~ 炎 の 氷 壁 ~ 27

 志賀高原の空は、コバルトブルーの金属的な輝きを放って時任圭吾と野田開作の頭上に冠していた。一般のスキーヤーが滑るゲレンデとは隔絶した、深い峡谷を挟んで聳え立つ『魔の壁』の上に、今、二人は立っている。この日、熊の湯温泉スキー場に吹く風は、厳冬を忘れさせるほどに穏やかで、太陽の発光までもが、季節感を狂わせるような強さを放って、志賀連山の峰々の白を際立たせている。
 聞こえるのは、時折、風花を巻き上げつつ広大な雪面を叩く風の音だけであり、そこには、対峙する二人の男の姿以外に動くものは何もない。しかし、そのような白銀一色の世界にありながら、彼ら二人の距離に漂う空気は、どす黒い刃にも似て胡乱(うろん)な緊迫感に満ち満ちていた。先に、口を開いたのは、野田だった。スキーウェアに身を包み、スキー板を履いた姿で佇む野田は、ゴーグルをニット帽の上ヘ持ち上げると、あとから到着した時任を眺めて、何とも愉快そうな笑顔を見せる。
 「来てくれたんだな、時任------。嬉しいよ。お前なら、おれがここで待っていることを暗黙のうちに判ってくれると思っていた」
 そして、同じようにスキーを履いた時任の姿に、至極満足げな様子で、
 「それに、おれの頼んだ通りに、スキーで来てくれたんだね。ありがとう------」
 と、極めて優しい言葉を掛けて来た。時任は、スキーパトロール員用の制帽の下のサングラスを外すことなく、野田を真正面から鋭く睨み据えると、はっきりとした口調で迫った。
 「礼などいらない。言われたように、こうしてやって来たんだ。黒鳥真琴についての情報を、早く教えてくれ」
 すると、野田は、にやにや笑いを浮かべながら、まるで、そんな時任の焦りを楽しむかの如く、わざと焦(じ)らすような口振りで悠然と構えてみせると、
 「------なあ、そうせっつくなよ。その話よりも先に、お前に頼みたいことがあるんだ。このおれの頼みを聞いてくれたら、彼女に関する情報を提供してやるよ」
 そう、何とも思わせぶりなことを言い出した。時任は、一瞬、脳裏に危険な感覚を閃(ひらめ)かせる。だが、この申し出を無下に拒否すれば、今後の行方不明者の捜索に支障が生じることも考えられると判断した時任は、不本意ながらも、野田の頼みとやらに応じる意向を表わした。
 「判った。条件があるなら言ってみろ。おれに出来ることなら、頼みを聞こう」
 「ありがとう。お前のことだ、そう言ってくれると思っていたよ------」
 野田は、心底から嬉しそうに言うと、なに、簡単なことだよと、前置きしてから、
 「今から、おれと、この『魔の壁』で、勝負をしてもらいたいんだ。お前にとっては、朝飯前のことだろう?」
 「ここで、お前とスノーファイトを------!?」
 時任は、あまりに予期せぬ野田の申し出に、唖然として声を飲んだ。そして、野田が何故自分をこの場所へ呼び出したのか、その理由をようやく理解した。しかし、その挑戦を受けるのは、あまりに無謀な話である。時任も、野田も、もうかつての若かりし日の自分たちとは違うのだ。ましてや、野田には、左脚の故障というハンディがある。加えて、この『魔の壁』自体が、十五年前と同じくスキーの滑降に耐えうる環境にあるのかどうかも判然としない。そのように、様々な支障が重なる今の現状において、この場所でのスノーファイトを実行するなどということは、そのまま死を意味するといっても過言ではない。
 「無茶だ!出来る訳がない」
 時任は、即座に否定した。それを聞いた野田は、少し寂しげな溜息をつき、
 「お前も、分別臭くなったものだな。昔のお前は、おれがどんなに止めても、決して怯んだりはしなかった・・・・」
 「あの頃のことを言われれば、おれには反論の余地はない。要するに、バカだったんだ。粋がって、自尊心を満足させることにしか自分の価値を見い出せなかった。だが、もう今は、そんなことはどうでもいい。卑怯者と呼ばれようが腰抜けと蔑まれようが、危険を冒してまでも懸ける勲章など、何の価値もないことに気が付いたからな。だから、野田、お前もそんな下らないことはもう忘れて、早く、黒鳥真琴の情報を教えてくれ」
 そう、時任が訴えた直後であった。それまで、自虐的な双眸で黙然と時任を見詰めていた野田が、いきなり、弾けるように大きな笑い声を上げて身体を反り返したと思うと、すぐに真顔に戻り、今度は、時任に向かって激しい剣幕で罵倒し始めた。
 「下らないこと!?あの時、黒鳥和也とお前が戦ったことが、下らないことだったという気か!?ふざけるな!!」
 野田は、凄まじい執念を顔面に刻むと、突発的な怒りにまかせて、履いたスキー板で雪面を踏み叩いた。
 「時任、お前は、十五年前の黒鳥和也との『魔の壁』のスノーファイトで、偶然あいつのスキーのバインディングが外れたために勝つことが出来たと思っているのかもしれんが、それは、とんだ勘違いだ。いいか、あいつのバインディングが滑降の途中で外れて、あいつが谷底へ転落して死んだのは、決して偶然なんかじゃない。あの時、お前が怪我もせずに無事でいられたのは、おれのお陰なんだぞ。おれが、お前の窮地を救ったんだ。そんなことも知らないで、下らないとは、どういう言い草だ!?ふざけるな!!」
 「・・・・・・・・・!?」
 時任は、野田の言葉が、あまりに自分の思考と乖離(かいり)していることに、一瞬、目眩(めまい)を覚えた。
 「野田・・・・・、お前は、何を言っているんだ・・・・・?」
 戸惑う時任の呆然とした表情を睨みつけながら、野田は、
 「出来るなら、お前にだけは、あの時の真実は教えたくはなかったが、もう、それも無理だ。お前とおれは、一蓮托生------。真実を共有することでしか、お互い生きてはいけないんだからな--------」
 居直りにも似た不敵な笑みを漏らした。



    <この小説はフィクションです。登場する人物名及び団体名は、すべて架空の物ですので、ご了承下さい>


    
    ~今日の雑感~

    先日拝見したあるブロガーさんのブログに、「嫉妬心」についての記述がありました。その方は、どうしても、ある一人の女性に対して、「嫉妬心」なる物を感じずにはおれないということで、特定のセミナーなどで自己啓発に努力されておられるとのこと。そうやって、自分の嫌な部分を懸命に矯正しようとされる積極的姿勢には、感心します。また、あるブロガーさんのブログには、そういう「嫉妬心」に振り回されないようにするには、自分にも他人より優れているところがあるのだという自信をつけるのが効果的であるとの記事もありました。こう見ますと、皆さん、「嫉妬心」というものには、かなり関心がおありなのですね。
    
    ただ、これを読ませて頂きながら、わたしは、ふと思ったのですが、「嫉妬心」て、そんなにいけないものなのかと------。確かに、「嫉妬心」は、それを持つ人の気持ちを暗欝にしますし、不健康にもするでしょう。いつも、相手を妬ましく思うままでいては、自己嫌悪にも陥りますし、だいいちそんな自分を客観的に見た時は、恥ずかしくさえありますよね。そのうえ、「嫉妬心」が高じて、犯罪に走ったり、それほど極端な例ではないにしても、嫌がらせをしてみたり、などということになれば、それはもう論外です。実に、世の中にはびこる戦争や騒乱の大部分は、大なり小なり「嫉妬心」が原因で起きていると言っても過言ではありません。
    しかしながら、その一方で、そういう「嫉妬心」が起爆剤となって、素晴らしい発明品が生まれたり、弱小会社が世界的企業に成長したという例も、数限りなく存在することもまた事実なのです。さらに、世界に誇る日本文学の傑作である「源氏物語」も、謂わば、「嫉妬心」が、物語の根幹をなす大河小説です。俗にいう「大奥物」や「戦国物」も、「嫉妬心」が主要な軸を構成しているからこそ、華やかであり勇壮なのではないでしょうか。
    そう考えると、一概に「嫉妬心」を、封じ込めてしまうことが、全くの健康的な人生観とも言い切れないことに思い当たるのです。同じ「嫉妬心」でも、美しい嫉妬心、健全な嫉妬心を育むことは、むしろ、その人の人生観をより幅広い大人の生き方にステップアップさせてくれるのではないでしょうか?かくいう平安時代随一の陰陽師・安倍晴明も、「人間は呪(しゅ・自らを縛るもの)があればこそ人間なのだ」と、のたもうたそうですから------。(^◇^) 
    では、わが身に翻って考えてみますと、もちろんわたしにも「嫉妬心」は充分にあるでしょう。しかし、何分、根が大雑把に出来ているものでして、結局、「人間最後は、生きるか死ぬかだ」と、考えてしまう性質ですから、人情の機微に関しては、もっとも縁遠い性格なのかもしれませんね。