ちょっと、一服・・・・・⑯

~ 今 日 の 雑 感 ~


    こんにちは。次の小説を考える間の場つなぎのために、~今日の雑感~で、しのぎます。要するに、ネタが捻り出されないので、姑息にも「ズクなし」を、する訳です。よろしかったら、お付き合いください。(^_^;)
    
    
    最近ブログを読ませていただいていますと、何ゆえにか、「今の、自分を変えたい!」 と、言っておられる方が目に付きます。その方たちの気持ちを、わたしなりに推し量りますと、
    「自分は、不器用で、他人との会話もうまく出来ず、頑張れば頑張るほど空回りしてしまう。挙句の果てに、相手からウザいとまで敬遠され、こちらが良かれと思ってしたことが、ことごとく裏目に出て、もう他人と話をする時、何と言葉を発してよいものやら、判らなくなってしまった。いつでも、相手の顔色ばかりをうかがうようになり、和気藹々(わきあいあい)と、話が弾んだあとも、あんなことを言ってしまってよかったのだろうか?一緒に楽しく時間を過ごしたと思っているのは、自分だけの思い込みだったのではないだろうか?明日、会社へ行ったら、自分一人が抜け者扱いになっているんじゃないのか?------そんなことを考えると、夜も眠れなくなってしまうんです」ちょっと、一服・・・・・⑯
    ------と、まあ、色々と総じて、このような塩梅になろうかと、解釈してみました。そして、常にそういう自己抑制的思考を、頭の片隅に置きながら生活している人の中には、何とかして、こういうマイナス思考の自分から脱却したいものだと考え、自己意識の啓発を目的とするセミナーに参加したり、積極性を身につけるための勉強会に出席したりと、様々な手段で、そのための糸口を探し出そうとするようです。
    しかしながら、わたしなどから見ますと、そのように、自分を客観的に見詰めることが出来るということは、これはこれで、大変な才能であり、それだけ、前向きに自分の将来をとらえられる素晴らしい人だと、思えるのです。
    普通、人は大体が、自分は他人からどういう視線を受けているかなどということを、いちいち気にしながら生活など出来ないものです。他人から、指摘されたところで、性格を変えようとか、言葉遣いに気を付けようとか、そんなことに時間を取られるほど、余裕のある人はごく少数なのではないでしょうか?特別、そうしなければ、仕事をする上で支障があるとか、病的なほどの被害妄想を抱いてしまうことでもない限り、ほとんどにおいて、
    「うるさいな。おれにはおれのやり方があるんだから、いちいち文句を付けるなよ!icon23
    で、終わってしまうのが関の山でしょう。ところが、こういう人に限って、
    「きみは、そのままでいいんだよ。自分の個性をもっと大事にするべきだ」
    などという、半ば無責任な励ましを贈ってしまうものなのですね。でも、言われた本人が、変わりたいと言っているのですから、それを止め立てする必要はないのではないかと、わたしは思います。
    そうです。そういう方たちは、変わりたいのです。では、どう変わりたいのか?問題はそこにあるのです。おそらく、そういう人たちが理想とする自己の変化は、もっと自由にのびのびと他人とのコミュニケーションが楽しめる自分。同僚から頼りにされ、仕事もバリバリとこなせるエリート。他人への思いやりを持ち、自分も心地よくなるとともに、他人をも心地よく出来るような人情に厚い、機知に富んだ会話が出来る人間。加えて、外見も、それなりに見栄えが良くなれば、申し分ありませんよね。face02
    でも、そんな風に自分が変われる確率は、ほとんど皆無に近いのではないでしょうか?どんなに、高名なお師匠さんの講義を受けたとしても、人はそうそう一朝一夕に変身出来るものではないでしょう。でも、変わりたい。-----ならば、逆方向に変わってみるという手もありなのではないでしょうか。今のような自意識をかなぐり捨て、その他大勢の中に埋没し、息を潜めて一山百円の自分に徹してみる。悲劇のヒーローのように自分を飾るのをやめて、ドジも、ポカも、笑って受け流すような、格好の悪い自分になる。
    確かに、最初のうちは抵抗もあり、恥ずかしくもあるでしょうが、次第に慣れてみると、これが意外に居心地が良かったりするものなんですよ。人間、壁にぶち当たったら、一回は、今までの自分をきっちりリセットしてみることも肝心だとも言うじゃァありませんか。
    しかし、ここで、誤解してはいけないのは、自分を客観的に見ることはやめても、他人を客観的視線で見ることをやめてはいけないということなのだそうで、常に、相手の観察は欠かさずに、気持ちは高みに置いておくということなのだそうです。これが、出来れば、ほぼ人生の達観が出来たも同然なのだとか。そういう人は、どんなテクニックを用いずとも、他者の方からそばへ寄って来るのだそうです。すごいことですよね。
    でも、言うは易しですけれど・・・・・。
    如何です?こんなやり方、試してみたい方は、おられますか?わたしには、正直、そこまで自分を解放するなんてことは出来そうにありませんが・・・・。だって、時折何かに悩んでいるような陰のある人、嫌いじゃァありませんから。(^u^)ウフ・・・。




   
   

 

 


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この記事へのコメント
こんばんは。
インターネットを皆が利用するようになり、多くの普通の人々がブログを持つようになって、それぞれ自分自身の悩みを公開するようになりましたよね(匿名とは言え)。
ネットが発達する以前は、自分の内面の悩みなんて打ち明けたとしても、ごく身近な人たちが相手で、全く見ず知らずの人々相手に吐露するなんてことはなかったと思います。

それが意味することは何なのだろう?って思います。

現代人には、内面の悩みを相談出来るような身近な相手がいなくなってしまったのか?
家族や親友でも信頼出来ない社会になってしまったのか?
そもそも親友が存在しないのか?
それとも、家族や親友だけでは物足りないのか?
見ず知らずの人が相手だから安心して打ち明けられるのか?

ネットが発達した影響で人同士の関係が変わったのか。
それとも、人同士の関係が変わったからネットが発達したのか。
社会学的に考えてみても結構面白そうです(^^*)
Posted by ま・こと at 2009年03月26日 21:57
ん~、わたし、世の中にも逸れていて、時代にも取り残されている人間なんで、なんとも・・・なんですが、人間って、ほっといたって変わっていくような気もするんですけどねぇ、そういう話じゃないんですね、きっと。

なりたい自分像があるってことは、素晴らしいです。あります?そんなもん、ないよね???(笑)
Posted by ririchi at 2009年03月26日 22:04
ま・ことさんへ>

 ま・ことさんのおっしゃること、すべてその通りのような気がします。友人同士でも、ある一定の距離までは許せても、それ以上は近付けない場所がある。家族や兄弟にも話せないことを、見ず知らずの人になら話せるし、それが、多ければ多いほど、自分がここにいるということを知ってもらえるという、快感もある。
 ブログは、今や、単なる個人的日記の域を超えて存在し始めているのではないかとさえ思えますね。確かに、面と向かってはとても言えないようなことでも、ブログでなら臆面なく書けてしまうような、気もしますから・・・。
 確かに、こういう問題は突き詰めると、まったく新しい学問として成り立ちそうですね。でも、そこまで、自分の内面をブログ上に出せるということは、やはり、ある意味、尊敬すべきことではあります。
Posted by ちよみちよみ at 2009年03月26日 22:44
ririchiさんへ>

 わたしも、あんな風に素敵に生きられたら・・・。なんて漠然と思うことは時にはありますが、こうならねば、などという風に思うことはありませんし、思ったところで、なれる訳でもありませんから。毎日が、無事に過ごせれば、それが最良と、いうことなのでしょうね。(確かに、人間ほっといても、いつの間にか変わりますよね。わたしも昔は、もっと素直だったような・・・。気のせいか?)(汗)
 変わろうとする人や変わりたいと願う人は、わたしの目には、すごいエネルギーのある人だと映ります。小説の中の時任にも言わせた言葉なんですが、「幸せが大きいほど、悲しみも大きい」---人間ほどほどが、一番ではないでしょうか。(^-^)
Posted by ちよみちよみ at 2009年03月26日 23:00
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