~ 炎 の 氷 壁 ~ ⑱

 やがて、先刻、近くのホテルで出た救急患者の対応に出向いていた時任が、パトロール本部へと戻って来た。患者の様子はどうだったのかと、すぐさま神崎が訊ねると、時任は、パトロール用のスキーウェアを脱ぎ、コートかけに無造作に引っ掛けてから、
 「患者は、ホテルの宿泊客で、おそらく急性の虫垂炎だな。救急車を呼ぶよりも、直に病院まで行った方が早く着くだろうから、ホテルの自動車(くるま)で運んでもらったよ。手術が必要だろうから、病院の方へは、おれから連絡を入れておいた」
 と、報告する。神崎は、少しほっとした声で、
 「そう、じゃァ何とか間に合うのね。よかった。こういう時、あなたのようなお医者がパトロール員にいるというのは、助かるわよね」
 彼女には珍しく、時任の活動ぶりを好評価する。時任は、ちょっと、照れくさそうな微苦笑を片頬に刻むと、自分用の事務机に向い、業務報告日誌を開いて今し方の急患搬送についての詳細を書き込んだ。
 その様子を横目で見ていた雄介は、何とも居心地の悪さを覚えて、たまらずに部屋から出て行こうと腰を上げる。と、すかざず、それに気付いた時任が、雄介を呼び止めた。
 「待てよ、雄介!逃げる気か?」
 そう言うと、業務報告日誌をパタンと、閉じ、おもむろに椅子から立ち上がるや、雄介の方へと歩み寄って来た。そして、その逞しい長躯を、雄介の前に立ちはだからせる。雄介は、その威圧感に少々怯え腰になりながらも、表情はあくまで冷静さを装い、あえてまっすぐに相手を見返す。
 「逃げるなんて、そんなことはしませんよ。ゲレンデパトロールに出るだけです」
 「単独行動は、許可出来ない」
 「何故です?可児パトロール員だって、単独巡回をしているじゃないですか。若い彼が出来るのに、どうして、おれはいけないんですか?」
 「可児は、若いが、スキーパトロール員としてのキャリアは豊富な男だ。お前とは違う」
 時任は、そう言うと、雄介の意思には関係なく、これから自分は渋峠(しぶとうげ)に通じる山岳コースのパトロールに行くから、お前も同行しろと、恫喝に近い強引さで従うように要求して来た。ここまで言われると、雄介もそれ以上の叛意(はんい)は示せずに、渋々ながら言いなりになるしかなかった。



 ~ 炎 の 氷 壁 ~ ⑱横手山スカイパークスキー場から渋峠スキー場にかけての、いわゆる横手山山岳林間スキーコースは、雪質も比較的穏やかな緩斜面が多く、ツアースキーを楽しむ中級者以上のスキー技術を要するスキーヤーたちには、人気のゲレンデでもある。ハイマツやオオシラビソ、シラビソなどの針葉林帯に囲まれたクマザサの生い茂る脇道を縫うように貫く雪面は、難所と称せられる所こそないものの、約五キロもの長距離を結ぶ、それなりに変化に富んだ造りとなっていた。
 雄介と時任の二人は、長距離用のパトロール装備として、食糧や水、その他緊急時に必要とされる様々な用具の入ったバックパックを背負い、この山スキーコースの巡回にあたる。好天に恵まれた志賀高原の自然は、目に沁みるような鮮明な輪郭を伴って空の青と雪の白という素晴らしいコントラストを配し、次々に眼前へと迫って来る。いつもであれば、そんな凛然たる空気の中を滑走する時は、正に世界を我が物にしたような高揚感に包まれるはずの雄介の気持ちは、しかしながら、今日は、少しも浮き立たない。ただ、黙って、ひたすら時任の背中を追い掛けているだけの味気ない気分であった。
 そんな時、前を走る時任のスキーが、やおらスピードを緩めた。そして、ゆっくりとその場に立ち止まると、それに倣(なら)う雄介に、
 「-----あの木の下に、誰か倒れている」
 と、告げる。雄介が、時任の指差す方角に目を凝らすと、確かにスキーコース脇に立つ針葉樹の根元あたりに、人影と思しき物が、横たわっているのを発見した。二人は、急いでそちらへと滑り寄る。そこに倒れていたのは、一人の若い男性スキーヤーであった。男性の顔面は血の気が失せて蒼白く、白目をむき、意識も薄れている様子で、全身が硬直状態である。
 時任は、急いでスキー板を脱ぐと、男性のそばへ駆け付け、自らのサングラスを外してから、その身体を抱え起こすと、大声で呼びかけた。
 「きみ、しっかりしなさい!おれの声が聞こえるか!?」
 かろうじて、男性が肩を喘ぐように揺するのを見た時任は、雄介に言う。
 「お前のバックパックの中に、紙袋が入っているから、そいつを出せ」
 訳が判らないが、言われるがままに急いで紙袋を取り出した雄介が、それを時任に手渡すと、彼は、その紙袋の口を開き、それを男性スキーヤーの鼻と口を覆うように押しあてた。
 「心配いらないから、安心して、ゆっくり深呼吸するんだ。大丈夫。すぐに楽になるから------」
 時任の冷静な言葉で、男性は、呼吸を取り戻すと、ようやく意識もしっかりとして来た。
 「いったい、どうしたんですか・・・・?」
 雄介が、やや遠慮気味に訊ねると、時任は、男性の身体を腕で支えながら、穏やかな声で答えた。
 「過換気症候群だよ。身体は二酸化炭素不足を起こしているのに、酸素欠乏を起こしていると勘違いすることで、酸素を取り込もと激しく呼吸をしてしまい、更に血中の二酸化炭素が体外へ出てしまう症状だ。でも、こうやって、また自分の吐き出した息をもう一度吸い込むことで、また、二酸化炭素が体内へ吸収されて、楽になる。精神的な不安定が原因で起きる一種の呼吸困難なんだ」
 「そんな病気があるんですか・・・・・」
 雄介は、感心すると同時に、やはり、この時任(ひと)におれは、どうしても勝てそうにはないな------と、心底思い知らされた。



    <この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>

   

    ~今日の雑感~

    ~ 炎 の 氷 壁 ~ ⑱ 奇妙な感覚というものは世の中にさまざまありますが、手術の時の全身麻酔というものも、あれは不思議な感覚の物ですね。手術の前日の麻酔科の先生の話によると、「------つまり、ちよみさんの時間がそこで止まる訳です」とのこと。時間が止まるとは、どういうことなのか?と、思っていたのですが、まさしくその通り。ストレッチャーで手術室まで連れて行かれて、頭にビニールのキャップを被せられ、(ふ~ん、手術室ってこんな風になっているんだなァ・・・)なんて思っていた瞬間、そこで、ストンと、記憶がなくなってしまうのです。たぶん、点滴用の管から、麻酔薬が入ったのではないかと思うのですが・・・・?わたしの場合は、よくテレビドラマで見るような、酸素マスクのようなものを顔に当てて、「はい、ふか~く息を吸って~」なんてことはなかった訳でして------。で、夢の中で、テレビのクイズ番組を観ていまして、司会のタレントが、「はい!正解は-------」なんて言った直後に、誰かに(おそらく看護師さんに)名前を呼ばれて、目が覚めたのです。
    その間、確かに、時間が止まっていました。感覚としては、一分も経ってはいないように思えたのですから。全身麻酔、恐るべし!でも、あんな体験は、そう何度もしたいものではありませんねェ。(~_~;) 

   「今日の一枚」------『諸士取調役監察』      

 


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