裁判員制度の疑問・・・・・49
2009年05月23日
~ 今 日 の 雑 感 ~
裁判員制度の疑問
わたしは、このあいだ、皆さんのブログを読むのを数日お休みしました。自分のブログは、予約投稿設定をして穴を開けることはなかったのですが、しかし、いつものように各ブロガーさんのブログを読むことは出来ませんでした。
わたしが、パソコンの向こう側にいないと判りながらも、欠かさずにお読み下さったブロガーさん、及び読者の方々には、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
さて、本題の「裁判員制度の疑問」についてです。
皆さんも既にご承知の通り、今月の二十一日(一昨日)から、裁判員制度が施行され、七月下旬以降からは、実際に裁判員が加わる合議制裁判が開始されることになります。
一般市民から無作為に選ばれた裁判員六名が、裁判官三名と共に裁判を行うこの制度に適用される裁判は、いわゆる重大な犯罪についての裁判であり、死刑、または、無期の懲役・禁固にあたる罪に関する事件や、その他故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪に関する懲役・禁固刑に相当するような重大事件についての裁判です。
しかし、裁判員やその親族に対して危害が加えられるおそれがあり、裁判員の関与が困難な事件は、対象外とされ、裁判官のみで審理し裁判するということになっているようです。
そうは言いましても、裁判員は、裁判中の法廷では、必ず被告人に顔をさらす訳ですし、その被告への量刑如何では、絶対に裁判員には危害が及ばないという保証はありません。
よく、日本のこの裁判員制度を、アメリカなどの陪審員制と同等に考える人もいますが、これにはかなりの差異があります。陪審員制も一般人が裁判に参加するものではありますが、陪審員は被告が有罪か無罪かを決めるだけで、その量刑の決定は裁判官にゆだねられます。そのため、陪審員制では、「判決」という表現は用いずに、「評決」という言葉を使うのです。ところが、裁判員制では、裁判員が被告の量刑までも裁量せざるを得ないために、被告側の恨みを買う確率も必然的に高くなるとも言われているのです。
「でも、裁判員が何処の誰だか判らないのだから、大丈夫ですよ」と、専門家は言いますが、長野県内の刑事裁判は、県民が裁くことになる訳で、意外に、世間は狭いものですよ。絶対に大丈夫などということは、言い切れないと思います。
また、裁判員に課せられる守秘義務の問題もかなり微妙です。裁判官や検察官、弁護士などは、決して安易に他人に対して裁判に関することを漏らすことはないという前提からか、もしも、彼らが自分の担当する案件について他者にしゃべってしまっても、罰則はありませんが、裁判員がこれをやってしまったら、確実に罰則が適用されるということです。これは、かなりの不公平であり、一般人は口が軽いという前提に基づいた一般市民軽視と言われても仕方がないやり方です。
では、何故、そんな口の軽い一般市民を、わざわざ裁判に担ぎ出すのでしょうか?国は、「国民には相応の権利がある。行政では、選挙権があり、立法では、選挙に出馬して議員になる権利(被選挙権)がある。これまで、司法にはそれがなかったから、新たに裁判員になる権利を作ったのだ」と、説明してはいますが、それでは、どうして前者二つには、参加しなくても罰則がないのに、この裁判員制度だけには、参加は原則拒否できないとか、守秘義務を守らない場合は罰金及び懲役などというとんでもない罰則があるのでしょうか?わたしには、よく判りません。
さらに、裁判員に選ばれる人の中には、小さな子供を抱えているお母さんや、どうしても休みを取ることが出来ない大事な仕事を抱えているサラリーマンなどもいるはずです。でも、そのお母さんと子供のための育児施設などは裁判所にはありませんから、必然的に誰かに子供を預けて参加する訳ですよね。それが保育所であろうとベビーシッターであろうと、もちろん無料という訳には行きません。サラリーマンも、自分が商談に参加できなかったということで、会社に損害を与えることになる可能性だって皆無ではないでしょう。それでも、そのためにかかるシッター代や、損害金に対して、国が面倒を見てくれるということは全くありません。すべてが自腹です。
しかし、それ以上に深刻な問題は、殺人事件の裁判を行う際に必ず証拠資料として提示される被害者の殺害遺体の写真を裁判員が見なければならないということです。その凄惨でむごたらしい肉片や死体の写真を法廷の大画面で映し出される物を、果たして一般市民の裁判員が正視し、詳しく分析など出来るものでしょうか?これは、あるアメリカ人の四十歳の男性が陪審員として参加した時の話ですが、彼は、そうした凄惨な写真を見せられてからPTSD(心的外傷後ストレス障害)となり、現在もカウンセリングに通っているということでした。
昔から、刑事裁判に参加することは国民の義務であると考えられ、小学生の頃からその精神について勉強し、教えこまれて来ているアメリカの人たちでさえそういう病気になる確率があるのです。ましてや、裁判はお上の仕事で、下々の者が首を突っ込むなどおこがましいとさえ考えられて来たこの日本で、いくら一般庶民の感覚が必要なのだと説かれても、もう一つ納得がいかないのです。
事の実態は、霞が関官僚が自分の成績を上げるために、何か新しいことを考え出さなくてはならないという焦りから、こんな突拍子もないアイデアを捻り出し、それが独り歩きしてしまった結果なのだというようなところなのではないのでしょうか?もし、そんなことが事実なら、それに付き合わされる国民は、いい面の皮ですよね。どうしても、裁判員制度を実行したいのなら、もう少し国民の目線に立った参加しやすい体制作りを求めたいと思いました。
続きを読む