高齢者は、誰も同じか?・・・・・940
2011年02月20日
~ 今 日 の 雑 感 ~
高齢者は、誰も同じか?
母親が救急車で運ばれて気が付いたのだが、病院によっては、高齢者は誰も同じというように扱うところがある。
高齢者といえども、大いなる歴史を背負った一人の人間である。
若者などに想像すら及ばない深い人格を持っているのだ。
ところが、病院では、そんな彼らを、ただひとくくりの「老人」としてしか見ようとしない。
わたしの両親は、確かに高齢ではあるが、記憶力も洞察力も、わたし以上であるし、行動力もそこいらの若造などには決して負けない体力も気力もある。
耳も目も確かで、父などは未だに眼鏡なしで新聞でも書類でも読む。
しかしながら、母親曰く、「車酔いで死にそうなくらい気持ちが悪いから、周囲の言葉などにいちいち返事をしたくないと思っていたら、まるで、認知症患者扱いよ。情けないったらないわ」と、怒り心頭であった。
実は、わたしも、入院中は老人のように思われていたことがある。
身体が言うことをきかず、背も極端に縮み、甲状腺ホルモンが足りないために皮膚も皺だらけで、正に老人そのものであった。
そんなわたしに向かい、ある看護師は、「白髪がなくて、驚きました」と、言う。
白髪などあるわけがない。いったい、わたしを何歳だと思っていたのだろうか?
人は、決して外見で判断など出来はしない。
高齢者の人格を無視して、皆をいっしょくたにするような、安易な接し方は是非ともやめて頂きたいものである。
<今日のおまけ>
近頃、病院では「接遇」なる言葉がはびこっているらしい。
高齢者を上から目線で「おばあちゃん、おじいちゃん」と、子供でもあやすような接し方をするのが「接遇」というものだとしたら、とんでもない誤解である。
「親切」という言葉を履きちがえてはいけない。
出来ないところは、無論手伝うことが必要だが、それでも、あくまで相手への尊敬の念を捨ててはならないのである。
近頃、病院では「接遇」なる言葉がはびこっているらしい。
高齢者を上から目線で「おばあちゃん、おじいちゃん」と、子供でもあやすような接し方をするのが「接遇」というものだとしたら、とんでもない誤解である。
「親切」という言葉を履きちがえてはいけない。
出来ないところは、無論手伝うことが必要だが、それでも、あくまで相手への尊敬の念を捨ててはならないのである。
Posted by ちよみ at 12:07│Comments(0)
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