「すごい!」という言葉・・・・・53
2009年05月31日
~ 今 日 の 雑 感 ~
「すごい!」という言葉
「すごい!」-----この言葉を、あなたは、一日に何回ぐらい使いますか?無意識のうちとはいえ、かなりの頻度、使っているのではないでしょうか。考えてみれば、わたし自身もかなりの回数使っていると思います。

これが、一般の会社員のセリフだと、さしずめこんな感じでしょうか?
まず、朝起きて-----「すごい、天気いいね」「今日の朝ごはん、すごいおいしいね」「すごい、もう遅刻しそうだ!」
会社へ行って-----「昨日のジャイアンツの試合、すごかったよねェ」「今日のプレゼン、スゲ―緊張する!」
退社時間-----「この前、すごくおいしいイタリアンの店見付けたんだけど、これから一緒に行かない?」「あなた、すごくしつこいわね!」「やめとけよ。お前、そんなこと上さんに知れたら、スンゲ―、ぶっ飛ばされるぞ!」
こうして見ると、この「すごい!」を使うだけで、日々の会話のほとんどが網羅出来てしまうようですね。
ところで、あるテレビドラマを制作する時、演出家の方が、子役の小学生たちに、「きみたちのお父さんが、新しい自動車を買った。今日、家にそれが届くシーンなんだけど、きみたちは、好きなようにその車を褒めてくれ。決まったセリフはないから、自由にしゃべってくれていいからね」と、言ったところ、いざ本番になって、その子役たちの口から出た言葉は、
「すごいね!」「スゲ―、かっこいい!」「すごい、すごい!」「お父さん、すごい大好き!」-----だったそうで、演出家のの方は、愕然として、「やっぱり、セリフは必要だなァ」と、思い直したそうです。
一月ほど前でしたが、近所の和菓子屋さん(うちの方では、お饅頭屋さんと言います)で、面白い会話を聞きました。お店のご主人と、若い男性二人のお客さんが話をしていたのですが、男性客の一人が、出来上がったばかりのお饅頭を見て、
「これ、何ですか?」
「温泉まんじゅうですけれど------」
ご主人が答えますと、その男性客は、いきなり、「温泉まんじゅうだって、スゲ―なァ」と、言ったのです。途端に、ご主人が、ブチッと、キレたような顔つきになり、
「お客さん、温泉まんじゅうの何処がすごいの?温泉まんじゅうに足が生えて歩き出すとでもいう訳?」
と、言います。男性客は、最初何を言われているのか判らないようでしたが、ご主人が、続けて、こう言いました。
「すごい----なんて言葉は、土石流が飽きた時にでも使うもんだよ。あんたら、菓子屋の小僧上がりの、おれなんかよりも学があるんだから、もっと頭を使ったほめ方が出来るだろ?とても、おいしそうですね-----とか、いい香りですね-----とかさ」
男性客たちは、ようやくご主人の言っている意味を理解したらしく、「すみません・・・・」と、小さく言って、その温泉まんじゅうを買って行きました。
これを聞いていたわたしは、なるほどなァと、感心しました。確かに、「すごい」は、便利な言葉ではあります。しかし、これをあまり多用すると、何がすごいのか、判らなくなってしまいますよね。おいしいということなのか、綺麗ということなのか、嬉しいのか、怖いのか、それとも、ほとんど接続語的に使うもので、意味などないのか-----。
子供を褒める時も、とかく「すごいねェ。お利口だねェ」などと言いがちですが、ここは意図的に「すごい」を、しばし封印して、もっと具体的に言葉を使ってみたらどうかと思うのです。
日本語には、素敵な言葉がたくさんあります。つい、口から「すごい」が出そうになったら、「他に何か言い方はないかな?」と、一瞬でも考えてみる------そんな癖をつけることも必要なのではないかと思いました。 続きを読む
外湯の鍵が消えた!?・・・・・52
2009年05月29日
~ 今 日 の 雑 感 ~
外湯の鍵が消えた!?
先月のことです。近所の八十代のお婆さんが、わたしの家へ来て、外湯へ入りに来たんだけれど、鍵を貸してもらえないかと、いうのです。このお婆さんは、元看護師さんで、今でもとてもしっかりとした頭の良い方なのです。
我が家の近くにある天然温泉の外湯は、近所の人の入浴専用で、入口にはマグネットタイプの鍵が掛っていますから、この鍵を鍵穴へ入れない限りドアは開きません。わたしが、鍵を持って来るのを忘れたんですか?----と、訊ねますと、そうじゃない、鍵は持って来たんだけれど、鍵穴へ差し込んでから何処かへ行ってしまったというのです。
わたしには、いったい、どういうことなのかよく事情が呑み込めなかったのですが、とにかく、鍵を貸して差し上げれば、お風呂へ入ることだけは出来るであろうと思い、わたしが自家用の鍵を持って、お婆さんと一緒に外湯まで行きました。そして、鍵を開けて脱衣所へ入ると、既にそこにはお婆さんの入浴道具一式が置かれているのです。
「ああ、鍵を開けて中へ入ったものの、また外へ出た時にドアが閉まってしまい、今度は入れなくなってしまったんですね」と、わたしが言いますと、お婆さんは、そうじゃないんだと言います。そこで、よくよく事情を聞いてみますと、こういうことだったようです。
お婆さんは、背は百四十センチあるかないかの小柄な体の上に、足がかなり悪く、入浴道具を持って家から歩いて来るだけでも至難の技で、共同浴場へ辿り着くと、まず、足元に入浴道具を置き、手を精一杯のばして鍵穴へ鍵を差し込みます。ドアが開くと、鍵はさしっぱなしのままで、入浴道具を持つと、先に脱衣所の中へ入り、それから、もう一度外へ出て、鍵穴へ差し込みっぱなしの鍵を抜き、それを持って再び中へと入るのだというのです。ところが、この日に限って、もう一度鍵を取りに戻ったところ、その鍵が何処にも見当たらず、あれこれ考えている間にドアが閉まってしまい、今度は中へ入ることが出来なくなってしまったということなのでした。
お風呂の鍵を紛失したと地区の役員さんに届け出れば、新しい鍵は、また貸与してもらえますが、それでも無料という訳には行きません。数千円単位のお金を支払わなければならないのです。わたしが、もしも鍵が出て来なかった場合は、別の鍵を貸与してもらえるまでは、うちへ来てもらえれば、わたしが開けて差し上げますよと、言いますと、お婆さんは、申し訳なかったと、買ってきたばかりの果物をお礼に下さいました。
それにしても、お婆さんの鍵は何処へ行ってしまったのでしょうか?鍵を差し込んでから、それを取りに外へ出て来るまで、たった数十秒の事です。もしも、鍵が誰かに盗まれてしまったのだとしたら、それを盗んだ人は、お婆さんがいつもその時間にお風呂へ入り、鍵を一瞬でも鍵穴へ差し込んだままにしていることを知っている人物に他なりません。
このお風呂の鍵は、誰でも手に入れられるというものではないので、無料共同浴場を利用したいという地域外から来る人には、とても魅力的な鍵なのです。また、その鍵を手に入れて、知人に売ってお金にしようとする不届き者も中にはいるようです。そんな訳で、お婆さんの鍵は、たぶん、もう見付からないでしょう。行動の遅いお年寄りを狙った悪質な窃盗だと思い、無性に腹が立ちました。
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塔
2009年05月28日
「 詩 」
塔
斑鳩(いかるが)の 白き 道の上に
影 ほの暗き 御寺(みてら)あり
柱石の朱も かぐわしく
累々の 暦は 古(いにしえ)より 流るる
厩戸(うまやど)の 経 読ます声
大天の 何処(いずく)より おこらむ
嗚呼 斑鳩の その 白き 道の上に
推古の 朝は 地平より たつ
広告宣伝の嘘・・・・・51
2009年05月25日
~ 今 日 の 雑 感 ~
広告宣伝の嘘
「こんなヤバすぎる話、読んだことがありません」
「一気読みって、こういうことを言うんですね。時間がたつのを忘れて、読み切ってしまいました」
「ストーリーの巧みさに驚きました。ページをめくるのが煩わしいくらいでした」
書店の台に新刊本が並ぶ時、新聞や広告チラシなどには、よくこの手の書籍紹介のための読者評などが掲載されますが、わたしは、こうした文章をほとんど信じません。
これらの言葉を信じてその本を買ってみても、大半が裏切られるのが関の山だからです。正直、こういう言葉に乗せられて、購入した本で、のめり込むほど面白かったなどという物に、とんとお目にかかったことがないからです。
かつて、ミリオンセラーと呼ばれた小説や、エッセイ本など買ってみたことがありましたが、いったい、こんな物の何処が面白いのだろうか?と、疑問に思うことばかりで、広告の宣伝文句に騙されたと、がっかりすることばかりでした。
それにしても、こうした宣伝文句は、本当に読者の意見なのでしょうか?如何にも、まことしやかに、感想文の終わりにはそれをしゃべった人の性別や年齢、職業などが記載されていますが、これは、事実なのでしょうか?もしも、事実ならば、その人たちの感性は、かなりお粗末か、貧困としか言えません。
最近は、日本語も満足に書けず、言葉の接続すら理解していないような人の小説が賞を取ったりしていますが、これも、現代の活字離れを何とか食い止めるための、苦肉の話題作りなのだとは思います。しかし、実際にその話題性に引っ掛かって、面白くもない駄作を千円以上も支払って買わされる方は、たまったものではありません。この不況のご時世、たとえ千円だって馬鹿にならないのですから。

わたし個人も、これまでかなり多くの書籍に触れて来たと思うのですが、その中で、本当に読んでよかったと思うような本は、たった数冊にすぎず、それも、決して流行の本の中にあるものではありませんでした。読者にとっての良書とは、たまたま手に取った物がすごくためになったという、正に偶然の出会いによるものであることの方が多いのです。
そうはいっても、パソコンや携帯電話等の普及に伴う、現代人の活字離れ、本離れは、やはり深刻な問題と言わざるを得ません。本を読むのが苦手だという人は、むしろ、そうした広告の宣伝文句に踊らされることを覚悟で、購入してみるのも、あながち間違いではないかもしれません。
それでも、ある出版社の編集者が言っていました。「本を売るためには、正直なところ内容なんか二の次でいいんだよ。要は、作者が重要なんだ。たとえば、すっごく若いとか、大変な美男、美女だとか、信じられないような波乱万丈の体験者であるとか、政治家や医師、弁護士等の社会的にステータスがある人物とか、そういう付加価値の方が、むしろ大切なんだよ。文章なんか、たとえ下手でも、ある程度編集者の方で加筆すれば、読めるようにはなるからね。新人賞なんか取る若手を見ると、父親が作家だったり、母親が有名な企業家だったり、みんな、ある程度の付加価値を持っているんだよ。売れる本というのは、そんなものさ。だから、ミステリー大賞を取った作品について、読者に正直なところを聞いてみれば、『言っちゃァ悪いけど、何書いてあるんだか判んない』----ってなこともあるんだよ」
出版物の裏話なんて、そんなものなんですよね。
皆さんも、安易な宣伝文句などには騙されず、しっかりと肥えた目で、本当に身になる良書を選んでください。 続きを読む
入院病棟24時 3・・・・・50
2009年05月24日
~ 今 日 の 雑 感 ~
入院病棟24時 Ⅲ
「あたしのパンティーが盗まれたァ!」
外科病棟で同室だった一人の女性が、ある日突然叫んだのです。女性は、六十代後半の乳がん患者で、伊藤(仮名)さんといい、他にも色々な疾患を持っているため、この病室に既に一ヶ月ほど入院しているのです。が、もう入院生活にも慣れたもので、自分の下着類は、病棟内に設置されている洗濯機で自ら洗い、洗濯室の隣にある乾燥室に干して乾かしていたそうなのですが、その下着が乾いた頃を見計らって、取り込みに行ったところ、何故か、パンティーだけがなくなっていたのだそうです。
「どんなパンティーなの?」
同室の女性患者が訊きます。すると伊藤さんは、今にも爆発しそうなくらいの怒り顔で、
「紫色の、フリル付の可愛いやつなのよ。すごく気に入っていたのに-----。それに、高かったんだから」
「幾らぐらいなの?」
「三千円はしたわ。それも、外国製なんだもの」
六十代後半の女性が、外国製のフリル付のパンティーを履いているのか・・・・。わたしは、一瞬、その姿を想像し、何とも言えない鬱屈した笑い顔になってしまいました。(~_~;)それにしても、本当に盗まれたのでしょうか?伊藤さんの勘違いなのではないでしょうか?わたしが、そう思った時、女性看護師さんも同じことを考えたらしく、
「仕舞い忘れということはないですか?もう一度、戸棚の中を見てみたら?」
と、アドバイス。伊藤さんは、慌てて戸棚の中を捜しましたが、やはり見当たりません。そして、再び、乾燥室の中を点検するべく、その女性看護師さんと一緒に行ってみたのですが、やはり、見付からなかったそうです。
「この病棟には、下着泥棒がいるのよ!やだわ!きっと、盗ったのは、男の患者の誰かなのよ」
伊藤さんは、もう半ばパニック状態です。よほどのお気に入りのパンティーだったと見えて、今にも、看護師さんに犯人探しを依頼しそうな勢いです。わたしは、内心、入院するというのに、そんな高価なパンツを履いて来るなよ-----と、呆れ返りながらも、本当に、下着を盗む趣味のある人間が、この病棟にいるのだろうか?と、少々げんなりしていました。病気で入院しているのなら、治すことだけ考えていればいいのに、何で、そんな余計なことに労力を使うのかなァ・・・・。と、実に、馬鹿らしくもありました。看護師さんも、如何にも困惑顔になり、
「伊藤さん、そのパンティー、どうしても必要なの?もし、着替えの物がなかったら、ご家族の方に代わりを持って来てもらうように、お電話したら?」
「代わりなら、あるわよ。それに、もし出て来ても、変な男が触った奴なんて、もう履く気にはならないけれど、そういう変態が近くにいるなんて、気持ち悪いじゃないの」
確かに、伊藤さんの言うことにも一理あります。そこで、 同室の患者の中でも世話好きの一人のおばさんが、
「それじゃァ、もう一度だけ調べてこようか。洗濯物を洗い場に持って行く途中で何処かへ落としているってこともあるし、念入りに見て来るわ」
そう言って、部屋を出てからしばらく経ち、やがて、戻ってきたおばさんの手には、一枚の紫色のパンティーがのっかっていました。これじゃないの?-----と、言いながら、おばさんは、まだ湿った感触のそのパンティーを、伊藤さんに渡します。
「そう、そう!これよ!-----何処にあったの?」
満面の安堵感で訊ねる伊藤さん。
「洗濯機の洗濯槽に、へばりついていたわよ。あんた、中から取り出し忘れたんでしょ?」
世話好きおばさんは、答えます。その言葉尻には、人騒がせも大概にしてよ----と、いう、うんざり感がはっきりと読み取れました。わたしも、まあ、これ以上の大騒動(おおごと)に発展しないでよかったと、ほっとしました。
病院へ行く時は、極力、貴重品は持ち込まない方がいいと思います。それが、たとえ、フリフリのパンティーだとしても、万が一、紛失した時に大変な迷惑を周りの人たちに掛けることになりますし、ましてや、それが、病室内で起きた紛失事件などともなりますと、お互いの不信感が募り、あらぬ騒動を持ち上げる発端ともなり兼ねませんので、気を付けたいものだと、思いました。
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裁判員制度の疑問・・・・・49
2009年05月23日
~ 今 日 の 雑 感 ~
裁判員制度の疑問
わたしは、このあいだ、皆さんのブログを読むのを数日お休みしました。自分のブログは、予約投稿設定をして穴を開けることはなかったのですが、しかし、いつものように各ブロガーさんのブログを読むことは出来ませんでした。
わたしが、パソコンの向こう側にいないと判りながらも、欠かさずにお読み下さったブロガーさん、及び読者の方々には、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
さて、本題の「裁判員制度の疑問」についてです。
皆さんも既にご承知の通り、今月の二十一日(一昨日)から、裁判員制度が施行され、七月下旬以降からは、実際に裁判員が加わる合議制裁判が開始されることになります。
一般市民から無作為に選ばれた裁判員六名が、裁判官三名と共に裁判を行うこの制度に適用される裁判は、いわゆる重大な犯罪についての裁判であり、死刑、または、無期の懲役・禁固にあたる罪に関する事件や、その他故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪に関する懲役・禁固刑に相当するような重大事件についての裁判です。
しかし、裁判員やその親族に対して危害が加えられるおそれがあり、裁判員の関与が困難な事件は、対象外とされ、裁判官のみで審理し裁判するということになっているようです。
そうは言いましても、裁判員は、裁判中の法廷では、必ず被告人に顔をさらす訳ですし、その被告への量刑如何では、絶対に裁判員には危害が及ばないという保証はありません。
よく、日本のこの裁判員制度を、アメリカなどの陪審員制と同等に考える人もいますが、これにはかなりの差異があります。陪審員制も一般人が裁判に参加するものではありますが、陪審員は被告が有罪か無罪かを決めるだけで、その量刑の決定は裁判官にゆだねられます。そのため、陪審員制では、「判決」という表現は用いずに、「評決」という言葉を使うのです。ところが、裁判員制では、裁判員が被告の量刑までも裁量せざるを得ないために、被告側の恨みを買う確率も必然的に高くなるとも言われているのです。
「でも、裁判員が何処の誰だか判らないのだから、大丈夫ですよ」と、専門家は言いますが、長野県内の刑事裁判は、県民が裁くことになる訳で、意外に、世間は狭いものですよ。絶対に大丈夫などということは、言い切れないと思います。
また、裁判員に課せられる守秘義務の問題もかなり微妙です。裁判官や検察官、弁護士などは、決して安易に他人に対して裁判に関することを漏らすことはないという前提からか、もしも、彼らが自分の担当する案件について他者にしゃべってしまっても、罰則はありませんが、裁判員がこれをやってしまったら、確実に罰則が適用されるということです。これは、かなりの不公平であり、一般人は口が軽いという前提に基づいた一般市民軽視と言われても仕方がないやり方です。
では、何故、そんな口の軽い一般市民を、わざわざ裁判に担ぎ出すのでしょうか?国は、「国民には相応の権利がある。行政では、選挙権があり、立法では、選挙に出馬して議員になる権利(被選挙権)がある。これまで、司法にはそれがなかったから、新たに裁判員になる権利を作ったのだ」と、説明してはいますが、それでは、どうして前者二つには、参加しなくても罰則がないのに、この裁判員制度だけには、参加は原則拒否できないとか、守秘義務を守らない場合は罰金及び懲役などというとんでもない罰則があるのでしょうか?わたしには、よく判りません。
さらに、裁判員に選ばれる人の中には、小さな子供を抱えているお母さんや、どうしても休みを取ることが出来ない大事な仕事を抱えているサラリーマンなどもいるはずです。でも、そのお母さんと子供のための育児施設などは裁判所にはありませんから、必然的に誰かに子供を預けて参加する訳ですよね。それが保育所であろうとベビーシッターであろうと、もちろん無料という訳には行きません。サラリーマンも、自分が商談に参加できなかったということで、会社に損害を与えることになる可能性だって皆無ではないでしょう。それでも、そのためにかかるシッター代や、損害金に対して、国が面倒を見てくれるということは全くありません。すべてが自腹です。
しかし、それ以上に深刻な問題は、殺人事件の裁判を行う際に必ず証拠資料として提示される被害者の殺害遺体の写真を裁判員が見なければならないということです。その凄惨でむごたらしい肉片や死体の写真を法廷の大画面で映し出される物を、果たして一般市民の裁判員が正視し、詳しく分析など出来るものでしょうか?これは、あるアメリカ人の四十歳の男性が陪審員として参加した時の話ですが、彼は、そうした凄惨な写真を見せられてからPTSD(心的外傷後ストレス障害)となり、現在もカウンセリングに通っているということでした。
昔から、刑事裁判に参加することは国民の義務であると考えられ、小学生の頃からその精神について勉強し、教えこまれて来ているアメリカの人たちでさえそういう病気になる確率があるのです。ましてや、裁判はお上の仕事で、下々の者が首を突っ込むなどおこがましいとさえ考えられて来たこの日本で、いくら一般庶民の感覚が必要なのだと説かれても、もう一つ納得がいかないのです。
事の実態は、霞が関官僚が自分の成績を上げるために、何か新しいことを考え出さなくてはならないという焦りから、こんな突拍子もないアイデアを捻り出し、それが独り歩きしてしまった結果なのだというようなところなのではないのでしょうか?もし、そんなことが事実なら、それに付き合わされる国民は、いい面の皮ですよね。どうしても、裁判員制度を実行したいのなら、もう少し国民の目線に立った参加しやすい体制作りを求めたいと思いました。
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入院病棟24時 2・・・・・48
2009年05月22日
~ 今 日 の 雑 感 ~
入院病棟24時 Ⅱ
田舎の総合病院の外科入院病棟で起きる、様々な人間模様を、一患者でもある、わたしなりの視点から書いてみます。
医師や看護師たちの来ている白衣は、一般の洗濯機で洗うことはタブーです。こういう白衣は、すべて危険物扱いですから、ちゃんとしかるべき業者さんに依頼して洗濯をしてもらうように決められているそうです。そして、これは、ある外科医に聞いた話ですが、白衣にも、丈の長い物や、短い物、長袖に半袖などがあり、看護師さんたちの白衣は特に、色もバリエーションに富んでいますが、毎日、自分の好きな物を選んで着ているのだそうで、わたしの入院した病院では、特段、今日はこれを着なさいというような決まりは設けられていないようでした。
病院の食事は、その患者に栄養やカロリーなどにも気を配った物が提供されますが、入院中に誕生日を迎えた患者さんの夕食には、小さなケーキが付きますし、このケーキは、クリスマスの日の夕食にも付きます。また、クリスマスが間近に迫った頃には、病院内でボランティアの人たちや病院スタッフなどによる、クリスマス音楽会が開かれます。曲は、讃美歌が主に演奏されますが、誰もが知っている歌謡曲などが演奏されることもありました。中には、讃美歌を聞きながら、涙を流す患者さんもいて、病気と闘う中で耳にするおごそかな曲は、特別に患者一人一人の胸を打つものがあります。
そんなある日のこと、夜の消灯時間が過ぎたというのに、廊下で大声を上げている一人の男性患者がいました。看護師が自分の頼みごとをやってくれないとでも言っているようです。それが、何分も続くので、わたしと同室の七十代の女性が、その男性患者を黙らせようと、廊下へ出て行き、「静かにしなさい!何時だと思っているの。人の迷惑も考えなさい」と、命令口調で諫めたところ、その男性患者は、何と、彼女に向かって「うるせえんだよ!このばばあ。黙るのはお前の方だ」と、逆ギレし、ついに、男性看護師さんたちまでも出て来て、やっとの思いで、その男性患者を黙らせました。
また、看護師に「おしっこをカップにとって、このビニール袋の中に入れて下さいね」と、言われたある男性は、いちいちカップにとって、また袋へ入れるなんて煩わしいと、直にそのビニール袋の中へおしっこをしていた光景も目にしました。つまり、そのビニール袋は、皆の行き来する場所にあるために、否が応でも目に入ってしまう訳です。これには、看護師さんたちも、やめるようにと男性を説得していました。
また、ある女性患者は、六人部屋の自分のベッドの脇へ、毎日見舞いに来る自分のご主人を、いつも四六時中はべらせていて、時折、各ベッドを仕切るカーテンを隠れ蓑に、中で二人してじゃれ合いを始め、同室の患者に雷を落とされたこともありました。「非常識にもほどがある!ここは、ラブホテルじゃない!」-----本当に、その通りです。いったい、病院をなんだと思っているのか?大バカ野郎の夫婦もいたものです。
トイレの洗面所で、水ばかりを大量に飲む老人。洋式トイレでは用を足したことがないので、我慢をしすぎて便秘になっていしまった女性。彼女は、ついに、洋式トイレの両脇に椅子を持って来て、そこの上に跨る形で、ようやく用を足すことが出来ました。早く退院したい思いから、毎晩の腕立て伏せを欠かさない五十代の男性。廊下の片隅で、禁じられている携帯電話を取り出し、「もうすぐ退院できますから、その仕事は、別の奴に回さないで欲しい」と、必死で上司に掛け合っている四十代のサラリーマン。リハビリを、徹底して拒み続ける年配の女性。自分の過去について、延々と話し続ける男性などなど・・・・・。
総合病院の入院病棟の一日は、波乱万丈かつ悲喜こもごもの人生が繰り広げられて行くのです。
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世界記録は、脳が作る・・・・・46
2009年05月20日
~ 今 日 の 雑 感 ~
世界記録は、脳が作る
「世界記録は、脳が作る」 -----そんなことを聞いても、何のことやら俄には判りませんよね。でも、昨年の北京オリンピックで、メダルを取った日本水泳陣は、皆、試合に臨む前に、メンタル面を鍛えるため、脳外科の権威の医師から、脳科学の講義を聞き、「脳トレーニング」なる訓練を受けていたというのです。
これは、NHKのクローズアップ現代という番組で放送していたことなのですが、今や、スポーツ界のトップアスリートを始め、一般のビジネスマンに至るまで、この「脳トレーニング」は、目標を達成するためには欠かせない訓練の一つとして利用されつつあり、世界では、既に、このようなメンタルトレーニングを、スポーツ界の一般トレーニングに組み込みことが主流となりつつあるのだと、いうことでした。
脳科学の分野では、昔からの心理学的経験則に基づき、ある一定の成果を生みだそうとする時は、それ以上の目標を定める必要があるということは言われていたのだそうですが、今は、それを科学的に証明できるレベルまで、技術が発達しているのだそうで、脳の司令塔ともいう「前頭葉」の働きをつぶさに調べることにより、その事実が解明されたのだといいます。
前頭葉には、報酬神経群なる場所があり、そこでは、「意欲」とか「持続力」を、コントロールする働きをして、その信号が運動神経群へと伝達されることにより、人間は、より高い能力を発揮することが出来るのだということなのです。
それは、前頭葉の血流量を見れば一目瞭然で、報酬神経群が活発に働いている状態の脳は、赤く染まることが、測定器の表示でも、判るのだそうです。しかし、報酬神経群の働きが落ちると、それに比例して運動機能にも低下がみられるようになり、それは、筋肉の多い少ないや、技術の高低にかかわらず、起こる現象なので、殊に、一秒単位で争う競泳などの種目には、このメンタルトレーニングは、大いに効果的なのだといいます。
たとえば、具体的に言いますと、「ゴールは、まだ先だ」と、脳が思いこむことで、報酬神経群は活発に活動をするのですが、一瞬でも、「ゴールは、もうすぐだ」と、選手が感じた途端、その活動は落ちるとともに集中力も途切れ、運動神経群への指令が低下してしまうのだとか。必然的に、実際の運動量も落ちて、記録は伸びないということになるのだそうです。
そこで、選手たちは、自らの脳を騙すべく、練習中も常に、「ゴールはまだ先だ」「ゴールは遠いぞ」と、自分に言い聞かせながら泳ぎ続けるのだということで、彼らは、極端な話、ゴールした後も、「本当にこれが終着点なのか、まだ、あと五十メートルぐらいあったのではないか?」というぐらいの気持ちでいるために、まずは、自分が本当にゴールしているのかを電光掲示板で確認した後で、記録表示を見るため、勝ったという喜びのパフォーマンスが、いつも一拍遅れるのだそうです。
このことを、今度はビジネスマンなどに当てはめると、報酬神経群を騙すために、決して否定的なことは考えない、いつも、自分は出来ると思い続けるように心がける。-----などの訓練の仕方があるそうで、商談を取り付ける時などに、とても役立っているといいます。
よく、野球のバッターが、「ボールが止まって見えた」とか、「周りの雑音が、一切耳に入らなかった」などということがありますが、それも、実は、この「脳トレーニング」を、そのバッターが無意識のうちに行っていたからなのだと、専門家は言います。
肉体を鍛え上げることには、自ずと限度があります。しかし、脳を鍛えることには、今のところ限界は見えていません。これからのスポーツ界は、それも特にトップアスリートに関しては、肉体や技術の向上を超越して、脳が記録を左右する時代に突入したといっても過言ではないでしょう。
でも、われわれ一般人は、そのレベルに到達するには、到底無理がある訳ですから、まだまだメンタル面よりも、フィジカル面を鍛えなくてはならないのでしょうね。それでも、出来るだけ日常を快適にすごすために、極力、否定的思考は避けるということを実践するだけでも、少なからず効果は期待できるのかもしれません。 続きを読む
入院病棟24時・・・・・45
2009年05月19日
~ 今 日 の 雑 感 ~
入院病棟24時
本日、病院を
お医者さまも、看護師さんたちも、患者には献身的に尽力して下さいますが、それでも、病院とは長居をしたくなる場所ではありませんよね。即行、シャバへ戻ってまいりました。でも、わたしの病気は、長年付き合わなくてはならないものですから、これからも、気長に治療して行きたいと思います。
そこで、今日は、健康な方は、あまりご存じではない田舎の総合病院の外科入院病棟とは、如何なる所なのかということを、わたしの実体験を通じて、語ってみたいと思います。
何故なら、高齢者は、夕方から夜にかけてが無性に寂しくてならないのだといいます。高齢のある女性患者さんは、消灯の時間が来ると、看護師さんに、電気は消さないでほしいと、頼んでいましたし、真夜中にもかかわらず、廊下の窓硝子越しに真っ暗な外を見詰めて、「早く朝にならないかなァ・・・・」と、溜息をついているお婆さん患者も見かけました。
また、高齢者になると、小や大など下半身の感覚も鈍くなる人もいるため、明け方廊下を歩く時は要注意です。たまに、おむつの中に大をしたことを忘れて、トイレへ行くために歩き出し、そのおむつを下ろした拍子に大が表へ転がり出して、廊下へぽとぽと落としながら歩いて行ってしまうという高齢者もいますから、暗い廊下を歩く時は、足元にも注意が必要なのです。
そして、特に入院患者間のトラブル発生の要因に多いことは、就寝中のいびきです。男性女性問わずに、このいびきで安眠を妨げられる人は、案外多いのです。わたしも、今回の入院時には、二人部屋の同室になった七十代の女性が、運悪く、物凄いいびき(牛の鳴き声と、豚が絞殺される時に発する悲鳴を足したようないびきです)を発するもので、ほとんど眠ることが出来ませんでした。そして翌日、その物凄いいびきをかいていた本人は、わたしにこう言うのです。
「あたし、何だか喉の調子が悪いんだけど、風邪かしら?いがらっぽい感じがして・・・・」
何が、風邪かしら?------ですか。あれだけ激しいいびきを続ければ、喉が変になるのも当たり前ですよ。おかげでこっちは寝不足もいいところで、のん気なことを言わないでもらいたいですね、まったく!(>_<)
そしてまた、そういう人に限って、翌朝の看護師さんの「昨夜はよく眠れましたか?」の質問に対して、「もう、全然眠れなかったわよ。隣の人のいびきがうるさくて------」と、とんでもないことを、のたまうものなので、「ふざけないでよ!」と、口論になることが往々にしてあるのです。
また、女性患者の中には、看護師さんが採血をしたり、腕に点滴の針を刺したりする際に、うまく針が入らない時、「わたしって、血管が細いから、見つけにくいのよね」などと、如何にも自分はか弱い人間なのだというようにアピールする人がいますが、それは、ただ単に、肥満で腕が太すぎるのか、血管が老化現象を起こしているため、針を入れようとするとクニャリと、逃げるからなので、決して、その患者さんの血管が細いからとは限らないのだといいます。勘違いは、ほどほどになさった方が、よいでしょう。(^_^;)
更に、浴室を使ったところ、あまりの気持ちの良さに浴槽内で脱糞してしまうとか、病室内の各患者用のテレビを、イヤホンを使用せずに聞いていて、「うるさい!」と、喧嘩になったなどという例もありますし、同じ病室の患者同士の間で、見舞客が多い患者を、少ない患者が嫉妬するといったことまであるのです。
時には、夜中に突然、長野県の県歌『信濃の国』を、歌い出すという老人もおり、最後の六番まで歌い終わると、「ああ、おれはまだ、ボケちゃいねェ」と、納得して眠るのです。
そして、女性が電話をかけながらの涙声。-----どなたか、親戚の方が亡くなられたことが判る内容が、談話室の方から漏れ聞こえてきます。そんな亡くなった患者さんが家族に付き添われて、霊安室へ向かう姿を、エレベーターホールで列を作って頭を垂れ、見送る医師や看護師たち------。
田舎の総合病院の入院病棟には、そんな様々な人間模様が、日々繰り返されているのです。

ちょっと、一服・・・・・44
2009年05月19日
~ 今 日 の 雑 感 ~
北の魔女さんのブログ『自分の物差し』を、読んで・・・・
北の魔女さんのブログ記事に、『自分の物差し』と、いう物がありました。
人は、その生まれや育ちの環境などにより、知らず知らずのうちに自分の中に、自分本位の『物差し』を、作り上げてしまい、周りの人や物事に対して、そして時には自分自身に対してまでも、その『物差し』を当てはめ、良し悪しを判断し、自らを束縛してしまうことがある-----と、いう記事でした。
北の魔女さんの記事も、言わんとされていることは、これに近いことではないかと思います。人間は、とかく、自分が経験を重ねるうちに常識だと思い込んできたことを基準値として、物事の正否を計るという、いわゆる経験則を元にした概念を脳に沁み込ませて行くという特質があるためなのか、年を経るにつれて、なおのこと、その考え方の柔軟性をなくして行くものなのでしょうね。もしも、年配の人が、「最近は、あまり他人に自分の基準を当てはめなくなった」と、いうことがあるとすれば、それは寛大になったということよりも、単に、相手に対する関心が希薄になって来たというだけのことなのではないかと、思うのです。
人は、誰でも気持ちの中に、「これは、こうあらねばならないはずだ」と、いったん刻まれてしまうと、それを覆すことは、おそらく至難の技となります。その精神的拘束を、他人に対してだけではなく、自分に対しても掛けることになるため、その概念と『違う種類の物』が目の前に現れると、「これは、いけないことだ」と、速断してしまう結果になるのだそうです。
そうなると、気分は不愉快となり、その『違う物』を遠ざけようとし、時には、抹消してしまいたくなる訳で、それが、すなわちストレスになり、場合によっては「いじめ」などにもつながる訳です。しかし、今度は逆に、その『違う物』の立場からすれば、相手の方が『違う物』な訳ですから、お互いに相入れない関係となり、反目しあうことになるのです。
こうなると、それは確かに、「独りよがり」対「独りよがり」という構図になるのでしょうから、まず、どちらかが、自分の物差しの存在を忘れて、相手の物差しに自分を当てはめる努力をすることで、より深く相手を理解することが出来るという理論になるのです。しかしながら、長年において培われた現実社会というものは、そうそう単純に割り切れるものではないと、わたしは考えます。
それというのも、社会には社会の基準値となるルールがあります。これは、法律のことではありません。簡単に言えば、モラルとかマナーというものでしょうか。「近所の人に会ったら、挨拶をする」「人の迷惑になることはしない」「乱れた服装で、公の場所に出ない」「大人の女性になったら、改まった席に出る時は、化粧を忘れない」「目上の人には敬語を使う」などなど、数え上げたらきりがありませんが、こういうことは、いくら相手に自分の経験則を当てはめるなと言いましても、当てはめざるを得ない問題なのです。
普段はカジュアルな服装が好きだといって、冠婚葬祭に、作業着であるジーパンや野良着で出席する人はいないでしょうし、いくら自分は挨拶が苦手だといっても、相手が会釈をしたらそれを無視して通り過ぎることは非常識と言われても仕方がありません。また、女性ばかりに化粧をしろなんて差別だと、思っても、もし、スッピンで相手に会った時、「わたしは、あなたにとって、スッピンで会ってもいいと思われているほど価値が低い人間なの?」と、誤解されても、自業自得ですね。
また、「敬語なんか、ダサいし、ウザい。仕事さえ出来れば、言葉なんか関係ないじゃん」と、思っている若者が、会社側から、サービス業には向かないといわれ、解雇されたとしても、それを恨むのは筋違いということも、万人の納得するところでしょう。
つまり、『自分の物差し』なるものにも、必要な『物差し』は、あるのです。相手を否定するための物差しも、時と場合に応じては不可欠なものなのです。自我を殺し、相手の身になって考え、そいういこともありかなと、おおらかに構える-----それも大事でしょうが、全てにおいてその考え方がベストではないのです。それだけでは、ただの優柔不断なズボラ人間になってしまいますから。たとえ、ある程度のストレスになったとしても、やらねばならないことは、やらねばならないのです。
要するに、自分の中にまっとうな『物差し』は、きっちりと持ったうえで、自分にとって、さしあたり特段の害を及ぼさないことならば、相手の意見も尊重するし、物事についても、毎日やらねばならないと、きっちり決めることはしない-----そのぐらいのアバウトな気持ちで良いのではないかと思うのです。相手の違いは認めても、自分はそれには染まらない-----それでいいのではないかと思うのです。
北の魔女さんも、それらことを持論の根底にしっかりと踏まえたうえで、そのブログ記事を書かれているものと思います。
「自分は正しい。でも、相手も間違ってはいない」また、「誰も、わたしに、こうしなければいけないとは命令してはいない」-----この気持ちを、みんなが共有できれば、世の中の無益な争い事や無用なストレスも、かなり少なくなるのではないかと、考えます。
まあ、わたし自身が、そう思えるようになるには、かなりの修行が必要でしょうけれど・・・・。(~_~;) 続きを読む
ちょっと、一服・・・・・43
2009年05月18日
~ 今 日 の 雑 感 ~
「がんばって!」と、いう言葉
最近、あるブロガーさんの記事に、「がんばってね」と、いう言葉は、励ましにはならない場合がある-----と、いう物がありました。今日は、この話題について、トピ立てさせて頂きます。
これは、わたしも、かねがね思っていたことでした。そこで、同感のコメントを残そうかとも思ったのですが、それには、文章が少し長くなり過ぎると感じましたので、自分のブログで、そのことについて触れたいと思います。
そもそも、「頑張る」という言葉の成り立ちを紐解くと、「我を張る」から来ているということですから、その意味は元来、「意地を張る」とか「気を張る」とかいうものではなかったかと、考えますので、「がんばって下さい」という言葉の根っこには、「遮二無二、働けよ」と、いう農耕民族特有の意地っ張り精神があるものと推量されます。
しかし、現代は、この「がんばれ!」を、あまり多用することを良しとしない方向になってきました。それは、そのブロガーさんもおっしゃるように、もともと頑張っている人に、「がんばれ!」を、言うことは、その人をますます追い詰めることに他ならないとのことなのです。ですから、近年は「がんばれ!」と、励ますよりも、「諦めるな!」と、いう方が、適切なのだと、説く文化人もいます。
わたしも、この「がんばれ!」という言葉は、確かに、あまり好きではありません。小さな子供さんを褒める時の「よく、頑張りました」や、スポーツ大会などで、選手を応援する時の「がんばれ!」は、よいと思うのですが、特に、同年輩や、年下の相手から、「がんばれ」などと言われると、「なに、上から目線で言っているんだよ。がんばるのは、お前の方だろう」と、いう反発の気持ちの方が、先に立ってしまうのです。
わたしが、まだ、大学生だった時、大量のレポートを提出しなければならないことになり、学生たちは皆四苦八苦していたことがあったのですが、わたしと同じ講義をとっているある一人の女子学生が、「もう、レポート大変だよね」と、言うわたしに向かって、「がんばってね」と、さりげなく言って寄こしたのです。わたしは、この瞬間、カチンと、来ました。彼女の「がんばってね」の言葉の中に、明らかに「わたしは、こんなレポート、簡単に書いちゃうけれど、あんたは、知識も乏しいし、大変だよね。まあ、せいぜいガリ勉でもして、頑張りなさいよね」-----と、いう、人を小馬鹿にした気持ちが入っているものと、わたしは、捉えたのです。
その女子学生には、そんなつもりはなかったのかもしれませんが、それは、間違いなく上から目線と思われても、仕方のない言い方でした。もし、この時彼女が、「レポート、本当に大変だよね。でも、やるしかないんだから、お互い頑張ろうね」と、言ってくれていたら、状況は、かなり違っていたことと思います。この時の、彼女の「がんばってね」の一言で、わたしの中にある彼女への評価は、明らかに、100ポイント中の30ポイントは下がりました。
かつて、わたしの叔母が病気で入院した時も、叔父が担当医師から真っ先に忠告されたことは、「患者に対して、頑張れは、禁句ですからね」と、いうことだったそうです。叔父は、そのことをお見舞いに来る人たちにも徹底するように頼んだのですが、見舞客たちは、「面倒くさいな」とか、「病人を励まして、何が悪いんだ」とか、皆、不快に思ったようだといいます。でも、今になって考えてみますと、患者である叔母は、辛い治療で頑張るだけ頑張っていたのですから、その上、他人の無責任な「がんばれ!」などという言葉は、聞きたくもないものだったに違いありません。
また、あるプロのスポーツ選手も、サインをねだられたファンに「がんばってくださいね」と、言われたところ、「おれは、あんたたちに言われるまでもなく、血反吐はくほどがんばっているよ。その言葉を言うのなら、あんたもおれと同じことしてみれば----」と、思わず言いたくなったと、トーク番組で話していました。
このように考えてみますと、「がんばれ!」-----この言葉は、安易に口に出すものではないようです。もし、どうしても使うのならば、その時の場面場面に応じた、補足の言葉を「がんばれ」の前後に用意したうえで、使うことがよりベストなのだという結論になるのでしょうね。つまり、相手の立場や雰囲気を熟慮し、出来るだけ慎重な言葉選びが必要なようです。
「がんばれ!」ではなく、「一緒に、がんばりましょう!」-----こう言っただけでも、人間同士のお互いの距離は、より近くなるような気がします。皆さんは、どのように思われますか?
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昼さがり
2009年05月17日
昼 さ が り
木(こ)の暗(くれ)を
苔の花むす
木の暗を
矢がすりの かろく歩めば
縹色(はなだいろ)なる 時の狭間に
白南風(しらはえ)の そよと 誘(いざな)う
百年歳(ももとせ)の
古址(こし)は 桃源に うるおい
眼間(まなかい)に
しめやかなる 緑酒のまどろみ
矢がすりは うすく 香(にほ)ひて
ほのぼのと
日和の 余韻(ふみ)を
押し抱ける 昼さがり
矢がすりは かろく歩める
木の暗を そそと 歩める
ちょっと、一服・・・・・42
2009年05月16日
~ 今 日 の 雑 感 ~
野生の猿の話
わたしの家の近所には、時々、山から下りて来た野生の日本猿が出没します。
ごく最近も、一頭のかなり大きなオス猿が、住宅街へ現われました。
人家の屋根から屋根へ我が物顔でのし歩き、人里へ下りて来ているにもかかわらず、人間を恐れる様子など微塵も見せません。屋根の上では、放尿をしたり、時には糞までします。わたしの家のベランダも、猿の歩いた足跡がくっきりと残り、これが、かなりの油足と見えて、簡単な水洗いでは落ちないほどなのです。

家によっては、開けていた窓から部屋の中へ飛び込まれ、部屋中がめちゃくちゃにひっくり返されてしまったというお宅もあります。また、商店などは、商売用の食品類を盗まれたり、旅館関係では、宿泊客のバッグが奪われ、大騒ぎになったことまでありました。
それでも、最近は、あまり頻繁に猿を街中で目撃することはなくなりましたが、以前は、何頭ものはぐれ猿が出没し、通行人を襲ったり、畑の作物を荒らしたりと、やりたい放題だったのです。
ちょうど、そんな頃、わたしの家も、そうした猿のターゲットになってしまったことがありました。
ある夏のことです。ちょうど、我が家には、親戚の人たちが来ていまして、障子を閉めた居間で話をしていましたところ、隣の台所で、何かゴソゴソと、音がします。しかし、開けてある小窓から風でも入ってそんな音がしているのだろうぐらいに思っていたため、わたしも、親戚の人たちも、まったく気にせず、話しに夢中になっていたのです。
すると、しばらくして、また、ガサッ、ガサッ、と、いうような音がします。さすがに、これはおかしいと感じたわたしが、そうっと障子を開けて、台所の方を見ますと、いきなり、何か大きな黒い物が目の前をパッと横切り、洗面所の台を踏み越えて、小窓から外へと飛び出したのでした。
「なにっ!?」

驚いて、その小窓の方へ駆け寄りますと、そのすぐ軒を接している隣家のトタン屋根の上に、野生の猿が一頭、子供の猿を左手に抱いて、ちょこんと座っているではありませんか。そして、そのもう片方の手には、しっかりと、我が家の台所にあったはずの一房のバナナが抱えられていたのです。
「猿に、バナナを盗られた!」

わたしが、びっくりして声をあげたので、親戚の人たちも台所へとやって来たのですが、その直後、母猿は、子猿とバナナを抱えたまま、一目散にそこからいなくなりました。
しばらくして、親戚の人も帰り、何だか、自分の気渡りのなさが残念で仕方がない思いのまま、二階へと上がったわたしは、そこで、再びその母猿を目撃するのです。それは、我が家のベランダで、先ほど、台所から盗んだバナナを、ちゃんと皮を剥いて、母猿が子猿に食べさせている姿でした。
たぶん、この親子猿は山の猿の群れからはぐれてしまい、食べ物を求めて、人家に侵入したものと思われましたが、正直、そんな姿を見せられてしまっては、こちらも怒鳴り付けることも出来ませんでした。
やがて、母子猿は、ベランダから去り、ベランダには、剝かれたバナナの皮だけが無造作に投げ捨てられていました。その後、猿は二度とうちへはやって来ませんでしたが、やはり、用心のために、隣家に接する小窓には、金網を取り付けました。
ところで、皆さんは、猿の鳴き声を聞いたことがありますか?「キイー、キイー」とか、「キッ、キッ」とか、そんな風に鳴くんじゃないかと思いますよね。でも、仲間同士で呼び合う時は、「ホウ、ホウ、ホウ」というような、山鳩でも鳴くような声を出すこともあるのです。夕方時分、辺りが暗くなりかけた頃に、山の方で、そんな鳴き声が聞こえたら、それは、もしかしたら猿の鳴き声なのかもしれませんよ。
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ちょっと、一服・・・・・41
2009年05月15日
~ 今 日 の 雑 感 ~
歴女ブームについて
南宜堂さんのブログにもありましたが、最近、「歴女(れきじょ)」なる言葉がマスコミ関係に頻繁に踊っています。
これは、近頃、頓(とみ)に増殖してきた、歴史好きの女性たちを意味する最新の造語なのだということですが、そんな中でも、殊に、日本の戦国時代史に関心を持っている若い女性たちを指す言葉なのだそうです。
そんな彼女たちの興味に火を付けたのは、おそらく、現在、NHK総合テレビで放送中の大河ドラマ「天地人」ではなかろうかと、思います。このテレビドラマの原作となったのは、平成十八年発表で、信濃毎日新聞に連載されていた歴史小説「天地人」なのですが、この原作を、今回ドラマ化するにあたり、主演の直江兼続役を、若い女性たちに人気のある俳優の妻夫木聡が演じているということが、まずは、女性たちのハートをつかみ、「歴女」なる物を出現させるきっかけとなったのではないかと、推察します。
また、今回の大河ドラマは、明らかにそうした女性たちの視聴者を意識して作られているようで、これまでの、どちらかというと髭面の豪胆粗暴で血なまぐさい、如何にも猛者ぞろいという男臭い武将たちに扮した俳優陣が、徹底的に泥臭い芝居をしていた大河ドラマとは打って変わって、登場する俳優たちも極端に若く、スマートで、涙あり笑いありの清々しい戦国青春物に出来上がっているとのこと。そして、その主人公の直江兼続が、「愛」と記された前立付の筋兜を愛用していたというエピソードも、「歴女」たちに親近感や、ある意味恋心を覚えさせるアイテムの一つともなっているのかもしれません。
しかし、その「愛」の字も、別に直江兼続が、一途に一人の女性を愛するためのメッセージとして選んでいた訳ではなく、ただ単純に、「愛宕明神」や「愛染明王」という軍神の力にすがることを意図して、その前立を付けていただけの話なのですが、彼女たちの想像は、そのような色気のないものをはるかに凌駕して、前立の「愛」は、主君・上杉景勝の「義」に対する永遠の忠義であり、果ては、「はがくれ」の武士道精神にまでも飛躍して、一種の妄想の域にまで達しているようなのです。
「はがくれ」の説明は、ここでは、あえて触れずにおきますが、興味のある方は、調べてみて下さい。

これは、今から数十年前に日本中の若い女性たちの間に、インフルエンザ感染の如く蔓延した、「新選組」現象にも似ているのもではないかと思います。でも、「歴女」たちは言うでしょう。「わたしたちは、『天地人』が始まる前から、各地の中小領地の主や、戦国武将には興味があったのよ。何も、いまさら、好きになった訳じゃァないわ」と-----。
確かに、この頃は、漫画やコミック誌などでも、戦国武将者は人気のジャンルですからね。でも、その興味が、いったいいつまで続くでしょうか?たいていの「歴女」たちは、おそらく、来年の大河ドラマ「龍馬伝」(主演・福山雅治)が始まれば、また興味はそちらの方へ傾き、直江兼続など忘却の彼方-----と、いうことになってしまうのが関の山なのではないでしょうか?
もしも、「そんなことはないわ!」と、断言できる「歴女」がおられるならば、これから何十年も、その興味を色褪せさせることなく、持続して行ってもらいたいものだと思います。
でも、「歴女」たちが、騒ぎ出すことなど関係なく、直江兼続は、昔からずうっと歴史の中にいたのですけれどね。(^-^) 続きを読む
ちょっと、一服・・・・・40
2009年05月14日
~ 今 日 の 雑 感 ~
山道のあんパン
毎度の山シリーズですが、これは、わたしの父親が経験したことです。
わたしの父も山での山菜取りが好きで、若い時分は、よく近くの山へワラビやネマガリダケなどを採りに、何人かの友人たちと出掛けることがあったのですが、その最中、やはり、一度だけ道に迷ってしまったことがあったそうです。
ある時、父は気の合う友人四人と志賀高原へ山菜を採りに出かけたのですが、帰り道を間違え、自分たちがいったい何処を歩いているのかも判らなくなってしまったのだそうです。こうなってしまうと、山道という物は不思議な物で、歩いても歩いても、また、同じような場所に出て来てしまうのです。
父たちの場合は、自分たちの背丈ほどもある草藪の中を何とかかんとか分け出てみると、とても広い綺麗に舗装されている道路が現れるのだそうです。人っ子一人いないその道路をしばらく歩くのですが、やはり、何処へも辿り着かない。そこで、業を煮やし、また、脇道の草藪の中へと踏み行って、下山しようと試みるのですが、出たところが、また、例によって広い道路なのだそうです。
食糧も持たずに来ていた父たちは、既に辺りも日が暮れかけて来たころ、お腹が空いてたまらなくなり、
「まったく、えらいことになったなァ・・・・。昼飯前には帰る予定だったのに、これじゃァ、夕飯にもあり付けねえぞ」
「だれか、お茶ぐらい持っていないのか?」
そう訊ねられても、誰一人、そんなものは持って来ていなかったので、
「自動車の所まで行きつければ、食い物ぐらいあるんだがなァ・・・・。山へなんか来なけりゃよかったなァ・・・・」
そんな気弱なぼやきも出て来た時でした。突然、友人の一人が、その広い道路の上に何かが落ちているのを見付けました。皆がその物の周りへ歩み寄り、よく見てみると、それは、我が家の近所にあるパン屋さんの名前の入った大きな紙袋でした。父たちは、奇妙に思いながらも、そのズシリと重い紙袋を拾い上げ、

「〇〇パン屋のやつだぞ。中に何か入っている-----」
そっと開けてみると、何と、その中には、一つ一つビニール袋に丁寧に包まれた、今焼いたばかりというようなフカフカのあんパンと、缶コーヒーが入っていたのでした。しかも、その数が、ちょうど、あんパン五個に缶コーヒーが五本。
「おい、ちゃんと、人数分あるぞ!すげェ!」
「誰かの落とし物だな。まだ、新しいぞ」
「どうして、こんな場所に、こんな物が落ちているんだ?しかも、ちょうど、おれたちの人数分だなんて、偶然にしても気味が悪いな・・・・」
そんなことを言いながらも、五人は、顔を見合せ、そのあんパンの始末をどう付けようかと考えました。空腹は、既にピークです。
「いいや、おれ、食っちゃうぞ!」
一人があんパンを包むビニール袋を開けてかぶりつくと、残る三人も、袋を開き、パンを食べ始めました。缶コーヒーも飲みながら、うまいうまいと夢中で食べる友人たちを見ながらも、父だけは、どうしてもこの状況に納得がいかず、缶コーヒーは飲んだものの、あんパンには手が付けられなかったといいます。
しかし、これで、少しは空腹が納まったために、父と友人たちは、残りのあんパン一つを入れた紙袋をぶら下げたまま、再び山道を歩き、ようやく、その日のうちに麓まで下山することが出来たのだそうです。
山中に置きっ放しになってしまった自動車は、後日取りに行ったそうですが、その後も、あんパンを食べた四人の体調に別段の変化はなかったそうで、未だに父は、その時の状況が腑に落ちないと言っています。よく昔話にある、キツネに化かされた旅人よろしく、もしや、あれは馬糞ではなかったか------?などと、わたしは思ってしまうのですが、皆さんは、くれぐれも、不審な食べ物は口になさらぬように------。
山道を歩く時は、たとえ近くにホテルや人家があると思っても、必ず、食糧と水分は、携帯しておいた方が、いざという時に便利だと思いますよ。では、お気を付けて、山歩きを楽しんで下さい。

ちょっと、一服・・・・・39
2009年05月13日
~ 今 日 の 雑 感 ~
近頃の女湯事情
わたしの家の近くには、近所の人たちだけが入浴する事の出来る外湯があります。
天然温泉かけ流しのこの外湯は、地域の人たちが管理する風呂で、マグネット式の鍵を持っていなければ入ることが出来ません。浴室は、もちろん、男湯と女湯に分かれていて、男湯よりも女湯の方が少し大きめに造られています。
何故かと言いますと、女湯には、お母さんと一緒に子供たちが入る割合が多いからで、身体を洗う場所も、浴槽も、こちらの方が、男湯に比べて、やや広く出来ているのです。
そのような訳で、男湯の方は、各時間帯をとっても特別込み合うということはないのですが、女湯の方は、夕方から夜にかけてかなりの人数が入浴に訪れることになります。殊に、夕飯過ぎの時間帯は、それこそ、正に芋を洗うような状態となり、中には、この風呂に入ることを諦めて、別の温泉施設へと行ってしまう人や、何度も風呂の中をのぞいては、諦め顔で帰る人、また、ずっと脱衣所で浴室内の人が出て来るのを待ち続ける人など、毎日が、まるで戦場のような騒ぎなのです。
ここまで書けば、勘の良い人ならもうお判りですよね?何故、女性と子供の人数に限って増えて来ているのか?------それは、とどのつまりが、いわゆる「出戻りさん」が、多くなったからなのです。結婚はしたものの、五年も経てば、子供を二人ぐらいは連れて出戻って来る。そんな「出戻りさん」女性の中には、二度も結婚し、それでもだめで帰って来るつわものもいます。やはり、二度目の夫との間に生まれた子供も連れて------。
こうなると、もはや、夕方以降の女風呂は、出戻りさんたちの天下です。昔のように、バツイチ、バツニを恥ずかしいとか、後ろめたいとか思う女性はほとんど皆無ですから、皆さん堂々たるもので、「もともと、わたしは、ここの出身なんだから、子供連れで入って何が悪いの?こっちは、少子化を改善してやっているのだから、優先的に入浴させてもらって当たり前でしょ」ぐらいの鼻息で、今までその時間に入っていた人たちのことなどお構いなしで、やって来るのです。
もちろん、「いつも、子供がうるさくて申し訳ありません。なるべく静かに入りますから、一緒に入れてやって下さい」という、礼儀正しい女性も中にはいます。そういう女性には、近所のおばさんたちも、「いいから、先に入りなさいよ」と、親切に場所を空けて、洗い場を譲ってやっている光景も目にしますが、そんな殊勝なバツイチさんは、そうそうおられません。
とうとう、業を煮やした住民の中には、ある出戻りさんの名前を書いた匿名の怪文書を地区中に配り、「出戻りは、風呂に入れるな!」と、訴えた者まで出る始末です。特に、そういう住民のやり玉に挙げられるのは、女の子ばかりを産み、連れて帰って来た女性です。何故なら、女の子は、これからこの場所に住む以上、一生ここの女湯を利用する訳ですから、その家族に対する批判も強まる訳です。
それにしても、確かに、最近は、お父さんのいない子供たちが街に多く住むようになりました。わたし家の近くの中学生も、「学校へ行っても、友達と話しづらくて困るんだ。離婚した家庭が多いから、いちいち言葉を選ばなけりゃならないだろ?正直、疲れる」と、ぼやきます。
恋愛をして、結婚し、子供が生まれたにもかかわらず、様々な事情で離婚しなければならないことになり、再び実家へ身を寄せる。------昔のように、「結婚し、子供が生まれたら、その親は、自分を人間だと思ってはいけない。どんなに、辛いことや苦しいことがあっても、子供のために死に物狂いで働き、子供のために別れるべきではない」などという理屈が当てはまる世の中ではないことは判りますが、地元の住人たちの考え方としては、いったん嫁に出た女性が戻って来た場合、それは、結婚前の〇〇さんの家の☓☓ちゃんではないのです。かつてとまったく同じ感情で、付き合うことは無理だという人もいます。
これが、都会であれば、また事情も違うのでしょうが、こちらのような田舎には、やはり、未だに「出戻りさん」に対する割り切れない思いも、多分にある訳ですから、これからも、この女湯を利用するであろう彼女たちには、やはり、近所の人たちに対するそれなりの気遣いを持ったうえで、入浴をして頂きたいと、思う次第です。 続きを読む
男 (おとこ みち) 道
2009年05月12日
「 詩 」
雨上がりの虹さん作
男 (おとこ みち) 道
厳しい冬を 越えたのに
春の芽吹きに 気おされて
初夏の甘さに 気がなえて
夏は すぐに 通り過ぎ
深まる秋に 焦りを覚え
寒い木枯らし 心に沁みて
厳しい冬が 訪れる
こんな 馬鹿なと 嘆いても
所詮 自分が 選ぶ道
こんな 馬鹿なと 気付いた時に
新たな道が 開かれる
気付けた自分の 立つ場所は
未来と過去の 映し鏡
ドンと構えて ど真ん中
雨も降れ降れ 風も吹け
おのれの行く手 一筋に
信じて歩め 男道

~今日の雑感~
雨上がりの虹さんが、ブログコメントに書かれた詩を、わたしの撮影した写真とコラボさせていただきました。
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ちょっと、一服・・・・・38
2009年05月12日
~ 今 日 の 雑 感 ~
ブログコメントの書き方
今日も、暑かったですねェ。正に、不意打ちの「夏」って、感じですね。

ところで、ブログコメントを書くということは、実に難しいと思いませんか?あるブロガーさんは、とても気を遣うし、かといって興味のある話題には、どうしても書き込みたくなってしまうし、ジレンマだと、ブログに記されていました。
「そんなことは、全然気にしない。わたしは、書きたい時には、相手がどんな風に受け取ろうが書き込むし、興味がなければ、決して書き込まない。わたしなんかにコメントを書き込んで欲しくなければ、拒否設定をするとか、はっきりと、もう書くなと、言ってくれればいいだけの話だ」
そんな感じに徹底して割り切って考えているブロガーさんも中にはおられるかもしれませんが、わたしのような、人生観が未だにふらついているような人間には、そこまでの覚悟は正直出来ません。特に、ブログのコメントは、オフ会などで実際に顔を合わせているブロガー同士ならば話は少し変わって来るでしょうが、全く見ず知らずの相手との文字のみの交流になる訳ですから、やはり、ある程度の距離感を保って話をするということになろうかと思います。
たとえば、ブロガーの中には、コメントを受けるという設定をしていながら、書き込まれるコメントのすべてに返事を書かないという、ある意味徹底した拒否姿勢を貫き通している、個性的なスタンスの方もおられますが、これは、これで、別段気にすることはないであろうと思う訳です。それは、おそらく、本当は全面コメント拒否設定にしたいのでしょうが、やり方が判らないか、いちいち一人一人のコメントに返事を書く時間がとれず、しかし、ブログへの感想は聞いてみたいとか、そういうブロガーさん個々の事情があるものと、推察できるからです。そういう姿勢を貫くあるブロガーさんは、コメントを書き込んだ人個人への対応としてではなく、不特定多数に向けてという書き方で、ブログ本編内で返事を書かれていましたが、こういう返信方法も、稀にはありだと思います。
ところが、そんな中でも、わたしがどうしても腑に落ちないことがあるのです。
以前、わたしが、あるブロガーさんのブログに対する感想をコメントに書いた時のことです。何故か、わたしのコメントに対してだけ、返事が頂けないことがありました。もちろん、そのブロガーさんへコメントを差し上げたのは初めてでした。つまり、相手の方は、わたしと何かトラブルがあったということもありません。にもかかわらず、そのあとも、幾度かコメントを書き込ませて頂いたのですが、他の方のコメントには、ちゃんと返事が書かれるのですが、わたしのコメントに関してだけは、最後まで無視を決め込まれてしまった訳です。
まあ、そんなことがあり、わたしは、既に、その人のブログを読む必要性も感じなくなりましたが、今でも、不愉快感は拭えません。
また、こんなこともありました。
わたしは、ある男性のブロガーさんのブログ記事に共感し、やはりコメントを差し上げたのですが、それは、こんな感じの物でした。
そのブロガーさんの記事の要点 ---- 「ブログの中には、商業関係のブログを書いている人もいるが、出てくる言葉が専門用語などが多くてよく判らないので、出来たら、その都度解説をして頂きたい」
それに対する、わたしのコメント ---- 「わたしも、その考えに同感です。一般のブログでも、個人的な友人同士の隠語などでブログを書かれると、読んでいる方には意味が判らず困ることがあるのですから、商売用のブログでは、なおのことそういう専門用語には気を配って頂きたいと思います」
それに対する、返信コメント ---- 「自分も、時々自分専用の言葉などをブログに書くが、それについて、過去にさかのぼってくどくどと説明するつもりはない。そんなのは、ブロガーの自由だ。云々------」
これって、おかしいですよね。わたしは、その男性ブロガーのブログに、共感意見を書き込んだのに、これでは、返事になっていません。いや、返事になっていないどころか、先に書いた自身のブログにも、反論している訳です。ところが、わたしのあとにコメントを書いた人の返事には、ちゃんとまともなブログ記事に沿った意見を返信しているのです。人を馬鹿にしているとしか思えませんし、こんな返事を書いている人のブログが、毎日欠かさずに更新され続けていること自体、呆れかえります。
もはや、何をか言わんやですね。(嘆息)
とにかく、そんなこともあって、ブログのコメントを書き込むということは、ある意味、大変な賭けでもあるのです。しかし、そんな返信を書いてしまった後で、そういうブロガーは、たとえ、一瞬でも、申し訳なかったという気持ちにはならないのでしょうか。いいえ、おそらく、そうした非常識な感覚の人間は、「ざまあみろ!」ぐらいな気持ちなのでしょう。
これまで、ブログを長く続けて来られた人たちに言わせれば、「そんなことぐらいざらにある。気にしないことだ」と、いう説になるのでしょう。そうした励ましは、とてもありがたいことですが、しかし、わたしは、ここであえて語らせて頂きます。そのブロガーのような、たった一度の無神経で思いやりのないコメント返信が、多くの善良なブロガーたちの、せっかくの楽しいブログライフを台無しにしてしまう可能性だってあるのです。
しかし、そうしたブロガーに、これからは注意を払って欲しいなどと、口はばったい説教などは申しますまい。あなたは、勝手にあなたの道を行けばよろしい。これまでが、そうであったように、これからも、人さまの気分を害しながら、堂々と厚顔無恥なブログを書き続けて下さい。あなたのブログは、もう、二度と拝見いたしませんから、ご心配なく!

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夏の旅人たち
2009年05月11日
夏 の 旅 人 た ち
遥かにのびる 湾岸道路 こがす
夕日の赤が Tシャツに にじむ
砂塵まみれの潮風は 頬 なぶり
ザック背中に 明日(あした)を問いかけ
いったい どこへ歩けばいいのか おれたち
これから 何を探せば いいのだろう
孤独な雄叫びを 胸に秘め
すり切れたプライドを しょうこりもなく 握りしめながら
ぎらつく汗の流れるままに 怒りと虚しさ かみしめ
時が見捨てた夢 かき集めて 夏をゆく
海岸そばの ドライブインを 出れば
夜空に ひとつ 流れ星 よぎる
後悔ふかく 胸に吸い込み
いったい 何を信じりゃいいのか おれたち
これから 何を愛せば いいのだろう
手探りばかりの 人生など
はじめから 望みやしない
生まれて来た時代 うらみながら
それでも かすかに くすぶる火が 遠い記憶に 残るなら
砂に刻んだ 夢 かき集めて 夏をゆく
いったい どこへ歩けばいいのか おれたち
これから 何を探せば いいのだろう
答えの見えない 苛立ちさえ
大人は 試練と いうけれど
教科書通りの 過ちに 慣れ
それでも かすかに くすぶる火が 遠い記憶に 残るなら
砂に刻んだ 夢 かき集めて 夏をゆく
~今日の雑感~
昨今の閉塞的な社会状況に、自分の将来や希望を見失っている若者たちをモチーフに、書いてみた「詩」です。
如何でしょうか?
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ちょっと、一服・・・・・37
2009年05月10日
~ 今 日 の 雑 感 ~
山で道に迷う
皆さんは、登山やハイキングの際に、山道で迷子になったことがありますか?
別に、それほど大袈裟なことではありませんが、わたしは、一度だけ、山で道に迷ったことがあるのです。あれは、まだ二十代も前半の夏のことでしたが、女性の友人と、ぶらりと志賀高原まで出かけたことがあったのです。
山のホテルへチェックインしたのが午後三時頃だったものですから、時間を持て余していたわたしたちは、ちょっとその辺を散歩でもして来ようと、ほんの軽い気持ちで、出かけたのでした。
そして、どうせここまで来たのだから、ハイキングコースでも歩いてみようかと思い立ち、広い国道から外れて林道の方へ入って行ったのが、間違いのもとでした。通常のハイキングコースを歩いているつもりが、いつの間にか、別のルートへ進んでしまっていたらしく、行けども行けども終着点へ辿り着けません。道は次第に険しくなり、大きな岩がゴロゴロしているとてもハイキングコースとは思えない場所を幾つも乗り越えながら、それでも下へ進めばいつかは国道へ出るのではないかと思い、ヘトヘトになるまで歩き続けました。その頃は、携帯電話などもなく、辺りに人影らしきものもまったくなく、たった二人の山中行軍です。
「このまま何処にも出られなかったら、仕方がないから、野宿だね」
「それも、いい思い出じゃァないの」
などと、この期に及んでも、まだ危機感のない会話をしていた時です、不思議なことに、何処からともなくフルートを吹く音色が聞こえて来たのです。静かな木々の間を吹き抜ける風の音に混じって、何とも優しげなそのメロディーは、明らかに、近くに人がいる証拠でした。わたしたちは、一目散にその音の方へと足を速めました。
すると、いきなり視界が開け、出て来たところが広々とした池の縁でした。しかし、そこには誰も人はおらず、ただ一足の男性用の靴が行儀よく揃えられて置いてありました。
「誰が、吹いていたんだろうね?今のフルート・・・・」
「志賀高原では、音楽大学の人が合宿練習をしているから、そんな学生たちの一人だったんじゃない?」
と、話をしていますと、いきなり近くで、木材を伐るチェーンソーの音が響いたので、わたしたちは、今度はそちらへ歩いて行きました。そこには、営林署の職員のおじさんが一人雑木の伐採作業をしておられたので、そのおじさんに国道への行き方を訊ね、わたしたちは、ようやくホテルへと戻ることが出来たのでした。
その間、時間にすれば、わずか三時間ほどのことだったのですが、口では馬鹿なことを言いながらも、内心は、実に不安な体験でした。山に入る時は、やはり、どんなに短い距離を歩くとしても、しっかりと事前のシミュレーションを怠らず、いざという時に必要な登山用具もちゃんと携帯したうえで、行くべきだと痛感した次第です。
それにしても、あのフルートを吹いていた人はいったい誰だったのか?-----あまりのタイミングの良さに、わたしの友人は、
「あたしたちが道に迷っていることを知っていて、あの池のある所まで誘導してくれたみたいだね」
と、言っていました。
山では、時々、不思議なことが起きるものですね・・・・・。
