~ 炎 の 氷 壁 ~ ⑭
2009年03月02日
「あの時の出来事は、昨日のことのように脳裏に鮮明に焼き付いている。レースの当日、三月十日午前八時の志賀高原熊の湯温泉スキー場の天候は、小雪が舞う曇天ながら、視界は充分、風もさほど強くなく、まずまずのコースコンディションだった。スノーファイト仲間数人と野田が見守る中、おれとその大学生は、ともにスタート地点に並び、スターターを買って出た仲間の合図で、一気にコースを滑り降りて行った。滑り出した時点での速さはほとんど互角だった。しかし、コースの三分の一が過ぎたあたりで、おれのスキー板が一瞬横に流れ、タイムロスが生じた。そして、それを察知したであろう大学生の方が、間髪を入れず勝負に打って出ようと加速しかけた時のことだった。スキー板一本分ほど前に出ていた大学生の身体が、突如、何かに突っ掛かりでもしたかのように弾き飛ぶと、そのままもんどりうって、激しい雪煙の巻かれながら、急斜面を瞬く間に転がり落ち、ついには、おれの視界からその姿を消した。正に、あっという間の出来事で、おれはコースの途中でかろうじて滑りを止めたものの、唖然と、そこに佇み続けるしか術がなかった。
大学生は、その日の午後、『魔の壁』から約一四〇メートル下の谷間(たにあい)の沢畔(たくはん)で、遺体となって発見された。捜索に当たった長野県警は、当事者であるおれには無論のこと、スノーファイトに関わった者たち全員への詳しい事情聴取を行なったが、最終的に大学生の死亡原因は、レース中にスキー板のバインディングの右足側一方が滑走時に加わった角の衝撃に耐えきれず、破損したために起きた不運な事故による滑落死であると、結論付けた。
その死亡した大学生の名前が、黒鳥和也だったのさ。つまり、黒鳥真琴は、和也の実妹(いもうと)で、おそらく、おれが和也の挑戦を受けさえしなければ、兄は死なずに済んだはずだと考えて、おれを怨み続けていたんだろう。殺人の証拠を見つけるだの、人殺しだのと暴言を吐いたのも、彼女の中に蟠(わだかま)る肉親の頓死というものに対する、強い拒絶意識が、おれという言わば十五年来探し求めていた敵(かたき)を目前にしたことで、一挙に表へ噴き出したと見るのが妥当なのかもしれない。そんな、妄想的暴言でもぶつけなければ、彼女の精神は到底遣り切れなかったんだろうな」
時任は、黒鳥真琴の心中を、彼なりの視点から同情までもを織り交ぜながら、冷徹に分析する。
「そんなことがあったんですか・・・・」
雄介は、時任の告白をじっと聞きながら、小さく溜息をつく。そして、そんな相手の物静かな面持ちを見詰めつつ、
「でも、それじゃァ単なる逆恨みじゃァないですか------」
と、呆れるように言った。雄介には、時任の話が保身の色付けを加えての物とはとても思えなかったし、彼の言うように、黒鳥真琴の言葉がただの憎しみの発露にすぎないのであるなら、実に迷惑千万なことだとの、無性に腹立たしい思いが込み上げていたのも事実だった。
「しかし、何にせよ、決着はつけねばな」
時任は、そう言って、さりげなく自分の腕時計に目を落とす。そして、かすかな吐息まじりに、もう来てもいい頃なのにな-----と、呟いた。
「誰かを待っているんですか?」
不思議そうに小首を傾げる雄介に、時任は、いったん、うんと生返事をした後で、こう明かした。
「黒鳥真琴を、ここへ呼んであるんだ」
「何ですって!?あの女が、今、ここへ来るんですか?」
雄介は、ぎょっとして、思わず時任の顔を穴のあくほど凝視した。何とかして、黒鳥真琴の誤解とお門違いの怨恨を払拭しなければと思いつめる、時任の焦燥も判らなくはないが、あそこまで頑なに時任に対する疑惑と憎悪を膨張させてしまっている女の理解を売るのは、並大抵の努力で補い切れるものではないことぐらい、比較的楽天思考型の雄介にも、痛感されている事実であった。
だが、それからしばらく待ったものの、結局、この時黒鳥真琴は姿を現さなかった。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
「一方通行人間」------最近は、こういう類の人間が多くなったと言われています。これは、単に頑固で他人の話には聞く耳を持たないという、従来のいわゆる意固地人間のことではありません。正に、その名の通り、他人の言っている言葉の意味をほとんど理解する能力がないか、もしくは、理解を必要としない人間のことです。
ある日、近所のコンビニエンスストアで、わたしは、奇妙な光景を見ました。二十代前半と見える女性店員に、八十歳ぐらいの男性客が、「ちょっと、近くに用事があるんだけれど、ここで買った荷物が重いんで、しばらくこの店に置いといてもらえないかな?帰りに、またもらって行くから」と、頼んでいたのですが、その女性店員は、「・・・・・・」と、まったく無言のままで、男性のことをただじっと見ているだけです。男性は、もう一度、同じことを言いましたが、やはり、反応がありません。その横から、別の客が、商品をレジまで持って来ますと、「ありがとうございます。温めますか?」などと、これにはちゃんと応対しているのです。高齢者の男性客は不思議に思って、近くにいるもう一人の別の客に、「どうなっているんだ?」と、訊ねました。すると、その別の客の言うことには、「要するに、一方通行人間なんだよ。マニュアル通りのことしか教えられていないんだよ。それ以外のことを訊かれると、固まっちまうんだ」と、言って笑っていました。「それじゃァ、ロボットじゃねェか・・・」高齢の男性客は、呆れ返った顔で、その重い荷物を抱えたまま、店を出て行っていまいました。
これは、ほんの一例ですが、このような対応に出くわしたという話は最近頓(とみ)に耳にします。これでは、対話も何もありません。たぶん、その女性店員の人も、本当は、もっと男性客に親切に接したかったのかもしれませんが、マニュアル上、それが出来なかったのかもしれません。本当のことは判りませんが、何だか、世の中が、味気なくなって来たような気がしてなりません。

大学生は、その日の午後、『魔の壁』から約一四〇メートル下の谷間(たにあい)の沢畔(たくはん)で、遺体となって発見された。捜索に当たった長野県警は、当事者であるおれには無論のこと、スノーファイトに関わった者たち全員への詳しい事情聴取を行なったが、最終的に大学生の死亡原因は、レース中にスキー板のバインディングの右足側一方が滑走時に加わった角の衝撃に耐えきれず、破損したために起きた不運な事故による滑落死であると、結論付けた。
その死亡した大学生の名前が、黒鳥和也だったのさ。つまり、黒鳥真琴は、和也の実妹(いもうと)で、おそらく、おれが和也の挑戦を受けさえしなければ、兄は死なずに済んだはずだと考えて、おれを怨み続けていたんだろう。殺人の証拠を見つけるだの、人殺しだのと暴言を吐いたのも、彼女の中に蟠(わだかま)る肉親の頓死というものに対する、強い拒絶意識が、おれという言わば十五年来探し求めていた敵(かたき)を目前にしたことで、一挙に表へ噴き出したと見るのが妥当なのかもしれない。そんな、妄想的暴言でもぶつけなければ、彼女の精神は到底遣り切れなかったんだろうな」
時任は、黒鳥真琴の心中を、彼なりの視点から同情までもを織り交ぜながら、冷徹に分析する。
「そんなことがあったんですか・・・・」
雄介は、時任の告白をじっと聞きながら、小さく溜息をつく。そして、そんな相手の物静かな面持ちを見詰めつつ、
「でも、それじゃァ単なる逆恨みじゃァないですか------」
と、呆れるように言った。雄介には、時任の話が保身の色付けを加えての物とはとても思えなかったし、彼の言うように、黒鳥真琴の言葉がただの憎しみの発露にすぎないのであるなら、実に迷惑千万なことだとの、無性に腹立たしい思いが込み上げていたのも事実だった。
「しかし、何にせよ、決着はつけねばな」
時任は、そう言って、さりげなく自分の腕時計に目を落とす。そして、かすかな吐息まじりに、もう来てもいい頃なのにな-----と、呟いた。
「誰かを待っているんですか?」
不思議そうに小首を傾げる雄介に、時任は、いったん、うんと生返事をした後で、こう明かした。
「黒鳥真琴を、ここへ呼んであるんだ」
「何ですって!?あの女が、今、ここへ来るんですか?」
雄介は、ぎょっとして、思わず時任の顔を穴のあくほど凝視した。何とかして、黒鳥真琴の誤解とお門違いの怨恨を払拭しなければと思いつめる、時任の焦燥も判らなくはないが、あそこまで頑なに時任に対する疑惑と憎悪を膨張させてしまっている女の理解を売るのは、並大抵の努力で補い切れるものではないことぐらい、比較的楽天思考型の雄介にも、痛感されている事実であった。
だが、それからしばらく待ったものの、結局、この時黒鳥真琴は姿を現さなかった。
<この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>
~今日の雑感~
「一方通行人間」------最近は、こういう類の人間が多くなったと言われています。これは、単に頑固で他人の話には聞く耳を持たないという、従来のいわゆる意固地人間のことではありません。正に、その名の通り、他人の言っている言葉の意味をほとんど理解する能力がないか、もしくは、理解を必要としない人間のことです。
ある日、近所のコンビニエンスストアで、わたしは、奇妙な光景を見ました。二十代前半と見える女性店員に、八十歳ぐらいの男性客が、「ちょっと、近くに用事があるんだけれど、ここで買った荷物が重いんで、しばらくこの店に置いといてもらえないかな?帰りに、またもらって行くから」と、頼んでいたのですが、その女性店員は、「・・・・・・」と、まったく無言のままで、男性のことをただじっと見ているだけです。男性は、もう一度、同じことを言いましたが、やはり、反応がありません。その横から、別の客が、商品をレジまで持って来ますと、「ありがとうございます。温めますか?」などと、これにはちゃんと応対しているのです。高齢者の男性客は不思議に思って、近くにいるもう一人の別の客に、「どうなっているんだ?」と、訊ねました。すると、その別の客の言うことには、「要するに、一方通行人間なんだよ。マニュアル通りのことしか教えられていないんだよ。それ以外のことを訊かれると、固まっちまうんだ」と、言って笑っていました。「それじゃァ、ロボットじゃねェか・・・」高齢の男性客は、呆れ返った顔で、その重い荷物を抱えたまま、店を出て行っていまいました。
これは、ほんの一例ですが、このような対応に出くわしたという話は最近頓(とみ)に耳にします。これでは、対話も何もありません。たぶん、その女性店員の人も、本当は、もっと男性客に親切に接したかったのかもしれませんが、マニュアル上、それが出来なかったのかもしれません。本当のことは判りませんが、何だか、世の中が、味気なくなって来たような気がしてなりません。
Posted by ちよみ at 11:23│Comments(2)
│~ 炎 の 氷 壁 ~
この記事へのコメント
臨機応変ですよね、
自分で対応がわからなかったら、上司に聞くという姿勢すらありません。
私も、一月ほど前にあるお店のレジでひとつ気付いたことを進言したのですが、
それは急を要したことだったのに、彼女は無視したみたいで、なんら動きはなかったのです。ガッカリしちゃいましたよ。多分大卒のアルバイトだと思うんですが・・・
自分で対応がわからなかったら、上司に聞くという姿勢すらありません。
私も、一月ほど前にあるお店のレジでひとつ気付いたことを進言したのですが、
それは急を要したことだったのに、彼女は無視したみたいで、なんら動きはなかったのです。ガッカリしちゃいましたよ。多分大卒のアルバイトだと思うんですが・・・
Posted by うたかた夫人
at 2009年03月03日 01:06

うたかた夫人さまへ>
ご訪問ありがとうございます。
わたしも始めは、この女性店員さん、聴覚に障害があるのでは?と、思ったくらいです。でも、そうではありませんでした。
コンビニの店員の応対には、「~円から頂きます」などの言葉遣いについても指摘されていたことがありましたが、完全無視には驚きました。
うたかた夫人さまも、同じようなご経験をされたのですね。仕事の効率上、客と余計な会話はいっさいするなとでも教育されているのでしょうか?それとも、そのアルバイトさん個人の人間性なのでしょうか?
「従業員は、お店の顔」という言葉は、もう死語になりつつあるのでしょうか?
ご訪問ありがとうございます。
わたしも始めは、この女性店員さん、聴覚に障害があるのでは?と、思ったくらいです。でも、そうではありませんでした。
コンビニの店員の応対には、「~円から頂きます」などの言葉遣いについても指摘されていたことがありましたが、完全無視には驚きました。
うたかた夫人さまも、同じようなご経験をされたのですね。仕事の効率上、客と余計な会話はいっさいするなとでも教育されているのでしょうか?それとも、そのアルバイトさん個人の人間性なのでしょうか?
「従業員は、お店の顔」という言葉は、もう死語になりつつあるのでしょうか?
Posted by ちよみ
at 2009年03月03日 11:04

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