気配りのない人・・・・・910

~ 今 日 の 雑 感 ~


気配りのない人



    昔、小原流の華道を習っていた時、先生に「気配りをしなさい」と、良く言われた。

    先生が長い枝にはさみを入れるとする。そのままパチンとやると、途中から枝が落ちて片付けるのが大変になるから、落ちる方の枝に弟子は即座に手を添え、切り落とされた部分を広げた新聞紙の上へ置くのである。

    しかし、このタイミングが意外に難しい。気配りのない人・・・・・910

    つまり、先生が切ろうとする枝を予め予想して、そこへ手を添えておかねばならないからだ。

    これぞ、あうんの呼吸。

    次に、先生がどの枝を切るかを予想するというのは、弟子もそれなりに高い華道の技術を持っていなければならず、一朝一夕に出来る芸当ではないのだ。

    気配りとは、そうした相手の気持ちを瞬時に読みとるという、高度なテクニックなのである。

    そして、かつての日本人は、そのような高度な技を誰もが見事に習得していて、自然体で出来ていた。

    しかし、現代人は、自分のことばかりを優先するのが普通になっているせいか、気配りをおろそかにする人たちがとても多い。

    いや、下手な気配りをして、「あんたがあんなことをしたおかげで、こんなことになった」などと言われてはかなわないと、見て見ぬふり、知って知らぬふりをすることが当たり前になっていると言っても過言ではないのだ。

    共同浴場でも、湯あがりに脱衣所の脱衣棚の前でいつまでもおしゃべりをしていて、あとから上がって来た人が濡れた身体を拭くためのバスタオルを取ることが出来ずに寒がっているにもかかわらず、知らん顔という人がいる。

    ところが、そういう人に、

    「支度が出来ているなら、そこどいてくれない?寒いから、早く身体を拭きたいのよ」

    と、注意されれば、おしゃべりをしている人は、悪いことをしたと思いながらも、うるさい人ねと、きっと気分を害するはずだ。

    ならば、人に言われる前に自分から気配りをしてその場を空ければいいのだが、そうした自分のうかつは棚にあげて、注意をした人を恨むような世の中である。

    気配りが出来ないのなら、人からの叱責はあまんじて受けるべきで、それが嫌なら、些細なことにでも気を配るべきであると、わたしなどは思ってしまう。

    しかし、最近は、判っていながらわざと図々しくふるまう不届き者もいて、一筋縄では行かない人間が増えているのだから悩ましいことだ。

    

<今日のおまけ>

    コンビニへ品物の配達を頼む高齢者が増えているという。

    ところが、そういう高齢者の中には、こんな電話をかけて来る人もいるそうだ。

    「今から、ヘルパーやるから、メモに書いてある品物、持たせてね」

    過剰な敬語はいらないから、せめて、「ヘルパーさんに買い物に行ってもらうので、メモに書いてある品物を渡して下さい」ぐらいの言い方をするべきではないのだろうか?

    介護ヘルパーをしている人たちのことを、使用人ぐらいにしか思っていない高齢者が多いという。

    こういう意識を変えて行かなくては、高齢者介護をやろうなどという若者は、ますます減る一方だと思う。

    

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