子供の虐待は、なぜ起きるのか?・・・・・356

~ 今 日 の 雑 感 ~


子供の虐待は、
なぜ起きるのか?



    近年、新聞紙上では、小さな子供に対する親の虐待事件がたびたび報じられている。

    子供の虐待は、なぜ起きるのか?・・・・・356ご飯を食べるのが遅いと、親に殴られ続けて亡くなった子供の場合は、子供の身体の腫れやアザに気が付いた近所の歯科医師が、自治体に報告し、その後学校側に報告されて、昨年には、既に虐待が発覚していたという。

    にもかかわらず、この子供は、その後も親元から引き離されることがなく、虐待は続き、死亡するに至った。

    しかしながら、わたしは、ここで、そういう個々の事例を取り上げて解説するつもりはない。

    親に殴られながらも、何とか生き延びて大人になった者は、多いのである。また、そういう大人が再び我が子を虐待するという虐待の連鎖が多いことも、事実である。

    殴って判らせようとする親に育てられた子供は、理屈で相手を攻撃しようとはしない。結局、また、手っ取り早く暴力をふるうのである。そうして育った子供は、暴力や放任ということに対して、やられて当たり前、殴らなければ我慢が出来ない----と、いう精神構造が出来上がってしまっているのである。

    これは、心理療法士のカウンセリングを受けるべきだなどという生易しいことで解決できる問題ではないのである。

    子供に手をあげなくては気持ちが治まらないという親は、ただ、目の前にいるのが弱く抵抗の出来ない子供だから、仕返しされることがないという安心感から暴力をふるったり、逆に食事を与えなかったりと虐待を繰り返すので、彼らの本当の気持ちは、子供ではなく、自分を虐待し続けてきた親を殴りたいのであり、自分の存在を認めてくれない社会の大人たちを殴りたいのである。

    そこに、子供の虐待に走る、親の本音が隠れているのである。

    なぜならば、世間一般の大人たちを眺めれば一目瞭然だが、何処の世界にもイジメは存在する。三人寄れば、必ずと言っていいほど、一人が仲間外れにされる。

    グループの中でも、誰か一人をターゲットに決めて、その人間を仲間外れにして楽しむことで、自分たちの存在理由を確かめようとすることなどの延長線上に、この我が子虐待もあるのだ。

    これは、何も、珍しいことなどではないし、誰かを虐待したいという気持ちは、ほとんどの大人の中に、大なり小なり必ず存在する感情なのである。それが、我が子に向くか、たまたま、家族の外の他人に向くかの違いだけで、ほとんどやっていることは大差がない。

    であるから、虐待する親をカウンセリングなどしても、まったく、無意味なのである。それよりも、虐待があると判ったら、親の感情など関係なく、公的立場の人間が、強制的に子供を親から引き離すべきなのである。

    わたしの個人的な考えとしては、そういう親には、彼らが子供にしたと同じ仕打ちをしてやる方が、身に沁みて自分のしたことの卑劣さを自覚できると思うのだが、そういう法律がない以上、親は確実にしかるべき刑に服させることが妥当だと考える。

    そして、そういう刑事裁判にこそ、裁判員裁判が必要なのではないかと思うのである。

    一般庶民の感覚で加害者である親を裁くことが、虐待を防止するための有効な手段の一つともなり得るのではなかろうか。

    ただ、そうして保護施設へ収容された子供たちが、また、施設内での職員から虐待を受けるケースも少なくないらしい。このような二重虐待が決して起きないように、政府は、殊に手厚い養育体制を充実させる必要があるものと考える。


 
    ***   幼児や児童虐待は、歯科医師が発見するケースが増えてきているという。歯科医師は、幼稚園や小、中学校などでの歯科検診を行なう際に、特に虫歯の多い子供を発見することがあるが、そういう子供は、家庭内で虐待を受けている可能性が高いという報告もある。

<今日のおまけ>

    ツルツルの凍結路を歩いていて、いつも思う。

    小学生は、どうしてこのような道を勢いよく走っても滑って転ばないのだろうか?

    わたしの小学生の頃は、雪がいつも腰ほどもあって、通学用に除雪された細い道を、一列になって黙々と歩いて学校まで行ったものだ。しかし、今は、ちょっと雪が降ると、即座に除雪車が出て、雪をどけてしまうので、路面はまるでスケートリンクである。

    それでも、小学生たちは、その路面をものともせずに駆け抜けて行く。恐るべき子供たちである。

    そういえば、わたしが小学生の頃の冬は、そんな雪道を「焼き芋売り」のおじさんが、リヤカーを引いてよく歩いていた。雪の段差で動けなくなったリヤカーを、友達と後ろから押したことも何度もあった。

    そうすると、おじさんは、決まって小さな焼き芋を一つずつ子供たちにくれるのだ。 あんなにおいしい焼き芋は、その後食べた記憶がない。あんな冬の情景は、もう、何処にも見られなくなってしまった。

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