何故、人は傷付くのか?
2012年04月28日
何故、人は傷付くのか?

人の心というものは、ほんのささいな一言で傷付くものである。
ある裕福な家の専業主婦が、パートをしている隣の家の主婦にこんなことを言ったとする。
「あなた、お勤めに出ているんですってね」
裕福な家の専業主婦は、特別な意図もなく隣の家の主婦の事実を言ったに過ぎない。
しかし、隣の家の主婦は、この一言にひどく傷付いた。
「うちが貧乏だからパート勤めに出ているんでしょうと、こちらをバカにしているんだ」
つまり、これは相手のせいで自分が不快な気分になったのではなく、自分自身が不快な気分を作り上げたことに他ならないのだという。
このブログでも以前書いたのだが、自分が入院したのに見舞いにも来なかった人に対して、「どうして見舞いに来なかった」と、問い詰めても、相手は「そんなささいなことで・・・」と、呆れ返ったという話も、これと同じことが考えられる。
要は、見舞いに行かなかった人にとってはごく小さな問題でも、入院した本人にとっては大問題という感覚の違いなのである。
でも、ここで一度立ち止まって考えてみると、相手は入院した人の病気をささいな問題と思ったから見舞いに来なかったわけで、これが重大な病気だと思っていれば必ず見舞いに来たはずなのである。
要は、裏を返せば、「自分の病気はそれほど大したものではない」と、いう証拠だということになる。
上記の例にしても、裕福な家の主婦は何でもないささいな日常会話だと思っていたからこそ、そんな話をしたのであって、もしも、本当に隣家の主婦を哀れんでいるのなら気の毒に思って声すらかけないはずなのである。
よほど、隣家の主婦との間に険悪な関係でもあるのならば、嫌みということも考えられるが、そうでないのなら隣家の主婦があえて気にすることはないのではないだろうか。
ささいなことだからこそ相手は口に出したのであり、特段傷付くほどの意味もないというのが心理学者の分析でもあるようだ。
もう少し言えば、自己評価が高く健全な自尊心を持っている人は、そんなことでは簡単に傷付いたりはしないのだそうである。
ところが、その反対に神経症的な自尊心にとらわれている自己評価の低い人ほど、相手のどうでもいい一言で容易く傷付いてしまうのだという。
つまり、もしもこの隣家の主婦が、「パートって楽しい。職場の友だちも出来て、今、とても充実しているわ」と、思っていたのなら、むしろ専業主婦をしている裕福な家庭の主婦を逆に、「働く喜びも知らないなんて、可哀そうな人だわね」と、哀れむことさえ出来るのである。
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無視されていると悩むのは?
2012年04月28日
無視されていると悩むのは?

イジメの悩み相談で良くあるパターンに「無視されている」というものがある。
何故、人は「無視されているのはつらい」と、感じてしまうのか?
それは、そう思う人の中に、周囲の人たちに対する過度の「甘え」があるからだといわれる。
「甘え」とはすなわち、「依存」である。
つまり、自分に何かをして欲しいとか、相手は自分の思い通りに行動したり思考してくれないとつまらないという、いわば自分勝手な期待のことでもあるのだ。
この「甘え」があるからこそ、自分の思い通りにならない周囲に対して、「彼らはわたしを無視している」といって、悩むわけである。
では、もともと周囲に何の期待も希望も懐いていない場合は、どうだろうか?
たとえば、いつも道ですれ違うだけの見知らぬ赤の他人に対して、人は「あの人、わたしを無視している」とは思わないはずである。
いや、むしろ、面倒な挨拶を交わす必要もないので、無視してくれてありがたいとさえ思うのではないだろうか。
もしも、あなたの中に、「自分は皆から仲間外れにされている」などの「無視系」の悩みがある時は、あなた自身が周囲の人間たちに、「自分を認めて欲しい」というような過度の期待をかけないことで、その悩みは大半が解決するものなのだ。
「どうせ、一生付き合う相手じゃないし・・・」
そう思うだけでも、かなりの範囲で気持ちの平安は保てるものなのである。

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