視点の違い
2012年03月16日
視点の違い

今日、共同浴場で、時々入浴時間が一緒になる近くの主婦と話をした。
話題は、先日町内で自動車に轢かれて亡くなった幼い子供さんのこと。
わたしは、まだ小さな子供さんが気の毒で、何と痛ましいことかと気持ちを話したところ、相手の主婦の感じ方は、わたしとは、まったく逆だった。
「子供さんは確かに可哀そうだけれど、それよりも車で轢いてしまった人の方がもっと気の毒だ」
と、言うのである。
突然、路上へ飛び出されたのでは、ドライバーが急に車を止められるはずがない----と、いうのがその理由だった。
「誰も子供さんを轢きたくて運転しているわけではない。偶然にもそういう場面に遭遇してしまったことが可哀そう」
と、いうのである。
こういう事故があった時、どちらの立場に視点を置いて考えるかで、その物の見方が180度変わってしまうのだ。
幼い子供さんを持っている親御さんならば、間違いなく亡くなった子供の視点やその親の視点で事故を総括するだろう。
しかし、もしも轢いたのが自分の夫や子供だったらと考える、六十代以上の女性たちの場合は、今度は逆の見方になるのである。
先に記した福島の瓦礫問題についても、これと同じことが言える。
福島県民や被災地の人たちの気持ちになるか、それとも自分の子供や孫の気持ちになるかで、引き受けるか否かの選択は180度変わるのだ。
「『瓦礫を引き受けても構わない』と、言う人は、たいていが中高年で幼い子供や孫がいない人だ」と、話す人もいる。
自分自身がどちらの視点を持つかで、考え方は真逆にもなるのである。
つまり、世の中の認識に正解、不正解は必ずしもないのかもしれないし、確信的な正義ですら時代によって変化する。
ただ、そこには、「失われた命は二度と戻らない」という動かすことの出来ない現実があるばかりなのだ。

今日は、朝から・・・
2012年03月16日
今日は、朝から・・・

今日は、朝から色々なことがあり過ぎました。
まずは、知り合いの方の訃報。
つい先日まで元気で我が家へ来て下さっていたのに、旅行先で急死されたそうです。
両親もわたしも弟も、ショックで言葉を失いました。
本当に、人の一生は判りません。
父親もご家族の気持ちを思うと、それ以上は聞けなかったそうです。
これは、わたしの担当医の先生が下さった年賀状に書かれていた言葉です。
「平凡、普通が如何に貴重なことか・・・」
こういう突然の出来事に直面すると、心から実感出来ます。
実は、昨年も長野電鉄に勤めていた親戚の男性が小布施駅舎内で急死しました。
心筋梗塞だったそうですが、こういうことが重なると、人間が生きているということはどれほどの奇跡に値するのだろうか?----と、考えてしまいます。
そして、午後は買い出しへ。
例の如く家にばかりこもっているので、またまた生活必需品が底をつきました。
今日は、かなり暖かくて上着がいらないほどでしたから、外出しやすかったです。
その買い物中にもさまざまあったのですが、ここでは割愛します。
それにしても昨年の大震災以降、何か人々が知らず知らずの間に異常なストレスにさらされているのではないかとさえ疑ってしまいます。
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