愛を語る人は愛を知らない

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    近頃の歌謡曲には、やたらと「愛」を強調する歌が多いと思うのだが、この「愛」という言葉、わたしにはどうもしっくり来ない。

    「愛は地球を救う」とか、「愛燦々」とか、「愛は祈り」などなど・・・。

    「愛情」というのであれば、何となく理解も出来るが、「愛」という言葉には、何となく眉つばの匂いがしてならないのである。

    分け隔てなく接することが「愛」だという人もいるし、他人のために幸せを祈ることを「愛」だと説く人もいるが、問題はそうされた人自身が、それを「愛」と感じられるかということである。

    ある心理学者は、自分の著書の中でこう言っている。

    「愛を殊更に強調する人は、普通の人より人を愛することが出来ない冷たい人であるらしい。あるいは、普通の人より愛情欲求が満たされない人であるらしい。

    皆で愛を合唱しながら、普通の人より愛を与えることも受けることも出来ない人である」

    つまり、殊更に「愛」を唱える人は、「愛」という言葉さえ発していれば、それで自分の価値が高まるはずだと思い込んでいる安易な人だといえるのだ。

    「愛」を強調する人ほど、お互いの存在には無関心であり、もしも本当に誰かかを助けなければならなくなった時、真っ先に逃げ出すような小心者なのである。

    そういう人は、結局、「愛」という言葉に逃げ込んでいるに過ぎないのである。

    人が本当に必要としているのは、「愛」などという上辺の言葉ではない。

    日々の生活費であり、医療であり、坂道を登るときにさりげなく荷物を運んでくれる手である。

    政治家も政治生命をかけるとは言うが、「命」をかけるとは言わない。

    (野田総理は、今回の消費税増税問題において、それらしき発言をしたそうだが、とても本心から出ている言葉とは思えない)

    「愛」を語る歌手も、「私には歌しかないので、被災地の人を元気付けるために歌うだけだ」というが、「被災地の人が好きな歌を歌う」とは決して言わず、結局、自作の訳のわからない歌を歌って自己満足しているだけのことである。

    「愛」など語る必要はない。

    人が心から欲するものは、格好の良い「愛」などではなく、不器用でも実のある「情」なのである。

愛を語る人は愛を知らない


   

<今日のおまけ>

    今日は、はっきりしない天気ですね。

    こういう日は、視界までぼやけているようです。



    ところで、

    「医師は抗がん剤を賭けで決めている」

    というようなことを言う人がいますが、そんなことはないと思いますよ。

    ちゃんと、患者の膨大なデータをもとにインフォームド・コンセントを取りながら投薬を決定しているはずです。

    患者の中には、わたしはたまたま抗がん剤の選択が良かった----というような言い方をする人がいるようですが、ただでさえ高価な治療薬を、そんな場当たり的な方法で決めたりはしていないそうです。

    また、抗がん剤は高価なので、お金を持っている人しか受けられないような言い方をする人もいるようですが、これもどうかと思います。

    お金持ちだけが助かる医療など、絶対にあってはならないはずですから。



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