ブログ勧誘の舞台裏・・・・・268
2009年12月02日
~ 今 日 の 雑 感 ~
☆ブログ勧誘の舞台裏☆
あなたがブログを始めたきっかけは、何ですか?
わたしは、自分の書いた小説を皆さんに読んで頂きたかったからですが、何せ、パソコンに初めて触ってからたった一ヶ月でブログを書き始めてしまったのは、ほとんど勢いで-----と、言った方が正解かもしれません。(爆)
ブロガーさんたちの中には、「自分のお店の宣伝になればいいと思い始めた」人もいれば、「単に、暇だったから」という人もいるでしょうし、「ブログをやれば、お友達が増えると聞いたから」という積極派の人もいれば、「とにかく、日々のうっ憤や不満のはけ口が欲しかった」と、いう人もいることでしょう。
そして、もちろん、「ブロガーをしている友人に誘われて、日記感覚で------」というブロガーさんもいることでしょう。しかし、そんな友人に誘われてというブロガーさん、その時、あなたは、二つ返事で誘いに乗りましたか?
もしかしたら、面倒くさいなァと、感じたり、自分には出来そうもないと、何度か断ったのではありませんか?
それでも、誘いをかけた相手は、あなたを強引に口説き、「仮に、更新できなくなったら、わたしがあなたの分まで書いてあげてもいいわ。あなたのパソコンをわたしに操作させてよ」なんてことまでも、言われて、仕方なく始めたというのが事実ということはありませんか?
そんな時、あなたは、「どうしてこんなにも、彼女はわたしにブログをさせたいのだろう?」と、不可解に思ったはずです。
その通り。そこには、実際、あなたの知らない舞台裏があるのです。
この「ナガブロ」は、ブロガーの所属地域が大雑把に判るように、地域エリアが設けられていますよね。ほとんどのブロガーは、正直に、自分が住む地域のブログエリアを選択し、そこに自分のブログの新着が表示されているはずです。
このシステムでは、大勢のブロガーを抱える地域の新着ブログの表示は、必然的に次から次へと目まぐるしく変わることになります。また、反対に、所属ブロガーが少ない地域では、三日経とうが、五日経とうが、ブログの表示にほとんど動きがないことになります。
つまり、所属ブロガーが多い地域で書いているブロガーさんのブログは、アッという間に新着欄からタイトルが消える訳ですし、少ない地域では、常に、新着表示が出っぱなしという状態になる訳です。
ここまで書けば、ある程度お判りかと思いますが、要するに、自分が気に入らないブロガーのブログを、地域欄の新着から早く締め出すためには、その地域のブロガーの人数を増やす必要があるのです。そして、そのブロガーたちに、コンスタントに記事をアップしてもらい、なるべく、気に入らないブログを読者の目にさらさないようにするという計略を立てる訳です。
つまり、あなたは、その計略の一端を、何も知らないままに担わされているのかもしれないのです。
考えてみてください。あなたをブログに誘ったブロガーの言い方、何処となく切羽詰まっていませんでしたか?そして、あなたの書いているエリアの新着ブログに、たった一日しかアップしないような、ほとんど中身のないブログがいくつも発生していませんか?
また、あなたの書いているエリアの住人でもないブロガーが、突然、何処かからあなたのエリアに引っ越してきたことはありませんか?そのような現象が起きていたら、間違いなく、そのエリアには、あなたをブログに誘い込んだブロガーの気に入らないブログを締め出そうという卑劣な魂胆が潜んでいると考えられるのです。
「ねえ、ぜひ一緒にブログを書きましょうよ。お店の売り上げも伸びるかもしれないわよ」
その言葉、本当に、額面通りに受け取れるものですか?利用されているということは、ありませんか?

タグ :クーガ女グランセローズ入団希望者
裁判員て、そんなに辛いの?・・・・・266
2009年12月01日
~ 今 日 の 雑 感 ~
裁判員て、そんなに辛いの?
裁判員裁判の裁判員に選ばれて、判決に携わった一般市民の人たちが、その時の状況や自分の気持ちについて、NHKの番組内で語っていたが、39歳の主婦は、絞殺された女性の遺体の写真をまともに直視できないほど、ダメージを受けたといい、また、39歳の塾講師の男性は、その女性を殺害した被告の男性の真摯な態度での犯行動機を聞くうちに、減刑もありなのではないかと、考えたという。
しかし、法廷を出て、評議会場へ移り、裁判員と裁判官でもう一度裁判の内容を精査しているうちに、やはり、この被告には無期懲役が妥当なのではないかとの意見でまとまったものの、裁判が終わってからも、未だに、「あれでよかったのだろうか?」という気持ちが頭をもたげると話していた。
また、先の、39歳の主婦も、「この判決を下した責任は、一生背負って生きていかねばならない」と、自らに言い聞かせていた。
これを聞いて、わたしは、裁判員裁判の裁判員になるということは、そんなに大層なことなのだろうかと、思ってしまった。
そんな証言を聞いてしまえば、なおのこと、「裁判員なんてやりたくない」と、思う人が増えるのではないだろうかとも、考える。しかも、そう答えている元裁判員の二人の口調には、辛いといいながらも、何処となく、裁判員をやり遂げた充足感というか、自己英雄視のような雰囲気を感じたのである。
さらに、この裁判員裁判では、これまでのプロの法律家では考えられなかった判決内容が、次々に打ち出され、いわゆる一般人感覚が如実に反映しつつあると、専門家は指摘している。
これまでの判例に比べ、より重罪化が進んでいるというのである。
特に、それが顕著に表れているのが、婦女暴行に関してなのだそうである。二人の女性の家へいきなり入り込み、一人には手錠をかけ、一人には刃物をちらつかせて犯行に及んだ被告の男性に対し、これまでならば、懲役10年が妥当とされてきた判決が、裁判員制度では、懲役15年になり、ほぼ検察側の求刑通りに判決が下されたのだそうである。
この裁判に裁判員として参加した男性は、被害者の女性の「あの時殺された方がましだった。今でも襲われる夢を見る」と、別室で涙ながらに語る姿を見て、被告を絶対に許せないと思ったと言っていた。
これでは、これまでのプロが下した判決はなんだったのかということになる。プロの判断は、結局は、前例に基づいたものばかりで、そこには、普通の庶民感情などはほとんど関係なかったということなのであろう。要するに、まるで、マニュアル化された基準に則して、判決がベルトコンベアー式に下されていただけで、はっきり言って、「被害者や加害者の気持ちなどは、まったく関係ない」と、いうこれまでの判決内容だったのだということが、浮き彫りになったのであった。
この間のある裁判では、検察側が被告が被害者を包丁で刺した際の刺し方を詳しく証言させようとしたところ、裁判員の一人が、「そんなことはどうでもいい。殺意があったかなかったか、それだけ判ればいいんだ」と、止めたという。
万事がこの調子であるから、検察官も弁護士も、「今までと勝手が違って、新鮮だがやりにくい」と、本音を語っていた。
しかし、話は戻るが、裁判員に選ばれた人たちが、それほどまでに判決に対して、自己責任を感じなければならないものなのであろうか?
確かに、人の命を左右する立場に、たとえ一時でもなるのであるから、それぐらいの真剣さと責任感は持っていて当然だと、思われる人もいるだろうが、では、これまでの裁判官や検察官、弁護士に、そこまでの責任感があったのかと問えば、ほとんど答えは「NO 」であろうと思う。いちいちそんな気持ちで、一生に何百件もの裁判が出来るわけがないのである。
だからと言って、裁判員は、ちゃらんぽらんに判決を下していい訳ではないだろうが、自分一人で判決を打ち出す訳ではないのだから、そこまで、深刻に責任を感じる必要もないのではないかと、思った次第である。
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タグ :事業仕訳け人
「代理母は実母」の不可解・・・・・265
2009年11月30日
~ 今 日 の 雑 感 ~
「代理母は実母」の不可解
長野県下諏訪町の諏訪マタニティークリニックで5月、代理出産によって男児を得た27歳の女性と、その代理母となった53歳の実母が、11月25日、東京都内で記者会見をし、子供をもうけた喜びなどを語ったという、ニュースがありました。
27歳の女性は、赤ん坊の時病気で子宮を全摘したことで、子供をもうけることが出来なかったため、この女性と夫である男性の受精卵を実母に移植し、子供が産まれたのだといいます。
実母は、帝王切開で赤ん坊を出産。赤ん坊は、法律上は実母の子供になるため、現在、女性と赤ん坊が戸籍上の親子になるように特別養子縁組の手続きを進めている最中だそうです。
このニュースをテレビで観たわたしの母親の反応は、ただ一言。
「気色が悪い!チャンネル変えて!」
でした。わたしも、まったく同意見でした。
わたしは、以前もこのブログに書いたのですが、何故、人は、そこまでして自分の子供を欲しいと思うのでしょうか?一歳の娘に、子宮摘出という人生を左右するような手術を受けさせねばならなかった実母の苦悩や自責の念も判らなくはありません。
しかし、それが、どうして自分のお腹を貸してまで、娘の子供を妊娠してやらねばならないという結論へ結び付くのか、わたしには、まったく理解できないのです。世の中には、さまざまな理由で自分の実の子供を持てない夫婦や女性はごまんといます。そして、そういう人たちは、皆、そのことを運命と諦め、割り切って、それでも世の中を懸命に生きているのです。
この女性は、たまたま、実母がお腹を貸してくれたので、幸いにも男児を授かることが出来ましたが、世の中、そんなラッキーな人間ばかりではありません。女性は、
「同じような状況に悩む人たちが少しでも勇気づけられたり、悩みが軽くなれば幸せ」
などと、話していたそうですが、これも実に勝手な意見です。つまり彼女は、暗に、「わたしのような境遇の人間がいたら、実の母親は子宮を提供しなさい」と、プレッシャーをかけているのです。そういうことが出来ない親は、冷酷な親だと、言いたいのです。
もしも、子供が欲しくても、代理母が見つからない夫婦は、ではどうすればいいのでしょうか?他人に頼むのでしょうか?そんなことになれば、問題は、ますます厄介になります。子供を実際に産んだ赤の他人の代理母が、親権を要求したらどうするのでしょうか?書類上や法律上だけでは片づけられない問題も、必ず発生するのです。
つまり、27歳の女性も実母も、「自分たちのケースは、まったく例外中の例外で、他の人には決して真似をして欲しくない」と、発言するのが本来の姿勢だと思うのです。
わたしは、こういういわゆる身勝手な人間の言い分を聞くと、本当に腹が立つのですが、何故、女性たちは、実の子供でなくてはならなかったのでしょうか?世界中には、戦争や病気、事故などで両親を失い、孤児になっている子供たちが山ほどいるではありませんか。どうして、そういう子供を養子にするのではいけないのでしょう。
子供が欲しいと、心底純粋に思っているのならば、たとえ赤の他人の子供でも、自分の子供として育てる道はいくらもあるはずではありませんか。何が何でも、血を分けた自分の子供でなくてはならない。そのためになら、実の母親を犠牲にし、テレビの記者会見にまで引きずり出して、世間に、「気色がわるい!」などと罵倒させるような、酷な仕打ちをしても構わないのでしょうか?あきれ返るばかりです。
あの記者会見の最中の、堂々とした娘の態度に比べて、終始うつむき加減の母親を見れば、この母親が、内心、「自分はなんという恥さらしな場に出てきてしまったのだろうか」という、思いに苛まれているであろうことは、一目瞭然です。
よく、こういうニュースを観ると、人は、「生まれた子供が可哀そうだ」「どちらが親か判らない」「きっと学校で噂され、苛められるだろう」などと、考えるものですが、わたしは、子供がどんな境遇になろうと、そんなことはどうでもいいと思っているのです。
こういう変わり者の親の子供として生まれてきてしまったのですから、子供は、それを甘んじて受けるべきだし、それもまた「因果応報」-----恨むなら親を恨めばいいだけのことです。そして、運命を背負って諦めて生きればいいのです。親が諦めきれなかった報いを、子供が受けるのは仕方がないことではないですか。
世の中とは、必ず何処かで帳尻を合わせるように出来ているのですから。
わたしの親戚にも、子供を授かれずにいる夫婦がいますが、「そういう夫婦には、子供のいる夫婦に出来ないことをせよという命題が天より与えられているのだ」と、彼らは話します。そういう前向きな考え方で、生きている夫婦も大勢いるのです。
ですから、やはりわたしには、この27歳女性の選択には、どうしても賛成できないのです。

タグ :須坂市動物園のハッチ
言語力を鍛えよう!!・・・・・264
2009年11月29日
~ 今 日 の 雑 感 ~
言語力を鍛えよう!!
では、皆さんに問題です。
次に書くのは、ある本の読後感想文の文章ですが、何が足りないと思いますか?考えてみてください。
「ぼくは、『日本の怪談』という本を読みました。ぼくが、この本を選んだのは、目次です」
この文章を見て、「ああ、うちの息子も、よくこんな書き方をしているわ」と、思われたお母さんは、すぐに何が足りないのか判りますよね。
足りない部分は、「------ぼくが、この本を選んだのは、目次を読んでみて面白そうだなァと、感じたからです」というところです。
つまり、今の子供たちは、携帯電話などのメールの普及により、とにかく文章を短く収めなければならないという考えから、物事の理由や状況をすべて割愛して書くという癖が付いているため、頭の中で自分だけが判っていることを、相手も判っているものと判断し、言葉の赴くままに書いてしまうという習慣が出来上がってしまっているのです。
そのため、自分以外の相手に対して、物事を端的に判り易く説明するという「言語力」がかなり不足しており、子供同士のコミュニケーションがとれず、それがイジメにまで発展するケースが多いのだそうです。
ところで、「言語力」というものは、具体的にどういうことを指すのかといいますと、一言でいえば、「情報を整理し、短い言葉で組み立て直し、判り易く相手に伝える能力」ということで、言語に関する知識を示す「語学力」とは、まったく異なるものなのだそうです。
前回のサッカーのワールドカップの際、日本は一度も勝てずに完敗しました。その最も大きな敗因は、日本代表選手たちの「言語力」の不足だったといいます。つまり、サッカーは、試合中、監督が直に選手たちに指示を出すことが出来ないため、パスにせよドリブルにせよ、作戦はすべて選手間同士で伝えあわなくてはなりません。
ところが、選手個人個人に自分の意思をはっきりと相手に伝える「言語力」が充分備わっていなかったために、いわゆる「コーチング(ま・ことさんからの受け売りです)」が、ほとんど機能せず、いったい自分が何をすればいいのか判らないままに、試合が終わってしまったということだったのです。
そこで、日本サッカー協会(JFL)は、中、高生の若い選手たちを対象に「言語力」を鍛えるためのセミナーを開催し、「他人に道順を教える」などの教材を使い、自分の意見をきちんと相手に伝えるための学習を始めているということです。
また、大学生のための就職面接の準備にも、この「言語力」強化が課題として扱われているのだとか。
たとえば、大学生は、就職面接の時、その企業を志望した理由などは、マニュアルに従って丸暗記をしているので、そつなくスラスラと答えられるのですが、その後、面接官に、「あなたは、岩手県の盛岡市の出身だそうですが、盛岡市について説明してください」と、不意の質問をあびせられた途端、頭の中が真っ白になってしまい、何からどう話をしたらよいのかも判らなくなってしまうという者が増えているのだそうです。
専門家は、そういう時のアドバイスとして、即座に本題に入らず、「そうですね。あまり出身地については普段は意識していないので、何からお話したらよいか判らないのですが・・・・」などと、時間を稼ぎながら、頭の中で考えをまとめなさいと、アドバイスしているのだそうです。
しかし、わたしに言わせると、もともと「言語力」に不安がある学生に、そのような臨機応変な対応が果たして可能なものか、その方が疑問です。(爆)
さらに、小学校低学年からの「言語力」の勉強では、「なぜなら」を文章に組み込んで話を組み立てるという学習も有効だということです。要するに、「空は、青い。なぜなら------」と、いう具合に説明を持って行きなさいという教えのようです。まるで、旧司法試験で課せられた論文形式のようですね。
ぶつぶつに切れた作文の文章しか書けなかった子供が、こういう勉強を繰り返すうちに、要領のよいつながりのある文章を組み立てられるようになって行くのだといいます。
あなたのお子さんは、自分が考えていることを他人にはっきりと間違いなく伝える能力を、持っていますか?
いや、それよりも、あなた自身は如何ですか?ブログを読んでいても、いったい何を伝えようとしているのか皆目理解できない文章を目にすることも間々ありますよね。
日本人は、とかく、「おしゃべりはみっともない」とか「、沈黙は金」とか、「おれの眼を見ろ何にも言うな」などと、寡黙を美徳と思うところがありますが、これからのグローバルなコミュニケーション時代を生き抜くためには、これではどうも難しいようです。
皆さん、「言語力」-----鍛えてみませんか?
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イエメンの人質事件・・・・・263
2009年11月28日
~ 今 日 の 雑 感 ~
◆イエメンの人質事件◆
【サヌア=長谷川由紀、田尾茂樹】イエメンの首都サヌア北郊アルハブで地元部族に誘拐された東京都の建築設計事務所勤務、真下武男(ましもたけお)さん(63)=板橋区在住=とイエメン人運転手が23日夜(日本時間24日未明)、8日ぶりに無事解放された。
真下さんは、サヌア県庁で記者会見し、「交渉にあたってくれた、あらゆる関係者に感謝したい。本当に幸せだ」と喜びを語った。
外務省によると真下さんは同日午後8時(日本時間24日午前2時)ごろ、解放された。真下さんは、同午後9時過ぎ、解放交渉の仲介役を務めた地元部族長らに付き添われて四輪駆動車で県庁に到着。敏蔭正一・駐イエメン大使と面会した。
同県庁で間もなく開かれた記者会見で、真下さんは、やや疲れた表情を見せたものの元気な様子で、「無事解放されて安心している。ありがとうございます」と謝意を表明した。
<YAHOO ! ニュース>
コンサルタント会社社員の真下(ましも)さんは昨年3月から、国際協力機構(JICA)の支援事業で地元の学校建設に携わるため、イエメンに滞在していたが、11月15日午後、アルハブの建設現場に車で向かう途中で武装グループに襲われ、イエメン人の運転手とともに誘拐された。
地元部族関係者によると、犯人側は、イラクで反米闘争などに参加し、国際テロ組織アル・カイダとの関係を指摘されて裁判を受けないまま収監されている仲間の釈放を要求していたという。
イエメン政府は地元部族長らを仲介役として交渉にあたり、裁判の早期実施などを約束したが、犯人側が即時釈放に固執したため交渉が長引いたようである。交渉関係者の話では、11月23日、「誘拐についての罪は問わず、仲間の釈放に向けた手続きを保証することで犯人側と合意した」 と、いうことで、真下さんは、8日ぶりにようやく釈放されたのであった。
真下(ましも)武男さんの東京都板橋区の自宅では、24日の朝、妻の恭子さんが報道陣の取材に対し、インターホン越しに「主人とは電話で話しました。声は元気そうでした。ほっとしました」と話していた。
また、自宅にはまず外務省から連絡が入り、その後、真下さん本人から電話があったという。その際、真下さんは恭子さんへの電話で「小さい部屋に閉じ込められて、どこにも出られなかったのが大変だった」と話したとも言うことであった。
さらに、真下(ましも)武男さん本人は、同日午後9時15分ごろ、サヌア州庁舎に車で到着し、会見を開いた。
真下さんは英語で「知事やグループ、解放のために交渉してくださった人たちすべての協力にありがとうございます」と礼を述べ、また、席上、知人との電話では「シャワーを浴びたい」と話してもいた。
しかし、その時、真下さんは、「一度、自宅へ帰りゆっくりしたいが、またイエメンへ戻ってきたい。まだ、やり残していることがあるから-----」とも、応えている。
かつて、イラクで人質になった日本人もそうであったが、釈放されたのち、彼らの口からは必ずと言っていいほど、「またこの地へ戻ってきたい」という言葉が飛び出す。これは、何故なのか?
拉致され、生命の危機に直面し、究極の緊張状態を強いられながらも、それでも丁重な扱いを受けていたというその地域の人たちへの遠慮が言わしめている言葉なのか?つまり外交辞令なのであろうか?
わたしは、彼らのこういう反応に、常に違和感を覚えるのである。
今回人質になった真下さんを誘拐拉致した犯人たちは、そもそも、アル・カイダと思われて裁判を受ける権利も奪われたまま収監されている身内を開放してもらいたいと、一世一代の大ばくちを打った一介の村民が起こした事件であったようにも思う。
つまり、お隣の家の住民が、たまたま近くにいた日本人を人質に取ってしまった訳で、「バカなことはしないで、人質を解放しろ。お前さんの家族は、必ず、わしが政府と掛け合って釈放してもらうから、早まった真似をするもんじゃねェ」と、町会長さんが説得に行ったような状況と思えばいいようである。
しかし、この辺りでは、何かの交渉ごとをする際は、よくこうした人質事件を起こすようで、昔からの土地柄的習慣のようなものでもあるらしい。まあ、日本人にしてみれば、何とも物騒な習慣ではあるが------。
そんな訳で、真下さんを殺害するような気持ちは、端から犯人側にはなかったのであろう。それにしても、自動小銃は持っているし、日常生活で武器などとは全く縁がない日本人にしてみれば、恐怖であることに変わりはない。
にもかかわらず、真下さんは、再びイエメンへ戻りたいというのである。奥さんや息子さんにしてみれば、内心は、「親父、これだけみんなに迷惑をかけておきながら、この期に及んで何を勝手なことを言っているんだ!?」と、いうところであろう。
開発途上国への支援を買って出る心意気は立派であるが、日本政府や国民、イエメン政府、実際に人質解放の交渉にあたった部族長らの苦労や努力を考えれば、普通、こうした言葉は口からでないものなのではないかと、わたしなどは思ってしまうのだが、どういうものなのだろう?
そういえば、映画「アラビアのロレンス」の、イギリス人将校T・E・ロレンスも、あのアラビアの砂漠から精神的に去ることは出来なかったのと同じように、あの地には、人間が自分自身を英雄視出来てしまう麻薬の如き魅力が潜んでいるのかもしれない。
ところで、イエメンて何処にあるかというと、確かアラビア半島のつま先部分だったような気が・・・・。

興味のある人は調べてみてください。(ー_ー)!!
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「普通」は、「普通」ではない!・・・・・262
2009年11月28日
~ 今 日 の 雑 感 ~
「普通」は、「普通」ではない!
これは、「自称 美人女将」さんのブログにも書かれていたことですが、わたしたちが日常何気なく使っている「普通」という言葉には、その人その人にまったく違った意味合いがあるものだということを、最近考えさせられました。
皆さんは、「普通」という言葉をどのように受け止めていますか?
たとえば、ここに、二人の子供を持つ30代の主婦がいたとします。ご主人は、中小企業の係長をしています。家は、最近新築したばかりの一戸建てです。ご近所との仲も円満で、ご主人の両親である舅・姑ともそれなりにうまくやっていますし、やさしいご主人は、主婦と子供たちを、時々国内の温泉旅行に連れて行ってもくれます。家族そろって、ファミリーレストランや、回転ずしで夕食をとることもあります。
これを、この主婦は、「わたしの家は、ごく一般的な家庭だから、やはり、特別なことよりも、こういう『普通』の生活が続いて欲しいわよね。高望みはしなくても、『普通』で十分よね」と、近所の主婦仲間に話しました。
でも、皆さんは、この主婦の生活が、「普通」だと思いますか?わたしに言わせれば、この主婦は、そうとうに「贅沢」な生活をしていると思うのです。
まず、大好きなご主人と結婚して、お子さんにも恵まれ、家庭も円満。旅行にも行き、レストランで食事も出来る。こんな幸せな境遇が、果たして「普通」なのでしょうか?
わたしには、「彼女は、とても普通ではない」と、思えるのです。まず、彼女も家族も皆、健康です。これが既に「普通」ではありません。一日に家から一度も外へ出ることのできない経験をしていたわたしにしてみれば、家族で旅行など贅沢の極みです。レストランで食事?-----わたしは、もう何年も、そんな体験をしていません。
要するに、この主婦の思い描いている「普通」は、他の人にしてみれば、決して「普通」などではないのです。
わたしは、時々思うのですが、長年連れ添った奥さまやご主人を亡くされた人たちが、まるで、人が変わったように気力を無くし、悄然としている姿を見て、どうして、あのように、気持ちが萎えてしまうのかと、不思議でならないのです。
人は、もともと一人で産まれてくるものです。死ぬ時も、一人です。
結婚だって、皆が出来る訳ではありませんし、子供を授かることも、ある意味奇跡のような現象なのです。つまり、結婚して子供が出来、長年伴侶と添い遂げられたことは、正に、奇跡中の奇跡なのです。
その生活がなくなったからと言って、「どうしてなんだ?」などと嘆くことの方が間違っています。
むしろ、「自分は、これまで本当にラッキーな人間だったんだ」と、思うべきなのです。一人になってしまった?-----元に戻っただけではないですか!これまでの何十年間が、ある意味、宝くじに当たったようなものだったということに気付くべきなのです。
しかし、人間とは現金なもので、そういう幸せな生活が長く続くと、それが「普通」に思えてしまうものなのです。
あなたは、自分のことを「普通」だと思っていますか?
しかし、「普通」の概念は、人それぞれなのです。あなたの「普通」、決して「普通」ではないのですよ。それは、とても特別な、贅沢で幸せな「普通」なのです。

タグ :じょん
何じゃ、そりゃぁ~!?・・・・・261
2009年11月27日
~ 今 日 の 雑 感 ~
何じゃ、そりゃァ~~!?

[ヨハネスブルク 19日 ロイター] 国際陸上競技連盟(IAAF)が、世界選手権の女子800メートルで金メダルを獲得したキャスター・セメンヤ選手(南アフリカ)の性別疑惑問題について、南アフリカ政府とセメンヤ選手の弁護士との3者で、セメンヤ選手の金メダルと賞金の保持を認めることで合意したと、同国のスポーツ省が19日に発表した。
また、性別検査の結果については、機密事項扱いとして公表されないことが決まった。
<YAHOO ! ニュース>
何じゃ、そりゃァ~~~!?
である。
あの大騒ぎはなんだったんだろうか?それも、一番肝心な性別検査の結果が、機密事項扱いで公表されないなんて、そんな馬鹿げた話があるのだろうか?
そこが最も大事なんじゃないのか?もしも、これからも彼女(彼?)が、競技を続けるのだとしたら、一緒に走る女子選手たちはどう思うのだろうか?
生まれた時からそう思っていたから、女性?そんな理屈が、世界選手権で通るのだろうか?村の運動会とは問題が違うんだぞ、と、言いたい。
確かに、両性具有や、性同一性障害の患者という立場から見れば、それは、一種の差別になるかもしれないが、いざ、国際競技となれば、そんな個人的な理屈が黙認されたままでいいはずはないのである。
何でもかんでも、うやむやにしてしまえる問題と、そうではない問題があるのだということを、国際陸上競技連盟(IAAF)には、きっちりと考えていただきたいものである。

ところで、皆さんは、「納付書」と言うものをご存知ですよね。いわゆる「請求書」のことです。地域自治体の区費や組費を、これから頂きに伺いますので、この金額をご用意願います-----と、いうお知らせのようなものですよね。
これは、もちろん、後から回収するようなものではありません。先に、渡したら渡しっぱなしのものです。
それなのに、この「納付書」の性格をよく判らない人が会計をしている我が地区では、「先にこれを配り、その後、回収してください」と、言うのです。回収した後、その「納付書」を、いったいどうするつもりなのでしょうか?破いて捨てる以外、なにをするのか?本当に、疑問です。
まったく、何じゃ、そりゃァ~~~!?と、言いたい話です。
また、自分の家の飼い犬を、「うちの子」という擬人化人間にも、呆れますし、以前も書きましたが、「ワンコ」にも辟易します。わたしは、他人の家の犬を「ワンコ」や「ワンちゃん」などと呼ぶつもりはサラサラありません。
犬は好きですし、猫も大好きですが、犬は犬ですし、猫は猫です。絶対に、「子供」などではないと思っています。
犬だって、猫だって、人間扱いも度を過ぎれば、絶対に大迷惑なはずです!!
これも、何じゃ、そりゃァー~~~!!の最たるものですよね。

理不尽な損害賠償・・・・・260
2009年11月27日
~ 今 日 の 雑 感 ~
理不尽な損害賠償

三年ほど前、わたしは、ある家電量販店の駐車場で、接触事故を起こしたことがあった。
何が起きたのか判らず、そこに車を止めて、外へ出てみると、わたしの車から少し離れて、軽自動車が止まっていた。車内には、運転席に30代の女性、そして後部座席には保育園児と思しき子供が一人、別にチャイルドシートに腰掛けるでもなく、座っていた。
わたしは、その時、とっさに、「これは変だ?」と、直感した。もしも、わたしの方がバックし過ぎて相手の車の前へぶつかったのだとしたら、何故、相手の軽自動車とわたしの車の間が、こんなにも開いているのだろうか?-----と、考えたのである。
そして、わたしは、バックする際には、しっかりと慎重に後ろを確認しながら動かしていた訳で、まだ後方の駐車スペースの車まではかなりの距離があることを見たうえで、バックをしていたのである。
どう考えても、これはおかしい。-----そうは思ったものの、相手の女性は、こちらに過失があると言い、「こちらは、子供も乗っているんだから!」と、まるで、子供を乗せている方が優先車であるというような言い方までもする。
わたしは、子供の前で、母親を詰問することも出来ず、連絡先をメモ書きして渡し、その場を去った。
その後、保険会社の担当者に連絡をすると、「この一件は、すべて保険で何とかなりますから、その点は心配ないのですが、相手側の様子がどうもおかしいので、ちゃんと調べてみます」と、言って、相手の女性宅へ話し合いに行ってくれた。
そこで、判ったことなのだが、どうやら、相手の女性は、わたしの自動車がバックすることが判っているのに、自分の方が早く発車しようと、無理に駐車スペースから出たというのであった。そこで、わたしの自動車の後部と接触したようなのである。
しかし、彼女は、まずいと思った瞬間、即座に自分の車をバックさせて、元の駐車スペースに車を納めてしまったというのが真相のようであった。そこで、保険の担当者は、わたしの保険から、女性の自動車の修理代は出すが、今後、身体の調子が悪いとか、あれから身体のどこかがおかしいとか、そういうことは一切言わないように、もしも、それを言い出したら、こちらにも出方があると、強く説明したうえで、交渉を済ませたという報告であった。
しかし、こういう場合、目撃者がいないので、どうしてもぶつけたと先に思い込んでしまったわたしの方が不利になってしまった訳だが、あの時、もしも、わたしが、「こちらのバックを知りながら、どうして車を発進させようとしたのか!?ぶつけたのは、あんたの方だろう!」と、言い放てば、わたしの方が被害者になったケースだったのである。
子供に免じて、仏心を出してしまったわたしも馬鹿だったが、それをいいことに、被害者を装い続けようとした女性の方も、呆れたずるさである。これには、保険の担当者も、腹立たしく思っていたようである。
やはり、明らかに自分に過失があると自覚している場合は別として、どちらが悪いか判らないような時は、先走って謝ることだけは避けた方がよいということを勉強した。
女性とは言え、こういう場合は実にしたたかで悪知恵が働くものである。男性諸君、交通事故の場合、相手が女性だからと言って決して甘く見ない方がいい。彼女たちは、涙の裏で、舌を出しているかもしれないのだから。

アフガニスタンの治安悪化・・・・・259
2009年11月26日
~ 今 日 の 雑 感 ~
アフガニスタンの治安悪化

テレビニュースを観ていたら、イギリス軍の兵士が五人、アフガニスタンで死亡したという。
戦闘に巻き込まれた訳ではない。
彼らは、アフガニスタンで警察官養成の任務にあたっていた兵士たちなのである。その彼らが、何故、死んだのか?
それは、彼らが訓練したアフガニスタン人警察官に、銃撃されたためである。つまり、彼らが懸命に警察官として訓練を施した人物たちの中に、タリバンに寝返っていた者たちが何人も含まれていたという訳である。
つまり、そのイギリス兵たちは、俗に言う「後ろ弾丸(だま)」を食らわされたのであった。それにしても、こういう事件が最近、アフガニスタンでは急に増えているのだという。
その理由として考えられることは、第一に、警察官を採用する際の基準がかなり甘くなっているということ。第二に、危険な治安維持にあたっても、給料がまともに支払われないということにあるという。
どうして、給料が警察官たちにちゃんと支払われないのかというと、イギリスやアメリカからの援助金は、間違いなくアフガン政府に届いており、当初は、そこから警察官たちの給料も出るはずであった。
しかし、この国は、未だに各部族長たちが実権を握っており、警察官たちの給料に充てられる金は、すべていったんその部族長の元に支払われ、そこからその部族出身の警察官たちに配られるという仕組みをとっているため、結局、各部族長たちがその金をほとんど自分のものにしてしまい、末端の警察官たちには行き渡らないという弊害が起きているのだという。
そして、給料をもらえない警察官は、どうするのかといえば、結局、タリバンの支援に頼らざるを得なくなり、タリバンに自分の持つ支給品の武器をくれてやる代わりに、金銭を貰うという悪循環の構図が出来上がってしまっているのだという。
つまり、われわれ日本人の税金も、このアフガニスタン支援に拠出されているのであるが、それが、ほとんど無駄になるばかりか、回り回って、タリバンを支援しているという形になっているのである。
これでは、カルザイ大統領が、どんなに懸命に各国へ支援を要請しても、まったく意味をなさない訳で、底なしの漏斗(じょうご)に、水を注ぐようなものなのである。
このような現状を踏まえ、鳩山政権には、アフガニスタンの人々の末端に支援金が行き渡るようにするための抜本的支援策の改善を求めたいものだと思うものである。

タグ :相互リンクの罠
コメントの返事は、早めに書こう!・・・・・257
2009年11月25日
~ 今 日 の 雑 感 ~
コメントの返事は、早めに書こう!
わたしは、コメントを頂くと、出来るだけその日のうちに返事を書くことにしている。どんなに忙しくても、遅くとも翌日には必ず書くように決めている。コメントは、いつまで経っても返事がもらえないほど、気持ちの悪いものはない。
わたしは、これまでも何度か返事がもらえないまま、何か月もほったらかしにされたことがあるが(結局返事はもらえずじまいだった)、そのブロガーが、わたしのブログを閲覧するため「足あと」を残していくことがある。いったい何を考えているのだろうか?
「人のブログを読む暇があったら、返事をかけ!!」
と、言いたい。自分が、そういう目にあえばどんな気持ちになるか、想像が出来ないほど、発想力が貧困なのか。返事を書くのが嫌なら、コメント欄など閉鎖しておけ!!


ところで、皆さん、ボジョレー・ヌヴォーは、もう飲まれましたか~?

この早く発酵させるために、特殊な方法を用いるヌヴォー(新酒)の赤ワインは、そもそも当地の農民が収穫を祝ったのが始まりとされるもので、本格的な輸出が始まったのは、1968年だそうです。
当初の解禁日は11月15日だったそうですが、1984年から11月の第3木曜日に改められ、解禁日が設けられた理由はヌヴォーがよく売れるということで各メーカーがどこよりもいち早くヌヴォーを出荷しようと競い合っていたものがだんだんエスカレートしていき、ついにはワインとして十分出来上がっていないにもかかわらずワインとして出回るようになってしまったからなのだそうです。
日本への航空便での輸入は1976年に開始され、1980年代後半のバブル期に大きなブームになり解禁日未明に成田空港に行って飲む人まで現れるなどの状況でしたが、バブルの崩壊でこのブームも終わりました。
しかし1997年頃からの赤ワインブームに乗って再び脚光を浴び、近年はニュースでも解禁の様子が伝えられるほどで、バブル時代を上回る市場規模となったのです。そして、2004年ものは過去最大の販売数量を記録したといわれています。
そして今年、2009年のワインは50年に1度の出来とも報道されました。ただし、ヌヴォーに関しては、よく、「〇〇年に一度」という評価がなされることが多いのも事実なのです。
しかし、このような評価は第三者の一定の評価基準による評価ではなく、一般の商品を販売する際に欠点をあまり言わないのと同じように、毎年いいイメージを与える意味の評価として添えられる常套句のようなもので、大して意味のあるものではないと、専門家は語っています。
つまり、世界でも類を見ない、新し物好きな日本人をターゲットにして、フランスのブドウ農家が仕組んだ戦略の一つが、この「ボジョレー・ヌヴォーの解禁」という訳なのです。
日本人は、確かに、この日からでないと出来ないとか、食べられないとか、「期間限定」という宣伝文句に弱いところがありますよね。クリスマス・ケーキも、バレンタイン・チョコレートも、これと同じ現象の食べ物です。
考えてみれば、別に、その日に食べたり飲んだりしなくてもいいものですが、日本人は、季節を重んじる国民性を持っているせいで、「旬」という言葉に、とても敏感なのです。
この繊細な感性を、フランスのワイン産業は、まんまと利用してしまったという訳なのですね。
それを、また、テレビや新聞などのマスメディアがうまく報道するものですから、皆、これに乗り遅れてしまう訳にはいかないと、一斉に、ボジョレー・ヌヴォーに走る訳なのです。
わたし個人は、まったくお酒を飲みませんから、この時期が来ると、いつも不思議な感覚にとらわれていました。フランスの農家の人たちが、収穫祭に合わせて飲んでいた大しておいしくもない若いワインを、どうしてそこまで競うように買い求めなくてはならないのか?未だに、わたしにはよく判りません。
でも、それで、季節感を実感し、晩秋の風物詩の一環として楽しむのは、悪くはないとも思います。ですから、このワインに関しては、あまりうんちくを語ることはせずに、ジュース代わりとして飲むということでいいのではないかと思うのです。
え?-----もう、うんちく語ってしまった?それは、失礼しました。(爆)
そうですね・・・・。ちょうど、お正月のお屠蘇(とそ)や、クリスマスのシャンパンの感覚で。その方が、優雅というものではないでしょうか?

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タグ :ボジョレー・ヌヴォー
言葉の使い方・・・・・254
2009年11月22日
~ 今 日 の 雑 感 ~
言葉の使い方
あなたは、お味噌汁を口に入れる時、どういう言い方をしますか?
「お味噌汁を、飲む」ですか?それとも、「お味噌汁を、吸う」ですか?
最近は、テレビコマーシャルを観ていても、登場するタレントは、ほとんど、「飲む」を使っていますね。でも、これって、おかしいと思いませんか?だって、お味噌汁も、おみおつけも、お吸い物の仲間ですよね。
ということは、「吸い物」なのですから、本来は、「吸う」が、正しい言い方ではないかと思うのです。「飲む」というのは、酒とか、ジュースとか、水とか、そういうものに使う言葉で、お味噌汁のような中に具が入っている物に関しては、上品に「吸う」を使うべきなのではないかと、考えます。
こういう、ちょっと気になる言葉というものは、最近、巷に溢れているような気がするのです。
お店で商品を買った時、店員さんが良く使う言葉に、「1000円になります」と、いうのがありますよね。この「なります」が気になって仕方がないという人もいます。どうして、わざわざ「なります」を使わなくてはいけないのか?「1000円です」では、どうしてダメなのか?-----確かに、不思議な言い方です。
これに付随して、「5000円から頂きます」というのもありますね。これが、「5000円からお買い上げいただいた3500円を頂きます」というのでしたら、まだ判るのですが、その間の言葉が消えてしまうと、実に奇妙な言い方になってしまうのです。タレントのタモリさんは、ある飲食店で会計をする時、やはり、「~円から頂きます」と、レジ係の店員さんが言った時、つい、
「タモリから頂きます-----じゃないのか?」
と、まぜっかえしてしまったそうです。店員は、一瞬何を言われているのか、まったく判らなかった風だったそうですが、いつもマニュアル言葉で応対していると、自分の言っていることがおかしいということに気がつかなくなってしまうんでしょうね。
それから、何か返事をする際に、「うん」という言い方をする人も、あまりいい印象を持たれません。本人は、相手と親しい気持ちを演出しようと、こういう返事をするのでしょうが、正直、失礼な言い方です。
よほど親しい間柄ならばそれもいいでしょうが、初対面の人や、目上の人に向かって、「うん」は、頂けません。やはり、「はい」と、応えて欲しいものです。それから、友達でもないのに、変に馴れ馴れしい言い方をする人も、考えものです。
ブログのコメントでも、「わたしに、こんな身内いたかな?」と、思うような話し方で書き込んで来る人もいます。顔が見えないと、身近に感じてしまったり、わざと親近感を演出して自分を印象付けようという作戦なのかもしれませんが、わたしには、あまり気持ちのいいものではありません。
「顔を洗って出直してこい!」と、言いたくなります。
また、最近とみに気になるのが、やたらに「さま」を付けたがる人がいることです。「患者さま」「花嫁さま」-----これって、どうなんでしょうね?
わたし個人的には、「患者さん」でいいと思いますし、「花嫁さん」でも充分敬った言い方だと思うのですが・・・・。だいいち、「花嫁さま」などと言われるほどご立派な花嫁がいるのでしょうか?一日経てば、魔法は解けるもので、「さま」を付けてもらえるような花嫁には、とんとお目にかかった試しがありません。
何か、おかしな敬語や敬称が多すぎるような気がします。
さらに言えば、犬や猫を、「ワンコ」「ニャンコ」など、いい年をした大人が使う言葉ではありません。しかも、自分に家の飼い犬や飼い猫を、そんな風に言うというのは、他人にも、そう言えと暗に強要しているとしか思えない訳です。
まったく、他人の家の駄犬や駄猫を、なんでそんな風に呼ばねばならないのか、まったく理解できません。わたしは、大の動物好きですが、それでも、犬は「犬」ですし、猫は「猫」です。「畜生」と、呼ばれないだけでもましだと思わなければいけません。
言葉は、うまく使えば、自分の印象を何倍にも素敵に見せることが出来る大いなる武器でもありますが、間違った使い方をすれば、最悪の結果を招きかねない怖いものです。
正しく、美しい、そして、ユニークでチャーミングな言葉の使い方を、考えようではありませんか。

タグ :新型インフルエンザワクチン
むかつくんだよ!・・・・・251
2009年11月20日
~ 今 日 の 雑 感 ~
むかつくんだよ!

裁判員裁判で、強姦致傷罪に問われている被告の裁判で、裁判員の一人が、検察側の説明が通り一遍だということに憤慨し、「むかつくんですよね!」と、声を荒らげたというニュースがあった。判事が、これを、「そのへんで-----」と、制止したそうだが、裁判員裁判は、一般の国民の声を裁判に反映したいという主旨のもとに始まったものである。
しかも、この呼び出しを理由なく拒否すれば罰則までも盛り込まれている訳である。ならば、一般人の声をダイレクトに届けることは当たり前のことであり、それだけの権利は一般市民にあるはずである。それこそ司法改革が求めていた真の目的ではないのだろうか?
わたしは、この裁判員が、「むかつくんですよね!」と、言った言葉は、ごく正しいことだと思うし、それがその裁判員の素直な気持ちであるなら、その言葉を封じることは司法改革に反することであると認識している。もしも、裁判員の中の誰かが、「お前みたいな人間は、地獄へ落ちろ!」と、言ったとしても、それもまた、市民の正直な声ではないかと思うのである。
一般市民は裁判官や弁護士や検事ではない。こういうところでどんな言葉がよくてどんな言葉が悪いのかなどということは判るはずもないし、また、判る必要もないと思う。もっと言えば、検察側と裁判員が口論になっても、それはそれでいたしかたがないことだと考えるのである。
これは、そんな裁判員裁判を体験した人たちの感想だということだが、検察側が書類を棒読みしていたのとは反対に、弁護士は、「皆さん、わたしを見てください!」と、裁判員に自分への注目を促し、身振り手振りで必死に被告の弁護を展開したことの方が、ずっと印象に深かったという話である。
裁判員になった人たちには、思い残すいことのないように自分の言葉で質問をして欲しいし、時には、自分自身の感情を爆発させることもありではないかと考える。もしも、それを制止したいのなら、その言葉を封じ込めるだけの論拠を、検察側、弁護側が説明すればよいことではないだろうか。
ところで、話を変えて、先日のブログで、「謙虚」と「謙遜」の違いというものが話題となった。
皆さんは、この二つの言葉を聞いた時、どのような感じがするだろうか?一見似通っている「謙虚」と「謙遜」だが、実は、この言葉の裏には、大きな違いがあるように思えるのだ。
「謙遜は、日本人の美徳である」などとも言われるが、この「謙遜」もあまり度が過ぎれば、嫌味やうざったさにもつながることがあるものだ。中には、卑屈だと思う人もいるだろう。
しかし、この「謙遜」という言葉、実はかなりの曲者で、この言葉の裏には、鼻もちならないほどの自己顕示欲が隠されている場合もあるのだ。「ナガブロ」の中でも、いつもこの「謙遜」を、振れ回り、自分は引っ込み思案な人間だということを、これ見よがしにアピールしている人がいるが、そういう人が、どうして、世界中に発信されているブログなどやろうとするのかと、甚だ疑問であるし、片腹痛いものがある。
しかも、そういうブロガーに限って、「わたしは、腹を立てることはあまりない。どうでもいいけど----なんて思ってしまうタイプだから」などと、如何にもしおらしいことを書いているが、とんでもない、烈火のごとく怒れば、何をしでかすか判らないような性格のくせに、よく言うわ!と、言うのが、わたしの感想である。まさに、「似非謙虚人間」の最たるものと言わざるを得ない。
しかし、「真の謙虚さ」を持っている人は、自分という人間がどういう力量を備えているのかということを、実にしっかりと弁えているものなのである。そして、その力量以上のことを要求された時は、おくゆかしく「謙遜」出来るのだ。自分には、何が出来て、何が出来ないか-----を、確実に把握しているということは、ある意味、勇気のいることでもあるが、それこそが、本当の大人の感性というものではないのだろうか。
最近は、出来ないことでも出来ると、嘘をつき、すぐにその嘘がばれても、ヘラヘラと笑っている「常識力破綻人間」なるものも大勢いるが、そういう人間が生まれた背景には、「似非謙虚人間」である多くの大人たちの事なかれ主義が関係しているのではないかと考える。
そういう人間を、黙って見過ごして来たから、彼らはつけあがっている訳で、時には、「ダメなのものは、ダメだ!」「出来もしないくせに、大きな顔をするんじゃない!この嘘つき!」と、はっきり思い知らせてやることも、大切なのではないだろうか?
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タグ :ブログ村
オバマ大統領のお辞儀・・・・・250
2009年11月19日
~ 今 日 の 雑 感 ~
オバマ大統領のお辞儀
【ワシントン=本間圭一】オバマ米大統領が14日に皇居・御所を訪問した際に天皇、皇后両陛下に対し行った「深々としたお辞儀」が米国内で波紋を呼んでいる。
保守系メディアは米大統領の外交儀典上、不適切だと批判し、大統領の際立った低姿勢ぶりに疑問を投げかけている。
FOXテレビは15日、オバマ大統領のお辞儀の場面と、2年前に当時のチェイニー副大統領が天皇陛下との面会で頭を下げずに握手する映像を比較。その上で、オバマ氏の今回の行動は「大統領として適切ではない」などと批判した。また、ロサンゼルス・タイムズ紙のウェブサイトは、今回の皇居訪問の際の写真と、オバマ大統領が4月にロンドンでの国際会議で会ったサウジアラビアのアブドラ国王に深く頭を下げたように見える写真を掲載して、「新しい米国大統領は、世界の王室にどこまで低姿勢で行くのか」と皮肉った。 最終更新:11月16日11時12分
<YAHOO ! ニュース>
「オバマ大統領が、天皇陛下にお辞儀したって何が悪いんだ!!お辞儀は日本の礼儀だぞ。それじゃァ、お前たちの挨拶の握手をこっちが断わったらどう思うんだよ。自分らのことばかり考えて物を言うんじゃァねェや。だから、アメリカ人はケツの穴が小せェって言われるんだ」
理髪店で新聞を読みながら、お客の中年男性が叫んでいた。

何の話かと思えば、上記のようなことらしい。つまり、日本を訪問したオバマ大統領が、天皇陛下に深々と最敬礼をしたことが気に入らないと、アメリカの保守派の連中が文句を垂れているということであった。
オバマ大統領は、中東を訪問した際も王族に対して、丁寧なお辞儀をしたというのであるが、それを、卑屈な行為だとなじっているというのである。
つまり、アメリカや、ヨーロッパの白人たちの中には、口には出さないものの、やはり未だに東洋人や中東人を下目に見る気持ちがある訳で、自分たちのリーダーが、そういうレベルの低い人間たちに頭を下げるなどとうことは、プライドが許さないということなのであろう。
そのために、黒人であるオバマ大統領をも侮蔑の対象にして、「だから、あんな奴はダメなんだ」と、皮肉っているのである。何という、愚か者の論理であろうか。「郷に入っては郷に従え」という諺が、全く理解できていないのだ。
オバマ大統領が、天皇陛下に最敬礼で礼を尽くしたことが、日本とアメリカの友好の絆となるなら、そんなお辞儀のひとつ、安いものではないか。そういう外交の儀礼というものをまるで理解しようとしない、バカ者たちの言い草である。
彼らは、未だに自分たちが世界を動かしているのだと勘違いをしているらしい。世界は、アメリカやヨーロッパに従えばいいのだと、大時代的な妄想を後生大事に抱えている輩なのだ。
これまでの歴代アメリカ大統領が日本を訪問した時は、国会が演説の場で、その主催は、日本記者クラブなど日本側であったという。しかし、今回のオバマ大統領は、自らの演説をアメリカの主催で行ない、会場も民間の場所を使い、聴衆を招待するという異例のスタイルをとっていた。
おそらく、こうした姿勢も、アメリカの保守派の人々には、日本に迎合している卑屈な外交姿勢だと、腹立たしく映ったのだろう。それでも、たった30分という大統領の演説ではあったが、招待された人たちは一応に、「今までの大統領にはなかった素晴らしい演説内容だった」と、感激していた。
そんなオバマ演説の中で注目されたキーワードは、「パートナーシップ」と、いうものであったという。この短い演説の時間の中で、大統領は、この言葉を13回も使ったそうである。そして、「日本は、世界の理想である」という意味の話もしたということだ。加えて、「これまでのアメリカ大統領は、大西洋から世界を見ていたが、わたしは、太平洋から世界を見る」と、自分自身の政治的スタンスを明快に打ち出したのである。
つまり、大国中国とアメリカが世界を二分するような外交政策をとることになれば、日本は埋没するのではなく、最も厄介な論客になりかねないというオバマ大統領の懸念がにじんだ言葉であったように、わたしには思えた。そのためには、日本の機嫌を損ねてはならない。-----これが今回、大統領が最も神経を使ったことだったのではないだろうか。
オバマ大統領のお辞儀には、こういう理由があったということを、アメリカの国民も理解するべきなのではないかと、思った次第である。たかがお辞儀、されどお辞儀。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。-----それが国際外交というものなのではないだろうか?

因みに、アメリカの政府報道官は、「オバマ大統領は、天皇皇后両陛下に対し、当然の礼儀を尽くしたのであるから、何も不自然なものではない」と、答えているという。 続きを読む
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夢の話・・・・・249
2009年11月19日
~ 今 日 の 雑 感 ~


わたしは、夜就寝中によく夢を見ます。
夢には、頻繁に登場する共通項があります。
① 電車・駅
② 学校などの広い建物の内部
③ デパートの衣料品売り場
④ アパートや料亭のような部屋がたくさんある場所
⑤ お寺
⑥ 電話のかかる夢
⑦ 坂道を下ったところにあるお好み焼屋
ざっと、こんなところです。おそらく、これまでに体験して来た現実の風景などが夢の中でデフォルメされたりごちゃまぜになったりして、現われるのだと思うのですが、本当に、頻繁に出て来る物もあります。
特に、電車の車内の情景と駅は、頻繁に出現します。切符を買おうとしても、どうしたらよいのか判らないとか、乗車する電車が判らないとか、降りるべき駅を乗り過ごしてしまったとか、そんな夢が多いのです。
また、学校などの広い内部の建物は、時に空港だったり、工場だったりもします。これは、おそらく、学生時代の記憶がベースになっているものだと思うのですが、ここに関連して起きる現象は、大学時代の単位の取り忘れという状況です。しかも、何故か、わたしは、その大学を一度ちゃんと卒業しているのです。それなのに、どういう訳か二度目の入学をしていて、数学の単位がどうしても足りないと、ものすごく焦りまくるという夢なのです。
しかし、おかしなことに、わたしの実際の大学時代、数学は必修科目に入ってはいなかったのです。ただ、教職を取ろうと思い立ったのが、既に三年になった時だったので、周囲の友人も教授も、今から下の学年の者たちと同じ講義を受けたり、一日びっしりの授業が入るのは、正直きついぞと、忠告はしてくれました。
まあ、どうせ、同じキャンパス内の学生寮にいるのですから、一日中大学内にいても変わりはない訳ですが、少々奇異な人間に思われていたきらいはあったと思います。
そんな時の内心の焦りが、未だに夢になって出て来るのでしょうか?
デパートの衣料品売り場の夢に関しては、これも何となく理解が出来ます。十年程前までは、しょっちゅうデパートやブティックなどに出入りしていたものですから、夢の中でまで、お気に入りの洋服を見付けようと悪戦苦闘するのです。しかも、そこに、大学時代のダンスパーティーの記憶が重なってしまうと、もうハチャメチャです。
ダンパの時間は迫る。しかし、着て行くドレスが決まらない。その日のためにと準備しておいたアクセサリーが見つからない。パニック状態に陥る訳です。
本当に、アホらしい夢なのですが、夢の中のわたしは、もう、ブチ切れ寸前です。
そして、何故か、お寺。広い本堂から境内を眺めると、鐘楼に釣鐘があり、春風が心地よく吹いて、その釣鐘が静かに揺れてえもいわれぬよい音を響かせるのですが、その釣鐘は、なんと、巨大な百合の花なのです。
そして、坂道を下ったところのお好み焼屋。これは、おそらく、子供の頃によく通った近所の駄菓子屋さんの風景が関係しているのだと思うのですが、この光景が出て来ると、ほっと安心できるのです。
夢は、本当に不思議ですよね。わたしは、夢の中では、よく男性として登場することもあります。
そして、常に何かに追いまくられて、焦りっぱなしのような気がします。いつも、焦燥感が付きまとい、これは、現実と大差ありません。
あなたは、夢を見ますか?見るのは、どんな夢ですか?一度ゆっくりと考えてみると、面白い物が見えて来るかもしれませんよ。

因みに、夢というのは、つじつまの合わないことが大半ですが、これは、脳が一つの記憶をいくつもの断片に分けて保存しているからだそうです。つまり、「リンゴ」という記憶があれば、それは、「赤い」「丸い」「甘い」「すっぱい」「かたい」などという色々なパーツに別れた記憶が、過去の出来事などとも結びついて夢に現われるために、過去に、「赤いポスト」を見たという記憶があれば、夢の中では、その赤いポストをかじる----などということが起きてしまうのだそうです。
夢って、本当に、面白いものですね。

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気の合う人、合わない人・・・・・248
2009年11月18日
~ 今 日 の 雑 感 ~


人間長くやっていると(それほど長くもないか・・・・)、気の合う人と合わない人というのが、次第に固定してくるような気がする。
もっと言えば、毛色が似通っている人と、まったくソリが合わない人とでもいうことになるのだろうか?しかし、これは、趣味が同じとか、そういう事とは関係がないし、男性だから女性だからという意味の関係もまったくない。
いくら趣味が似ていても、全然相容れない人間もいる。おそらく、わたしが自分の中で、この人は気が合うなァ----と、思う人に共通していることは、本当の意味で自分のことを謙虚に見詰めることの出来る人ではないかと思うのである。
あえて、「本当の意味で」と、書いたのは、近頃は、上辺だけ自分をへりくだって見せるくせに、本心では、相手のことをいつも見下している「似非(えせ)謙虚人間」が、あまりに多いからである。
そういう「似非謙虚人間」は、相手のことを徹底して褒めそやしながら、その褒められた相手が少しでも気を許して馴れ馴れしいことなど言うと、掌を返したように攻撃的に出るものだから、すぐに判るのである。要するに、「似非謙虚人間」は、常に相手のことを心の中では馬鹿にしている訳であり、時には、口ではうまいことを言いながら、内心物凄い嫉妬心を燃やしていたりもするものなのである。
そういう人間とは、わたしは最初からあまり親しい付き合いをしようとは思わないし、また、この「ナガブロ」をやってみて、世の中には男女を問わず、その手の人間が異常に多いことも勉強した。
そういう人々は、多かれ少なかれ、自己顕示欲が強く、嫉妬深く、派手好きで、嘘つきである。
徒党を組むことが大好きで、自分の仲間を増やすことに汲々としていて、いつもお山の大将でなくては気が済まないという、おそろしく幼児性の強い人たちなのである。
しかし、その一方で、何物に対しても実に淡々と物事を運んで行く人たちもいる。他人のことは一切関係ない。余計な面倒は持ち込んでもらいたくない。考えることは、いつも自分のことばかり。自分は、どういう人間だ。自分はこう思う。そんな自分中心のことばかりをブログに書いている「自画自賛人間」がいるが、こういう人種も、わたしは大の苦手である。
一見、優等生で正義感の塊のようにも思えるが、あにはからんや、こういう人間ほど小心者で、臆病で、姑息な連中はいないのである。もっとも、卑怯者の典型といってもいいだろう。
こういう人間を、とかく人は、「クール」だとか「格好いい」とか勘違いするものだが、わたしに言わせれば、ただの「役立たず」でしかない。
こんな人間も、わたしにとっては、まったく気が合わない人々である。
では、わたしにとって気が合う人とはどういう人間かということであるが、それは、漠然とした言い方であるが、ただ一言、「尊敬できる人」と、いう言葉に尽きる。正直で、真の謙虚さを持ち、本当の意味で相手を気遣う心の余裕を有し、何事にも一生懸命な不器用人間。
そういう人が、何となくわたしには合うのではないかと、最近思うようになって来た。
外面だけのかっこつけ人間は、もう、はっきり言って食傷である。

タグ :城田優
戻ってきた外科医・・・・・247
2009年11月18日
~ 今 日 の 雑 感 ~
戻ってきた外科医

この八月、わたしは、通院している病院の外科外来で、見覚えのある名前のプレートを見付けました。
それは、一昨年の暮れに、わたしの手術を担当して下さった外科医の先生の名前が書かれたプレートでした。
「昨年の7月に別の病院へ異動になったはずの先生が、どうしてまた、この病院に・・・・?」
驚きでしたが、わたしを担当して下さっている先生は、他にいらっしゃいますから、その時は、横目でプレートを見ただけで通り過ぎました。
家へ帰ってその話をしますと、母は、呆れ顔で、「同姓同名のお医者さんじゃないの?一度転勤した先生が、一年経って戻って来るなんて、あまり聞いたことがないけれど・・・・」と、言います。
そして、また、次の通院日、わたしが外来へ行くと、やはり、同じ先生の名前のプレートが診察室のドアにかかっているのです。しかし、その先生の姿を見た訳ではないので、何とも判断付かぬまま、また、家へ帰りました。
やがて、11月の通院日になり、またも外科の外来待合所の椅子に腰をかけていますと、いきなり、そのネームプレートがかかるドアが開いて、一人の男性外科医が廊下へ出て来ました。そして、何処かへ行くと、そのままグルリと建物内を回り、別の方向から戻って来たのです。
そうです。間違いなく、わたしの手術をして下さった、あの先生です!
やがて、わたしが診察して頂く番になり、担当の医師のいる診察室へ入りました。すると、その医師が言われることには、次の診察からは、わたしの担当は、その外科医の先生に替わるというのです。
驚きました。
そんなことがあるのかと、びっくりしました。でも、わたしの病状を最初からご存じの先生にこれからも診察して頂けるということは、本当に、ありがたいことだと思います。
「ぼく、何処へも行きませんよ」
そうおっしゃった言葉を、覚えていて下ったのかどうかは判りませんが、不思議な外科医の先生は、またもや、不思議なタイミングで、わたしの前に現われて下さいました。


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タグ :女子フィギュアの化粧