石巻市立病院の四日間

石巻市立病院の四日間trip02




    昨夜の報道番組で、3月11日の東日本大震災で最も壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市にある石巻市立病院(伊勢秀雄院長)が、どのようにしてこの大災害を耐えたかという、奇跡のドキュメントを放送していた。

    石巻市立病院は、この大地震発生直後から津波の被害を受けると、4日間、外部との連絡も一切絶たれ、食料、水、医薬品も底をつく最悪の状態で孤立し続けたのであった。

    地震発生時、病院の手術室では、ある患者の胃の摘出手術が行なわれていた。石巻市立病院の四日間

    外科部長の内山哲之(うちやま・て つゆき)医師(44)は急いで手術室まで走り、何かあった際は自分が責任を負おうと代わって執刀を引き受けた。

    手術中、押し寄せる津波の影響で手術室の無影灯が消え、懐中電灯の灯りを頼りに何とか胃の切除のみを終えると、スタッフたちと一緒に患者を病院の上階へと運んだ。

    医師や看護師などスタッフは、院内に取り残されている患者150人を上階へと移動させ、どうにか巨大津波の難を逃れたものの、石巻市立病院は、雪混じりの寒風吹きすさぶ中、おびただしい瓦礫と海水に退路を阻まれ、文字通りの孤立状態になってしまった。

    しかも、震災当日の夜は、津波で破壊された漁船から漏れ出た重油に引火し、猛烈な炎が病院に迫るなど、恐怖は極限状態に達する。

    それでも、看護師たちは、看護師長の指示で患者を出来るだけ一つの部屋へ集め、急変にも対処できるよう看護体制を維持。常に笑顔を絶やさぬよう、努めて明るく患者たちに接した。

    医師たちは、電子カルテがすべて水没しているために、記憶を頼りにそれぞれの患者の診療履歴を紙に記録するなど、彼ら病院スタッフたちも自分の家族の安否が判らない不安と恐怖に押し潰されそうになりながらも、懸命に患者の命と向かい合っていた。

    しかし、院内に残された患者150人は大半が高齢者であり、酸素吸入が必要な人や寝たきり状態の人も多い。暖房システムもダウンしている凍える寒さの中、患者たちの衰弱は否応なく進む。

    食料庫が被災しているので、患者たちの食事も確保することが出来ない。

    それでも内山外科部長は、少しでも食料の足しになればと、既に水没している一階の売店へと降り、わずかな缶詰などを手に入れた。

    が、被災一日目にして早くも、紙コップにたった一口のご飯を入れ、缶詰のツナを少量載せただけのものが最後の食事となってしまった。

    高齢患者たちは、皆で身体を寄せ合い必死で寒さに耐え、スタッフも屋上にSOSの文字を書くなど時折り上空に飛来するヘリコプターに向かい懸命に助けを訴えるが、誰一人として病院の孤立に気付くものはいない。

    もはや限界だった。

    「このまま救助を待っていてもダメだ。向こうが来ないなら、こちらから行くしかない」

    内山外科部長は、切るように冷たい泥水の中へ身を投じると、行く手を阻む瓦礫の山を乗り越えながら、必死で石巻市役所までたどり着き、救助を要請した。

    その声は、怒号に近かった。

    ところが、その市役所も人手が足りず即座の対応が出来ないという。そこで、連絡を受けた宮城県は大災害の現場にいち早く投入される緊急医療チーム「日本DMAT」に救助を要請。

    しかし、ドクターヘリは、重傷者を救うという場合にのみ出動を許可されるものであるため、今回の救助がそれに該当するかが問題であった。

    石巻市立病院から南に約110キロ離れている福島県立医大でDMATの統括役を務めていた松本尚・日本医大准教授(48)は、「確かに病院の患者たちは大きなけがをしている訳ではない。だが、命の危険に遭遇していることに変わりはないはずだ。絶対にやらなくては!」と、決断する。

    地震発生から四日目の14日早朝、大阪DMAT隊員・田原健一・大阪大高度救命救急センター医師(39)を乗せたドクターヘリの出動を皮切りに、千葉、静岡、山口、福岡等から応援に駆け付けた数機のドクターヘリが、福島県立医大へ集結。

    前代未聞の入院患者大規模ピストン搬送が始まったのだった。

    DMATのヘリは、石巻市立病院から患者を乗せ、自衛隊がキャンプを設営している約4キロ北の石巻総合運動公園へ。そこから、自衛隊ヘリや救急車に乗り換えさせて、さらに遠方の安全な病院へ運ぶ。

    真っ先に搬送されたのは、あの震災の最中、胃切除手術を受けた患者だった。

    そして、ヘリに乗り込む患者たちの身体には、医師たちが手書きした診療履歴がしっかりとくくりつけられていた。

    帰路は、食料や水を乗せ、病院と運動公園を計30~40回往復し、ようやく120人余りを搬送した。そこで日が暮れたため、民間ヘリは飛べない。残る30人は自衛隊のヘリで搬送してもらうことになった。

    翌15日、最後の搬送患者を病院スタッフ全員が見送ったのち、医師や看護師たちスタッフもようやく病院を後にした。

    病院を出る看護師たちの背には、大きな袋が背負われ、その中には、まだ使える医薬品や医療器具などが入れられていた。

    それは、彼女たちにとって、待ちに待った孤立状態からの解放。しかし同時に、別の被災地の患者を救うための出発でもあった。



    ***  一応、備忘録として書いた記事です。記載内容がすべて正しいかは保証できません。

    

    

    

<今日のおまけ>

    このドキュメント・ニュースを観た時、皆、プロだなァ・・・と、感服した。

    内山外科部長も、看護師長(名取裕子似の美人さん)も、DMATの統括責任者の松本准教授も、ドクターヘリで「自分は運び屋に過ぎないと言われるかもしれないが・・・」と、謙遜する田原医師も、全員が「最後の責任は自分が負う」という覚悟の元、決断を下しているのだ。

    それが若さなのだ----と、いう人もいるが、こうした災害時には、そのある意味強引なまでの若さが必要になることが往々にしてある。

    それを羨ましいと思ってしまう人がいたとしたら、歳をとった証拠なのかも知れないな。

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