入院病棟24時・・・・・45

~ 今 日 の 雑 感 ~


入院病棟24時


    本日、病院を追ん出され退院いたしました。皆さまには、ご心配いただきまして、本当にありがとうございます。<(_ _)>

    お医者さまも、看護師さんたちも、患者には献身的に尽力して下さいますが、それでも、病院とは長居をしたくなる場所ではありませんよね。即行、シャバへ戻ってまいりました。でも、わたしの病気は、長年付き合わなくてはならないものですから、これからも、気長に治療して行きたいと思います。


    そこで、今日は、健康な方は、あまりご存じではない田舎の総合病院の外科入院病棟とは、如何なる所なのかということを、わたしの実体験を通じて、語ってみたいと思います。

    入院してまず気付くのは、病棟に高齢者の患者が多いということです。よくドラマを見ると、老若男女が車椅子に乗ったり、松葉杖を突いたりして病院内を行き来している姿が描かれていますが、実際の患者の中には、若い人たちはほとんどいません。ほぼ、六、七十パーセントの患者は、七十歳以上の高齢者で占められています。そのため、中には認知症の患者もいて、夜中に突然病棟内を徘徊しはじめたり、大声をあげたりもしますが、そんなことは日常茶飯事で、看護師さんたちは、一生懸命そういう患者さんの説得にあたります。

    何故なら、高齢者は、夕方から夜にかけてが無性に寂しくてならないのだといいます。高齢のある女性患者さんは、消灯の時間が来ると、看護師さんに、電気は消さないでほしいと、頼んでいましたし、真夜中にもかかわらず、廊下の窓硝子越しに真っ暗な外を見詰めて、「早く朝にならないかなァ・・・・」と、溜息をついているお婆さん患者も見かけました。

    また、高齢者になると、小や大など下半身の感覚も鈍くなる人もいるため、明け方廊下を歩く時は要注意です。たまに、おむつの中に大をしたことを忘れて、トイレへ行くために歩き出し、そのおむつを下ろした拍子に大が表へ転がり出して、廊下へぽとぽと落としながら歩いて行ってしまうという高齢者もいますから、暗い廊下を歩く時は、足元にも注意が必要なのです。

    そして、特に入院患者間のトラブル発生の要因に多いことは、就寝中のいびきです。男性女性問わずに、このいびきで安眠を妨げられる人は、案外多いのです。わたしも、今回の入院時には、二人部屋の同室になった七十代の女性が、運悪く、物凄いいびき(牛の鳴き声と、豚が絞殺される時に発する悲鳴を足したようないびきです)を発するもので、ほとんど眠ることが出来ませんでした。そして翌日、その物凄いいびきをかいていた本人は、わたしにこう言うのです。

    「あたし、何だか喉の調子が悪いんだけど、風邪かしら?いがらっぽい感じがして・・・・」

    何が、風邪かしら?------ですか。あれだけ激しいいびきを続ければ、喉が変になるのも当たり前ですよ。おかげでこっちは寝不足もいいところで、のん気なことを言わないでもらいたいですね、まったく!(>_<)

    そしてまた、そういう人に限って、翌朝の看護師さんの「昨夜はよく眠れましたか?」の質問に対して、「もう、全然眠れなかったわよ。隣の人のいびきがうるさくて------」と、とんでもないことを、のたまうものなので、「ふざけないでよ!」と、口論になることが往々にしてあるのです。

    また、女性患者の中には、看護師さんが採血をしたり、腕に点滴の針を刺したりする際に、うまく針が入らない時、「わたしって、血管が細いから、見つけにくいのよね」などと、如何にも自分はか弱い人間なのだというようにアピールする人がいますが、それは、ただ単に、肥満で腕が太すぎるのか、血管が老化現象を起こしているため、針を入れようとするとクニャリと、逃げるからなので、決して、その患者さんの血管が細いからとは限らないのだといいます。勘違いは、ほどほどになさった方が、よいでしょう。(^_^;)

    更に、浴室を使ったところ、あまりの気持ちの良さに浴槽内で脱糞してしまうとか、病室内の各患者用のテレビを、イヤホンを使用せずに聞いていて、「うるさい!」と、喧嘩になったなどという例もありますし、同じ病室の患者同士の間で、見舞客が多い患者を、少ない患者が嫉妬するといったことまであるのです。

    時には、夜中に突然、長野県の県歌『信濃の国』を、歌い出すという老人もおり、最後の六番まで歌い終わると、「ああ、おれはまだ、ボケちゃいねェ」と、納得して眠るのです。

    そして、女性が電話をかけながらの涙声。-----どなたか、親戚の方が亡くなられたことが判る内容が、談話室の方から漏れ聞こえてきます。そんな亡くなった患者さんが家族に付き添われて、霊安室へ向かう姿を、エレベーターホールで列を作って頭を垂れ、見送る医師や看護師たち------。

    田舎の総合病院の入院病棟には、そんな様々な人間模様が、日々繰り返されているのです。face01  続きを読む


ちょっと、一服・・・・・44

~ 今 日 の 雑 感 ~

北の魔女さんのブログ『自分の物差し』を、読んで・・・・



    北の魔女さんのブログ記事に、『自分の物差し』と、いう物がありました。

    人は、その生まれや育ちの環境などにより、知らず知らずのうちに自分の中に、自分本位の『物差し』を、作り上げてしまい、周りの人や物事に対して、そして時には自分自身に対してまでも、その『物差し』を当てはめ、良し悪しを判断し、自らを束縛してしまうことがある-----と、いう記事でした。

    このことは、はるみっちゅさんのブログコメントなどにも、書いてあったことなのですが、「人間は、とかく自分と違う物を、『間違い』と、決めつける癖がある」と、いうもので、「『間違い』と、『違い』は、そもそも別の次元の問題なのだ」と、はるみっちゅさんはおっしゃっています。

   北の魔女さんの記事も、言わんとされていることは、これに近いことではないかと思います。人間は、とかく、自分が経験を重ねるうちに常識だと思い込んできたことを基準値として、物事の正否を計るという、いわゆる経験則を元にした概念を脳に沁み込ませて行くという特質があるためなのか、年を経るにつれて、なおのこと、その考え方の柔軟性をなくして行くものなのでしょうね。もしも、年配の人が、「最近は、あまり他人に自分の基準を当てはめなくなった」と、いうことがあるとすれば、それは寛大になったということよりも、単に、相手に対する関心が希薄になって来たというだけのことなのではないかと、思うのです。

   人は、誰でも気持ちの中に、「これは、こうあらねばならないはずだ」と、いったん刻まれてしまうと、それを覆すことは、おそらく至難の技となります。その精神的拘束を、他人に対してだけではなく、自分に対しても掛けることになるため、その概念と『違う種類の物』が目の前に現れると、「これは、いけないことだ」と、速断してしまう結果になるのだそうです。

   そうなると、気分は不愉快となり、その『違う物』を遠ざけようとし、時には、抹消してしまいたくなる訳で、それが、すなわちストレスになり、場合によっては「いじめ」などにもつながる訳です。しかし、今度は逆に、その『違う物』の立場からすれば、相手の方が『違う物』な訳ですから、お互いに相入れない関係となり、反目しあうことになるのです。

   こうなると、それは確かに、「独りよがり」対「独りよがり」という構図になるのでしょうから、まず、どちらかが、自分の物差しの存在を忘れて、相手の物差しに自分を当てはめる努力をすることで、より深く相手を理解することが出来るという理論になるのです。しかしながら、長年において培われた現実社会というものは、そうそう単純に割り切れるものではないと、わたしは考えます。

   それというのも、社会には社会の基準値となるルールがあります。これは、法律のことではありません。簡単に言えば、モラルとかマナーというものでしょうか。「近所の人に会ったら、挨拶をする」「人の迷惑になることはしない」「乱れた服装で、公の場所に出ない」「大人の女性になったら、改まった席に出る時は、化粧を忘れない」「目上の人には敬語を使う」などなど、数え上げたらきりがありませんが、こういうことは、いくら相手に自分の経験則を当てはめるなと言いましても、当てはめざるを得ない問題なのです。

   普段はカジュアルな服装が好きだといって、冠婚葬祭に、作業着であるジーパンや野良着で出席する人はいないでしょうし、いくら自分は挨拶が苦手だといっても、相手が会釈をしたらそれを無視して通り過ぎることは非常識と言われても仕方がありません。また、女性ばかりに化粧をしろなんて差別だと、思っても、もし、スッピンで相手に会った時、「わたしは、あなたにとって、スッピンで会ってもいいと思われているほど価値が低い人間なの?」と、誤解されても、自業自得ですね。

   また、「敬語なんか、ダサいし、ウザい。仕事さえ出来れば、言葉なんか関係ないじゃん」と、思っている若者が、会社側から、サービス業には向かないといわれ、解雇されたとしても、それを恨むのは筋違いということも、万人の納得するところでしょう。

   つまり、『自分の物差し』なるものにも、必要な『物差し』は、あるのです。相手を否定するための物差しも、時と場合に応じては不可欠なものなのです。自我を殺し、相手の身になって考え、そいういこともありかなと、おおらかに構える-----それも大事でしょうが、全てにおいてその考え方がベストではないのです。それだけでは、ただの優柔不断なズボラ人間になってしまいますから。たとえ、ある程度のストレスになったとしても、やらねばならないことは、やらねばならないのです。

   要するに、自分の中にまっとうな『物差し』は、きっちりと持ったうえで、自分にとって、さしあたり特段の害を及ぼさないことならば、相手の意見も尊重するし、物事についても、毎日やらねばならないと、きっちり決めることはしない-----そのぐらいのアバウトな気持ちで良いのではないかと思うのです。相手の違いは認めても、自分はそれには染まらない-----それでいいのではないかと思うのです。

   北の魔女さんも、それらことを持論の根底にしっかりと踏まえたうえで、そのブログ記事を書かれているものと思います。

   「自分は正しい。でも、相手も間違ってはいない」また、「誰も、わたしに、こうしなければいけないとは命令してはいない」-----この気持ちを、みんなが共有できれば、世の中の無益な争い事や無用なストレスも、かなり少なくなるのではないかと、考えます。

   まあ、わたし自身が、そう思えるようになるには、かなりの修行が必要でしょうけれど・・・・。(~_~;)  続きを読む