「医介補」を知っていますか?・・・・・222

~ 今 日 の 雑 感 ~


「医介補(いかいほ)」を知っていますか?



    皆さんは、「医介補(いかいほ)」という職業を知っていますか?

    わたしは、このような仕事に従事されている人たちが日本にいるということを、今回初めて新聞記事で知りました。

    「医介補」を知っていますか?・・・・・222終戦後の沖縄は、飢えや病気に苦しむ人たちであふれていたのですが、戦争を生き延びた医師は、同県内にわずか六十数人しかいなかったのだそうです。そこで、1951年、アメリカ軍は、この驚異的な医師不足を何とか補うために、旧日本軍の元衛生兵などの医療経験者に講習試験を受けさせ、へき地に限って開業できる一代限りの代用医師である「医介補」として、126人を登用したのでした。

    こうして、「医介補」となった人たちは、無医地区に診療所を開き、早朝から夜遅くまで診察に往診にと、地域の生命線を担いつつ、多い日は、200人もの患者と向き合いながら、へき地医療に従事して来たのだそうです。

    戦前の沖縄では、助産師や薬草などを使う伝統治療に携わる人たちが地域で簡単な治療を行ってきたという、慣習が根付いていたそうで、身近な人に身体を治療してもらうという安心感が、「医介補」にもあったのだといいます。

    やがて、沖縄が1972年に本土復帰を果たすと、経済同様に医療も急速に近代化し、1979年には、国立琉球大学に医学部が設置されると、へき地の医師不足も解消されるものと、思われていました。ところが、現実は、そううまくは行かなかったようです。

    若い医師たちは、へき地を敬遠し、皆、都市部での勤務や開業を希望。琉球大学医学部卒業の医師約1400人のうち、離島などのへき地の診療所で働いた経験のある医師は、たった8人という調査結果も出ているということでした。

    そのため、「医介補」たちは、その後も引き続き地域医療を支え続けて来たのでした。

    しかし、彼らも既に高齢となり、病気や身体の衰えなどで次々に引退を余儀なくされて行きます。そして、最後の一人となった宮里善昌さん(88歳)も、昨年の秋、六十年近く続けた診療所を閉じました。ここに、「医介補」制度は、静かに幕を下ろしたと、記事は記しています。

    この宮里さんの信念は、「医の原点は、感謝の気持ちで迎えて愛情を持って診る」ということだそうです。

    若いお医者様たちにも、この「医介補」の信念を心に刻んで、日々患者と向き合って頂きたいと思うこの頃です。

<今日のおまけ>

    「Dr.HOUSE 」が、一時終了。かなり、凹んでいる。また、来年の春まで待たなくてはいけないのかな?

    我が家には、まだDVDのデッキがないので、ビデオテープでのレンタルとかはないのだろうか?でも、やはり、吹き替え版がいいので、次回のテレビ放送まで待つとしよう。

    医療ドラマは、実際あまり好きではない。面白いと思うのは、この「Dr.HOUSE 」と、「チーム・バチスタ・シリーズ」だけだ。「救命病棟24時」も、「コード・ブルー」も、「ER 」も、今度始まった「ギネ」も、あまり面白いとは思わない。

    わたしは、へそ曲がりだから、あまり格好のいい主人公が出て来るのは好きではないのだ。icon23

タグ :医介補

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