奇妙な痛み・・・・・974
2011年03月13日
~ 今 日 の 雑 感 ~
奇妙な痛み
今回の地震の規模が、マグニチュード8.8から9.0に修正されましたね。
これは、世界で四番目に大きな地震だとか。
これだけの巨大地震になると、動物も植物も何らかの前兆を感じとっていた可能性があるのではないでしょうか。
これは、新潟中越地震の前ですが、我が家のテレビの画面が一週間ほど緑色しか出なくなったことがありました。
そして、地震が起きた途端、元の色に戻ったのです。
もしかしたら、地面から空気中に地震波のようなものが出ていて、それが機械に影響を及ぼしていたのではないかと考えました。
地震の前には、地震雲(どんな雲か見たことはありませんが)が発生すると聞いたことがありますし、動物は、独特の超音波のようなものを感知して、震源地近くからいなくなるという話もあるそうです。
実は、今考えてみると、この東北関東大震災が起きる三時間ほど前、わたしは部屋でパソコンを打っていたのですが、いきなり、これまでに経験したこともないような奇妙な痛みに襲われました。
上半身の胸や背中の骨が異常に強く圧迫されるような痛みで、一瞬、心筋梗塞?----などと心配したくらいです。
でも、その痛みは数秒でおさまり、血圧や脈拍にも特別な変化はありませんでした。
もともと骨が弱いので、いつも上半身の圧迫感はあるのですが、これほど急に起きたのは珍しいことでした。
その後、あの大地震が発生したのです。
大きな地震が起きる前兆として、急激な気圧の変化もあると聞きます。
耳鳴りがしたり、お腹が痛くなったり----と、いう人もいるそうで、もしかしたら、わたしの場合も、これに近い状態だったのではないかと思いました。
地震の予知は、未だ完璧でありませんよね。
昨夜も、「数分後に大きな地震が長野県北部にあります」というテレビ放送が流れていましたが、この放送がアナウンサーによって伝えられた時は、既に、その地震は起きたあとでした。
でも、少なくとも三時間前ぐらいには地震発生予知が可能になれば、これほどの被災者を生まずに済んだのではないかと思います。
巨大地震の前触れは、必ずあると思います。
それが、どのような形で現われるのか?-----発見出来ればいいのですが。
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心理テスト・古井戸・・・・・973
2011年03月13日
~ 今 日 の 雑 感 ~
心理テスト・古井戸
またまた、本を参考にした心理テストです。
果樹園の向こうに古井戸があります。
その古井戸は、もう使われてはいません。何故、使われなくなってしまったのでしょう。
1) 水が濁ってしまったから。
2) 水が枯れてしまったから。
3) 不便だから。
1) を選んだあなたが、恋人と別れる時は、相手の欠点が目について我慢がならなくなってしまう時です。かつては、澄みきったように純粋だった二人の心も過去の話。相手との価値観の違いなどが原因で、別れを選択してしまうのです。
2) を選んだあなたが、恋人と別れるきっかけは、愛情のエネルギーが続かなくなったことにあります。別に、嫌いになったわけではないけれど、相手に対する燃えるような恋心が失せてしまい、自然消滅するしかないのです。
3) を選んだあなたが、恋人と別れるきっかけは、別の素晴らしい井戸を見付けてしまったからにほかなりません。つまり、他の人を好きになってしまったからです。
では、次に、あなたは、その古井戸をのぞき込みました。
すると、あなたがかぶっていた帽子が、脱げて落ちそうになります。その帽子は、どうなりましたか?
1) すんでのところで摑む。
2) 井戸の途中で引っかかる。
3) 底まで落ちてしまう。
1) を選んだあなたは、恋人との仲は既に終わっているのに、どうしても諦めきれず、その事実を認めたくないと思っています。まだ、なんとかなるかもしれないと思うあなたは、相手に電話をかけまくったり、相手の帰り道で待ち伏せしたりもする人です。
2) を選んだあなたは、別れた恋人に対する、あなたの中の未練の大きさを物語っています。元の恋人に新しい恋愛対象が出来たことが悔しくてなりません。しかも、元の恋人と幸せになっている女性(男性)のことが憎くてならないのです。あなたの未練の矛先は、元の恋人にではなく、新しい彼女(彼)に向かうのです。
3) を選んだあなたは、もはや、元の恋人に未練はありません。底まで帽子が落ちてしまうことを認めるということは、古い恋愛に対する諦めが付いたということです。一時の喪失感を乗り越えれば、また新たな出会いにも恵まれるでしょう。
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言葉は使いよう・・・・・972
2011年03月12日
~ 今 日 の 雑 感 ~
言葉は使いよう
本の買取りを専門としている企業が、始めに考えた宣伝文句に「本、買います」というのがあったそうだ。
しかし、この言葉を読んで、本を売りに来た客はあまりいなかったそうである。
そこで、今度は、「本、お売りください」と替えたところ、お客が来るようになったというのである。
「買う」というのは、企業側の言い分である。
しかし、「売る」という行為は、客側の判断にゆだねられたものである。

ここに、この会社の業績向上の鍵があったのだそうだ。
人間は、決めるのは自分で、相手ではないというプライドを誰しも持っている。ここをうまく利用した訳である。
とかく、病院や自治体でも、住民に検診の大切さを説いている。
その係の人たちの言葉を聞くと、たいていが、こういう言い方である。
「ご自分の健康のために、検診を受けましょう」
でも、この言い方では、おそらく率先して検診を受けようと思う人は増えないであろう。
特に、高齢になればなるほど、体力的にもきつくなるし、面倒くささの方が先に立って、関心は低くなるはずである。
そして、この言葉である。
「ご自分のために・・・・」
人間は、自分のために何かをしましょうと言われて、動く人はあまりいないのである。自尊心を強く持つ人に限って、その傾向は顕著になる。
そして、「・・・・しましょう」などと、他人から促されて何かを行なうなど、プライドが許さないのだ。
しかも、検診という行為は、たとえ医療者が相手とはいえ、赤の他人の前で恥ずかしい格好をしなければならないという、これ以上ないリスクを伴うことである。
簡単に、承服できる問題ではない。
では、どのように説得すればいいのか?
上記の例を参考に考えてみよう。
つまり、検診対象者に自らの意思で検診を受けようと思わせればいいのである。
そこで、こういう言い方に替えてみる。
「お願いですから、わたしのために検診を受けて頂けませんでしょうか?ノルマが達成できないと、上司に叱られてしまうんです」
人間は、自分のためにはやりたくないことも、他人の役に立つことならば一肌脱ごうという気持ちになるものなのだ。
しかも、この言葉を、出来るだけ権威のある人に言わせることで、相手の受けとめ方は更に重くなる。
たとえば、医師の口から、「ぼくのために検診を受けて頂けませんか。お願いします」などと言われれば、渋々でも重い腰をあげる高齢者も増えるのではないかと思われる。
人を動かす時に一番大事なことは、その行為が自分のためというよりも、別の他人のためになるという「役に立つことが出来る」という気持ちをくすぐるところにあるのだ。
「本、お売りください」も、「本を売って頂かないと、会社が立ち行かないんです。お願いします」の意味を汲んで、「じゃァ、おれが会社を助けてやろう」の感覚で客が詰めかけるようになったわけである。
正に、言葉は使いよう----なのである。
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コンプレックスを見抜く・・・・・971
2011年03月11日
~ 今 日 の 雑 感 ~
コンプレックスを見抜く
あなたの周りに、こんな人はいませんか?
「何処へ、お勤めですか?」
と、訊ねられた時、
1) 30秒ぐらい返事が出来ない。
2) 「勤め先ですかァ・・・?」などと言葉をオウム返しする。
3) わざと冗談めかした返事をしたり、笑ってごまかそうとする。
4) 口ごもったり、言い間違えたりする。
5) 文章を読むように単調に答える。
これらのような反応を見せる場合は、かなり、その人は、自分自身にコンプレックスを抱えている証拠だそうです。
劣等コンプレックスの強い人は、見せかけだけの優越感をひけらかす場合が多いそうです。
★ 自己顕示的で、態度が尊大。
★ 自慢したり、ガミガミとどなり散らしたりする。
★ 変わった服装をして、周囲を驚かせる。
★ 他人のあらさがしを良くする。
★ 必要以上の大声で笑う。
★ 相手を無視したり、人の話を聞かないところがある。
このような人は、自分の劣等感があらわになる前に先制攻撃をしかけてしまおうというタイプです。
とはいえ、たいていの人は、自分に劣等感を持っているものです。
しかし、自分自身の劣等感である欠点、弱点、無力をしっかりと自覚し、冷静に受け止められる人は、人間味があり、他人にも優しくふるまうことが出来ると言います。
劣等感を持つことは、ある意味、人間を成長させることでもあるのです。
子供は、大人に対しては、コンプレックスの塊です。
だからこそ、子供は、大人に認められたいと思い、負けるものかと頑張るのです。
しかし、自らのコンプレックスを認めることを拒み、無視や否定する人は、結局、向上心を持てず、進歩は望めないのだということです。
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『相棒』season9最終回・・・・・970
2011年03月10日
~ 今 日 の 雑 感 ~
『相棒』season9最終回
『相棒』season9最終回スペシャルを観ました。
わたしは、映画の方を観ていなかったので、官房長・小野田公顕が亡くなっていたということを知りませんでした。
そのため、ドラマを観ていても始めのうちは内容がイマイチ理解しづらく、赤いカナリアの幹部・本多篤人死刑囚が超法規的措置で釈放されるという下りも、もう一つ飲み込めなかったので、最初の30分ぐらいは、ストーリーに違和感が拭えませんでした。
しかも、例の存在自体が謎だらけの女性代議士(名前忘れた)が出てきたところから、既に半分シラケ気味で、どうせまたいつもの勿体ぶった演技を見せられるんだろうと、ややうんざりした気分でいたのです。
この女性代議士が出て来ると、『相棒』のストーリーは、常に回りくどいものとなり、起きる必要のない事件が強引に起こされることが判っているからです。
おそらくは、この作品のシナリオライターも、かなり頭を痛めて書いているのだと思います。
ドラマの展開にどうしても無理が生じますし、一体、誰に視点をあてながらこのストーリーを追えばいいのか、最後まで結論が出せなくなるのです。
視聴者は、必ず誰かの味方をしながらドラマを観ます。
そして、そこには必然的に悪役となる登場人物が出て来なくてはならないのです。
今回は、その悪役が本多篤人の命を狙う公安調査庁という設定になっていたようですが、これが視聴者の感覚の中で確立できたのは、最後の最後、本多の娘が女性代議士に父親の居場所を携帯電話で教え、公安がそれを傍受して、本多の隠れ家とされていた場所へ刺客が差し向けられたあたりからではなかったでしょうか。
もちろん、杉下右京と神戸尊の『相棒』コンビの機転によって、この本多殺害は未遂に終わりますが、視聴者の感覚からすれば、公安が死刑囚釈放を是と出来るわけがないということの方を支持してしまうかもしれないのです。
そして、むしろ、幾ら3000万人の致死量にあたる炭素菌と、本多の身柄交換のための超法規的措置とはいえ、公安が暴走するであろうことを知らない筈はない女性代議士の、見て見ぬふりをする狡猾さの方を、「悪」とする可能性が大なのです。
そんな訳で、今回のストーリーにおいては、杉下右京と神戸尊は、単なるストーリーテラーに仕立てられてたに過ぎないような不完全燃焼的あと味の悪さが残ったと言えるでしょう。
赤いカナリアの幹部の一人が、あまりに呆気なく捕まり、公安によって簡単に殺されたという筋も不自然です。保釈された本多のライターに発信機が取り付けられていたとしても、一年もの長期にわたり、政府と水面下で本多の身柄引き渡し交渉を続けてきた幹部にしては、捕まり方があまりにお粗末ですし、だいいち、本多篤人ともあろう百戦錬磨のテロリストが、政府から返された所持品を、あれほど安易に身に付けるとは考えられないからです。
何処か、シナリオの書き方にも隙があるように思えてなりませんでした。
プロットを複雑に練り上げすぎた弊害が、物語の随所に見えて、もう一つ得心することが出来ないseason9最終回スペシャルだったように思います。
season10が制作される時は、9のように話の筋ばかりを追いかけるあざとい手法は小出しにして、もっと素直なストーリー構成で、視聴者が無理なく登場人物たちに感情移入できるようお願いしたいものです。

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買い物弱者・・・・・969
2011年03月10日
~ 今 日 の 雑 感 ~
買い物弱者
この冬は、栄養失調で病院へ搬送された高齢者が多かったそうだ。
冬季は、道路の凍結などもあり、自動車の運転も敬遠気味になる高齢者たちは、近くのスーパーへ買い物に行くことさえもためらってしまう。
そんな訳で、食料品の買い出しが出来ずに、食事の回数を減らしたり、常に同じ物ばかりを食べるような日が続くことで、栄養不足や栄養の偏りが顕著となり、体調を崩す人が増えたのだそうである。
そう言えば、最近、上諏訪駅前の「まるみつ百貨店」が閉店した。
1965年に諏訪地方で初めての百貨店「諏訪丸光」として開店し、おしゃれな商品が並び都会的なあかぬけた雰囲気が主婦たちの購買意欲を刺激したものだったそうである。
屋上には遊園地を備え、観覧車が子供たちの夢を誘う本格的なデパートに、家族連れが連日押し掛けたのだという。
ところが、1980年代になると近隣地域に百貨店や大型店が軒並み進出し、90年代には売り上げも減少に転じて、2004年には会社更生法の適用を申請。店名を「まるみつ」として再生を図ったものの、客離れは止まらず、ついに閉店となったのであった。
しかし、地域の人たちにとっては、大事な買い物の場所であり続けていたことに変わりはない。
日常的に生鮮食料品を買っていた特に高齢者には、なくてはならない店であった。
「まるみつ」があるので、わざわざ自動車で遠くに買い物に行く必要もないという理由から、運転免許を返上してしまった人もいるという。
そういう人にしてみれば、正に晴天の霹靂。はしごを外されてしまったに等しい仕打ちである。
市は、こうした買い物弱者のための緊急措置として、駅前と市内の食品量販店などを結ぶジャンボタクシーサービスを始めたそうだが、高齢者たちが時間に追われた買い物を受け入れられるか疑問である。
たとえば、長野電鉄の木島線が廃止されたことで、バスの代替運行が行なわれてはいるが、やはり、利用者数は電車運行時の半分に落ち込んでいるという。
バス停が寒風吹きさらしの中にあるため、高齢者たちの利用が激減しているのだそうだ。
おそらくは、電車運行時は、毎日のように中野市内の病院へ通院していた沿線のお年寄りたちも、本当に具合が悪くならない限り、診察を受けに行かなくなっているのではないかと、推測する人もいる。
買い物弱者や通院弱者が、これからの時代はますます増えて行くことが懸念される。
郊外の大型店まで自動車で買い物に行くことが可能な若い人たちも、いつかは年をとるわけで、そんな時はあっという間にやって来るのだ。
自動車に頼る必要のない社会の構築が、今まさに必要なのではないだろうか。
買い物弱者が今後ますます増えることを考えると、自治体自身が街のあちらこちらに小規模食品雑貨量販店を作り、経営に乗り出さない限り、具体的な解決策は見つからないのではないかと考える。 続きを読む
電子書籍の時代は来るのか?・・・・・968
2011年03月09日
~ 今 日 の 雑 感 ~
電子書籍の時代は来るのか?
iPad(アイパッド)が日本で発売された昨年は、電子書籍元年と銘打たれ、「黒船来航」と騒がれたが、その後は、大して話題にも上らなくなった。
少なくとも、わたしの周りで、これを買った人は、まだいない。
電子書籍の出版社も出来たらしいが、積極的に購入しようと思っている人に会ったこともないのだ。
評論家の歌田明弘さん(52)は、
「電子書籍の普及は、専用端末の普及にも左右されますが、問題は価格にあると思います。本の電子化で、紙では残りにくい本がきちんと残る環境が出来るのはいいことで、今のように書籍販売のサイクルが短い状況も改善されると思います。日本での本の電子化が進まなければ、インターネット時代に情報の質、利便性で英語圏の本に遅れをとることになるでしょう」
と、話している。
しかし、一般の人たちの反応は、電子書籍化に対して、あまり芳しいものではない。
「紙の本には、電子書籍にはない紙独特の手触りというものがある。紙の本には紙の本にしか出せない安心感や満足感というものがあるのです。電子書籍の流れは進むでしょうが、やはり、活字の本は残って行くと思います」
「本が大好きで、図書館の本がすべて電子書籍になるまで、紙の本を読もうと思っています。学校で使う教科書や資料などは電子書籍になってくれれば家庭の負担も減ると思いますが、図書館の静かな雰囲気が好きなので、本の重さや紙質を感じながら本を読み進めたいものです」
「本が好きです。本の表紙はどれも素敵で、表紙裏の紙の色や模様も楽しみの一つです。絵本の表紙は『絵画』であり『芸術』だと思います。電子書籍になったら、絵本はどうなるのでしょうか。図鑑は?紙の本の方が重くても大きくてもいいです」
と、こうした意見が多いようである。
確かに、電子書籍には紙の手触りというものがない。
インクの匂いがない。
これは、ある意味、人間の五感を生かせないという難点ではないかと思う。
人間は、視覚、嗅覚、触覚を生かしながら、想像力を鍛え高めるのであるから、勉強の際、ノートに書くという作業も、鉛筆を手に持ち、実際に字を書くことで頭の中に文字を刻みこむことが、記憶として蓄積されるのである。
単に、キーボードを叩くだけでは、文字が具体的な形を持たず、実感として頭に入らないのと同じことである。
そのため、未だ心身ともに成長過程の子供たちには、電子書籍は不向きではないかと思うのだ。
既に、勉強もやり尽くした大人が、さらなる知識を求めて読むためならば電子書籍は威力を発揮するだろう。
また、学校や病院などで教師や医師がいちいち重い書類やカルテを持ち運ぶ煩わしさを軽減できるし、家庭で主婦たちが料理のレシピを見る時、料理本のページを固定しながら見なければならないという面倒くささが省けたりもするだろう。
長い通勤時間の移動中など、何冊もの本を持って電車に乗るのも重いし大変だが、電子書籍ならば端末一つで事足りる。
つまり、これからの時代は、その場の用途に応じて電子書籍と紙の本を使い分ける時代が来るということで、すべてが電子書籍にとって代わるという時代になるわけではないのではないかと考える。
さらに、紙の本が出版されたのち、正にジェネリック医薬品のように電子書籍となったり、その逆に電子書籍として先に売り出されたものが、美しい装丁の紙の本になったりもするだろう。
出版期限が切れた電子書籍の小説を業者に持ち込めば、世界に一冊しかないあなた好みの装丁にして紙本に作り替えてくれる本屋さんが現われるかもしれない。
今後の出版界には、これまでになかった色々な可能性が秘められているような気がする。
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感 情 線・・・・・967
2011年03月08日
~ 今 日 の 雑 感 ~
感 情 線
右利きの人は、まず、右の掌を見て下さい。右の手相には、現時点からの未来や後天性が映し出されるのだそうです。(左利きの人は逆です)
どうも、最近は、この見方が主流になりつつあるとのことです。
そこで、今回は感情線を見てみましょう。
この線は太く、掌の小指側の一番端から人差し指側へかけて上へ向かうように緩やかに孤を描いて伸びています。
この弧を描く感情線の先端が、人差し指の下付近で終わっている人は、思いやりのある性格で、結婚運も良く、マイホームパパになる人だそうです。女性は、良き奥さんといったところでしょうか。
しかし、プライドの高いところがあり、下品な冗談などは受け付けない性質でもあります。
感情線の先端が中指と人差し指の間あたりで終わる人は、好き嫌いがはっきりしていて、異性同性にかかわらず、好きな人にはとことん尽くしますが、嫌いな人には話もしたくないというほどの嫌悪感をあらわにするタイプだと言われます。
感情線の先端が中指の付け根の辺まで入り込んでいる人は、あまり多くはありませんが、自己中心的な人です。相手の気持よりも、まず自分の気持ちが大事で、目的のためなら手段を選ばないというところがあります。
感情線が長く、掌の端まで伸びている人は、独占欲が強く嫉妬深い人だと言われます。この手の人が失恋すると、ストーカーにもなり兼ねないので、あまり人を疑わない習慣を身に付けた方がよいでしょう。
感情線が弧を描かず、真っすぐに掌の方へ伸びている人は、とにかくクール。感情におぼれるようなことはありません。恋愛も仕事も、実にドライに割り切るタイプですから、女性ならばキャリアウーマンに向いているとのことです。
感情線がクネクネと曲がっている人は、大人しくて地味で、コミュニケーションが苦手な人だそうです。自分をうまく表現できないために、付き合いが悪いと思われることも・・・。
感情線の人差し指側が二股に分かれている人は、恋愛についてはおくてで、かたぶつタイプ。女性を気軽に誘うようなことはしません。もしも、誘う時は、あとの責任まできっちりと考えた上で誘う献身派です。
感情線がすべて鎖状によれている人は、惚れっぽく、異性にもてる人だということです。特にこの手相は、女性に多く、大して美人でもないのに男性にもてるという人が多いそうで、そのせいで悪い男に引っ掛かりやすいという難点もあるのだとか。
で、わたしの感情線は、感情線の途中から下向きに何本もの細い線が出ているというものです。
これは、失恋の数がハンパじゃない人の手相だそうですが、正直、ほとんど恋愛をしたことがないのに、失恋というのはど~~なんでしょうね?
もしや、自分でも気が付かないところで恋をしては失恋していた?
ほとんど、記憶喪失状態だったりして----。

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念ずれば通ず・・・・・966
2011年03月07日
~ 今 日 の 雑 感 ~
念ずれば通ず
本文へ入る前に一言。
何度もこのブログで書いているのですが、コメントには、必ず返事を書きましょうね。
たった、一言、「コメント、ありがとうございます」でもいいではないですか。
いつもの読者からのコメントだからと、蔑ろにするのはブロガーとして如何な物でしょう?
特に、お客さま商売の方は、せっかくコメントを頂きながらレスを書かないというのは、それこそご商売の信用にもかかわりますよ。
毎日、記事をアップしているのですから、コメントに気付かなかったという理屈は当てはまりません。
もしも、時間の都合で返事が書けない時は、コメント欄を閉鎖しておくべきです。
ナガブロの場合は、ブログの記事ごとに選択できるはずですから。
コメント無視は、コメントを書き込んだ読者に失礼にあたるだけではなく、マナー違反ですよ!
それとも、そういう人は、下々の一般人といちいちコメントのやり取りなどしていられるか----とでも思っているのでしょうか?
心当たりのある方は、さっそく、お返事をどうぞ!
念ずれば通ず----テレパシーですよね。
人の「思い」や「念」というものは、強く願えば相手に伝わるもののようです。
夢の中で、度々電話がかかって来ることはありませんか?
電話に出ても、相手は何も言わないような不思議な電話。
これは、誰かがあなたに何かを伝えたいと思っていて、その「念」が夢の中で電話をかけて来るというシチュエーションになると言われています。
わたしにも、こういう経験がありました。
そして、後日、本当にその人がわたしに伝えたい話があったということが判りました。
それを言えずじまいのまま、去ってしまったことが気になっていたのだそうです。
ところが、これまた不思議なことに、わたしがその人に戻って来て欲しいと思っていたところ、その人は、一年後に再び帰って来てくれました。
その間、その人と話をしたことは一度もないのです。もちろん、会ったことすらありませんでした。
特別に親しいという間柄ではありません。
でも、何となく、赤の他人という感じがしないのです。
心の奥底でつながっている----そんな感覚なのです。
しかも、そんな微妙な距離感がとても心地よいのです。
思い描いただけで気持ちが通じる相手というのは、人生の中でそう巡り会えるものではありません。
念ずれば通ず・・・・。
そんな体験、あなたにはありませんか? 続きを読む
外国人頼みは如何なものか?・・・・・965
2011年03月07日
~ 今 日 の 雑 感 ~
外国人頼みは如何なものか?
外国人観光客は、「おしなべて買い物をしない」と、いう声が多い。
コンビニでも同じような話を聞く。
観光も、目的地だけを見てとんぼ返りでは、観光地にほとんど恩恵をもたらさない。
しかも、一部のホテルや旅館が都心や海外へ出向き、自分の旅館やホテルへのみの誘客をしても、それは、町や市全体の経済効果には程遠いものなのである。
今、「スノーモンキー」がインターネットなどで海外の旅行者に人気だが、彼らとて目的は雪の中で温泉に浸かるニホンザルを見ることだけで、信州の風景や土産品を買いたいわけではないのだ。
よって、宿泊に使うホテルや旅館も一部に限る。
その宿泊施設とスノーモンキーのいる地獄谷野猿公苑の間だけを用意された送迎車で往復し、帰路に就くだけなのだ。
街の中は、相変わらず閑古鳥が鳴いている。
この不況で日本人観光客が激減し、昨年はまた減少。湯田中渋温泉郷を訪れた観光客の延べ人数は120万人まで落ち込んだそうである。
信州ディスティニーキャンペーンも、ほとんど効を奏さなかった。
やはり、日本人観光客が魅力を感じる観光地にしなければ、地元観光の将来は望めない。
円安円高で一喜一憂するような場当たり的な観光業は、あまり得策とは思えない。
やはり、これからの観光地のあり方の一つとして、その場所へ行かなければ生きている価値がない----と、思わせるようなアイデアが必要なのではないかと考える。
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夢の中の「青」・・・・・964
2011年03月07日
~ 今 日 の 雑 感 ~
夢の中の「青」
夢の中に何故か、マリナーズのイチロー選手が出て来ました。

イチロー選手は、しみるように鮮やかな青色のフェイスタオルを持っていたのです。
あまり、その「青」の印象が強かったので、気になって調べてみました。
「青」は、そもそも、理性や知性の象徴です。
高い精神性を表わしもするそうです。
ただ、青い色が必要以上に強調されていると、精神的脆さや、憂鬱からの逃避を表わすことがあるそうです。
確かに、そのフェイスタオルの「青」を見た時、何となくホッとしたような気がしました。
すっきりと晴れた空は、真実や純粋さを意味し、自分がそうありたいという願望が見せる場合が多いそうです。
正直な自分を取り戻したいとか、穏やかな生活を望んでいる時にも、そんな夢を見るそうです。
明るく鮮やかな青が夢に出てきた時は、新しい出会いや、集中力、想像力にあふれ、新しい自分自身を発見する兆しでもあります。
また、知っている人が青い服を着て登場したら、その人の助けで問題が解決することを暗示しているそうです。
しかし、沈んだ「青」は、憂鬱や不安の表われです。無理に自分の感情をセーブしたり、思い通りに行かないことがあってうんざりしている場合などに見ることがあります。
あなたが青い色の服を着ている時は、直面している問題は、あなた自身の力で解決しなさいという忠告で、あなたには、その力があるという意味でもあるそうです。
そして、青い花が夢に出てきたら、理屈や化学では割り切れない不思議な体験をする兆しです。そういうことが起きても慌てないように、心の準備をしておきましょう。
「青」といっても、色々なパターンがあります。
もしも、自分の気持ちにしっくりこない色だった場合は、身の周りにあなたを不安にさせる要因があるのかもしれません。前向きに、解決する勇気を持って下さい。 続きを読む
大人の会話・・・・・963
2011年03月06日
~ 今 日 の 雑 感 ~
大人の会話
ところで、近頃は、大人になっても、大人の会話が出来ない人が多くなりましたね。
大人の会話というのは、要するに、言っても言わなくてもいいことを言うことです。
「今日は、寒いですね~~」とか、「天気が悪くて嫌ですね」などといった、別にだから何なの?----というような会話のことです。
子供は、こういう大人の会話を、実に生産性のないくだらないものと決め付けて、バカにします。
でも、大人の会話なんて、ほとんどが意味のないくだらないものなんですよね。でも、そのどうでもいいくだらないものが、大人同士間の潤滑油になっているわけで、これが出来ない人は、やはり大人の仲間入りは出来ないのです。
でも、最近は、こういう会話の出来る人がだんだん少なくなりつつあります。
会話の終わりをどのように締めくくったらいいのか判らず、話の途中でさっさと背中を向けて帰ってしまうという自分勝手な人もいます。
また、ブログのコメントに対するレスに関しても、時に、「どう返事をしたらよいか判らない」などという人もいます。
やはり、日常会話の知識が乏しいために、大人の返事が出来ないのです。
こういう人たちが、いっぱしの社会人をしているのですから、困ったものです。
そういう人は、物事の節目やけじめをつける方法が判らないために、大人の常識に欠けた日常生活を送るしかないのです。
周囲の大人たちの顰蹙を買いまくりながら・・・・。

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想像力の欠如・・・・・962
2011年03月06日
~ 今 日 の 雑 感 ~
想像力の欠如
犯罪を行なった人間がいう言葉に「魔が差した」というものがある。
この言葉の意味は、「魔に魅入られて悪い心を起こす」というものだが、この「魔」に魅入られた時、人間は何をなくしてしまうのか?----と、考えると、それは、(りえるさんもコメントで書かれていた)「想像力」ではないかと考える。
人の日常とは、ある意味、すべて想像力で成り立っているとも言える。
でも、あそこの通りには、たぶん、またあの大きな犬がいるだろうから、別のコースを歩こう。
その途中でスーパーマーケットによって、特売になっているはずのパンを買ってこよう。
こんな具合に、想像力で時間の先取りをしながら、毎日を過ごしているのである。
ところが、そこに「魔」が差すと、その想像力が一気に失われ、「今」しか見えなくなってしまう。そうなると、その瞬間の世界は、自分だけのためにあるような錯覚が起き、何でも出来てしまう一種の高揚感に支配されるのだろう。
高揚感に支配された世界では、物事はすべて自分の思い描いた通りに運ぶはずなのだが、相手は、そんな世界の外にいるわけで、思いもかけない反応を示す。
自分の思い描いていた状況とは違う反応が相手から返ってきた時、その人物は焦り、慌てて、パニックに陥ってしまう。
どんなにち密に計画した犯罪でも、計画している時点で既に自分自身の世界にどっぷりとつかり込んでいるのだから、やはり、想像力は稼働していないと言えるのだ。
しかし、ただ単に「魔が差した」では済まない犯罪がこれほど多くなると、本気で現代人の想像力の欠如について考える時期が来ているのかもしれない。
一方の面からばかり物事を見るのではなく、さまざまな方向から、時には、その中心に入って観察し、他の面について想像する癖を付けるような教育が必要なのではないだろうか。
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年配男性が生きる意味・・・・・961
2011年03月05日
~ 今 日 の 雑 感 ~
年配男性が生きる意味
テレビでバラエティー番組を観ていたら、実に含蓄ある話題を取り上げていた。
「男性の年寄りが生きる意味は何なのか?」
まあ、かいつまんで言えば、そんなことである。
これに対して、一人の回答者は、「50歳以上の男には、生きている意味がないのだ」と、発言していた。
相談者の男性タレントは、これに対してどうしても納得がいかないようで、「自分は、一人になっても孤高に生きたい」と、言う。
すると、別の回答者が、「男性の年寄りが生きる意味は、若い連中に人間の矜持(きょうじ)を教えるためだ」と、話した。
これには、相談者も納得がいったようで、「そういうことなら生きる意味はある」と、喜んだが、もう一人の別の回答者は、
「その矜持というのは、人は如何にして美しく消えるか----と、言うことを教えるためのもので、世の中に老醜をさらすためのものではない」
と、説いた。
しかし、孤高という言葉を自分勝手に解釈して、いつまで経っても引退しない政治家もいる。こういう人間たちが多くなっているので、若い人たちの中の年寄りへの尊敬が薄れるのだと、その回答者は言うのである。
つまり、孤高とは、如何に格好良く世の中におさらばするかということに尽きるので、今の60歳以上の人たちは、孤高ではなく単に孤独なだけだというのだ。
孤独ゆえに、誇りも羞恥心もなく、守る物もないため、ある意味生きる理由をなくして、万引きなどにも走るのだという。
ここまで一生懸命生きて来たのだから、もう、好きなようにさせて欲しい----と、開き直るのかもしれない。
だから、むしろ、格好良く第一線から引退する年配男性たちが増えれば、若者たちの年配者に対する尊敬の念も大きくなるのかもしれないと、回答者たちは言っていた。
でも、それが、一番難しいことなんだけれどね。
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カンニング事件に思う・・・・・960
2011年03月04日
~ 今 日 の 雑 感 ~
カンニング事件に思う
大学入試カンニング事件を引き起こした予備校生、「どうしても合格したかった」と、言っているそうだけれど、もともと、かなり頭の良い優秀な生徒だったそうですね。
本人は、単独で実行したと言っていますが、果たしてどうなんでしょうか?
カンニングはしたものの、早稲田大と同志社大は、合格していたとのこと・・・。
センター試験があまり出来が良くなかったので、焦ったという話ですよね。
一応、合格者として扱ったのちに、処分を考えるとの大学側の意向らしいけれど、何だか虚しい感じがします。
どうして、もうワンランク偏差値が下の大学を受験しようと思わなかったのでしょうか。
大学のブランドだけに固執した結果が、偽計業務妨害の罪で逮捕です。
いったい、何を勉強しに大学へ入りたかったのでしょうね。
将来は弁護士になりたかったようですけれど・・・。
それにしても、今の子供たちは、生まれた時から携帯電話が身近にあって、これが時計であり、カメラであり、辞書であり、スケジュール帳であり、コミュニケーション・ツールでありと、もはや、身体の一部と化しているようですね。
判らないことは、携帯電話で調べればいいと、いうのが常識だから、コピペなどは当たり前、知らないことは「ヤフー知恵袋」へ訊けば解決してくれるということまで、彼らにとってはごく普通の日常的手段だったのでしょうね。
そして、ついに受験問題も判らなければ「ヤフー知恵袋」へ訊いてしまえばいいのだと、考えが飛躍してしまったのかもしれません。
案外、これがカンニングだという認識さえなかったのかも・・・・。
周りが騒ぎ出したことで、初めて「エライことをしてしまった」と、気が付いたのかもしれません。
世の中が便利になればなるほど、人間のモラルが壊れて行きます。これまで、やってはいけなかったことが、やって良いことになるのです。
わたしが学生だった頃は、好き嫌いのある子供は、いけない子供でした。
たとえ、どんな理由があっても、給食は残さず食べなければ叱られました。
でも、今は、子供の食物アレルギー体質が公認され、シックハウス症候群が認められ、親の要望があれば授業中にガムをかむことも教師は注意出来ないそうですよね。
試験会場に携帯を持ち込むことが禁止できないとしたら、携帯を駆使しても解けないほどの超難問を試験官は考えて出題するしかありません。
つまり、会場へ入ったのちは、一時間や二時間では答えが出せない個別論文形式のような試験を行なうか、携帯電話が一切使用できない口頭試問形式にするという方法しかないのではないかと思います。
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女心は、複雑ですね。・・・・・959
2011年03月03日
~ 今 日 の 雑 感 ~
女心は、複雑ですね。
今日は、通院日でした。
あえて、何科とは言いませんが、わたしの座る椅子の隣へ、お母さんと5歳ぐらいの女の子が腰をかけました。
女の子は、とてもテンションが高くて、実に嬉しそうに身体を動かしては、お母さんに、静かにしなさいと叱られていました。
でも、女の子は、お母さんの忠告など何処吹く風で、「あたし、この先生大好き!とても、良い先生だよね」と、上機嫌でニコニコしています。
患者は、どうやら、この女の子のようで、これだけはしゃいでるところを見れば、大したことではないんだろうな・・・と、考えました。
やがて、その女の子の診察の順番が来ました。
「〇〇さん~~」
と、看護師さんが、女の子の名前を呼んだ瞬間です。
何がどうなったのか、それまでニコニコしていた女の子が、突然、大きな声で、
「うえ~~~~ん!!」
と、泣き出したのです。お母さんは、いつものこととばかりに、平然と娘の手を引いて診察室へ入ります。
すると、診察室の中から、何ともすさまじい声が聞こえて来ました。
「バカ~~~!!先生のバカ~~~!!ウギャァ~~~~!!」
「何するんだ~~~!!バカ~~~!!」
女の子の絶叫です。
先ほどまで、あんなに良い先生だと褒めちぎっていたはずなのに、今では、バカ先生の連続です。
待合室にいるわたしは、おかしくて、おかしくて、思わず口を手で押さえて笑ってしまいました。
ようやく、治療が終わり、診察室から女の子がお母さんに手を引かれて出て来ました。
もう、泣きやんではいましたが、顔は真っ赤です。
「頑張ったね。偉いね」
看護師さんに褒められても、女の子はふてくされたままでしたが、お母さんがお礼を言って二人で二、三歩歩き出した時、女の子が口を開きました。
「やっぱり、あの先生、良い先生だね」
「本当ね・・・」
お母さんは、さりげなく返事をしていましたが、わたしは、もう我慢が出来ず、噴き出してしまいました。
女心は複雑です。
嫌いも好きも、紙一重ですからね。

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大学入試カンニング事件・・・・・958
2011年03月02日
~ 今 日 の 雑 感 ~
大学入試カンニング事件
さすがは、ネット時代。
わたしたち世代には、思いもつかないカンニング事件が起きた。(あえて、事件と呼ばせてもらう)
京都大学、早稲田大学、同志社大学、立教大学の入試で、試験中にインターネットの「ヤフー知恵袋」を使うという大胆カンニングが行なわれたのだ。
しかも、このカンニングをした人物は、この入試本番に向けて去年、河合塾の模試の最中にも、同様の手口で外部の第三者に試験問題を解かせ、カンニングの予行演習までしていたのだという。
つまり、「ヤフー知恵袋」に投稿された質問に回答を寄せた何も知らない第三者たちは、身に覚えのないところで、間接的にカンニングの手伝いをさせられていたのである。
この詳しい手口については、インターネット音痴のわたしなどには、もう一つ理解できないのだが、どうやら、犯行には二人の高校生(一人は東北地方在住か?)がかかわっていたのではないかということが、警察の捜査によって明らかとなりつつあるようだ。
これまでにおおよそ判ったことは、試験会場に実際入っているAという高校生が、服の袖などにカメラ付き携帯電話をしのばせて、答えを考えるふりをしながら問題用紙に書かれてある設問を撮影し、会場の外にいる共犯のBという人物(もう一人の高校生か?)へ送信する。
画像撮影時の音は、消すことが可能だという。
Bは、その映像を投稿メールに直し、NTTドコモ携帯から「問題の解答をお願いします」と、aicezukiの匿名でヤフー知恵袋へ投稿する。
ヤフー知恵袋を見た第三者たちが、この問題の答えをサイトへ書き込むと、これをBが見て、Aが装着しているコードレス・イヤホンに「答えは、〇〇だよ」と、伝える。
このようなやり方で、Aは、カンニングをし続けていたのではないかと推測されるようだ。
そして、このヤフー知恵袋に投稿された回答と良く似た答えを書き込んでいた受験生が、特定できたそうである。
また、警察は、ヤフー知恵袋投稿者のIPアドレスや通信履歴を調べることで、共犯者についても捜査を進めているとのことである。
この事件により、他の大学入試関係者も試験中の監督官の人数を増やしたり、受験生に携帯電話のストラップを外させるなどの措置を取り始めた。
しかし、携帯電話そのものの持ち込みは、制限できないそうである。
理由は、試験と試験の間の休み時間に、家族に連絡したい受験生もいるとのことで、無下に携帯を取り上げることも出来ないというのである。
何とも、今の受験生は恵まれていると言える。
66年前には、東京大空襲の直後に一人で上京し、がれきがくすぶり続ける中、試験を受けた高校生たちがいたというのに・・・である。
時代が変われば、何もかも変わるものだ。
だが、ここまで事態がこれまでの性善説に基づいた常識を覆して進んでしまうとなると、来年からは携帯電話やその他の通信機器の持ち込みを全面禁止するしかなく、そのためには、金属探知機の導入や警察官の監視等も検討する必要があるのかもしれない。
捜査進捗状況が正しいとして、たった二人の高校生の暴走が、とてつもない迷惑を大学側や受験生たちに被らせる破目になったわけである。
それにしてもだ。
この受験生が、本当にこれだけの名門大学に本気で受かりたいと思っているのだとしたら、それだけの勉強はして来たはずである。カンニングなどしなくても、合格するだけの学力はあったのではないかと思うのだ。
また、万が一、まったく受験勉強などしていなくて、カンニングの手口ばかり考えていたのだとしたら、本当に合格してしまったあと、どうやって大学の勉強について行こうと思っていたのだろうか?
入ってしまえば何とかなる----そう考えていたのだとしたら、彼らは甘すぎる。
これだけの偏差値の高い大学へ入学するには、やはり、普段の勉強がそれなりに出来ないと、とても授業など理解するのは無理だと思われる。
考えてみれば、やることなすことが尽く中途半端なやり口であるとしか言いようがない。
大学は、世の中に五万とあるのだ。
受験生たちには、自分の真の実力に合った大学へ入り、思い切りキャンパスライフをエンジョイして欲しいものである。
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気分転換が成功の秘訣・・・・・957
2011年03月02日
~ 今 日 の 雑 感 ~
気分転換が成功の秘訣
学問でも、スポーツでも、音楽や芸術関係でも、天才とか博士などと呼ばれる人たちは、たいてい、上手な気分転換の仕方を知っているのだそうです。
それも、自分の専門分野とはかなりかけ離れた趣味や興味のある世界を持っていて、そうした別のことに没頭している時は、仕事についてはまったくの無関心になるといった徹底ぶりなのだとか・・・。
つまり、彼らの仕事と気分転換には、実にメリハリがあるということのようです。
「どうして、あんなに色々なことをしているのに、彼は学業の成績も良く、スポーツでも大活躍出来るのだろうか?」
などと首を傾げるほどに優秀な生徒が、クラスに一人や二人いたことはありませんか?
それは、もちろん、その生徒が人一倍の努力家で頭が良かったということもあるかもしれませんが、それだけではないのだそうです。
むしろ、まったく違うことを一生懸命することで、脳が極めてうまい気分転換を促し、リフレッシュ効果やストレス緩和という相乗効果をもたらしていたのだということでした。
どんなに長時間の勉強をしても、スポーツの特訓をしても、そのことばかりに熱中していると、人間は必ず何処かで飽きたり手を抜いたりしてしまうものなのです。
特に、人が何かに一心不乱に集中できるのは、せいぜい30分が限界だとも言われます。
いつもは、難しい研究に没頭しているのに、休日は一切研究とは関係のない美術館巡りをしたり、楽器を習いに行ったりと、自分が研究者であることを忘れるレベルまで気分転換が出来るような人は、本当の意味での「自己暗示の差」というものを体感しているといえるのです。
しかし、こういうことが出来る人は、そう多くはありません。
普通の人は、たとえ、映画を観ている時でも、音楽を聴いている時でも、やはり、解けない宿題の答えを考えてしまったり、点数の悪かったテストのことなどをクヨクヨと考えてしまうものなのです。
これでは、自分をますますダメにする「マイナスの自己暗示」になってしまうと言います。
何事も行き詰ったら、別のことで頭を切り替える-----これが成功の秘訣だそうです。
でも、凡人は、そううまくは行きませんよね。
わたしなど、もしも、まったく気分を切り替えてしまったら、最初に何をしようとしていたのかさえも、忘れてしまいそうですから。(~_~;)
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表情と感情・・・・・956
2011年03月01日
~ 今 日 の 雑 感 ~


わたしは、大竹しのぶという女優があまり好きではない。(ファンの方たち、すみません)
別に、彼女の私生活がどうとか、性格が云々ということではなく、彼女の演技が苦手なのだ。
彼女を名女優という人は多いが、わたしには、どうしてもそうは思えないし、テレビなどで彼女の演技を観ていると、気持ちが逆なでされるような違和感を覚えるのである。
それは、さしずめ、ハ長調の最後の一音がファ終わる曲を聴いているような気持ちの悪さとも表現できるし、黒板を爪でひっかくような、いたたまらなさとも言える。
生理的に、どうしても受け付けたくないのだ。
そのわけは、彼女の表情にある。
彼女の顔は、笑っているのかと思えば、実は内心激怒しているというように、観ている側に不協和音を聴かせるようなところがあるのだ。
ストーリー展開と、表情が合致しない女優。それが、彼女なのである。
しかし、視聴者は、それを「名演技」だと称賛する。
わたしには、「迷演技」の間違いではないかと思えるのである。
笑いながら、怒るという表情しか出来ない人は、他にもいる。
歌手の五木ひろしがそうだ。
とはいえ、人の顔や表情は、つまり、それだけ曖昧なものだともいえるのだ。
表情から相手の本心を探りだそうとしても、その感情までも判別できるのは、せいぜい二種類までなのだそうだ。
喜びと怒りの表情ぐらいは何となく判別できても、怒りと悲しみ、怒りと嫌悪などの表情を見分けるのはとても難しい。
それでも、笑いと怒りの区別ぐらいは付けて演技をして頂かないと、観ている方は混乱するばかりだ。
おそらくは、彼女の表情筋が他の人とは違う動き方をするために、あのような紛らわしい表情になってしまうのだと思うが、とにかく頂けない演技である。 続きを読む
高齢者が頑固なわけ・・・・・955
2011年02月28日
~ 今 日 の 雑 感 ~
高齢者が頑固なわけ
年をとるにつれて、人間は頑固になると言われますよね。
周りの意見を受け入れなくなり、自分の意見ばかりを押し通そうとする男性も多いものです。
しかし、そういう人も、若い時から人の意見を聞かない頑固者だったわけではないのです。
どうして、このようなことが起きるのでしょうか?
人間は、押し並べて、最初に聞いたり見たりしたものを信じるという性質があるそうです。
つまり、若い時に経験したことが正しいことだと思い込む傾向があるのです。
ある男性落語家は、バブルの頃に若い女性たちに人気のあった行楽地を、未だに女性たちに人気のある場所だと信じ込んでいて、若いタレントたちの失笑を買っていました。
また、ある高齢男性は、若い頃に見た知り合い男性の悪い印象があまりに強烈で、その男性がその後立派な業績を残す人物に成長しても、「本質は、ろくでもない奴だ」との評価を変えることがありませんでした。
人間は、若い時分に受けた印象を、ほぼ生涯にわたって引きずる性質があるので、何十年経っても、結局はその時の感覚を忘れることがないのです。
世代間のギャップも、要は、そういうところから生まれるわけで、たとえば、クジラを食べることが当たり前の世代に、現代の若者が「クジラを捕るのは感心しない」と、言ったところで、受け入れられないのも当然といえば当然なのかもしれません。
人間の基礎的概念というものは、二十代の頃までに出来上がるそうです。
その頃、良い印象を得た物は、生涯にわたり、良い物と認識し続けるのです。
逆に、若い頃に、あまり好ましい印象を持てなかった事柄については、その事柄の印象がのちに誤った認識のもとに出来たものだったと判っても、やはり、心底好ましいとは思えないものなのです。
高齢になればなるほど、自分の感覚が最も正しいと確信する人が多いのは、そのためのようですね。
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