから高齢者の仲間入りをする、彼らなのかもしれない。

ポイント制度は好きですか?・・・・・213
2009年10月21日
~ 今 日 の 雑 感 ~
ポイント制度は好きですか?

NHKの「特報 首都圏」を観ていたら、最近は、長引く不況のあおりで、消費者の間に「ポイント」というものを集める習慣が根付きつつあるという話を取り上げていました。
これまでの「ポイント」は、ほとんどが品物を買ったお店でしか使えないという物だったのですが、近頃は、「ポイント」を管理する専門業者まで現われて、その「ポイント・カード」を持っていれば、複数のお店でその特典が利用できるという便利なものまで出て来たといいます。
また、店側も、お客を自分の方へ引きつけようと、初来店時には、一気に何千ポイントと多くのポイントをつけ、何が何でも、そのポイントを集めて使わなくては損だという気持ちを消費者に植え付けることに懸命なのだそうです。
こうした地道に点数を集めるというやり方は、真面目で倹約家の日本人にはとても向いている集客方法だということですが、イギリスなどでは、家族の一人がポイントをもらうと、その一家の他の家族にも得点が加算されるという方法を設けている商店もあるといいます。
しかし、そんな便利でお得感いっぱいの「ポイント」ですが、最近はトラブルも多く報告されるようになって来たといいます。せっかく溜めた「ポイント」が、店側の一方的な期限の設定で失効してしまうとか、今までは、1000ポイントで交換が可能だった物が、いきなり1500ポイント溜めないと交換出来なくなったとか、トラブルの原因は様々だという話です。
期限なしだったはずの「ポイント」が、知らないうちに期限付きに変わっていたために、品物との交換時期を逸してしまったなどということが、何故起きるのか?-----専門家の説明によると、そこには、店側と消費者との「ポイント」に関する認識のズレがあるのだそうです。店側は、「ポイント」は、あくまでも「おまけ」という感覚なのに、消費者は、あくまでも「お金」であると、考えているということで、店側は、「ポイント」などは、あまり重要視していないというのです。
この認識のズレは、次第に大きくなり、アンケート調査では、今や、国民の約90パーセントが、「ポイント」は、「お金」と、考えているという統計が出たことからも、国は、今後、店が「ポイント」をつける際は、その期限や意味について確実に消費者に対して説明することとの規則を設ける運びであるということでした。
皆さんは、「ポイント」を、溜める方ですか?
わたしは、必ず間違いなく品物と交換できる、現金として使える、というお店の「ポイント」だけをためる主義です。つまり、自治体が地域の商店街などを巻き込んで行っている「ポイント」に限っては、きっちりと溜めています。
とはいっても、要するに、根がズボラなもので、「ポイント・カード」を、しょっちゅう忘れて買い物に行ってしまうので、溜める機会を逃しているだけなのですが・・・・。
でも、「ポイント」とか「商品券」というものは、いつも携帯していた方が便利ですよね。いざ、という時は、現金代わりにも使えますから、ズクのある人は、しっかりと溜めた方が得だと思います。
タグ :ポイント制度
和式で用が足せますか?・・・・・212
2009年10月20日
~ 今 日 の 雑 感 ~
和式で用が足せますか?
テレビを観ていたら、面白い実験をしていました。
小学生の子供たちに、和式トイレを使用したことがあるかを訊き、一度もないという子供たちに、いわゆる「うんこ座り」(表現が陳腐ですみません)をさせて、何分その体勢でいられるかを競わせたのです。
足を開いて膝を曲げて座り-----さて、どのくらいその姿勢を保っていられたと思いますか?
驚くことに、子供たちは、ほんの数分もその体勢を維持できなかったのです。みんな、後ろへ倒れ、尻もちをついてしまいました。これには、実験をした教師たちもビックリでした。
つまり、子供たちの足の筋肉は、その体勢を維持できないほどに弱く、また、体の重心の取り方が全く理解できていなかったと、いうことなのです。この体勢を保ち続ける時、最も重要なのが、つま先の強さです。小さな時から和式トイレで鍛えられている大人は、そのつま先が自然と強くなっていたのですが、最近は、何処の家庭もトイレは洋式が当たり前ですから、この筋肉を鍛える習慣がなくなってしまっていたのです。
もちろん、トイレで用を足す時間は、和式を使用する場合、早い人なら四、五分。遅い人では、小一時間もその体勢をとり続ける訳ですから、大人たちの足腰の強さは今の子供たちの比ではありません。
しかし、問題は、座り続ける時間だけではなく、その姿勢から立ち上がることが出来るか?-----ということなのです。
要するに、その体勢から立ち上がるためには、つま先、ふくらはぎ、太もものすべての筋肉がうまく連動する必要があるとのこと。しかし、つま先の筋力の弱い子供たちは、踏ん張りがきかず、さらにバランスの取り方もうまくないため、立ち上がることが出来ないのだそうです。
そして、最近の子供たちは、足の格好が悪くなるというので、正座をして食事をする習慣もなくなりつつあるため、必然的に足の形が欧米型となり、膝の後ろ側に筋肉が付いてしまうため、正座をすると、まるで布団を一枚膝の間に挟んだような具合になって、長時間の正座が出来なくなってしまっているのだそうです。
と、言うことは、和式トイレで座る時も、その余計な筋肉が邪魔をして、座り続けることが難しいのだとも言います。
日本式の生活を捨て、欧米化の生活を日常として来たことで、子供たちの体形から筋力までが変わって来てしまったということなのです。筋力の衰えは、素早い反応の妨げになりますから、「なんで、こんな所で転ぶの?」と、思われるような予想外の事故や怪我にもつながります。
では、どうしたら、この足の筋力を強くすることが出来るのでしょうか?ある専門家の話では、相撲の「四股」を踏ませることがいいということでした。スクワットもいいそうですが、子供たちには四股踏みの方が、楽しく出来るのではないでしょうか。
あなたのお子さんは、和式トイレで用が足せますか?まだまだ、日本には和式トイレは多いです。遠足や修学旅行、登山などで、「お便所へ行きたくない」などとならないためにも、足腰を鍛えておくことは、大切ですよ。

タグ :和式で用足し
あの~、大丈夫ですか?・・・・・211
2009年10月19日
~ 今 日 の 雑 感 ~
あの~、大丈夫ですか?
地元のお土産屋さんでの話。
六十歳ぐらいの女性のお客さんが来て、店の奥さんに訊きました。
「あの~、お宅に『チョロキュー』売っていませんか?」
「『チョロキュー』って、あの丸っこいのですか?」
「そう、そんな感じので・・・・」
「小さくて、袋に入っているんですよね?」
「袋に入っているのもあるのかしら?わたしが知っているの
は、箱に入っているんだけれど-----」
「それって、普通は土産屋じゃなくてスーパーで売っている
んじゃないかしら?」
「スーパーで?売っているところもあるかもしれないけれど、
わたしは、あまり見たことない・・・・」
「で、誰が欲しいんですか?」
「孫なの、二歳になる」
「え!?二歳?本当
に?」
「ええ、あれが動く
と、すごく喜ぶの」
「えー!!動くんで
すか!?あの紫の
が---?」
「まあ、紫のもある
かもね」
「でも、あれはたい
てい紫でしょ?お尻
に毛が生えていて」
「毛-------!?」(ーー;)
「生えているでしょ?」(^^)
「・・・・・・・・・」(ーー゛)
「・・・・・・・・?」(・_・)
「奥さん、それって、もしかして、食べ物の『ちょろげ』のこ
と?」
「あれ------?なんか、違いましたっけ・・・・?」(・・?
「わたし、『ちょろキュー』が欲しいって言っているんだけれ
ど。子供が遊ぶ乗り物のおもちゃで、転がすととても速く
走るの」
「あ~、そうなんですか。やだわ~、勘違いしていた。それな
ら、あります」(~_~;)
「あの~、大丈夫ですか?」(;一_一)
こういうすれ違いの会話って、年を取ると多くなるものですよね~。

タグ :ちょろキュー
グランセローズを血液型で分析・・・・・209
2009年10月18日
~ 今 日 の 雑 感 ~
グランセローズを血液型で分析
スポーツチームや学校のクラス編成などでも、最近は血液型が重要視され始めているということは、以前もブログに書きましたが、B型が多いチームはまとまりがないとか、A型が多いクラスは、学級全体に覇気が感じられないとか、色々とグループ的な性格も判るということですが、だとすれば、我らが信濃グランセローズは、どのようなチームカラーであると、考えられるのか、選手たちの血液型で、今年の戦力を振り返ってみたいと考えました。
O型
仁平 翔 選手 町田 孝行 選手 三井 悠嗣 選手 玄本 誠冶 選手 大村 有三 選手 佐藤 広樹 選手 星山 智典 選手 給前 信吾 選手 渡辺 大輝 選手 藤原 航真 選手 松本 匡礼 選手 市川 貴之 選手 計12名
AB型
高田 周平 選手 大竹 秀義 選手 込山 勇人 選手 笠井 達也 選手 芦田 真史 選手 坂田 一万 選手 瀧本 京一郎 選手 計7名
A型
高森 一生 選手 友哉(渡部 友哉)選手 小高 大輔 選手 星野 真澄 選手 松澤 俊充 選手 計5名
B型
中村 一也 選手 今村 亮太 選手 梅澤 敏明 選手 村上 正祐 選手 清水 勝仁 選手 計5名
(辻 竜太郎 プレーイングコーチは、血液型が判りませんでした)

こう見ると、血液型がO型の選手が多いですよね。それに続いて多いのがA型の選手です。
これにより、保守的で、基本を重んじ、忠誠心が厚く、熱血漢が多いといわれるO型人間と、従順で、慎重派、勤勉で、努力型のA型人間が、チームの核を造っていることが判ります。
しかし、この組み合わせは、一見とてもよいように見え、また、確かに勝ち続けている時には、大胆な行動派のO型と、戦況を慎重に見極め、O型のサポート役に徹するA型の取り合わせは、実にうまく機能するのですが、これがいったん負けが込み始めると、諦めが早くサッサと腹を切りたがるO型男性の破滅思考に、A型男性の自己否定と挫折感がかぶさって、どんどんと泥沼に落ち込む状態になってしまうようです。
本来ならば、そこで悪い気運を一気に切り替えるための起爆剤になるはずの血液型がB型なのですが、これが、グランセローズの中には、5人しかいません。この5人が、チームの中でも強い主張が出来る選手たちならばいいのですが、年齢が23、24歳とまだ若いために、先輩選手たちへの遠慮もある訳で、思い切った発言には躊躇いもあるでしょう。
もちろん、そういう試合内容が嵩み過ぎて、我が道を行く独断思考のAB型が、クールにチーム状況を分析する余裕もないという訳です。要するに、AB型は、仕事がしたくても出来ない状態に置かれてしまうのです。
大体において、チームプレーを要するスポーツは、B型が突撃隊長となり先陣を切ることで敵を驚愕させ、第二陣であるAB型が本隊の進攻のための地がためをし、その本隊であるO型がいっせいに敵陣を叩き、最後にA型がきっちりと締めるというのが理想ですから、うまくこの操作が噛み合えば、グランセローズは、最高のメンバーバランスを持っているといえるのです。
ここで、何人の選手が球団を去り、また新しい選手が補強されるのかは、よく判りませんが、現在の状況から考えて、チーム戦績浮上のカギを握っているのは、ここ一発の底力を発揮するB型選手たちに他なりません。B型選手は、チーム内に多くいる必要はありませんが、時に、そのおだてに乗りやすい特攻精神をうまく刺激してやることで、素晴らしい仕事をしてくれるものです。
セローズファンの皆さん、B型選手を思いっきり褒めましょう。そして、A型選手には、「頼りにしているぞ!」と、声をかけましょう。O型選手には、「あなたがいないとダメなんだ」と、懇願しましょう。そして、AB型選手には、ただ無言で、「グッジョブ!」と、親指を立てて激励しましょう。
これで、何とか来年は、頑張ってくれると思いますよ。(-----ええ、たぶん・・・・・)

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おれは、癌じゃない!・・・・・208
2009年10月18日
~ 今 日 の 雑 感 ~
おれは、癌じゃない!
外科病棟へ入院すると判りますが、入院患者のほぼ九割が癌患者です。
残りの約一割が、その他の病気の患者で、わたしもその一人でしたが、医師は、わたしが退院するまで癌の疑いを持っていて、剔出した部分のかなり詳しい病理検査を行ったようです。
また、現在、医師たちは、癌であることを、必ずといっていいほど患者に告知します。なんで、こんなにもあっさりと-----と、思うくらいに、何の躊躇もなく、余命も伝えます。
昔と違って、ここまで癌患者が増えると、医師の間では別に珍しくもないため、「風邪ですね」というのと同じくらい気楽に、「癌ですね」と、言うのです。でも、言われた患者の方は、ほとんどの人がパニック状態になります。
そのパニクり方が尋常でない者も中にはいて、「そんなはずはない!絶対違う!こんなヤブ医者、信用するか!」と、大騒ぎになってしまう患者もいるそうで、そんな男性患者の一人を、わたしも知っています。
医師は、本人を説得しようにもどうしようもないので、妻と娘だけを別室へ呼び、そこで詳しい話を聞かせたのですが、妻の方は、頭が真っ白になってしまったようで、その場で泣き崩れてしまい、娘だけが何とか気持ちを落ち着けて、医師の説明を聞いたのだということでした。
男性の癌は、前立腺癌で、検査入院をしたのですが、既に七十歳を過ぎているとのことで、手術はせず、薬で治療して行こうという話になりました。しかし、男性は、同じ病室の男性患者が、前立腺肥大の手術のために車椅子で病室を出て行く際、泌尿器科の医師に、「おれのも切ってくれ」と、何度も頼み、医師は、「何回説明しても判ってくれない」と、困っていたそうです。
男性は、約一週間の検査入院を終え、自宅からの通院治療に切り替えることになっても、自分は癌ではないと医師に言い続けているのです。家族も、その男性の気持ちを酌んで、ただの前立腺肥大ということに話を合わせているということですが、困るのは、病院での待合室で、同じ症状の近所の男性と時々会うため、その男性が、自分の薬と同じ物を処方されていることを知り、「ああ、あんたもおれと同じ前立腺癌なんだな。小便の出はどうだい?」などと、声をかけて来ることなのだそうです。
そんな日は、病院から帰って来ても、ひどい落ち込みようで、今まで大好きだった大相撲中継も観なくなり、お笑いタレントたちがゲラゲラと馬鹿騒ぎしていると、「あいつら、人がこんなに悩んでいるのに、ふざけやがって!」と、テレビも消してしまうのだとか。
これまではとても話し好きだった男性が、散歩もすることなく、家に閉じこもってから、早くも三年になろうとしているのです。その間に、足腰も衰え、今では家の中の移動も大変になってしまいました。でも、癌の方はというと、これが治療の甲斐あって数値も大幅に下がり、身体自体に特別な問題はなくなっているのです。でも、問題は気持ちの方で、家の中はいつも暗く、沈んでいます。
そして、男性は、未だに自分の本当の病気を認めようとしません。
病気のことが四六時中頭から離れないため、夜もよく眠れず、あの告知から今日まで、布団に横になって寝たことがないというのです。
あの時、もしも医師が、「ああ、前立腺肥大ですね。でも、かなり進んでいますから、強い薬で治療して行かなくてはなりませんよ」などと、言っていたら、この男性の生活は、もっと違ったものになっていたのかもしれないと、ふと考えてしまいました。 続きを読む
ブログを匿名で書く意味・・・・・207
2009年10月17日
~ 今 日 の 雑 感 ~
ブログを匿名で書く意味
わたしは、ブログを匿名で書いています。
そのような匿名性に対し、「持論を展開するなら、自分をさらして責任もって発言しよう。出来ないなら、書くな!騒ぐな!心の中でウジウジしていればいい」と、書かれたブロガーさんがおられます。
確かに、実名を公表して書いているブロガーさんも、この「ナガブロ」には多く見受けられます。
そういう実名、または、記事ではハンドルネームを使用しながら、実際は、ほとんど住所も電話番号も実名も公開しているブロガーさんの大半は、ご自分の家が御商売をしている方ではないでしょうか?要するに、ご自分の御商売につながる宣伝効果を狙うつもりでブログを立ち上げたのだと思うのです。
そして、そういうブロガーさんの中には、顔をさらしながら公然と行政や自治体を批判される勇気のある方もおられます。それはそれで、実にご立派な心意気だと思いますが、だからといって、ブログには匿名性が認められている以上、実名を隠して批判記事を書くブロガーを、「レベルが低い」とか、「卑怯者」のようにいわれるのは、如何なものかと思うのです。
世の中には、自分の中に素晴らしい発想や、適切な考えを持ちながらも、身内に対する影響や、社会的立場がら、どうしても実名を公表できない人たちも大勢います。では、実名ブロガーの人たちは、そういう人たちの意見は、聞く必要はないといわれるのでしょうか?そういう匿名を希望する人たちは、世の中に意見を言う資格はないとでもいうのでしょうか?
それを是とすれば、世の中の90パーセント以上の善良な市民は、意見を言う機会を奪われることになります。
そういう草の根の本音を引き出すための一つの手段が、ブログなのだと、わたしは理解しています。このブログから、匿名性を排除したら、おそらく、ほとんどのブロガーは、ブログを書かなくなるでしょう。ブロガーの中には、性別、年齢、職業、その他もろもろを偽って書いている人もいるはずです。
老後の楽しみのために、若者を装って、若い女性ブロガーと毎日楽しいおしゃべりをしているおじいさんもいるでしょう。そういう会話の中に、国の施策に対する憤懣を語る場面だってあるはずです。それを、「レベルが低い」の一言で片付けられるでしょうか?
また、そのブログ記事へのコメントの中にもあったのですが、企業などの不正を内部告発する人間に、すべて実名を課せば、告発する者などいなくなることは、自明の理です。
因みに、そのコメント欄へ書かせて頂いた、わたしのコメントは以下の通りです。
こんばんは。
その匿名で、いろいろ批判させて頂いている者です。
実は、匿名の利点というものもありましてね。自治体からのアンケート調査の依頼は、ほとんど匿名が原則なんですよ。匿名だからこそ、本音が言える、聞けるということですから。それに、意外に、こういうブログの意見というものは、マスコミ関係や、行政関係者なども目を通して下さっているもので、そういうアイデアの中から、地域の活性化策として採用される物もあるそうです。
どうしても、その人と連絡を取りたければ、取る手段は色々ありますしね。
だいいち、ブログというものが本名や顔をさらけ出して書くものだということの方が、わたしなどには、驚きです。「ナガブロ」は、こういう自己アピールをされる方が多いので、むしろ感心しているくらいです。〇〇〇さんの勇気と、行動力にも、本当にいつも頭が下がります。
今日のブログは、特に読み応えがあって楽しかったです。
Posted by ちよみ at 2009年10月16日 22:57
如何でしょうか?わたしの言っていることに、何処かおかしなところがありますか?
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