~ 炎 の 氷 壁 ~ 25

 でも、それじゃァ、何だか寂しいじゃないですか。そこまで、自分に枷(かせ)を掛けなくても------。あなたは、その事故のことで、もう充分責任を感じて苦しんで来られたんだから、もう自分自身の心を、その時の『魔の壁』から解放してやってもいいんじゃないんですか?------雄介は、そう、喉の先まで出掛かった気持ちを、やっとの思いで飲み込んだ。
 時任は、しばし無言でじっと何かを考え込んでいる様子であったが、傍らで、自分を見詰めている雄介の視線に気付くと、 
 「すまない。仮眠(やす)むところだったのかな?突然、転がり込んで来て、邪魔をしてしまったな。おれに構わず、隣室(むこう)で寝てくれ。おれは、もうしばらくここで起きているよ」
 と、気を遣う。雄介は、そんな時任にむしろ恐縮して、
 「いいえ、おれも事務所(ここ)で仮眠します。向こうの部屋より、こっちの方がストーブもあって暖かいですから-------」
 と、言うと、隣の部屋から自分と時任の分の掛け蒲団を二枚運び出して来ると、別の長椅子の上で、一枚の掛け蒲団を身体にかけて横になった。すると、徐に立ち上がった時任は、雄介が眠りやすいようにと、事務所内の蛍光灯の灯りを消し、そのまま窓際へと歩み寄ると、ブラインドもないむき出しの窓硝子越しに、戸外のゲレンデに広がる暗闇にじっと視線を投じる。その横顔にストーブの炎が鋭利な影を刻むと、男の双眸は、更に苦悩の色を濃くして、掛け蒲団の陰から、それを眺める雄介の胸中をかすかに締め付けた。
 雄介は、今にも時任のそばへ駆け寄り、広い背中(そびら)を抱き締めてやりたい衝動を覚えつつも、その傷心のすべてを受け止めるまでには、未だ踏み出せずにいる己の小心の致し方なさが何とも歯がゆく、悔しさと情けなさにそっと唇を噛んで、掛け蒲団を頭の上まで引き上げた。



 やがて、夜が明けると、抜けるような青空の下、この日も早朝午前七時から黒鳥真琴の捜索は開始された。志賀高原索観光開発道協会所属のスキーパトロール員たちに加えて、地元警察署員に志賀高原山岳遭難対策協議会のメンバーも参加しての、総勢およそ五十人の人員体制による山岳捜索が行われた。しかしながら、捜索は難航を極め、黒鳥真琴の行方は杳(よう)として摑めず、スキーパトロール本部へ届けられる情報も、尽くが誤報に終始していた。
 雄介も、午前中の捜索活動を一通り終えて、時任等他のスキーパトロール員たちとともにいったん本部へ戻ろうと山を滑り下り始めた時のことであった。俄に、時任の持つ携帯電話が呼び出し音を発した。時任は、同行しているパトロール員たちに、先に下山するように促したのち、携帯の端末を耳に当てる。
 他のパトロール員たちは、指示されるがままに滑り去って行ったが、雄介だけは、その電話の内容が何となく気になって、その場にスキー板を履いたまま留まっていた。すると、電話に出た時任の顔色がみるみる険しく変わるのが判った。
 「・・・・・ああ、それで、お前は今何処にいるんだ?・・・・・そんなに、重要な話なのか?」
 声にも、異常な緊迫感が満ちている。
 「・・・・・・本当なのか?判った。それじゃァ、これからそっちへ行こう。でも、話を聞くだけだぞ・・・・。昨夜(ゆうべ)のことを撤回するつもりはないからな」
 時任は、携帯電話を切ると、雄介の方を振り返り、やや言いにくそうな口振りながら、こんなことを頼んで来た。
 「すまないが、本部へ戻ったら、おれはこれから熊の湯温泉スキー場へ行くと、高木主任に報告してくれ」
 「これからって、午後の捜索はどうするんです?」
 「出来るだけ、早く帰ってくるよ。そうしたら、また捜索活動に合流する。だから、これ以上は訊かないでくれ------」
 この返事を聞いた雄介は、電話の相手が誰なのかを直感した。
 「今の電話、野田さんからだったんですね?熊の湯温泉スキー場で、会うんですか?」
 「ああ・・・・・。何か、おれに話したい重要なことがあるらしい」
 雄介に事実を看破されたせいか、時任の言葉は、何となく歯切れが悪い。
 「重要なことって、何です?もしや、黒鳥真琴に関係することじゃァ-------?」
 雄介が、思わず口走った瞬間、時任のサングラスの奥の目が、雄介を射抜くように動いた気がした。
 「だから、それ以上は訊くなと言っただろう!」
 語気を強めると、口を真一文字に結ぶ。雄介は、そんな時任にはおよそ似つかわしからぬ焦燥ぶりを見て、ひどく嫌な胸騒ぎを覚えた。
 「時任さん、どんな風に野田さんに懇願されたかは知りませんけど、おれは、行かない方がいいと思います!話なら、電話でも出来るじゃないですか。どうして、わざわざ顔を合わせる必要があるんですか?黒鳥真琴に関する情報なら、何故、今の電話で話してくれないんですか?変ですよ」
 「確かに、お前の言う通りだが、野田は、そうでも言わないと、もう二度とおれには会えないと思っているんだろう。しかし、もしも、事実、野田が彼女に関する情報を何か摑んでいるのだとしたら、話を聞いても損はないと思う。それに、おれも、あいつにはたくさんの借りがあるしな。行くだけ行って、これを最後に、きっぱりと決着をつけて来るさ」
 時任の決心は、揺るぎそうもなかった。それならば------と、雄介は相手の近くへスキー板で歩み寄り、
 「おれも、一緒に行きます!あなたを、一人で行かせるのは不安だ。それに、どうして、熊の湯温泉スキー場なのかも気になる。あそこには、『魔の壁』があるんですよ。わざわざ、そこで会う理由は何ですか?」
 「おれにも、そいつは判らないが・・・・・」
 時任は、口籠もってから、しかし、そこには、やはり自分一人で行かねばならないと、答えた。
 「それが、野田の条件なんだよ」
 そう説明したうえで、とにかく、ここは自分の思う通りにさせて欲しいと頼んだ時任は、腰のホルダーベルトごと携帯用無線通話機(トランシーバー)を外すと、雄介にそれを預けて、単独でその場から滑り出して行ってしまった。
 「-------時任さん!やっぱり、独りで行くなんて無謀ですよ!」
 雄介は、時任の滑り去る後ろ姿に向って、力の限りに呼びかけたが、その声は風に千切れ、もはや相手には届かなかった。



    <この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>



    ~今日の雑感~
   
    NHKの「クローズアップ現代」で、授業料が払えずに退学を余儀なくされる高校生、そして、健康保険料を親が払えないために、けがや病気をしても医者にかることが出来ずに、学校の保健室を病院代わりに頼る子供たちが増えているという問題を取り上げていました。ある私立高校の男子高校生は、父親が経営していた自動車の部品工場が昨年の秋閉鎖に追い込まれ、親兄弟とともに工場内で寝泊まりする日々。片道二百円の電車賃が払えずに、約一時間かけて徒歩で登校しているのだとか。食費もぎりぎりまで切り詰めなくてはならず、とても授業料まで手が回らないので、中退しなければならないかもしれないと、悲壮感を滲ませていましたし、ある父親は、健康保険料を滞納しているため、高熱を出した子供を病院へ連れて行くことが出来ずに、死なせかけたと、嘆いていました。たとえ、今後、政府の方針転換で、中学生までの保険料は無料になったとしても、三割負担はなくならない訳だから、結局病院へ行けないことに変わりはないと、言うのです。
    少子化により起きる弊害を何とか回避するために、子供をたくさん産んでほしいといいながら、その一方では、産科医不足や、小児高度救命病院の不足、それに加えての上記のような苦境に立たされる子供たちの急増など、今日の国の政策は、矛盾だらけです。この就職難の時期に、高校中退者を大勢出し、彼らにどうやって働けというのでしょうか?貧しいものはより貧しく、富める者ばかりが人生の選択を可能とする、かつての日本のような世の中が、もう目の前まで迫って来ている------。そんな、不安を感じるのは、わたしだけでしょうか?